EP 3
『前棋王・成瀬仁の執念』
三月半ばの千駄ヶ谷は、街路樹の桜の梢がほんのりと薄紅色の霞を纏い始め、本格的な春の訪れを告げていた。
鳩森八幡宮の参道には、柔らかな春風に乗って境内の土の匂いが漂い、木漏れ日が石畳をまだらに照らし出している。
だが、木造アパートの六畳間に座る加藤清麿の全身を包む空気は、春のうららかさとは程遠い、刃の切っ先を喉元に突きつけられたような緊張感に満ちていた。
ちゃぶ台の上に置かれたスマートフォンには、大手将棋ニュースの特設トップページが表示されている。
『【棋王戦本戦準々決勝】快進撃の新四段・加藤清麿 vs 前棋王・成瀬仁九段!』
『アマ時代の因縁ふたたび! 光星杯の悪夢を晴らすか、オールドルーキーが竜将へ迫るか』
『成瀬九段「あの日の屈辱は片時も忘れたことはない。全力で叩き潰す」』
画面に並ぶ文字を見つめながら、清麿は胸の奥底で小さく息を吸い込んだ。
成瀬仁九段、四十二歳。
タイトル獲得通算九期、永世棋王の資格を保持する、千駄ヶ谷のトップに君臨してきた当代屈指の強豪。
そして――清麿がまだアマチュアの身だった半年前、公式戦・光星杯の一回戦で激突し、三百年後の未来定跡を叩き込んで金星を奪い取った、あの因縁の相手だった。
当時、タイトルホルダーだった成瀬にとって、名もない三十歳の無職アマチュアに敗れたことは、棋士人生最大の屈辱だったに違いない。
その後、成瀬は棋王のタイトルを絶対王者・藤堂晃司竜将に奪われ、無冠へと転落した。
今回の棋王戦は、成瀬にとってタイトル奪還、そして藤堂へのリベンジを懸けた絶対に譲れない舞台なのだ。
その本戦準々決勝で、因縁の加藤清麿が再び目の前に立ち塞がる。
向こうがどれほどの復讐の炎を滾らせて盤上に座ってくるか、想像するだけで鳥肌が立つようだった。
「……ちょっと。朝っぱらからスマホを睨みつけて、何のお通夜の喪主気取りよ、雑魚先祖」
背後の台所から、アルミ鍋の蓋をカチャリと威勢よく鳴らしながら、聞き慣れた容赦のない甲高い声が飛んできた。
銀と藍色のライダースーツの袖をたくし上げ、千代の花柄エプロンをきゅっと腰に巻いた和令が、湯気を立てる盆を両手で持って六畳間に入ってくる。
「喪主気取りじゃない。……成瀬先生のインタビュー記事を読んでたんだよ」
「読んでどうすんのよ! 『全力で叩き潰す』って書かれて、眉毛が八の字に下がってんじゃないわよ! 相変わらず蚤の心臓ね!」
「下がるに決まってるだろ! 相手は永世棋王の資格を持つ大棋士だぞ。しかも半年前に俺がアマチュア枠で勝っちゃった相手だ。殺気配分が前回の五倍くらいに跳ね上がってるに決まってるだろ!」
「殺気なんて空気の振動よ! 気合で撥ね返しなさいよ! 前回の光星杯で勝てたのは、相手がアマチュアだと舐めて油断してたから? 違うでしょ、盤上の真理でねじ伏せたからでしょ!」
「それはそうだけど……油断が完全に消えたトッププロが一番恐ろしいんだよ! 山岸九段戦の時だって、死ぬ思いで一マスをこじ開けたんだぞ!」
「死ぬ思いをして勝ってきたからこそ、今のあんたがいるんでしょ! ほら、突っ立ってないで手を洗ってきなさい! 朝ごはんを五分で胃袋に流し込むわよ!」
「はいはい……って、うわっ! これ……!」
ちゃぶ台の上に置かれた平皿を見て、清麿は思わず目を見張った。
皿の中央に鎮座していたのは、見事な黄金色の円形を描いた、大判のかに玉風オムレツだった。
甘酢あんがツヤツヤと輝き、湯気とともに食欲をそそる香りが立ち上っている。
「……おい、和令。これ、卵を何個使ったんだ?」
「三個よ! 昨日の緊縮財政を一日で撤廃して、一個二十円の超高級資源を一気に三個も投入してやったわ!」
「三個も!? 昨日は『徹底した緊縮財政プロトコルよ!』とか言って納豆だけだったじゃないか!」
「成瀬仁九段との因縁の一戦よ! 緊縮なんてしてる場合じゃないでしょ! 三百年後の加藤家再興ロードマップにおける、最高ランクの重要警戒対局よ!」
和令は胸を張り、人差し指をピシッと清麿へ突きつけた。
「成瀬仁はね、前回の敗北以降、あんたの指し手を人工知能で徹底的に解剖し直して、現代将棋の最高峰の受けと攻めを再構築してきたわ。過去のデータなんて通用しない、完全な『リベンジ怪獣』に変貌してるのよ! あんたが脳みその回転速度を最大出力に引き上げなきゃ、一瞬で丸呑みにされるんだから!」
「リベンジ怪獣か……。相変わらず例えは物騒だけど、本当にありがたいよ。いただきます!」
「ふん! 感謝するなら味わってないで、素早く前頭葉にブドウ糖とタンパク質を充填しなさい! 成瀬の復讐心にビビって縮こまって帰ってきたら、今夜は生卵の殻をすり鉢で粉末にして味噌汁にぶち込む刑だからね!」
「だから刑罰のカルシウム補給が狂気じみてるんだよ! 絶対に勝って帰ってくる!」
