EP 8
『未来データにない一手』
二月の千駄ヶ谷は、街全体が凍てつくような底冷えのなかに沈んでいた。
木造アパートの六畳間では、石油ストーブの小さな青い炎が微かな熱を放ち、やかんの注ぎ口から立ち上る白い湯気が、隙間風に揺らめいて結露を障子に滲ませている。
加藤清麿は、ちゃぶ台の前に正座し、本榧の将棋盤の上に黄楊の駒を静かに並べていた。
竜将戦予選二回戦、十九歳の新人王・星野蓮四段に喫した、あの痛烈な逆転負けから数日。
世間のネット掲示板やSNSでは、いまだに「オールドルーキー、本物の天才に跳ね返される」「才能の絶対的な差」という冷淡な言葉が躍り続けていた。
だが、今の清麿の胸には、かつてのような自暴自棄の泥は微塵も残っていなかった。
あの日、涙を流しながら「才能なんて言葉で片付けるな!」と胸ぐらを掴んできた和令の怒号が、清麿の魂を芯から叩き起こしてくれたのだ。
盤上には、星野が自陣の飛車を中央へ叩き落としてきた、あの運命の局面が再現されていた。
なぜ、あの局面で自分は日和ったのか。なぜ、未来の定跡アーカイブにない手を突きつけられただけで、思考を停止して安全そうな駒得に逃げ込んだのか。
指先で駒に触れるたび、敗北の苦さと、それ以上に「盤上の真理を知りたい」という熱い渇望が、身体の奥底から込み上げてくるのを感じていた。
「……ちょっと。朝の六時からカチカチ駒を鳴らして、何の念仏を唱えてんのよ、雑魚先祖」
背後の台所から、アルミ鍋の蓋をカチャリと威勢よく鳴らしながら、容赦のない甲高い声が飛んできた。
銀と藍色のライダースーツの袖をたくし上げ、千代の花柄エプロンをきゅっと腰に巻いた和令が、湯気を立てる盆を両手で持って入ってくる。
「念仏じゃない。星野戦の五十手目、相手が飛車を切ってきた局面をもう一度掘り下げてたんだよ」
「掘り下げるのは結構だけど、顔の毛穴から執念の怨念が立ち上って、部屋の湿度が不快指数マックスなんだけど!」
「怨念なんて出してない! 少しは集中させてくれよ、昨夜からずっといいところまで見えてきてるんだ」
「集中する前に、朝のエネルギー補給をしなさい! 脳細胞を酷使しすぎて前頭葉がショートしたら、ただでさえ足りない知能指数が三百年前に逆戻りよ!」
「三百年前に戻ったら江戸時代だろ! だいたい、お前こそ昨夜から目の下に薄っすらクマ作って、端末を睨みっぱなしじゃないか」
「わ、私のクマはナノスーツのバイザーの影よ! あんたが星野蓮の野生の直感にボコボコにされたのが悔しくて、端末のアーカイブを再計算させてたわけじゃないんだからね!」
「悔しかったんじゃないか! 素直に言えよ!」
「うるさい! 弟子が負けて師匠が悔しがるのは当たり前でしょ! ほら、朝ごはん! 五分で胃袋に放り込みなさい!」
ドン、とちゃぶ台の中央に置かれたのは、熱々の根菜汁、スーパーの見切り品のホウレンソウのおひたし、そして――皿の上で美しく黄金色に焼かれた、見事な半熟の目玉焼きだった。
「……お、目玉焼き! 今日も卵を使ってくれたのか?」
「星野蓮への復讐に燃える負け犬先祖のための、精神強化特別配給よ! 一個二十円の超高級資源を惜しみなく投じて、コリンとレシチンを脳幹に注入してあげたんじゃないの!」
「復讐って物騒だな……。でも、本当に助かるよ。いただきます!」
「ふん! 感謝するなら味わってないで、さっさと米をかき込みなさい! 今日も桐生研究会に行くんでしょ!」
「ああ。星野四段も来るって連絡があった。……もう一度、あいつの感覚と向き合いたいんだ」
箸を割り、半熟の黄身を白米の上でそっと崩す。
