EP 9
『野生を超える一手』
日本将棋会館・二階、棋士室。
午後を回った室内には、窓から差し込む冬の淡い陽光とは裏腹に、息が詰まるほどの濃密な熱気が渦巻いていた。
中央の長テーブルに置かれた本榧の盤を取り囲むように、桐生彰吾五段や佐伯四段をはじめとする若手・中堅棋士たちが、誰一人として口を開かずに立ち尽くしている。
盤を挟むのは、三十一歳のオールドルーキー・加藤清麿四段と、十九歳の若き新人王・星野蓮四段。
駒音だけが、乾いた静寂を規則正しく切り裂いていた。
――パシッ。
――バシィッ!
局面は、数日前に行われた竜将戦予選二回戦と、まったく同じ『相掛かり』の進行を辿っていた。
序盤の四十手。清麿の指し手には寸分の淀みもなく、相手の攻め駒の前進ルートを先回りして刈り取っていく。
そして――迎えた五十手目。
盤の向こうで頬杖をついていた星野蓮が、少年のあどけない瞳を青白い炎でギラリと輝かせた。
「加藤先生。……行きますよ」
鈴を転がすような澄んだ声とともに、星野の右手が盤上へ振り下ろされた。
――ズドォォォォンッ!!
室内の空気をビリビリと震わせる、重厚な轟音。
中央への、飛車のタダ捨て。
竜将戦の公式戦で、清麿の心をへし折り、逆転負けへと引きずり込んだあの狂気の特攻手が、寸分の狂いもなく再び盤上に叩き落とされたのだ。
「……出た!」
背後で見守っていた佐伯四段が、唾を飲み込んで声を漏らした。
「星野四段の代名詞、大駒切りからの混沌突入だ……!」
「公式戦では、加藤四段はこの飛車を手堅く払ったことで自陣の連携を乱され、星野君の野生の猛攻に呑み込まれた。……さて、どう受ける?」
桐生五段が眼鏡のブリッジを押し上げ、鋭い視線を盤上に注ぐ。
常識外れの勝負手。取れば罠にかかり、取らなければ大駒を敵陣に居座らせる。
だが――。
加藤清麿の背筋は、微動だにしなかった。
胸の奥底で鳴り響いていた恐怖の警報は、すでに消え去っていた。
脳裏に浮かぶのは、今朝、六畳間で和令とともに盤を囲んだあの時間。
『データがないなら、俺たちがここで作ればいいんだろ』
三百年後のスーパーコンピューターすら計算を放棄した暗闇の果て。
そこで見つけ出した、生身の魂の一手。
清麿は深く息を吸い込み、右手を伸ばした。
掴み取ったのは、相手の飛車を取るための金でも、守りを固める銀でもなかった。
自陣の奥深くでじっと座していた――自らの『玉』だった。
――パチリ。
対局室の静寂を震わせる、静かすぎる駒音。
清麿が放ったのは、飛車を取るでもなく、盤の隅へ逃げるでもなく。
敵の飛車と角の斜めの射線が交差する、中央斜め前方の危険地帯へと、玉を自ら「一マス」だけ踏み込ませる一手だった。
「…………は?」
星野蓮の端整な眉が、跳ね上がるようにピクリと動いた。
少年の人懐っこい笑顔が凍りつき、盤面を食い入るように二度見する。
「な……に、それ……?」
背後の棋士室全体が、激震に見舞われたようにどよめいた。
「玉寄り……!? 相手の飛車の射程圏内に、自分から玉を近づけたのか!?」
「自殺行為だ! 飛車を取るどころか、自玉を危険に晒すなんて……AIの評価値なら一瞬で大暴落する悪手だぞ!」
ざわめく周囲の声。
だが、星野蓮だけは、騒ぐ棋士たちの誰よりも早く、その異様な気配に気づいていた。
星野の指先が、扇子の上でピタリと止まる。
(違う……! 悪手なんかじゃない……!)
星野の脳内で、野生の直感が激しい警鐘を乱れ打ちにしていた。
飛車で玉を直接撃ち抜こうとすれば、先ほど上がった玉の斜め前に控える銀が、完璧な防波堤となって射線を遮断している。
ならば角で斜めから刺そうとすれば、玉が前に出たことで角の睨みの焦点から、わずか「一マス」絶妙に外れているのだ。
相手の刃が最も鋭く届くはずの死地に、自ら足を踏み入れることで、相手のすべての攻め駒の間合いを無力化する――。
「あは……っ、あはははっ!」
星野の口から、乾いた笑い声がこぼれ出た。
その双眸に、これまでのどんな対局でも見せたことのない、戦慄と歓喜が混ざり合った青白い炎が立ち上る。
「すごい……! 加藤先生、なんですかこの手! 僕の攻めが、全部空振りさせられてる……!」
星野は奥歯を噛み締め、獰猛な野生を剥き出しにして盤上に噛みついてきた。
――ズドンッ!
飛車を自ら成り込ませて竜を作る。
――バシィッ!
桂馬を跳ねて清麿の玉の退路を封鎖しにかかる。
しかし――加藤清麿の瞳は、どこまでも澄み切っていた。
(見える……! 星野の呼吸が、指し手の軌道が、全部手にとるように見える!)
