EP 4
『復讐の包囲網を裂く』
千駄ヶ谷の午後、特別対局室の障子越しに差し込む陽光は、盤上に濃密な陰影を落としていた。
青畳の上を支配していたのは、息をすることすら憚られるほどの殺気だった。
成瀬仁九段の手つきは、一手ごとに盤を割らんばかりの重みと鋭さを増していた。
――バシィッ!
六十八手目、成瀬が放ったのは、自陣の金を前線へと繰り出し、清麿の角の利きを物理的に圧殺する重厚な一手だった。
徹底的だった。
三百年後の完全定跡アーカイブが示す『カウンターの跳躍点』――清麿がこれまでの公式戦で幾度となく相手を嵌めてきた急所を、成瀬はあらかじめ自陣の金銀で先回りし、寸分の狂いもなく埋め立てていた。
半年前、光星杯でアマチュアの清麿に苦杯を舐めさせられて以来、成瀬がどれほどの時間を費やし、どれほど自尊心を削りながら清麿の棋譜を解析し尽くしてきたかが、盤上から血を吐くような執念となって伝わってくる。
「……逃がさんぞ、加藤四段」
成瀬の喉から、低く濁った呟きが漏れ出た。
仕立てのいい黒のスーツの襟元をわずかに緩め、血走った眼が盤面の一点を射抜いている。
「貴様の指し手はすべて頭に入っている。序盤の新手も、中盤の時限爆弾も、すべてだ。……あの日の屈辱を晴らすためなら、私は自分の将棋をどれほど泥臭く汚そうと構わん!」
かつての貴公子のような華麗な捌きは微塵もない。
爪を立て、牙を剥き出しにし、相手の息の根を止めることだけに特化した、手負いの獅子の姿がそこにあった。
二階の控室。
中継モニターを見つめる棋士たちと、神崎澪の間で、張り詰めた囁きが交わされていた。
「……成瀬九段、完璧な『加藤包囲網』ですね」
解説の若手棋士が、息を呑んでモニターの評価値グラフを凝視する。
「加藤四段の得意とする変則的な切り返しが、ことごとく事前に封じられている。成瀬九段の指し手は、AIの最善手というよりも『加藤四段の呼吸を止めるための専用手順』です。形勢は先手――成瀬九段にプラス七百点。このままじわじわと締め上げられれば、加藤四段に逆転の隙間はありませんよ」
「ええ……」
神崎澪は手帳を握る指先を白くさせ、画面の中の清麿を見つめていた。
「予選での矢野六段、そして本戦一回戦の山岸九段とも違う……。相手は加藤四段の弱点も、得意パターンも知り尽くした上で、命がけで復讐に来ている。この見えない檻を、どうやって破るのかしら……」
対局室の静寂の中、記録係の声が無慈悲にカウントを刻む。
「――加藤四段、残り時間五分です」
清麿の視界が、じわりと熱い汗で滲んだ。
頭がカッカと火照っている。
脳裏に立ち上がる『完全定跡アーカイブ』の画面は、成瀬の執念深い包囲網の前に、ことごとく枝葉を断ち切られ、有効な反撃ルートを示せずにいた。
(全部、読まれている……)
清麿の指先が、膝の上で微かに震えた。
相手は前棋王。千駄ヶ谷の頂点に長年君臨してきた男が、プライドを捨てて自分一人を殺すためだけに半年間を捧げてきたのだ。
生半可な知識のなぞり書きなど、通用するはずがなかった。
このまま手堅く受ければ、確実に息の根を止められる。
だが、下手に暴れれば、成瀬の張り巡らせた罠に自ら飛び込むことになる。
『――何日和ってんのよ、雑魚先祖ッッ!!!!』
その時、脳髄の奥底で、カッと雷鳴のような怒号が炸裂した。
六畳間のちゃぶ台。涙を流しながら胸ぐらを掴んできた、あの和令の声だ。
『相手の研究のその先……あんた自身の「勝負師としての野生」で、泥沼を踏み越えるのよ!』
そして――あの星野蓮戦の暗闇の中で、自らの頭で掴み取った確信が、熱い血となって全身を駆け巡った。
(そうだ……!)
