EP 2
『重戦車を止めるクサビ』
千駄ヶ谷の特別対局室の青畳に、息を呑むような沈黙が張り詰めていた。
盤上に投じられた、たった一枚の歩。
山岸征四郎九段が誇る重厚な金銀のスクラムの真ん前、自陣の飛車の利きすら自ら遮断する位置に打ち下ろされたその一手は、盤面全体に冷たい亀裂を走らせていた。
「……ほう」
山岸の太い眉が、ピクリと跳ね上がった。
五十代の鍛え抜かれた勝負師の眼光が、濁流のような鋭さを帯びて盤面の一点へと突き刺さる。
(自陣の射線を殺してまでのクサビ……。ただの受けの手ではないな)
山岸の巨大な掌が膝の上でギリと握りしめられた。
普通の棋士であれば、A級の重圧に怯えて玉を逃がすか、形勢を保つために駒を引く場面だ。
だが、目の前の三十一歳の新四段は違った。
正面から突進してくるキャタピラのど真ん中に、自らの指先を砕かれる覚悟で、一本の鉄杭を打ち込んできたのだ。
「――同銀」
山岸の低く唸るような声とともに、ぶ厚い銀がクサビの歩をもぎ取った。
――ズドンッ!!
盤を叩き割らんばかりの重い駒音。
だが、その瞬間――山岸の完璧だった金銀の連結に、わずか「一マス」の歪みが生じた。
クサビを払うために動いた銀。
その銀の背後にあった、後手玉を守る金の脇腹に、針の穴ほどの隙間が生まれていた。
(そこだ……!)
清麿の視界が、青白く研ぎ澄まされていく。
脳裏に浮かぶのは、三百年後の完全定跡アーカイブが教える『パターンC・時限爆弾の理』。
そして――星野蓮戦の暗闇の中で、自らの生身の頭脳で掴み取った「間合いの支配」だった。
相手の重量が重ければ重いほど、一度崩れたバランスを立て直すには膨大な手番を要する。
清麿の右手が、迷いなく盤上を走った。
――バシィッ!
自陣の桂馬を中央へ跳ね上げる。
――パシッ。
相手の銀の頭上へ、再び歩をふわりと垂らす。
「な……に……!?」
山岸の喉から、低く掠れた呻きが漏れた。
重戦車が、進めない。
前に出ようとすれば、清麿の跳ねた桂馬が急所を睨み、歩の垂らしが銀の退路を封鎖している。
何十年もの修羅場を支えてきたはずの分厚い金銀が、清麿の張り巡らせた見えない糸に絡め取られ、自らの玉を圧迫する巨大な障害物へと変貌しつつあった。
その頃、二階の控室。
中継モニターを見つめていた棋士たちが、総立ちになって画面を凝視していた。
「……おい、嘘だろ」
解説の若手棋士が、戦慄に声を震わせる。
「山岸九段の攻め足が、完全に止まった……! あの重戦車が、前にも後ろにも動けない!」
「クサビの歩から始まった、わずか五手のコンビネーション……」
腕を組み、鋭い視線で画面を射抜いていたのは、A級棋士の桐生彰吾五段だった。
「加藤四段は、山岸九段の重量そのものを利用しているんだ。相手が重厚に構えれば構えるほど、陣形を組み替えるスピードは鈍る。そこへ針のような小技を連続で打ち込み、内側から窒息させている……。なんて恐ろしい大局観だ」
「ええ……!」
神崎澪が手帳を胸に抱きしめ、息を詰めて画面の中の清麿を見つめていた。
「予選を抜けてきた新四段が、現役A級のトップ棋士を、盤上で手玉に取っている……!」
対局室の時計の針が、非情に午後七時を回った。
山岸九段の持ち時間はすでに底をつき、記録係の冷徹な秒読みが室内に響き渡る。
「――三十秒……四十秒……五十秒、一、二……」
山岸の額から、大粒の汗がボタボタと青畳の上に滴り落ちていた。
羽織の襟元を乱し、血走った眼で盤面を睨みつける。
どれほど深く読んでも、自玉を縛る鉄の鎖を断ち切る手が浮かんでこない。
(この男……本当に三十歳まで三段リーグで埋もれていた男なのか……!?)
山岸の脳裏を、底知れぬ悪寒が駆け抜ける。
現代のAI研究に毒された若手のような、薄っぺらな知識のなぞり書きではない。
盤上の混沌をすべて引き受け、相手の呼吸を読み、命を削り合って一手を絞り出す――かつての昭和の豪傑たちすら彷彿とさせる、本物の「勝負師の気迫」が盤上を満たしていた。
山岸は奥歯を噛み砕かんばかりに食いしばり、最後の勝負手を放った。
自陣の飛車を切り捨て、清麿の玉陣へ捨て身の特攻を仕掛ける!
――ズドォォォンッ!!
本榧の盤が悲鳴を上げる。
A級の意地。千駄ヶ谷の怪物が放つ、最後の一撃。
だが――。
加藤清麿の眼差しは、静かな水底のように澄み切っていた。
(見える……! 最短の、光の道が!)