濃厚なコクと醤油の風味が、炊きたてのご飯の甘みとともに五臓六腑へ染み渡っていく。
和令は小さく鼻を鳴らしながら、腰のホルダーから透明な薄型端末を引き抜き、ちゃぶ台の横に置いた。
「いい、清麿。星野戦の飛車切り以降の局面、三百年後のスーパーコンピューターに再解析をかけさせたわ。現代のAIが見落とすような混沌のなかでも、相手の直感を封じ込める絶対の正解手順が必ずどこかにあるはずよ」
和令が細い指先で端末の画面をタップした。
空中に、青白い立体ホログラムが展開される。
だが――。
ピピッ、ピピピピッ――。
突如として、端末から不快な警告音が鳴り響き、青白い画面のあちこちに激しいノイズが走り始めた。
「……え?」
和令の眉が、ピクリと跳ね上がった。
画面の中央に、赤い警告文字が明滅している。
『――警告:該当局面のデータ欠落』
『西暦2326年定跡アーカイブ:インデックス参照エラー』
『該当分岐数:0局面(計算不能)』
「な……によ、これ……!?」
和令が慌てて画面をスクロールしようとするが、ホログラムの樹形図はプツリと途切れ、真っ黒な空白が広がっていた。
「和令? どうしたんだ?」
「……データが、ないのよ」
少女の声が、掠れるように震えていた。
「星野蓮が飛車を切ったあの局面……三百年後の完全定跡アーカイブのなかで、完全に『欠落』してるわ」
「欠落……? 三百年後の将棋は、すべての局面が解析され尽くしてるんじゃなかったのか?」
「解析はされてるわよ! でも……」
和令は唇を強く噛み締めた。
「三百年後の世界では、誰もあんな無茶苦茶な飛車のタダ捨てなんて指さないのよ! 初期の枝刈りルーチンで『自滅の愚手』として破棄されてるか……あるいは、あんたがプロ入りして未来の歴史が変わったせいで、端末のデータベースの一部が不安定になってるのよ!」
端末の光が弱々しく瞬き、そのままスッと消えてしまった。
六畳間に、冷たい沈黙が落ちる。
三百年後の未来から持ち込まれた、絶対の武器『完全定跡アーカイブ』。
それが、いま――目の前で、完全に沈黙したのだ。
「……嘘でしょ」
和令が両手で頭を抱え、畳の上にへたり込んだ。
「データがないなんて……未来の答えが使えないなら、どうやってあの化け物の直感を攻略すればいいのよ……! また、あんたが盤の上で迷子になっちゃうじゃないの……!」
かつて未来の世界で負け続け、答えのない盤面に怯えて挫折した少女の恐怖が、再び顔を覗かせていた。
だが――。
向かい側に座る加藤清麿の表情は、驚くほど穏やかだった。
「……いいじゃないか、和令」
「え……?」
和令が信じられないものを見るように、顔を上げた。
清麿は湯呑みの温かいお茶を一口すすると、盤上の駒を見つめて、柔らかく微笑んでいた。
「データがないなら、俺たちがここで作ればいいんだろ。あの日、お前が自分で言ってくれたじゃないか」
「そ、それは……綺麗事よ! 三百年後のスーパーコンピューターですら計算してない暗闇の局面なのよ!? 生身の人間の頭で読めるわけないでしょ!」
「読めるさ」
清麿は力強く言い切った。
「星野四段は、コンピューターの計算じゃなく、生身の自分の直感であの局面を作ってきたんだ。だったら……俺たちだって、生身の頭で向き合わなきゃ失礼だろ」
清麿は手元の黄楊の駒を掴むと、ちゃぶ台の上の盤へと視線を落とした。
「座れよ、和令。……ここからが、本当の俺たちの研究だ」
和令は目を丸くし、それからぎゅっと唇を結んだ。
「……ふん! 雑魚先祖のくせに、偉そうに言っちゃって!」
少女は乱暴に鼻をすすると、ちゃぶ台の前に正座し直した。
