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『未来の将棋は暗記ゲーでした~30歳でプロを諦めた元奨励会三段、300年後の子孫に「必勝定跡」を叩き込まれて無双する~』   作者: 月神世一


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EP 6

『未来の答えが通じない天才』

 一月最後の朝、千駄ヶ谷の空は凍てつくような白銀の雲に覆われ、街全体が巨大な氷室のように冷え切っていた。

 木造アパートの薄いガラス戸を震わせる木枯らしの音が、容赦なく室内に忍び込み、石油ストーブの細い温もりを吹き散らしていく。

 加藤清麿は、ちゃぶ台の前に正座し、ネクタイを締める指先を微かに震わせていた。

 寒さのせいだけではない。

 胸の奥底で、かつて三段リーグの過酷なプレッシャーに晒されていた時と同じ、息苦しいほどの緊張と武者震いが渦巻いていた。

 本日行われるのは、最高峰のタイトル戦へと続く道――『竜将戦』予選トーナメント二回戦。

 対戦相手は、先週の桐生研究会で規格外の野生の直感を見せつけられた十九歳の若き新人王、星野蓮四段だった。

 枕元のスマートフォンを点灯させると、大手ポータルサイトの将棋欄には、朝からセンセーショナルな見出しがトップを飾っていた。

『【竜将戦予選】31歳オールドルーキー加藤清麿四段 vs 19歳新人王・星野蓮四段!』

『世代と常識を超えた大一番! 未来を視る男と、野生の天才が激突!』

 専門掲示板の実況スレッドは、対局開始の二時間以上前から信じられない速度で加速している。

『今日の竜将戦予選、事実上の決勝戦レベルの注目度だろ』

『加藤四段の時限爆弾定跡が勝つか、星野四段の神がかり的な直感が勝つか』

『矢野六段を完封した加藤なら、星野の荒々しい攻めも受け潰せるんじゃないか?』

『いや、星野の才能は次元が違う。現代のAIすら置いてけぼりにする感覚派だぞ』

『オールドルーキーが本物の天才の壁に跳ね返されるのが目に見えてる……』

 世間の過熱する視線を画面越しに受け止めながら、清麿は深く息を吐き出した。

 研究会での敗北が、今も網膜の奥に鮮烈に焼き付いて離れない。

 三百年後の完全定跡アーカイブすらも「無意味な愚手」として切り捨てていたはずの一手を起点に、自陣を鮮やかに切り裂いていったあの少年の笑顔。

 公式戦の舞台で、果たして自分はあの怪物を受け止めることができるのか。

 膝の上の拳が、知らず知らずのうちに白くなるほど握りしめられていた。

「……ちょっと。朝からネクタイを首吊り縄みたいに握りしめて、何のお通夜の準備をしてんのよ、雑魚先祖」

 背後の台所から、アルミ鍋の蓋をカチャリと威勢よく鳴らしながら、聞き慣れた容赦のない甲高い声が飛んできた。

 銀と藍色のライダースーツの袖をたくし上げ、千代の花柄エプロンをきゅっと腰に巻いた和令が、湯気を立てる盆を両手で持って六畳間に入ってくる。

「首吊り縄じゃない。……ネクタイの結び目を整えてたんだよ」

「嘘おっしゃい。顔の筋肉が石膏像みたいに凍りついて、瞳孔が怯えた小動物みたいに収縮してるわよ! 十九歳のガキに一度練習で負けたくらいで、プロ棋士のプライドをドブに捨ててんじゃないわよ!」

