EP 7
『才能に負けた夜』
鳩森八幡宮の境内を取り巻く静寂は、痛いほど冷たく張り詰めていた。
街灯の淡いオレンジ色の光が、葉をすっかり落とした銀杏の枝を黒々とした骨のように照らし出し、凍てつく冬風が石畳の上を這うように吹き抜けていく。
加藤清麿は、肩を落とし、革靴のつま先を見つめたまま立ち尽くしていた。
竜将戦予選二回戦、十九歳の新人王・星野蓮四段に喫した、九十六手の逆転負け。
自らの指先から、熱という熱がすっかり失われていた。
序盤は完璧だったのだ。三百年後の完全定跡アーカイブを正確に再現し、現代の将棋AIすら息を呑むようなリードを奪っていた。
それなのに――星野の放った、たった一枚の飛車のタダ捨てから、盤上の空気は一瞬にして一変した。
三百年後のスーパーコンピューターが「論理崩壊の大悪手」と切り捨てていたはずのその一手から、少年の野生の直感が盤上を鮮やかに躍動し、清麿が築き上げた鉄壁の城を跡形もなく蹂躙していった。
(才能が……違いすぎる……)
胸の奥底で、かつて二十六歳の春に味わった、あの暗黒の絶望が冷たい泥のように噴き上がってくる。
どれほど努力しようと、どれほど知識を詰め込もうと、天から選ばれた本物の天才の前には、一筋の光すら残されない。
打ちのめされた清麿の前で、銀と藍色のライダースーツを着た和令は、ポケットに両手を突っ込んだまま、じっと夜空を見上げていた。
「……帰るわよ」
ぽつりと、掠れた声が冬の夜気に落ちた。
怒鳴り散らすでもなく、罵倒するでもない。その平坦すぎる声が、今の清麿には何よりも鋭く胸に突き刺さった。
アパートへ続く暗い夜道を、二人は無言のまま歩いた。
電柱の街灯が通り過ぎるたびに、二人の影がアスファルトの上で伸びては縮む。
カチャリ、と鍵を開け、築四十年のアパートの六畳間に入る。
室内の空気は氷のように冷え切っていた。
清麿はコートを脱ぐ気力すら湧かず、擦り切れた畳の上に力なく膝を落とし、ちゃぶ台に突っ伏した。
ポケットの中で、スマートフォンが震えている。
見たくはなかった。だが、吸い寄せられるように画面を点灯させてしまう。
将棋ポータルサイトの速報記事、そしてSNSの急上昇ワード。そこには、予想通りの無慈悲な言葉が刃のように乱舞していた。
『星野蓮四段、加藤清麿四段を九十六手で粉砕! 新人王が圧倒的な直感力を見せつける』
『オールドルーキーの快進撃、本物の天才の前にストップ』
『序盤の研究は凄かったが、星野の勝負手一発で瓦解。やっぱりプロの地力と才能の差だな』
『三十一歳の編入組が十九歳の神童に勝てるわけがない。これが残酷な現実よ』
画面から放たれる青白い光が、清麿の網膜をチクチクと灼く。
「……そうだよな。敵うわけないんだ」
自嘲の笑みが、乾いた唇から零れ落ちた。
「あいつは十九歳で、直感だけで三百年後の定跡を飛び越えてきたんだ。俺なんかが……いくら未来の答えを暗記したって、あんな怪物に勝てるわけがなかったんだ……」
「……何が『敵うわけない』よ」
台所の方から、冷ややかな声が飛んできた。
和令が、古びたやかんをガスコンロに乗せ、カチカチと青い火を点けながら振り返る。
エプロンもつけず、ライダースーツの襟元を少し緩めた少女の瞳は、底知れぬ暗さをたたえていた。
「スマホの画面にしがみついて、ネットの匿名の落書きを全部鵜呑みにしてんじゃないわよ。何のお通夜の遺影気取りよ、雑魚先祖」
「落書きじゃないだろ。書いてある通りだよ」
「何が書いてある通りよ! 顔の筋肉を全部たるませて、背中を丸めて……丸まったアルマジロの死骸みたいになってんじゃないわよ!」
「アルマジロの死骸って言うな! 負けたんだから落ち込むだろ! お前だって見たろ、あの飛車切りを! 未来の定跡アーカイブにない手を指されて、俺は手も足も出なかったんだぞ!」
「手も足も出なかったんじゃないわよ! あんたが自分で手足を引っ込めて、亀みたいに甲羅の中に逃げ込んだんでしょ!」
「逃げ込んでなんかいない! 俺は必死に読んだ! 自玉を中段へ進めて、相手の射線を外そうと足掻いたんだ!」