「いいわよ! 端末のチートが使えないなら、私の生身の脳髄とあんたの泥臭い読みで、星野蓮の直感を真っ向から叩き潰す手順を炙り出してやるわ!」
パチリ、パチリと、六畳間に駒音が響き始めた。
盤面は、星野が飛車を中央に叩き落としてきた五十手目。
三百年後の論理では、飛車を手堅く金で払い、相手の攻めを一度受け止めるのが「理論上の最善」とされていた。
だが、実戦でそれを指した結果、清麿は自陣の金銀の連携を崩され、星野の野生の猛攻に呑み込まれたのだ。
「……相手の狙いは、飛車を取らせることだった」
清麿は目を閉じ、星野の呼吸を思い出す。
「飛車を取れば、自陣の右側にわずかな隙間ができる。星野四段は、その一瞬の歪みを見逃さずに銀を放り込んできたんだ」
「じゃあ、飛車を取らずに、銀を引いて相手の角の射線を遮断するのはどうよ?」
和令が自陣の銀を一段引いてみせる。
「いや、それだと相手に飛車を成り込まれて、手番を奪われる。守勢に回った瞬間、星野四段の直感はさらに加速するはずだ」
「くっ……じゃあ、端から反撃する? 桂馬を跳ねて相手の玉陣を乱すとか……」
「ダメだ。自玉が危険に晒されたままだと、一手早く寄せられる」
一手動かしては戻し、また別の手を試す。
十通り、二十通り、五十通り――。
どれを指しても、星野の猛攻の勢いを完全に止めることができない。
時計の針が、非情に午前九時を回る。
清麿の額から、じわりと汗が滲み出た。
息が詰まるような、暗黒の手探り。
未来の答えがない盤面は、これほどまでに重く、そして果てしないものなのか。
(どこだ……どこに、星野の直感を凌駕する道がある……!?)
清麿は腕を組み、盤面を穴の開くほど凝視した。
脳裏に去来するのは、これまで戦ってきた棋士たちの姿だった。
宮坂の研ぎ澄まされた研究。蓮沼の泥沼の力戦。北条の鉄壁の受け。高杉の命懸けの執念。相良の堂々たる正攻法。そして、矢野の老獪な間合いの支配。
彼らは全員、命を削って盤上の真理と向き合ってきた本物のプロ棋士たちだった。
そして、星野蓮もまた、盤上の宇宙を愛し、盤面と対話しながら一手を紡ぎ出している。
(そうだ……。相手を力づくでねじ伏せようとするから、歪みができるんだ)
三百年後の定跡は、「相手を最短で効率よく殺すための論理」だった。
だが、生身の人間同士の戦いは、そんな機械的な最短距離では測れない。
相手が踏み込んできたなら――その踏み込みの力を利用して、相手の刃を無力化する場所があるはずだ。
(星野の飛車の狙いは、自玉の頭上。角の狙いは、自陣の斜めの急所……。ならば……)
清麿の指先が、スッと盤上へと伸びた。
掴み取ったのは、攻め駒でも守備の金銀でもない――自陣の奥深くに鎮座していた『玉』だった。
――パチリ。
清麿が指したのは、飛車を取るでもなく、逃げるでもなく。
あえて自陣の金銀の壁の隙間をすり抜け、戦場に最も近い中段の斜め前方へと、玉を自ら「一マス」寄せる、奇怪極まりない一手だった。
「…………は?」
和令の口が、ぽかんと開いた。
「な……何よその手!? 相手の飛車と角の利きが両方届く危険地帯に、自分から玉を突っ込ませてんじゃないわよ! 自殺行為でしょ!!」
「いや……違うぞ、和令」
清麿の瞳に、静かな、だが確信に満ちた光が宿っていた。
「よく見てくれ。ここに玉を寄せると、相手の飛車先からは玉の姿が銀の影に隠れて直通しなくなる。さらに、角の斜めの射線からも、自陣の桂馬の頭上に玉が入ることで、絶妙に間合いがズレるんだ」
「え……?」
和令が慌てて盤上に身を乗り出し、駒の利きを追い始める。