清麿は箸を割り、ふわふわのかに玉を白米に乗せてかき込んだ。
甘酢あんのコクと卵の濃厚な旨みが口いっぱいに広がり、冷えた五臓六腑を芯から熱く滾らせていく。
和令は小さく鼻を鳴らすと、腰のホルダーから透明な薄型端末を引き抜き、空中に青白い立体ホログラムを展開した。
「食べながら聞きなさい、清麿。成瀬仁九段の直近の公式戦データよ」
空中に、成瀬の勝率グラフと戦型選択の分布図が浮かび上がる。
「光星杯で敗れた後、成瀬はタイトルを失ったけど……そこからの復活劇は凄まじいわ。直近十局の勝率は九割。それも、相手の得意戦法を真っ向から受け止めてへし折る、圧倒的な力戦の将棋にシフトしてるわ」
「力戦……。かつての綺麗な定跡派の成瀬先生が、形を崩して泥臭く勝ちに来てるのか」
「そうよ。プライドをかなぐり捨てて、勝利だけに執着したトップ棋士ほど厄介なものはないわ。……いい、清麿? 三百年後の定跡アーカイブの知識は、あらかじめ読まれてると思いなさい。相手の研究のその先……あんた自身の『勝負師としての野生』で、泥沼を踏み越えるのよ!」
「……ああ。分かってる!」
清麿は熱い味噌汁を飲み干し、立ち上がった。
背中を手のひらでバチンと力任せに叩かれ、心地よい激痛とともに千駄ヶ谷の決戦場へと歩み出した。
午前九時四十分。
日本将棋会館・四階、特別対局室。
重厚な襖を開けて入室した瞬間、清麿の皮膚を粟立たせるような、刺すような冷気が肌を打った。
上座には、すでに成瀬仁九段が座していた。
仕立ての真新しい漆黒のスーツ。
かつて光星杯で見せていた、タイトルホルダー特有の貴公子のような優雅な気品は、そこには影も形もなかった。
短く刈り込まれた黒髪。削ぎ落とされた頬。
膝の上に置かれた両手は微動だにせず、真っ直ぐに盤面を見据える双眸には、氷点下の炎がメラメラと燃え盛っていた。
清麿が入室し、下座に進んで深々と頭を下げる。
「加藤さん……いや、加藤四段」
成瀬の声は低く、硬質な刃物が擦れ合うような冷たさを孕んでいた。
「プロ入り、そして本戦進出、おめでとうございます」
「ありがとうございます。本日はよろしくお願いいたします」
「半年前の光星杯……あの対局の後、私はすべてを失いました。棋王の防衛戦にも敗れ、無冠になり、世間からは『アマチュアに負けて壊れた』と嘲笑された」
成瀬の視線が、剃刀のように清麿の眉間を射抜く。
「ですがね、加藤四段。私は感謝しているんですよ。あの敗北があったからこそ、私は長年まとわりついていた下らない自尊心をすべて脱ぎ捨て、もう一度、飢えた勝負師として盤の前に戻ることができた」
パチン、と成瀬の手元の扇子が静かに鳴った。
「今日は、教えを乞うつもりはありません。新四段のあなたを、全力で叩き潰し、私の失った時間を取り戻しにきました。……覚悟してください」
剥き出しの執念。
かつての清麿なら、この圧倒的な気迫に気圧され、目を逸らしていたかもしれない。
だが、今の清麿は、静かに背筋を伸ばし、成瀬の目を真っ直ぐに見据え返した。
(分かっています、成瀬先生)
清麿は深く息を吐き出した。
(俺もまた、四年間の地獄から這い上がってきた男です。あなたの執念ごと、盤上で真っ向から受け止めてみせます)
「よろしくお願いいたします」
「定刻となりました。第五十期棋王戦本戦トーナメント準々決勝、対局を開始してください」
記録係の声が凛と響き渡る。
振り駒の結果、成瀬の先手、清麿の後手番と決まった。
成瀬の手つきは、まるで盤を穿つかのように鋭かった。
――バシィッ!
初手、▲2六歩。
飛車先を突く一手。
清麿も間髪を入れずに応じる。
――パシッ。
△8四歩。
互いに飛車先を突き合い、角道を開ける。
局面は、現代将棋の最高峰の激戦区にして、成瀬が長年培ってきた絶対の領地――『相掛かり』へと進展していった。
序盤の二十手、成瀬の手つきにはコンマ一秒の迷いもなかった。
だが、その指し手は、かつて見せていたようなAI推奨の綺麗な手順とはまるで異なっていた。
自陣の金銀を力強く押し出し、相手のカウンターの隙間をあらかじめ自らの厚みで圧殺しにいく、骨太で獰猛な「力戦型相掛かり」。
清麿の脳裏に、三百年後の『完全定跡アーカイブ』が青白い光となって展開される。
だが――成瀬の指し手は、アーカイブの推奨するあらゆる新手に対して、先回りして自らの肉体で防波堤を築き上げるように、寸分の狂いもなく急所を塞ぎにきていた。
(徹底的に……俺の将棋を研究し尽くしてきている……!)
清麿の背筋を、冷たい汗が伝う。
前棋王のプライドをかなぐり捨てた、正真正銘の復讐の刃。
本戦準々決勝の盤上で、互いの執念と命を削り合う、極限の死闘の幕が切って落とされた。
読んでいただきありがとうございます。
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