↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『未来の将棋は暗記ゲーでした~30歳でプロを諦めた元奨励会三段、300年後の子孫に「必勝定跡」を叩き込まれて無双する~』   作者: 月神世一


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
66/79

第七章『絶対王者への階段、修羅の本戦トーナメント』

『棋王戦本戦、A級の壁』

 三月の上旬、千駄ヶ谷の街には柔らかな春の気配が満ち始めていた。

 鳩森八幡宮の境内にそびえる大銀杏の梢は淡い黄緑色の新芽を吹き、参道の脇に並ぶ桜の古木も、紅く染まった蕾をふっくらと膨らませている。

 吹き抜ける風から真冬の刺すような冷たさは消え去り、日差しを浴びる石畳からは、どこか湿り気を帯びた土の匂いが立ち上っていた。

 築四十年の木造アパート、六畳間。

 加藤清麿は、ちゃぶ台の上に置かれた一枚の大きなトーナメント表を前に、深々と息を吸い込んでいた。

 日本将棋連盟の朱印が捺されたその用紙の表題には、金色の箔押しのように重厚な文字が躍っている。

『第五十期・棋王戦 挑戦者決定トーナメント(本戦)』

 予選を勝ち抜いた精鋭と、シードされたトップ棋士たちだけで争われる、タイトル挑戦への本舞台。

 予選決勝でベテランを破り、公式戦六連勝でこの本戦への切符を掴み取った加藤清麿四段の名は、十六名のトーナメント表の最下段に、しっかりと刻み込まれていた。

 だが、その表を眺める清麿の背筋には、春の暖かさとは裏腹に、氷の刃を首筋に当てられたような戦慄が走っていた。

 十六名――そこに並ぶ名前の顔ぶれが、あまりにも異常だったからだ。

『A級:桐生彰吾八段』

『A級:片桐徹八段』

『前棋王:成瀬仁九段』

『王将:久保田聡二冠』

 そして――頂点に君臨する、現代の絶対王者。

『棋王・竜将・名人・王位・棋聖:藤堂晃司五冠』

 全員が、千駄ヶ谷の歴史に名を刻むトップ中のトップ。

 予選を抜けてきた新四段など、清麿ただ一人。他はすべて、順位戦A級・B級1組に名を連ねる、棋界の怪物たちばかりだった。

 予選という名の「関所」を越えた先に広がっていたのは、神々の棲む修羅の頂だったのだ。

「……ちょっと。朝っぱらからトーナメント表を睨みつけて、何のお墓参り気取りよ、雑魚先祖」

 背後の台所から、アルミ鍋の蓋をカチャリと威勢よく鳴らしながら、容赦のない甲高い声が飛んできた。

 銀と藍色のライダースーツの袖をたくし上げ、千代が置いていった花柄エプロンをきゅっと腰に巻いた和令が、湯気を立てる盆を両手で持って六畳間に入ってくる。

「お墓参りじゃない。……本戦の組み合わせを、改めて確認してたんだよ」

「確認するのは結構だけど、眉間のシワが深すぎて十円玉が五枚挟まりそうよ。本戦のトーナメント表をもらった途端に、紙の重圧で圧死する気?」

「挟まるわけないだろ! だいたい、このメンバーを見てみろよ。A級とタイトル経験者しかいないじゃないか。予選とは完全に別次元の世界だぞ」

「当たり前でしょ! タイトルの本戦トーナメントなのよ! 雑魚がウロウロしてる方がおかしいのよ!」

「雑魚って言うな! 俺だってその雑魚の枠から這い上がってきたんだ!」

「這い上がってきたなら、胸を張ってドヤ顔で踏ん反り返りなさいよ! 何を今さら借りてきた猫みたいに縮こまってんのよ!」

「縮こまってなんかない! 身が引き締まるって言え! ……だいたい、今朝の朝ごはんは何なんだよ」

 文句を言い合いながらも、清麿はちゃぶ台の前に正座し直した。

 ドン、とちゃぶ台の中央に置かれた盆を見て、清麿は思わず目を見張った。

 具沢山の豚汁、スーパーの見切り品の菜の花のおひたし、そして――皿の上でこんがりと香ばしく焼き上げられた、見事な厚みのある鮭のハラス焼き。その隣の小鉢には、とろりと黄金色に輝く温泉卵が添えられていた。