「足掻き方が浅いのよ! 相手の才能にビビり散らかして、頭のメモリの半分を恐怖で埋め尽くしてたじゃないの!」
「ビビるに決まってるだろ!!」
清麿は思わずちゃぶ台をバンッと両手で叩き、叫んでいた。
六畳間の空気が、ビリリと震える。
「あいつは十九歳なんだぞ! 俺が二十六歳で奨励会を追われて、四年も無為に過ごして、三十一歳になってようやく四段になったのに……あいつは十代で、すでに将棋界の未来を背負ってる本物の天才なんだ! 俺みたいな落ちこぼれが、未来のチートアイテムを借りてようやく並んでただけの偽物が、本物の才能に敵うわけないだろッ!!」
胸の奥底に溜まりに溜まっていた毒が、一気に濁流となって溢れ出た。
叫んだ瞬間、自分の情けなさに喉の奥が焼けつくように痛んだ。
だが、言わずにはいられなかった。
星野蓮の眩しすぎる笑顔。一切の邪気のない純粋な敬意。それが、清麿自身の凡庸さを、これ以上ないほど惨めに照らし出していたのだから。
六畳間に、やかんの沸騰するシュンシュンという乾いた音だけが響いた。
和令はコンロの火を止めると、粗末な湯呑みに熱湯を注ぎ、ドン、とちゃぶ台の中央に叩きつけるように置いた。
中に入っていたのは、スーパーの見切り品の生姜をすりおろした、白濁した生姜湯だった。
少女は湯呑みを置いた手を引かず、そのまま真っ直ぐに清麿の胸ぐらを鷲掴みにした。
「…………っ!?」
至近距離に迫る、和令の顔。
その大きな瞳の奥に、かつてないほどの激しい怒りと、そして痛切な炎が燃え盛っていた。
「才能なんて言葉で、片付けるなッッ!!!!」
耳元で炸裂した怒号に、清麿の息が止まった。
「才能、才能、才能……! 負けるたびにその便利な言葉を引っ張り出してきて、自分を慰めてんじゃないわよ、この大馬鹿先祖!!」
「和令……」
「十九歳だから何よ!? 天才だから何よ!? 相手が才能に溢れてたら、負けた理由を全部相手のせいにできるわけ!? 『あいつは天才だから仕方ない』って言えば、あんたの惨めなプライドが守られるとでも思ってんの!?」
和令の細い指先が、清麿のワイシャツの襟をギリギリと締め上げる。
その肩が、激しく震えていた。
「私だってそうだったわよ……!!」
少女の喉から、血を吐くような叫びが漏れ出た。
「西暦二三二六年の世界でね……! 私の周りにいたプロ候補生たちは、みんな私より若くて、みんな私より頭の回転が速くて、何千万局の定跡を私より完璧に暗記してたわよ! 私が何百時間泣きながら盤に向かっても、あいつらは鼻歌交じりに私をボコボコにして笑ってたわ!」
和令の瞳に、大粒の涙が盛り上がっていく。
「そのたびに私は思ったわよ! 『あいつらは才能があるからだ』『私は頭が悪いから勝てないんだ』って! そうやって才能のせいにして、努力の足りなさを誤魔化して、勝負から逃げ出して……最後には三百年も前の時代に逃げてきたんじゃないのよッ!!」
和令は清麿の胸元を力任せに突き放した。
清麿の背中が、壁にドスンとぶつかる。
「でもね、清麿! あんたは逃げなかったでしょ!!」
和令は両手で自らの太ももを力任せに叩きながら、涙声で訴えかけてきた。
「編入試験の第三局、北条戦! 相手が鉄壁の受けでガチガチに固めてきた時、三百年後のアーカイブに答えなんてなかったじゃない! それでもあんたは、自分の頭で六十手目の桂馬の踏み込みを見つけ出して勝ったでしょ! 第五局の相良戦だって、自玉が即死する恐怖に耐えて、自分の読みで飛車を叩き込んでプロの扉をこじ開けたじゃないの!!」
和令の言葉が、清麿の凍りついていた心臓に、熱い杭のように打ち込まれていく。
「星野蓮が飛車を切ったあの瞬間、あんたは何を考えてたのよ!? アーカイブにない手が出てきた瞬間、パニックになって、相手の気迫に怯えて、『飛車を取っておけば安全だ』って日和ったんでしょ!? 相手が天才だったから負けたんじゃないわよ! あんたが盤の上で、自分の頭で読むことを放棄したから負けたのよッ!!」
――ガツンと、頭を鈍器で殴られたような衝撃が走った。
息が詰まり、言葉が出なかった。