清麿は目を見開いた。
(成瀬先生が研究してきたのは、「過去の加藤清麿」だ! 三百年後の定跡を借りて、綺麗な手順で勝とうとしていた頃の俺だ!)
だが、今の自分は違う。
星野蓮の野生に叩きのめされ、山岸九段の重圧を泥水の中で押し返し、自分の足で一歩を踏み出すことを覚えたのだ。
相手が自分の過去をすべて塞ぎに来ているのなら――相手の想定の完全に「外側」へ、この身を投げ出すまでだ!
「――四十秒……五十秒、一、二、三……!」
記録係が「七」を数えた瞬間、清麿の右手が盤上へ振り下ろされた。
――ズドォォォォンッ!!
特別対局室の空気を真っ二つに引き裂く、凄まじい駒音。
清麿が放ったのは、三百年後のアーカイブが示す手順でも、手堅い受けの手でもなかった。
自陣の飛車の頭上にあった一枚の歩を、敵の成瀬の金の目の前――ただで取られる位置へと、無造作に突き捨てたのだ!
何の意味もないように見える、完全な歩のタダ捨て。
「…………は?」
成瀬仁の端整な眉が、跳ね上がるようにピクリと動いた。
扇子を弄んでいた指先が、ピタリと止まる。
「歩の……突き捨て? なんの嫌がらせだ……?」
成瀬の脳内で、何百時間も回し続けた研究データが高速で検索される。
だが、該当する手順など何一つ存在しなかった。
AIの計算から見れば、自らの歩を無駄に一枚失うだけの「完全な疑問手」。
成瀬は鼻で笑うように息を吐き出すと、手元の金でその歩を払った。
「小細工だな。……同金!」
――バシィッ!
その瞬間だった。
加藤清麿の瞳に、獲物を捕らえる肉食獣のような獰猛な光が宿った。
「成瀬先生。……あなたの研究は、本当に完璧でした」
清麿の声は低く、だが対局室の青畳を芯から震わせた。
「ですが――あなたのその完璧な研究こそが、最大の死角です!」
清麿の右手が、間髪を入れずに閃いた。
――バチィィィンッ!!
清麿が叩き込んだのは、自陣の底深くに眠っていた一枚の桂馬を、先ほど金を動かしたことで成瀬陣に生じた、わずか「一マス」の空白地帯へと飛び込ませる一手だった!
「…………っ!?」
成瀬仁の全身の毛穴が、一瞬で粟立った。
背筋を、氷水のような悪寒が駆け抜ける。
(し、しまった……!?)
見落としていた。
清麿の歩を取るために動かした金。
その金がわずか一マス前進したことによって、成瀬の玉陣を斜めから守っていた角の利きが、自らの金によって遮断されていたのだ。
清麿の狙いは、歩で得をすることではなかった。
自らの歩を一枚犠牲にして成瀬の金を釣り上げ、相手の守備ラインに「自縄自縛の歪み」を強制的に作り出すことだったのだ!
「嘘だろ……!?」
二階の控室で、若手棋士が叫んだ。
「歩の突き捨てから桂跳ね……! 成瀬九段の鉄壁の包囲網が、内側から破裂している!」
「ええ……!」
神崎澪の手が震える。
「成瀬九段は加藤四段の過去の棋譜を研究しすぎたあまり、『加藤四段が指すはずのない手』への警戒を完全に怠っていたのよ!」
盤上の景色は、一瞬にして一変した。
清麿の猛攻が始まった。
――ズドンッ!
角を敵陣へ放り込んで王手。
――バシィッ!