「……お、温泉卵! しかも鮭のハラスまで!?」

「本戦トーナメント開幕の、超特大先行投資よ!」

 和令は仁王立ちしてツンと顎を反らせると、人差し指をピシッと清麿へ突きつけた。

「一個二十円の超高級資源を惜しみなく投じて、アミノ酸とオメガ3脂肪酸を前頭葉に直接送り届けてあげたんじゃないの! 三百年後の加藤家を背負うプロ棋士が、本戦の初戦で脳貧血起こして討ち死になんてしたら、末代までの恥だからね!」

「末代はお前だっていつも言ってるだろ! ……でも、本当にありがとう。めちゃくちゃ美味そうだ」

「ふん! 感謝するなら味わってないで、五分で胃袋に放り込みなさい! 今日の相手のデータを叩き込むわよ!」

「いただきます!」

 清麿は箸を取り、脂の乗ったハラスを白米とともに口に運んだ。

 香ばしい塩気と鮭の旨みが広がり、温かい豚汁が冷えた身体の芯をじんわりと満たしていく。

 和令は小さく鼻を鳴らすと、腰のホルダーから透明な薄型端末を引き抜き、空中に青白い立体ホログラムを展開した。

「食べながら聞きなさい、清麿。……本戦トーナメント一回戦、今日の相手は――」

 空中に浮かび上がったのは、深く刻まれた眉間の皺と、鋭い眼光を放つ老練な棋士の顔写真だった。

『山岸征四郎(やまぎし せいしろう)九段 五十二歳』

『順位戦A級在籍十五期(現A級)、タイトル獲得通算七期』

「山岸九段……『終盤の重戦車』と呼ばれる、千駄ヶ谷の生ける伝説だな」

 清麿の喉が、ごくりと鳴った。

「そうよ。予選で当たった矢野六段みたいな受け潰しの職人とは、スケールがまるで違うわ。自陣を分厚く固め、相手の攻めを完全に正面から受け止めた上で、重量級の金銀で相手の玉陣を更地にするように圧殺する……正真正銘のA級の怪物よ」

 和令の眼差しが、真剣な光を帯びて清麿を射抜いた。

「いい、清麿? 三百年後の定跡アーカイブは強力よ。でも、相手は通算千勝以上を積み上げてきた百戦錬磨の鬼神よ。小手先の新手なんて、重戦車のキャタピラで踏み潰されるわ。……星野戦で見せた、あんた自身の『泥臭い大局観』と『踏み込む勇気』がなければ、一瞬で圧殺されるわよ!」

「……分かってる」

 清麿は力強く頷き、温泉卵を崩して最後のご飯を一気にかき込んだ。

「胸を借りる気なんてない。……A級だろうが何だろうが、俺たちの将棋で、真っ向から押し返してやる!」

「言ったわね、雑魚先祖! 今日勝って、本戦の初白星をもぎ取ってきなさい!」

 バチンッ、と背中に強烈な手のひらの衝撃が叩き込まれた。

 痛烈な熱が全身を駆け巡り、清麿は熱い闘志を漲らせてアパートを飛び出した。

 午前九時四十分。

 日本将棋会館・四階、特別対局室。

 重厚な襖を開けて入室した瞬間、清麿の肌を、これまで経験したことのない異様な重圧が打った。

 上座に座していたのは、濃紺の羽織袴を身に纏った巨漢――山岸征四郎九段だった。

 太い腕を膝の上に置き、微動だにせず盤面を見つめている。

 五十代を迎えてなお、全身から立ち上る勝負師の覇気は、部屋の空気を物理的に押し広げているかのように重い。

 清麿が入室し、下座に進んで座布団の上に正座する。

「加藤さんですね」

 山岸の声は低く、地鳴りのように腹の底に響いた。

 鋭い双眸が、清麿を値踏みするように射抜く。

「あなたの棋譜、拝見しましたよ。予選での戦いぶり、そして星野四段との研究対局で見せたという玉寄り……。実に面白い筋を指される」

「恐縮です」

「だがね、加藤四段。ここは本戦トーナメントです。三十一歳でプロに入った奇跡のルーキーとやらをチヤホヤする空気は、この盤の上には一寸たりとも存在しない。……A級の将棋がどういうものか、骨の髄まで教えて差し上げましょう」

 傲慢ではない。

 四半世紀にわたりトップリーグの修羅場を生き抜いてきた男の、絶対の自負。

 清麿は背筋を真っ直ぐに伸ばし、深く頭を下げた。

「よろしくお願いいたします」

「定刻となりました。第五十期棋王戦本戦トーナメント一回戦、対局を開始してください」

 記録係の声が凛と響き渡る。

 振り駒の結果、清麿の先手、山岸の後手番と決まった。

 清麿は指先に全神経を研ぎ澄ませ、初手を放った。

 ――バシィッ!

