EP 5
『知の鏡、恩人との激突』
三月下旬の千駄ヶ谷は、満開を迎えた桜の花びらが春風に乗って淡雪のように舞い散り、鳩森八幡宮の境内を薄紅色の絨毯で覆い尽くしていた。
木造アパートの六畳間に差し込む朝の光はどこまでも柔らかく、障子を透かして畳の上にうららかな温もりを広げている。
加藤清麿は、ちゃぶ台の前に正座し、アイロンの利いた白シャツのボタンを一つひとつ留めながら、深く、静かに息を吸い込んでいた。
第五十期棋王戦・挑戦者決定トーナメント準決勝。
一回戦で現役A級の巨漢・山岸征四郎九段の重戦車をクサビの一手で押し返し、準々決勝では復讐に燃える前棋王・成瀬仁九段の包囲網を歩の捨て駒で内側から爆破して勝ち上がった。
新四段による本戦ベスト4進出――。
将棋界の歴史上でも数えるほどしか存在しない奇跡の快進撃に、連日メディアの熱狂は最高潮に達していた。
だが、本日の準決勝で盤を挟む相手の名を目にした瞬間、清麿の胸に去来したのは、歓喜でも気負いでもなく、背筋がすっと伸びるような深い敬意だった。
『棋王戦本戦準決勝:加藤清麿四段 対 桐生彰吾八段』
桐生彰吾八段、三十四歳。
順位戦A級に在籍し、現代将棋界において「最も深く人工知能を理解し、言語化できる男」と称される理論派の最高峰。
そして――清麿にとって、忘れ得ぬ大恩人だった。
アマチュア時代、光星杯の予選で初めて相見え、電磁波シールドの完全オフライン対局の中で清麿の実力を真っ先に認めてくれた男。
プロ編入試験に合格した後、三十一歳のオールドルーキーとして棋士室で浮き上がりかけていた清麿を、温かく自らの研究会へと招き入れてくれた男。
星野蓮という野生の天才と引き合わせ、清麿が「未来のデータを超えて自分の頭で読む」きっかけを作ってくれたのも、すべて桐生だった。
その恩人と、公式戦の頂点を争う準決勝の舞台で、刃を交える時が来たのだ。
「……ちょっと。朝から鏡の前で襟元を撫で回して、何のお見合いの準備をしてんのよ、雑魚先祖」
背後の台所から、アルミ鍋の蓋をカチャリと威勢よく鳴らしながら、聞き慣れた容赦のない甲高い声が飛んできた。
銀と藍色のライダースーツの袖をたくし上げ、千代の花柄エプロンをきゅっと腰に巻いた和令が、湯気を立てる盆を両手で持って六畳間に入ってくる。
「お見合いじゃない。……襟元が曲がってないか確かめてたんだよ」
「確かめるのは結構だけど、顔の表情が仏像みたいに悟りきってんじゃないわよ! 恩人と戦うからって、聖人君子の顔して負けて帰ってくる気!?」
「負けて帰るわけないだろ! ただ……桐生先生と公式戦のこの大舞台で指せるのが、純粋に感慨深いんだよ」
「感慨に浸ってんじゃないわよ! 桐生彰吾はね、あんたにとって一番手の内を知り尽くされてる『天敵』なのよ!」
ドン、とちゃぶ台の中央に盆が叩きつけられるように置かれた。
置かれた大皿を見て、清麿は目を丸くした。
大盛りのキャベツの千切りの横に、こんがりと黄金色に焼き上がったスコッチエッグが堂々と鎮座していたのだ。サクサクの衣を割ると、中から半熟の黄身がとろりと艶やかに溢れ出している。
「……おい、和令。これ……」
「見れば分かるでしょ! 特製スコッチエッグよ! 一個二十円の超高級資源を二個も丸ごと使って、ひき肉で包んで揚げてやったわ!」
「朝からスコッチエッグ!? めちゃくちゃ手が込んでるじゃないか!」
「本戦準決勝よ! これに勝てば挑戦者決定二番勝負、いよいよ藤堂竜将の首元に手が届くのよ! 三百年後の加藤家が持てる最高峰の調理プロトコルをフル稼働させて、あんたのシナプス結合を限界突破させてあげたんじゃないの!」
「最高峰の調理プロトコルね……。相変わらず表現が未来的だけど、本当に嬉しいよ。いただきます!」
「ふん! 感謝するなら味わってないで、五分で胃袋に放り込みなさい! 食べながら桐生彰吾の最新解析データを頭に叩き込むわよ!」
清麿は箸を取り、サクサクのスコッチエッグを口に運んだ。
ジューシーな肉の旨みと濃厚な黄身のコクが混ざり合い、炊きたてのご飯と味噌汁の温もりが五臓六腑へ熱く染み渡っていく。
和令は小さく鼻を鳴らすと、腰のホルダーから透明な薄型端末を引き抜き、空中に青白い立体ホログラムを展開した。
「いい、清麿。桐生彰吾の恐ろしさは、山岸九段の重量や成瀬九段の復讐心とは根本的にベクトルが違うわ」
空中に、桐生の指し手傾向を示す膨大な棋譜データと、幾何学的な評価値グラフが浮かび上がる。
「桐生は研究会の主宰者として、あんたの指し手を誰よりも間近で見てきたわ。あんたが三百年後の定跡を使ってくることも、星野戦で見せた『五十手目の玉寄り』のような野生の受けを使うことも、すべて彼の巨大な頭脳とワークステーションの中でシミュレートされ尽くしてるわ」
「俺の将棋が、完全に丸裸にされているわけか」
「そうよ。まるで『自分自身の鏡』と戦うようなものよ。ちょっとでも過去の手順をなぞったり、安易なAI定跡に頼れば、その瞬間に桐生の完璧なロジックによって外科手術のように解体されるわ!」
和令の整った顔立ちが、厳格な真剣さを帯びて清麿を射抜いた。