「ドブに捨ててなんかない! 少しは緊張もするだろ、今日の相手はあの星野四段なんだぞ!」

「星野蓮が何よ! 十九歳なんて、三百年後の世界じゃ義務教育の定跡暗記テストで赤点取って泣きべそかいてる年齢だって言ったでしょ!」

「三百年後基準で語るなって何度も言ってるだろ! 現代の将棋界じゃ、タイトル戦線に一番近い正真正銘の怪物なんだよ!」

「怪物だろうが何だろうが、こちとら西暦二三二六年の完全定跡アーカイブを積んでんのよ! 相手が直感で暴れる前に、序盤で手足を縛り上げて窒息させてやればいいのよ!」

「それが簡単にできれば苦労しないって言ってるんだよ! あいつは定跡の外側から盤面を引っ掻き回してくるんだぞ!」

「引っ掻き回される前に、盤面全体に三百年後の鉄骨を打ち込んでガチガチに固めなさいって言ってんのよ! ほら、朝ごはん! 五分で胃袋に流し込みなさい!」

 ドン、とちゃぶ台の中央に置かれたのは、熱々の根菜の味噌汁、スーパーの見切り品の納豆、そして――皿の上でぷっくりと黄金色に膨らんだ、特大のオムレツだった。

「……あれ? オムレツ……! 卵、また使ってくれたのか?」

「十九歳の天才にビビり散らかして胃液を逆流させてる情けない先祖のための、超特大先行投資よ! 一個二十円の超高級資源を二個も投じて、脳内のセロトニン分泌を極限まで活性化させてあげたんだから!」

「超特大先行投資か……。相変わらず口は悪いけど、本当に助かるよ。いただきます!」

「ふん! 感謝するなら味わってないで、素早くブドウ糖とタンパク質を前頭葉に送り込みなさい! 星野蓮の野生の直感に呑まれて無様に負けて帰ってきたら、今夜は生卵の殻を粉末にして納豆に混ぜて食べさせる刑だからね!」

「刑罰のグレードが上がってんじゃないか! 絶対にまともな顔で帰ってくるよ!」

 清麿は箸を割り、オムレツのふんわりとした黄色い幕を割った。

 中からとろりと溢れ出す半熟の黄身の濃厚なコクと、バターの香ばしい風味が口いっぱいに広がり、冷えた五臓六腑をじんわりと温めていく。

 和令は小さく鼻を鳴らしながら、腰のホルダーから透明な薄型端末を引き抜き、空中に青白い立体ホログラムを展開した。

「食べながら頭に叩き込みなさい、清麿。今日の作戦は『パターンD・絶対不敗の受け潰し』と『パターンC・長手数の時限爆弾』のハイブリッドよ」

 空中に、星野の思考パターンをシミュレートした複雑な樹形図が立ち上がる。

「星野蓮の強みは、盤上の駒を生き物のように躍動させて、相手の読みを撹乱するスピード感よ。だからこそ、序盤は三百年後の完全定跡で相手の攻め筋をあらかじめミリ単位で封鎖して、絶対に主導権を渡さないこと。序盤で圧倒的なリードを奪って、相手の直感を盤上の檻に閉じ込めるのよ!」

「序盤で、完全に封じ込める……」

「そうよ! どれほど天才だろうと、駒が動けない暗闇の中じゃ跳躍なんてできないわ。……いい、清麿? 歴史の重みを見せつけてやりなさい!」

「……ああ。行ってくる!」

 背中をバチンと強烈に叩かれ、清麿は熱い気迫を胸に宿して千駄ヶ谷の決戦場へと歩み出した。

 午前九時四十分。

 日本将棋会館・四階、特別対局室。

 静まり返った青畳の上に、冬の冷房が止まっているにもかかわらず、肌がチリチリと痺れるような緊張感が満ちていた。

 上座には、すでに星野蓮四段が座していた。

 先週の砕けたダッフルコート姿とは一転し、仕立てのいい紺色のスーツに身を包んでいる。

 だが、その膝の上で組まれた手や、真っ直ぐに盤面を見つめる瞳からは、研究会で見せていた無邪気な子どものような空気は完全に削ぎ落とされていた。

 十九歳の若さで幾多の修羅場をくぐり抜けてきた、本物の勝負師の静寂。

 清麿が入室し、下座に進んで深々と一礼すると、星野は涼やかな目元をわずかに細め、頭を下げ返した。

「加藤先生、よろしくお願いいたします」

「よろしくお願いします、星野先生」

 声は穏やかだったが、視線が交錯した瞬間、見えない火花が散るのを清麿は肌で感じていた。

「定刻となりました。竜将戦予選トーナメント二回戦、対局を開始してください」

 記録係の声が凛と響き渡る。

 振り駒の結果、清麿の先手、星野の後手番と決まった。

 清麿は指先に全神経を集中させ、初手を放った。

 ――バシィッ!