そうだ。
星野が飛車を中央に叩き落としたあの五十手目。
アーカイブの画面が真っ赤なノイズに包まれた瞬間、自分は何を思ったか。
(悪手だ。飛車を取れば、先手が駒得で優勢になるはずだ)
そうやって、未来の理論や形勢判断の損得に縋りつき、相手が放ってきた狂気じみた勝負手の「真の狙い」を、自分の頭で深く掘り下げることを怠ったのだ。
相手の直感を恐れ、盤上の混沌から目を逸らし、「安全そうな駒得」という逃げ水に飛びついた。
その結果、自陣の連携を自ら乱し、星野の猛攻の踏み台を作ってしまった。
才能の差ではない。
極限の局面において、命を削って盤上の真理に踏み込む「覚悟の差」だったのだ。
「……負けた理由を、一つずつ探しなさいよ」
和令は袖口で乱暴に目元の涙を拭うと、腰のホルダーから透明な薄型端末を引き抜いた。
震える指先で画面を操作すると、空中に青白い立体ホログラムが展開される。
そこに浮かび上がったのは、先ほど終局したばかりの、竜将戦予選二回戦の盤面だった。
「三百年後の完全定跡なんて、ただの道具よ。道具に振り回されて、自分の目を曇らせてどうすんのよ。……ほら、座りなさい、雑魚先祖」
和令はちゃぶ台の前にドカリと正座し、盤上の五十手目――星野が飛車を叩き込んできた局面を指差した。
「ここよ。この飛車を安易に取らずに、自陣の銀を引いて相手の角の射線をあらかじめ遮断していたら、どうなってたと思う?」
「え……?」
「見なさいよ。相手が飛車を切ってきたってことは、後手陣の守備駒は完全に枯渇してるのよ。大駒を取ることに目を奪われず、自陣の急所を手堅く塞いでおけば、相手の攻めは完全に息切れして、こちらの反撃が最短で刺さってたはずなのよ!」
和令が空中で駒を動かす。
青白い光の軌跡が、清麿の視界に鮮烈な手順を描き出していく。
「あ……」
清麿の喉から、掠れた声が漏れた。
見えた。
星野の野生の直感は、決して無敵の魔法などではなかった。
自陣を火の海にする覚悟で放った、紙一重の勝負手。
もし自分が恐怖に呑まれず、冷静に相手の狙いを見抜き、その勢いをいなす一手を選んでいれば――勝てていたのだ。
勝機は、確かに自分の掌の中にあった。
それを手放したのは、星野の才能のせいではない。自分自身の心の脆さのせいだった。
「……和令」
清麿はゆっくりと立ち上がり、ちゃぶ台の前へと歩み寄った。
膝の上の拳をぎゅっと握りしめる。
胸の奥底で渦巻いていた冷たい絶望の泥が、熱い悔しさと、そして勝負師としての闘志へと塗り替わっていくのを感じていた。
「悪かった。……俺が、甘かったよ」
「当たり前でしょ! 私の胃袋と神経をどれだけすり減らせば気が済むのよ!」
「才能なんて言葉で逃げてた。……あいつが天才なら、俺は泥水を啜って、あいつの数千倍、盤に向き合ってやる」
清麿はちゃぶ台の横に置かれていた駒箱を掴み取ると、盤上にガラガラと豪快に黄楊の駒をぶちまけた。
「もう一回だ、和令。初手から並べ直すぞ。星野が指してきたすべての手の意味を、俺自身の頭で解剖し尽くすんだ」
和令は呆然と、盤上の駒を見つめた。
それから――少女の唇が、ツンと生意気に吊り上がった。
「……ふん。言われなくても、そのつもりよ」
和令は生姜湯を一気に飲み干すと、湯呑みをコトンと置き、盤の向こう側に腰を据えた。
「いい!? 今夜は朝まで寝かせないからね! 星野蓮の直感を三百年後の論理とあんたの泥臭い読みで完全に包囲する迎撃パターンを、脳みそが沸騰するまで叩き込んであげるんだから!」
「望むところだ! いくらでも付き合ってやるよ!」
冷え切った冬の六畳間に、パチリ、パチリと乾いた駒音が力強く響き始めた。
才能の壁に打ちのめされ、己の弱さを骨の髄まで知った夜。
だが、男はもう、盤の前から逃げ出すことはなかった。
敗北を糧にして、真の強さを手に入れるための、二人の長い長い夜が、静かに更けていった。
読んでいただきありがとうございます。
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