「未来の定跡アーカイブも、あんた自身の直感も、すべてを高い次元で融合させなさい。……知性の巨人を超えるには、あんたが盤上で新しい宇宙を創るしかないわよ!」
「……ああ。分かってる!」
清麿は力強く頷き、スコッチエッグを最後の一口まで平らげた。
背中をバチンと強烈に叩かれ、心地よい激痛を胸に宿して、千駄ヶ谷の決戦場へと足を踏み出した。
午前九時四十分。
日本将棋会館・四階、特別対局室。
重厚な襖を開けて入室した瞬間、清麿の肌を、凛とした静寂と知性の芳香が包み込んだ。
上座には、すでに桐生彰吾八段が座していた。
仕立てのいい濃紺のスーツに、銀縁の眼鏡。
膝の上に置かれた指先は静かに組まれ、盤面を見つめる双眸は、深い湖底のように澄み切っている。
山岸のような威圧的な殺気も、成瀬のような剥き出しの憎悪もない。
ただ、盤上の真理を探求し続ける求道者特有の、透明で、どこまでも研ぎ澄まされた静寂が部屋の空気を満たしていた。
清麿が入室し、下座に進んで深々と頭を下げる。
「加藤さん」
桐生の声は穏やかで、いつもの研究会と変わらない温かみを含んでいた。
「おはようございます。……いよいよ、この場所で盤を挟む日が来ましたね」
「桐生先生……本日はよろしくお願いいたします」
「山岸九段、そして成瀬九段との対局、実に見事でしたよ。研究会であなたが語ってくれた『間合いの支配』が、盤上で見事に結実していた。……あなたが予選を抜けてここまで上がってきてくれたこと、私は心から誇らしく思っています」
桐生は眼鏡のブリッジを指先でそっと押し上げ、ふっと笑みをこぼした。
だが――その瞳の奥底に宿る光が、一瞬で鋭利な刃物のように冷たく光ったのを、清麿は見逃さなかった。
「ですが、加藤四段。勝負は別です。私は今日、あなたを倒し、藤堂竜将への挑戦権を獲りにきました。……あなたの持っているすべての知性を、私にぶつけてください」
本物のライバルとしての、宣戦布告。
清麿の背筋が、心地よい武者震いとともにピシリと伸びた。
「はい。全霊をもってお相手いたします」
「定刻となりました。第五十期棋王戦本戦トーナメント準決勝、対局を開始してください」
記録係の声が室内に凛と響き渡る。
振り駒の結果、清麿の先手、桐生の後手番と決まった。
清麿は指先に全神経を研ぎ澄ませ、初手を放った。
――バシィッ!
▲7六歩。
桐生も間髪を入れずに応じる。
――パシッ。
△3四歩。
互いに角道を開け、飛車先を突き合う。
局面は、現代将棋の最高峰の知性が激突する舞台――『角換わり』へと進展していった。
序盤の三十手、二人の手つきには寸分の淀みもなかった。
カチリ、パチリと、規則正しく鳴り響く乾いた駒音。
だが、その指し手の一つひとつには、外からは窺い知れないほどの凄まじい情報量が圧縮されていた。
清麿の脳裏に、三百年後の完全定跡アーカイブが展開される。
しかし、桐生はその未来の最善手に対し、現代のスーパーコンピューターが導き出す最新のディープラーニングデータをミリ単位の精度でぶつけてくる。
二手、三手と進むごとに、互いの研究が盤上で火花を散らし、驚異的な速度で局面の選択肢が削ぎ落とされていく。
午後を回り、二階の控室。
中継モニターを見つめる棋士たちと、記者の神崎澪の間で、息を呑むような会話が交わされていた。
「……信じられないスピードだ」
解説の若手棋士が、モニターの進行手順を見つめて唸る。
「四十手を過ぎているのに、両者とも消費時間がまだ二十分も経っていない。お互いに相手の指し手を百手先まで読み切っているかのような、神速の序盤戦です」
「ええ……」
神崎澪は手帳のペンを走らせながら、画面の中の二人の表情を凝視していた。
「桐生八段は、加藤四段の将棋の癖も、研究会のデータも知り尽くしている。加藤四段にとっても、桐生八段のロジックは最も熟知しているはず。……まさに、知性の鏡を相手に指しているような戦いですね」
そして――五十手を迎えた夕暮れ時。
対局室の静寂を破り、後手の桐生彰吾八段が、ついにその手を止めた。
銀縁眼鏡の奥の瞳が、深く、静かに盤面を見つめる。
桐生の指先が、手元の香車をスッと摘み上げた。
――パチリ。
桐生が放ったのは、自陣の端をじっと引き締め、清麿がこれから仕掛けようとしていたあらゆる未来定跡の導火線を、あらかじめ完璧に湿らせて無力化する、冷徹極まる「封じ手」のような一手だった。
「…………っ」
清麿の息が、わずかに止まった。
見事だった。
三百年後の完全定跡アーカイブが示す手順を、桐生は自らの頭脳と現代の知性だけで完全に先回りし、清麿の刃を抜かせまいと完璧な防壁を築き上げていたのだ。
盤の向こうで、桐生が静かに顔を上げた。
(さあ、加藤さん。あなたの知性の底を見せてください)
無言の問いかけが、盤上から津波のように押し寄せてくる。
知性の巨人が張り巡らせた完璧な鏡の迷宮。
三十一歳のオールドルーキーは、いま、恩人の用意した最大の試練の深淵へと、足を踏み入れようとしていた。
読んでいただきありがとうございます。
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