清麿の指先が、氷のように冷静に盤上へと伸びる。
――パチリ。
自陣の底深くへ、一枚の歩を静かに打ち下ろす。
かつて矢野六段を窒息させた、あの長手数の底歩。
竜の横撃を塞ぎ、桂馬の跳躍ルートを完全に消滅させる、沈黙のクサビ。
星野がどれほど常識外れの直感で盤上を引っ掻き回そうとも、清麿の玉はその暴風を柳のように受け流し、相手の攻め駒を一手ごとに虚空へと空振りさせていった。
「嘘だろ……! 星野四段の猛攻が、完全に切れている……!?」
佐伯四段が青ざめた顔で叫ぶ。
桐生五段が、震える手で眼鏡を外した。
「……信じられない。相手の野生の直感の力を利用して、自らの玉の露出で相手の牙を折ったんだ。こんな構想、現代のどのAI定跡書にも、どのプロの棋譜にも存在しない……!」
星野蓮の持ち時間が、激しい勢いで削り取られていく。
十五分、三十分――。
どれほど盤面を睨んでも、清麿の玉を捉えるルートが見つからない。
攻め駒を使い果たした星野の陣形は、自らの飛車切りという無謀な特攻のツケを払わされ、丸裸の断崖絶壁に立たされていた。
そして――七十八手目。
清麿の反撃の刃が、静かに閃いた。
――バシィッ!
敵陣の急所へ、角を叩き込む。
――パシッ。
銀を放り込んで、星野の玉の退路をミリ単位で塞ぐ。
一手一手が、最短の寄せ筋を描いていく。
八十六手目。
清麿は手元に残っていた一枚の金を、星野の玉の頭上へと、そっと静かに打ち下ろした。
――パチリ。
王手。
逃げ場なしの、完全なる即詰み。
「…………」
棋士室から、すべての音が消え去った。
星野蓮四段は盤上に両手を落としたまま、肩を小刻みに震わせていた。
やがて――少年はゆっくりと畳に額を擦りつけるようにして、深く頭を下げた。
「……参り、ました」
八十六手。
十九歳の若き新人王が、己の誇るすべての野生と直感を完膚なきまでにねじ伏せられ、完敗を認めた瞬間だった。
「……ありがとうございました」
清麿が深々と一礼を返した。
指先が、心地よい痺れに震えている。
未来の答えを借りたのではない。
敗北の泥水を啜り、自分の頭で考え抜き、相棒とともに紡ぎ出した自分自身の将棋で、本物の天才を打ち破ったのだ。
ガバッと顔を上げた星野蓮の瞳には、涙が薄っすらと滲んでいた。
だが、その顔に浮かんでいたのは、屈辱ではなく――眩いばかりの熱狂だった。
「加藤先生……! あの一手、なんですか!? 五十手目のあの玉寄り! 僕、盤の前に座ってて、心臓が止まるかと思いました!」
星野は身を乗り出し、両手で清麿の手を力強く握りしめてきた。
「僕の直感を、あんな形で受け止められたの、生まれて初めてです! 先生、やっぱり本物の化け物ですよ! すごい……すごすぎます!!」
少年の熱い掌の温もり。
清麿は思わず目頭が熱くなり、苦笑しながらその手を握り返した。
「……ありがとう、星野先生。お前の直感があったから、俺もあの一手を見つけられたんだ」
「先生! また指してください! 次は公式戦の舞台で、絶対に僕がリベンジしますからね!」
「ああ。受けて立つよ」
二人の間に、年齢も経歴も超えた、本物のライバルとしての魂の絆が結ばれた瞬間だった。
*
研究対局の検討を終え、将棋会館の外へ出ると、千駄ヶ谷の街は美しい群青色の夕暮れに包まれていた。
冷たい冬風が、火照りきった清麿の頬を心地よく引き締めていく。
通りを渡り、鳩森八幡宮の境内へと足を踏み入れると、街灯の薄明かりの下、銀と藍色のサマージャケットを着た和令が、木製ベンチの前で腕を組んで待っていた。
清麿の足音が近づくと、和令はスッと顔を上げ、ツンと顎を反らして鼻から大きく息を噴き出した。
「……遅かったじゃないの、雑魚先祖」
「八十六手で終わったんだぞ。早い方だろ」
「ふん! スマホの連盟アプリで棋士室の動向を見てたわよ。星野蓮の猛攻を、あの玉寄りで完璧に窒息させたそうじゃない」
和令はツカツカと歩み寄ると、清麿の顔をジロリと見上げた。
その大きな瞳の奥には、隠しきれない歓喜と誇らしさが、キラキラと星のように輝いていた。
「まあ……三百年後の神童たる私のスパルタ指導があったからこその勝利よ! 原始人の頭脳にしては、九十九点をあげてもいいわね!」
「九十九点! 残りの一点は?」
「勝った瞬間に鼻の下を二ミリ伸ばして、十九歳のガキと手を握り合ってデレデレしてた減点よ! この軟弱先祖!」
「デレデレしてないだろ! お互いの健闘を称え合ってたんだよ!」
「うるさい! ほら、帰るわよ! 今夜は約束通り……いえ、天才撃破の特別ボーナスよ! スーパーで特売の牛肉を買って、牛丼を作ってあげるんだから!」
「牛肉!? マジかよ、また予算オーバーになるぞ!」
「今日くらい大盤振る舞いしなさいよ! あんたが未来のデータを超えて、自分の頭で歴史を塗り替えた記念日なんだから!」
和令が前を歩き、冬風に黒髪をなびかせながら、力強く石畳を踏みしめていく。
清麿はその小さな背中を見つめ、夕暮れの空を見上げた。
全員が化け物のプロ棋界。
だが、恐れることはもう何もない。
未来の答えを超えて、己の魂の一手を指し続ける限り、自分の道はどこまでも前へ続いているのだから。
千駄ヶ谷の夜空に、二人の明るい笑い声がどこまでも高く響き渡っていった。
読んでいただきありがとうございます。
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