清麿は目を閉じ、深く息を吐き出した。
和令と夜を徹して解き続けた地獄の終盤術。
そして、星野戦で自らの頭で掴み取った、恐怖を克服する勇気。
清麿の右手が、疾風のように盤上へ振り下ろされた。
――パシッ。
玉を自ら斜め前へ一歩進め、相手の飛車の射線を自陣の銀の厚みで吸い取る。
王手が、続かない。
そして――九十二手目。
清麿は手元に残っていた一枚の金を、山岸の玉の頭上へと、そっと静かに打ち下ろした。
――パチリ。
静寂を震わせる、あまりにも穏やかな駒音。
王手。
退路なし。
完全なる、即詰み。
「…………」
特別対局室から、すべての音が消え去った。
山岸征四郎九段は、盤上に両手をついたまま、微動だにしなくなった。
五十代の巨漢の肩が、激しく上下している。
やがて、深く、長い溜息とともに、老練な勝負師は畳に額を擦りつけるようにして頭を下げた。
「……参り、ました」
九十二手。
棋王戦本戦トーナメント一回戦。
通算千勝を誇る現役A級の重戦車・山岸征四郎九段が、新四段・加藤清麿の前に、完敗を認めた瞬間だった。
「……ありがとうございました」
清麿もまた、深く一礼を返した。
その瞬間、全身の筋肉から熱い汗が一気に噴き出し、指先が心地よい疲労と歓喜に震え出した。
A級の首を、取ったのだ。
予選を抜けただけのオールドルーキーが、千駄ヶ谷の最高峰の一角を、真っ向勝負で打ち砕いた。
頭を上げた山岸九段は、額の汗を手ぬぐいで拭うと、じっと清麿の顔を見つめた。
その双眸には、敗北の悔しさを超えた、深い感嘆の光が宿っていた。
「……加藤四段」
「はい」
「五十五手目の、あのクサビの歩……実に見事だったよ。私の矢倉の重量を逆手に取り、内側から息の根を止められた。完敗だ」
山岸の唇に、フッと豪快な笑みが浮かんだ。
「三十一歳の新四段と聞いて、どんな小細工を使ってくるかと思っていたが……とんでもない化け物が上がってきたものだ。胸を張りなさい。君の将棋は、本物のA級の器だ」
「……! 身に余るお言葉、ありがとうございます……!」
千駄ヶ谷の巨星からの、偽りのない賛辞。
胸の奥底が熱く震え、清麿は再び深く頭を下げた。
*
日付が変わる直前、長い感想戦と取材を終えて将棋会館の外へ出ると、夜の千駄ヶ谷には柔らかな春の夜風が吹き抜けていた。
通りを渡り、鳩森八幡宮の境内へと足を踏み入れる。
街灯の淡い光の下、古びた木製ベンチの前に、銀と藍色のサマージャケットを着た少女が立っていた。
加藤和令。
彼女は両腕を組み、春風に長い黒髪を揺らしながら、じっと清麿を待っていた。
清麿の足音が近づくと、和令はスッと顔を上げ、ツンと顎を反らせて鼻から大きく息を噴き出した。
「……遅いわよ、雑魚先祖」
いつもの、聞き慣れた生意気な声。
「九十二手なんて、手こずりすぎよ。待ちくたびれて、夜風でナノスーツのバッテリーが放電しそうだったわよ」
「悪かったよ。山岸先生との感想戦が白熱してさ……」
清麿は和令の前で立ち止まり、夜空を見上げて深く息を吸い込んだ。
「……勝ったぞ、和令。現役A級の山岸九段を、破った」
和令は何も言わなかった。
ツンと横を向いたまま、ぎゅっと唇を噛み締めている。
だが、街灯に照らし出されたその大きな瞳の奥には、涙のような光がキラキラと揺らめき、隠しきれない歓喜と誇らしさが満ち溢れていた。
「……ふん! 当たり前でしょ! 朝ごはんの特売温泉卵と鮭のハラスを投入したんだから、勝ってもらわなきゃ困るわよ!」
「ハラスと卵のおかげかよ。……でも、本当にありがとうな、相棒」
「へ、変に素直に感謝するんじゃないわよ、気味が悪い!」
和令は顔を真っ赤にしてそっぽを向くと、ポケットから透明端末を引き抜いた。
「浮かれてる暇はないわよ! 本戦トーナメントの二回戦……準々決勝の相手が決まったわ!」
空中に浮かび上がった青白いホログラム。
そこに映し出された次なる対戦相手の顔を見て、清麿の息が止まった。
『成瀬仁九段 四十二歳』
『前棋王・永世棋王有資格者』
かつてアマチュア時代、光星杯の公式戦で清麿の前に立ち塞がった、あの男――。
絶対王者・藤堂竜将の待つ頂へ至る階段。
修羅の本戦トーナメントは、さらなる因縁と激闘の渦へと加速しようとしていた。
読んでいただきありがとうございます。
面白いと思っていただけましたら、★評価やブックマークで応援していただけると励みになります。