「ここで相手が飛車を成り込んできたら、どうする?」
「成らせていい。その代わり、空いた自陣の底へ、手持ちの歩を一枚静かに打ち込む。……矢野先生を窒息させた、あの長手数の底歩だ」
「底歩……!?」
「そうだ。そうすれば、相手の竜は自玉に触ることすらできず、角の利きも完全に止まる。そして――相手がもたついている間に、こちらの反撃が最短で敵玉の急所へ突き刺さる!」
和令の指先が、ガタガタと震え出した。
盤面を進めるごとに、星野が繰り出してくるであろうあらゆる猛攻のルートが、清麿の放った「玉寄り」によって、ことごとく紙一重で空振りに終わっていく。
未来の定跡アーカイブには載っていない。
三百年後のスーパーコンピューターですら、自玉を危険に晒す大悪手として切り捨てていたはずの、狂気の玉寄り。
だが――生身の人間同士の泥沼の戦いにおいて、それは相手の野生の直感を完全に狂わせ、無力化する、美しすぎる「迎撃の新構想」だった。
「……嘘でしょ」
和令の口から、掠れた息が漏れ出た。
少女は震える瞳で、盤上の玉と、目の前に座る清麿の顔を交互に見つめた。
「三百年後のデータにもない……。現代の将棋ソフトの候補手にも出てこない……。これ……あんたが、自分の頭だけで見つけ出した手なの……!?」
「ああ」
清麿は深く息を吸い込み、自分の両の手のひらを見つめた。
「未来の答えを借りたんじゃない。……俺が、この盤の上で考え抜いた、俺自身の一手だ」
胸の奥底で、かつてないほどの熱い誇りが爆発した。
自分はもう、未来の知識を暗記してなぞるだけの操り人形ではない。
挫折の泥水を啜り、本物のプロたちと刃を交え、自分の足で盤上の暗闇を歩き抜いてきた、一人の「将棋指し」なのだ。
和令はしばらくの間、呆然と清麿を見つめていた。
やがて――少女の整った顔立ちが、くしゃりと崩れ、目元に大粒の涙が盛り上がっていった。
「……バカ先祖」
和令は袖口で乱暴に目を拭うと、ツンと顎を上に向けて、鼻から大きく息を噴き出した。
「ふん! まあ……三百年後の神童たる私の指導が良かったから、原始人の脳みそにも奇跡的にシワが一本増えたってところね!」
「素直に褒められないのかよ!」
「褒めてあげたでしょ、最高級の賛辞よ! ほら、突っ立ってないでコートを着なさい! 研究会の時間に遅れるわよ!」
「お前が泣きそうになってたからだろ! ……よし、行ってくる!」
バチンッ、と背中に叩き込まれた手のひらの痛快な衝撃。
だが、その熱さは、これまでで一番温かく、清麿の背筋を真っ直ぐに押し上げてくれた。
午前十一時。
冬晴れの陽光を浴びる日本将棋会館・二階の棋士室。
ドアを開けると、すでに長テーブルの周りには桐生彰吾五段、そしてグレーのダッフルコートを着た星野蓮四段の姿があった。
「あ、加藤先生!」
星野がパッと人懐っこい笑顔を咲かせ、手を振ってくる。
「お待ちしてましたよ! 先生、今日も僕と一番指してくださいね!」
十九歳の天才が放つ、純粋無垢な光。
だが、今の清麿の胸には、恐れも引け目も何一つなかった。
「ああ、喜んで」
清麿は力強く歩み寄り、盤の前に腰を下ろした。
「星野先生。……今日は、俺自身の将棋を、盤の上で見せてやるよ」
清麿の不敵な笑みに、星野の涼やかな瞳が、歓喜に満ちてギラリと輝いた。
未来の答えを超えて、自分の足で未知の盤面へと踏み出した男。
プロ棋士・加藤清麿の魂の刃が、いま真の輝きを放ち始めていた。
読んでいただきありがとうございます。
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