 ▲7六歩。

 山岸も間髪を入れずに応じる。

 ――ズドンッ!

 △3四歩。

 重い。ただ角道を開けただけの一手なのに、盤が軋むような重量感が伝わってくる。

 局面は、山岸の代名詞である重厚な『相矢倉』へと進展していった。

 序盤の三十手、山岸の手つきには寸分の乱れもなかった。

 現代のAI研究に媚びることなく、自らの肉体で覚えた頑強な金銀のスクラムを一段、二段と組み上げていく。

 清麿の脳裏に、三百年後の『完全定跡アーカイブ』が青白い光となって展開される。

 だが、清麿はアーカイブの画面にすがりつくことはしなかった。

 相手の手の感触、盤上に満ちる重圧、そして山岸の荒い鼻息――そのすべてを生身の肌で受け止めながら、一手一手、自らの呼吸を盤面と同調させていく。

 午後を回り、二階の控室。

 中継モニターを見つめる棋士たちと、記者の神崎澪の間で、息を呑むような会話が交わされていた。

「……山岸九段、本気ですね」

 解説の若手棋士が、背筋を凍らせるように言った。

「加藤四段の奇襲や鋭い新手に対して、一切の隙を与えない完璧な矢倉です。自陣の厚みだけで相手の攻め足を完全に殺し、これから重量級のカウンターを叩き込む構えだ。これが、A級の『重戦車』の本当の恐ろしさですよ」

「ええ……」

 神崎澪は手帳を強く握りしめ、画面の中の清麿を見つめていた。

「予選とはまるで空気感が違う。加藤四段、この巨大な岩盤をどうこじ開けるのかしら……」

 夕刻、五十五手を迎えた局面。

 対局室の静寂を破り、山岸征四郎九段が、手元の銀を中央へ力強く押し出してきた。

 ――ドォォォンッ!!

 特別対局室の障子がビリビリと共鳴するような、凄まじい轟音。

 力づくの進軍。無理攻めではない。

 相手のすべての反撃を自陣の厚みで吸い潰しながら、じわじわと清麿の玉陣をすり潰しにかかる、A級棋士の本物の圧力だった。

(重い……! 息が……止まりそうだ……!)

 清麿の額から、大粒の汗がボタボタと盤上に滴り落ちる。

 矢野六段の毒蛇のような受けとも、星野四段の野生の疾風とも違う。

 巨大な鉄の塊が、正面からすべてを押し潰しにやってくるような絶望感。

 普通なら、この威圧感に耐えかねて自爆するか、じり貧のまま押し切られる局面。

 ――しかし。

 加藤清麿の瞳の奥で、小さな、だが決して消えない炎がカッと燃え上がった。

(日和るな。……俺は、この場所に来るために、泥水を啜ってきたんだ!)

 脳裏に去来するのは、和令の怒号、妹・千代の笑顔、そして師匠・榊原九段の言葉。

 相手がA級の重戦車なら――その重量を、そのまま相手の首を絞める刃に変えてやる!

「――加藤四段、考慮時間二十分経過」

 記録係の声が落ちた瞬間。

 清麿の右手が、疾風のように盤上へと伸びた。

 相手の重戦車のキャタピラが踏み込んでくる、その真正面の間隙――。

 自陣の飛車の利きを完全に遮断し、相手の金銀の連携を真っ二つに引き裂く危険地帯へと、一枚の歩を静かに打ち下ろしたのだ!

 ――パチリ。

 静寂を震わせる、あまりにも鋭利な駒音。

 重戦車の正面に、自ら投げ込まれた小さなクサビ。

 本戦トーナメントの青畳の上で、三十一歳のオールドルーキーとA級の鬼神による、魂を削る死闘の火蓋が、いま壮絶に切って落とされた。

読んでいただきありがとうございます。

面白いと思っていただけましたら、★評価やブックマークで応援していただけると励みになります。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。