EP 7
『エラー』と『三段の意地』
予選決勝トーナメント1回戦。
相手は「盤外戦術の漆原」と呼ばれる、白髪の初老男性だった。
「ひひ……元奨励会様がお相手とは、光栄だねえ」
漆原はニチャリと笑い、対局中もブツブツと独り言を呟いたり、貧乏ゆすりをしたりと、マナーの悪さで有名だ。
だが、清麿の「チャート」には関係ない。
雑音など無視して、淡々と最善手を指し続けるだけだ。
(……追い詰めた)
終盤戦。漆原の玉は風前の灯火だ。
あと7手。
脳内のチャートには、鮮明な「詰み」への赤いラインが引かれている。
「くっ、くそぉ……! なんでだ、なんで粘れない!」
漆原の顔が紅潮する。
焦り、苛立ち。
そして――。
「ああっ!?」
バシッ!!
漆原の手が滑ったふりをして、持っていた扇子を盤上に叩きつけた。
ガシャン! と派手な音を立てて、駒が飛び散る。
「あ、ああ~っ! すまんすまん! 手が滑っちまった!」
「……っ!」
「いやあ、年寄りは手がカサついていかんなあ。すぐ直す、すぐ直すから!」
漆原は大げさに謝りながら、散らばった駒を並べ直し始めた。
周囲の審判が駆け寄ろうとするが、漆原は手際よく駒を元の位置に戻していく。
「ええと、王様がここで、金がここで……はい、元通り」
漆原はニヤリと笑った。
その目には、卑劣な色が宿っていた。
(……違う)
清麿は眉をひそめた。
戻された盤面。
一見すると元通りだ。
だが、「5二」にあったはずの相手の金が、「4二」にズレている。
たった一マス。
だが、将棋においてその一マスは致命的だ。
その金がズレたことで、清麿が予定していた「詰みルート」である飛車の打ち込み場所が塞がれてしまった。
(イカサマだ……!)
「おい清麿! あいつ駒を動かしたわよ!」
ステルス状態の和令が叫んだ。
「5二金が4二になってる! チャートが『ルート消失』のエラーを吐いてるわ! 早く審判を呼んで!」
和令の言う通りだ。
脳内の赤いラインが消滅し、警告音が鳴り響いている。
未来のAIは「正しい盤面」でなければ答えを出せない。
今のこの、イカサマで改竄された盤面に対する「答え」は、チャートにはない。
「さあ、続きを指そうか。加藤ちゃん」
漆原が挑発的に言った。
審判を呼べば揉める。
「わざとじゃない」「元の位置はこうだったはずだ」と言い張られれば、水掛け論になる。
この老獪な男は、それを見越してやったのだ。
動揺を誘い、流れを変えるための汚い一手。
(……審判を呼ぶか?)
清麿は手を挙げようとした。
だが、その手を止めた。
盤面を見る。
4二金。
確かに、予定していた詰み筋は消えた。
だが、金がズレたことで、別の空間(5三の地点)が空いている。
(……あれ?)
脳内のAIは沈黙している。
だが、清麿自身の脳細胞が、バチバチと火花を散らし始めた。
10年間。
雨の日も風の日も、何千、何万回と解き続けた詰将棋。
師匠に怒鳴られ、先輩に泣かされ、それでも盤にしがみついて磨いた「読み」の力。
それが、泥の中から鎌首をもたげた。
(見える……)
AIの計算ではない。
泥臭い、人間だけの直感。
金がズレた?
なら、そのズレを咎めればいい。
そこが急所だ。
「……やりましょう」
「ん? おお、そうかそうか。広い心だねえ」
漆原が安堵の笑みを浮かべる。
(勝った。ガキが、動揺して手が見えなくなったな)という心の声が聞こえるようだ。
「清麿!? 何やってんの! チャートなしじゃ戦えないでしょ!?」
和令が慌てる。
だが、清麿は静かに駒を手に取った。
震えはない。
今の清麿を支えているのは、未来の技術ではない。
26歳まで積み上げ、そして捨てたはずの、自分自身の「三段の力」だ。
「……5三桂、不成」
パチリ。
清麿が指した手は、AIなら絶対に選ばない、人間臭い強襲の一手だった。
「は……? 桂馬? なんだその手は?」
漆原が鼻で笑う。
金を移動させたおかげで、その桂馬はタダで取れる。
イカサマが成功した、と確信した漆原は、即座に玉で桂馬を取った。
「同玉! これでお前の攻めは切れ……」
「4一銀」
間髪入れずに、清麿が次の手を叩きつけた。
「え?」
漆原の手が止まる。
4一銀。
タダ捨ての銀。
だが、それを取れば……。
「……同玉なら、3一飛成まで。逃げれば、5二龍まで」
清麿は淡々と告げた。
その声には、和令のチャートを読み上げる時の「無機質さ」はない。
確かな熱と、殺意が籠もっていた。
「あ、あ、ああ……っ!?」
漆原の顔が引きつる。
金を4二にズレさせたせいで、逆に玉の逃げ道が塞がれていたのだ。
イカサマをしたその手が、自らの首を絞める結果になった。
「13手詰めです。……あなたのズラした金が、壁になってますよ」
清麿の冷ややかな指摘に、漆原は顔面蒼白になり、ガタガタと震え出した。
イカサマを見抜かれた恐怖と、それを逆手に取って即詰みに討ち取られた衝撃。
「ひ、ひぃぃ……!」
ガシャァァァン!!
漆原は盤をひっくり返して投了した。
もはや言い訳すらできず、脱兎のごとく会場から逃げ出した。
「……勝負あり!」
審判の声が響く。
「……はぁ」
清麿は大きく息を吐き、額の汗を拭った。
どっと疲れが出た。
AIの補助なしで、全神経を使って読み切った疲労感。
だが、それは心地よい疲れだった。
「……あんた、やるじゃない」
和令が、信じられないものを見る目で清麿を見つめていた。
「チャートが消えたのに……自力で読み切ったの?」
「……まあな」
清麿は自分の掌を見つめた。
マメだらけの指。
10年間の証。
「俺は、三段までは行ったんだ。……腐ってもな」
初めて、自分自身を肯定できた気がした。
未来の答えがなくても、俺は戦える。
その事実は、チャートの「正解」よりも、清麿の背筋を強く支えてくれた。
「ふん。……ちょっとは見直してあげるわよ、ご先祖様」
和令は少し嬉しそうに笑うと、清麿の背中をバンと叩いた。
「さあ、次は準決勝! 佐伯が待ってるわよ!」