銀を叩きつけて成瀬の玉の退路を断つ。
三百年後のデータでも、AIの計算でもない。
泥水を啜り、挫折の淵から這い上がってきた男の、執念と野生の踏み込み。
成瀬は歯を食いしばり、顔を紅潮させて必死に受けの手を探したが、一度狂った歯車は二度と戻らなかった。
完璧だったはずの包囲網は、今や成瀬自身の玉を締め上げる巨大な檻へと変わり果てていた。
「く……っ、そ……! こんな……こんなところで、終われるかぁぁッ!!」
成瀬の喉から、血を吐くような叫びが漏れる。
だが、清麿の瞳は、湖底のように静まり返っていた。
百十四手目。
清麿は手元に残っていた一枚の金を、成瀬の玉の頭上へと、そっと静かに打ち下ろした。
――パチリ。
静寂を震わせる、あまりにも穏やかな駒音。
王手。
合駒利かず。
完全なる、即詰み。
「…………」
対局室から、すべての音が消え去った。
成瀬仁九段は盤上に両手を落としたまま、ガタガタと激しく肩を震わせていた。
やがて、深く、長い溜息とともに、前棋王は畳に額を擦りつけるようにして頭を下げた。
「……参り、ました」
百十四手。
棋王戦本戦トーナメント準々決勝。
復讐の炎を燃やし、加藤包囲網を敷いて挑んできた前棋王・成瀬仁九段が、新四段・加藤清麿の前に、完全に膝を屈した瞬間だった。
「……ありがとうございました」
清麿もまた、深く一礼を返した。
その瞬間、張り詰めていた全身の筋肉から熱い汗が一気に噴き出し、視界が心地よい疲労感に包まれた。
勝ったのだ。
過去の自分を研究し尽くしてきた強敵を、自分自身の新しい一歩で打ち破った。
頭を上げた成瀬九段は、乱れた髪を手で掻き上げると、赤く充血した目で清麿を見つめた。
その顔から、復讐の毒気は完全に消え去っていた。
そこにあったのは、すべてを出し尽くして敗れた勝負師だけが持つ、清々しい疲労と敬意だった。
「……加藤四段」
「はい」
「見事でした。……私は、半年前のあなたの幻影ばかりを追っていた。だが、あなたはすでに、あの頃の何倍も先を走っていたのですね」
成瀬の唇に、フッと自嘲混じりの、だが温かい笑みが浮かんだ。
「私の棋王戦は、ここで終わりです。……ですが、加藤さん。あなたなら、あの藤堂竜将の首に、手が届くかもしれない。……勝ち上がってください」
「……! ありがとうございます、成瀬先生!」
敗者からの、魂のバトン。
清麿は胸を熱く焦がしながら、深々と頭を下げた。
*
日付が変わる頃、将棋会館の外へ出ると、千駄ヶ谷の夜空には満開を間近に控えた桜の香りが漂っていた。
通りを渡り、鳩森八幡宮の境内へと足を踏み入れる。
街灯の淡い光の下、古びた木製ベンチの前で、銀と藍色のサマージャケットを着た少女が、腕を組んで待っていた。
加藤和令。
清麿の足音が近づくと、和令はスッと顔を上げ、ツンと顎を反らせて鼻から息を噴き出した。
「……遅いわよ、雑魚先祖」
「百十四手までかかったんだ。……でも、勝ったぞ」
「知ってるわよ。スマホの速報、ずっと見てたんだから」
和令はぷいと横を向いた。
だが、その大きな瞳の奥には、涙のような光がキラキラと揺らめき、眩いばかりの誇らしさが満ち溢れていた。
「相手の復讐の研究を、歩のタダ捨てで内側から爆破するなんてね。……まあ、三百年後の神童たる私の指導方針通りの、百点満点の踏み込みだったわよ」
「百点満点! 珍しく減点なしだな!」
「成瀬仁を倒してベスト4進出よ! 減点なんてあるわけないでしょ!」
和令はそう言って、ニヤリと口元を吊り上げた。
「さあ……いよいよ次よ、清麿。本戦準決勝の相手は――」
少女が端末を操作すると、空中に青白い文字が浮かび上がった。
『棋王戦本戦準決勝:加藤清麿四段 対 桐生彰吾八段』
現代将棋界きっての知性派にして、清麿を研究会へと導いてくれた恩人・桐生。
絶対王者・藤堂竜将への挑戦権を懸けた戦いは、いよいよ最終局面へと突き進もうとしていた。
読んでいただきありがとうございます。
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