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『未来の将棋は暗記ゲーでした~30歳でプロを諦めた元奨励会三段、300年後の子孫に「必勝定跡」を叩き込まれて無双する~』   作者: 月神世一


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EP 10

『化け物たちの棲む頂へ』

 二月も下旬を迎えた千駄ヶ谷の空には、冬の張り詰めた冷気の奥底に、かすかな春の訪れを予感させる柔らかな陽光が混ざり始めていた。

 鳩森八幡宮の大銀杏の梢からは、冬枯れの枝の先端に小さな芽吹きが微かに顔を覗かせ、舗道を吹き抜ける風の角が少しずつ丸みを帯びてきている。

 築四十年の木造アパートの六畳間で、加藤清麿はちゃぶ台の上に置かれた最新の将棋専門誌『週刊将棋ジャーナル』の誌面を静かに見つめていた。

 カラーの巻頭特集に、大きく掲げられた見出し。

『【徹底解剖】オールドルーキー・加藤清麿四段、公式戦六連勝の衝撃!』

『棋王戦予選突破! 本戦トーナメント進出決定!』

『棋士室を震撼させた「五十手目の玉寄り」――現代AIを超越する生身の大局観』

 ページを捲ると、先週の桐生研究会で十九歳の新人王・星野蓮四段の野生の猛攻を完封した、あの「玉寄り」の局面図が大々的に掲載されていた。

 非公式の研究対局でありながら、その棋譜は棋士室のネットワークを通じて瞬く間に全棋士へと広がり、解説のトッププロたちが「AIの候補手にもない、生身の勝負師が生み出した奇跡の迎撃術」と絶賛のコメントを寄せていた。

 そして――その余勢を駆るように、清麿は直後の棋王戦予選三回戦、そして決勝を、未来定跡と自らの泥臭い読みを融合させた圧倒的な指し回しで突破。

 プロデビューからわずか二ヶ月足らずで、タイトル戦の本戦トーナメントへの切符を掴み取っていたのだ。

 専門掲示板の実況スレッドは、もはや「編入組のオールドルーキー」という色眼鏡を完全に脱ぎ捨て、一人の恐るべき新星として清麿の名を連呼していた。

『加藤四段、公式戦6連勝ってマジかよ!』

『矢野六段を完封して、そのまま予選を一気に駆け抜けたぞ』

『星野四段に公式戦で負けた後、研究会ですぐにリベンジして覚醒したらしい』

『オールドルーキーどころか、現役棋士の中で一番手がつけられない怪物になってる……』

「……ふう」

 清麿は深く息を吐き出し、雑誌をパタンと閉じた。

 胸の奥底で刻まれる鼓動は、驚くほど静かで、力強かった。

 かつて二十六歳で三段リーグを追われた日、自分は「自分には何の価値もない」と思い詰め、社会のゴミのように蹲っていた。

 プロになれた直後ですら、三十一歳という年齢の重圧や、星野蓮のような若き天才の輝きに圧倒され、恐怖で指先を震わせていたのだ。

 だが、今の清麿は知っていた。

 未来の定跡アーカイブは、ただの「道標」に過ぎない。

 暗闇の盤上で最後に活路をこじ開けるのは、泥水を啜り、敗北の痛みを噛み締めながら、自分の頭で考え抜く生身の意志なのだと。

「……ちょっと。朝から雑誌の自分の顔写真を拝み倒して、何の自己愛展覧会を開いてんのよ、雑魚先祖」

 背後の台所から、アルミ鍋の蓋をカチャリと威勢よく鳴らしながら、聞き慣れた容赦のない甲高い声が飛んできた。

 銀と藍色のライダースーツの袖をたくし上げ、千代の花柄エプロンをきゅっと腰に巻いた和令が、湯気を立てる盆を両手で持って入ってくる。

「自己愛展覧会じゃない。……記事の内容をチェックしてただけだ」

「チェックするのは結構だけど、口角が三ミリ上がって、鼻の穴が誇らしげに膨らんでたわよ! 公式戦で六連勝したくらいで、天下でも取った気になってんじゃないわよ!」

「取った気になんてなってない! 少しは喜んだってバチは当たらないだろ!」

「喜ぶのは勝手だけど、六連勝なんて三百年後の銀河将棋リーグから見れば、靴紐を一度結び直した程度の距離よ! まだ順位戦の昇級枠すら一つも手に入れてないくせに!」

「銀河将棋リーグってなんだよ! スケールを宇宙規模に広げて難癖をつけるな! ……だいたい、昨夜の牛丼の時は『あんたが歴史を塗り替えた記念日よ!』って大盤振る舞いしてたくせに、朝になったらその毒舌かよ」

「牛丼は昨夜の特別恩赦! 朝は朝よ! 昨夜の牛肉代で今週の食糧予算の四十パーセントが吹き飛んだんだから、今日からは徹底した緊縮財政プロトコルよ!」

「緊縮財政……って、おい、今朝のメニューは何なんだよ」

 文句を言い合いながらも、清麿はちゃぶ台の前に正座し直した。

 ドン、と置かれた盆の上を見て、清麿は思わず苦笑いをこぼした。

 大根と油揚げの質素な味噌汁、スーパーの見切り品の白菜の浅漬け、そして――小さめの小鉢に盛られた、納豆。

「……あれ? 卵は?」

「あるわけないでしょ! 昨夜の牛丼に、特売卵を一個乗せて『月見牛丼』にしてあげたのをもう忘れたわけ!? 一個二十円の超高級資源を連日投入できるほど、我が家の備蓄金庫は甘くないわよ!」

「卵一個の配給管理が厳しすぎるだろ! 六連勝したプロ棋士の朝食が納豆ご飯だけかよ!」

「納豆のナットウキナーゼを侮るんじゃないわよ! 血流をサラサラにして、前頭葉への酸素供給効率を最大化する完全食よ! ほら、文句があるなら五分で胃袋に流し込みなさい!」

「理屈は正論なんだよな、いつも……。いただきます!」

 清麿は箸を取り、熱い味噌汁をすすった。

 質素だが、出汁の利いた温かさが胃袋に染み渡っていく。

 和令は小さく鼻を鳴らしながら、腰のホルダーから透明な薄型端末を引き抜き、空中に青白い立体ホログラムを展開した。

「いい、清麿。浮かれてるあんたのために、現実のデータを叩き込んであげるわ」

 空中に、将棋界のタイトル保持者たちのデータが立ち上がる。

「公式戦六連勝で棋王戦の本戦トーナメントに入ったのは、確かに上出来よ。でもね、本戦のトーナメント表を見なさい。A級棋士、タイトル経験者、そして――」

 ホログラムの頂点に、ひとつの巨大な名前が浮かび上がった。

『藤堂晃司(とうどう こうじ)竜将』

 現代将棋界の絶対王者。七大タイトルのうち五冠を独占し、千駄ヶ谷の頂点に君臨する規格外の怪物。

「本戦を勝ち上がれば、いずれこの男の牙城に挑むことになるわ。風月杯の時に味わったでしょ? あのたった一枚の端歩突きで、三百年後の定跡の盲点を感覚だけで射抜いてみせた、生きた神話よ」

「……ああ。忘れるわけがないさ」

 清麿の背筋が、ピシリと伸びた。

 あの日、特別対局室ですれ違った時に交わした言葉が、今も鮮烈に耳の奥に残っている。

『君の将棋は、実に面白い』

『いつか、公式戦の舞台で会おう』

 その約束の舞台へ、自分は一歩ずつ、確実に近づいているのだ。

「それとね、清麿」

 和令がふっと端末の光を弱め、真剣な眼差しを向けてきた。

「あんたが星野戦で見せた『五十手目の玉寄り』……。あれ以降、私の端末の未来データに、奇妙な変動が起きてるのよ」

「変動……? 歴史改変のことか?」

「ええ。あんたのプロ入りで加藤家の借金が消えたのは確定したけど……それだけじゃないわ。西暦二三二六年の定跡アーカイブのなかに、現代のあんたが指した『加藤玉』の構想が、新しい定跡の樹形図として逆流して書き込まれ始めてるのよ」

「えっ……未来の定跡に、俺の手が……!?」

「そうよ! あんたが未来の答えをなぞる側から、未来の将棋を新しく創り出す側に回ったのよ!」

 和令はそう言って、ツンと顎を反らした。

 だが、その瞳の奥には、隠しきれない畏敬と、相棒への絶対の信頼が眩いばかりに輝いていた。

「だから……絶対に負け越しなんて許さないんだからね! 私の先祖が創り出した将棋が、三百年後の宇宙で最強になるんだから!」

「……任せとけよ」

 清麿は力強く笑い、納豆ご飯を一気にかき込んだ。

 午後二時。

 日本将棋会館・二階、棋士室。

 連盟への事務手続きを終えて顔を出した清麿を、記者腕章を巻いた神崎澪が待ち構えていた。

「加藤先生! 公式戦六連勝、そして棋王戦本戦進出、おめでとうございます!」

「ありがとうございます、神崎さん」

「専門誌の手記、大反響ですよ! 『加藤四段の将棋には、現代のAI研究が忘れてしまった勝負師の野生が息づいている』って、ベテランの先生方からも絶賛の声が上がっています」

 神崎は手帳を開き、眼鏡の奥の瞳を悪戯っぽく細めた。

「あ、そうそう。実は昨日、竜将戦の就位式で、藤堂竜将に囲み取材をする機会があったんです」

「えっ……藤堂竜将に?」

 清麿の心臓が、トクンと跳ね上がった。

「ええ。記者の一人が、加藤先生の『玉寄り』の棋譜についてどう思うか、竜将に質問したんです。そうしたら、あの竜将がなんておっしゃったと思います?」

「なんて……」

「ふっと柔らかく微笑んで、『彼はいよいよ、盤上の神様と対等に喧嘩を始めたね。公式戦の盤上で会えるのを、心から楽しみにしているよ』って……!」

 神崎の言葉を聞いた瞬間、清麿の全身を、熱い電撃のような鳥肌が駆け抜けた。

 絶対王者・藤堂晃司。

 千駄ヶ谷の頂点に立つあの怪物が、自分をただの「特異な新手を使うアマチュア」ではなく、同じ高みを目指す一人の「勝負師」として認識している。

 背筋が震えるほどのプレッシャー。

 だが、それ以上に――全身の血液が沸騰するような、圧倒的な歓喜が胸を満たしていた。

 夕暮れ時。

 将棋会館の外へ出ると、千駄ヶ谷の街は茜色から紫紺へと移ろう美しいグラデーションに染まっていた。

 涼やかな風が、火照った清麿の頬を心地よく冷ましていく。

 通りを渡り、鳩森八幡宮の境内へ足を踏み入れると、街灯の薄明かりの下で、銀と藍色のサマージャケットを着た和令が、腕を組んで待っていた。

 清麿が歩み寄ると、和令はスッと顔を上げ、ツンと顎を上に向けて鼻から息を噴き出した。

「……遅かったじゃないの、雑魚先祖」

「神崎さんと少し話しててさ。……藤堂竜将からの伝言を聞いたよ」

「へえ……。あの絶対王者が、あんたを意識してるわけね」

 和令はニヤリと不敵に口元を吊り上げた。

「いいじゃない。プロ棋士全員が化け物なら……その化け物たちの親玉を盤上で引きずり下ろすのが、私たちの役目でしょ!」

「ああ。その通りだ」

 清麿は夕暮れの空を見上げた。

 四年前、二十六歳の春にすべてを失い、死の淵を彷徨っていた男。

 未来から来た生意気な子孫にドロップキックを食らい、泥水を啜り、挫折と敗北を乗り越えて、ここまで走ってきた。

 プロ棋士になったら、全員が化け物だった。

 老獪な毒蛇も、若き鉄壁も、不屈の闘士も、そして野生の天才も。

 だが――自分自身もまた、その化け物たちと命を削り合い、盤上の真理を喰らい尽くす、本物の勝負師へと覚醒したのだ。

「行くぞ、和令。……化け物たちの棲む、あの頂のてっぺんまでな」

「当たり前でしょ! 泣き言吐いたら、今度こそ脳天にドロップキックだからね!」

 千駄ヶ谷の初春の夜空に、二人の笑い声が力強く響き渡っていく。

 三十一歳のオールドルーキー・加藤清麿四段の、絶対王者への挑戦と、真の伝説を紡ぐ次なる戦いが、いま堂々と幕を開けようとしていた。

(第六章 完)

読んでいただきありがとうございます。

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