 ▲7六歩。

 星野も間髪を入れずに応じる。

 ――パシッ。

 △3四歩。

 局面は、互いに飛車先を突き合う『相掛かり』へと進展していった。

 序盤の二十手、清麿の手つきには寸分の迷いもなかった。

 和令とともに叩き込んだ、三百年後の完全定跡アーカイブの英知。

 自陣の金銀をスクラムのように低く連結させ、相手の攻め駒の前進ルートをあらかじめ遮断しながら、飛車の利きを縦横に通していく。

 星野が中央へ銀を繰り出そうとすれば、清麿は先回りして歩を突き、その進路を寸前で塞ぐ。

 星野が角を転回させようとすれば、清麿は自陣の玉をふわりと中段へ寄せ、角の斜めの射線を完全に空振りさせる。

 完璧だった。

 三百年後の論理の刃が、星野蓮の放つ鋭い仕掛けの芽を、生まれる端からすべて刈り取っていく。

 午後を回り、二階の控室。

 中継モニターを見つめる棋士たちと、記者の神崎澪の間で、感嘆の声が上がっていた。

「……加藤四段、凄まじい序盤の完成度ですね」

 解説の若手棋士が身を乗り出し、息を呑む。

「星野四段の代名詞である自在な駒の躍動が、完全に抑え込まれている。AIの評価値はすでに先手――加藤四段にプラス八百点。ほぼ勝勢に近いリードを、序盤のわずか四十手で築き上げていますよ」

「ええ……」

 神崎澪は手帳のペンを走らせながら、画面の中の清麿を見つめていた。

「オールドルーキーの緻密な研究が、若き天才の野生を完全に檻の中に閉じ込めている。このまま手堅く押し切れば、加藤四段の快勝譜になりますね」

 ネット中継のコメント欄も、熱狂に沸き返っていた。

『加藤四段の序盤、マジで異次元すぎる!』

『評価値プラス800点!? あの新人王が手も足も出ないぞ』

『未来の定跡ってレベルじゃねえぞ、星野四段が完全に窒息してる』

『このままいけば大金星だ! 加藤四段勝てるぞ!』

 盤面は、清麿の完全な支配下にあるはずだった。

 相手に反撃の隙間はなく、先手陣の守りは鉄壁。

 このまま手堅く駒得を広げ、相手の攻めを切らせれば、確実に勝利を掴み取れる――。

 ――しかし。

 対局室の青畳の上で、加藤清麿の心臓は、なぜか激しい警報を鳴らし続けていた。

(なんだ……? この不気味な静けさは……)

 盤の向こう側。

 圧倒的な劣勢に追い込まれ、持ち時間も残り少なくなっているはずの星野蓮が、苦しそうに顔を歪めるでもなく、焦るでもなく――ただ、じっと盤面を見つめていたのだ。

 その瞳の奥に宿っていたのは、絶望ではない。

 玩具箱をひっくり返す直前の子どものような、純粋で、底知れぬ歓喜の光だった。

「……すごいなあ、加藤先生」

 ふっと、少年の唇から、掠れた呟きがこぼれ落ちた。

「僕の指したい手、全部消されちゃいました。……こんなに息苦しくて、完璧な将棋、僕、生まれて初めて見ましたよ」

「星野先生……?」

「でもね、先生」

 星野蓮が、ゆっくりと顔を上げた。

 その双眸に、青白い炎が宿る。

「将棋って……正しい手だけを並べるゲームじゃないですよね」

 五十手を迎えた瞬間だった。

 星野蓮の右手が、盤上へと振り下ろされた。

 ――ズドォォォォンッ!!

 特別対局室の空気を真っ二つに引き裂くような、凄まじい駒音。

 星野が放ったのは、自陣の飛車を、清麿の守備駒の利きが幾重にも交差する中央の死地へと、無造作に叩き落とす一手だった!

 大駒のタダ捨て!

 現代の将棋AIの計算であれば、評価値が一瞬でマイナス二千点へと暴落する、完全なる「大暴発」「大悪手」!

 清麿の脳裏の『完全定跡アーカイブ』が、激しい赤いノイズを散らし、プツリと機能を停止した。

『該当データなし:論理崩壊』

(な……んだ、この手は……!?)

 清麿の背筋を、冷たい氷水が突き抜けた。

 飛車を取れば、先手の駒得は決定的になる。どう見ても後手の自滅にしか見えない。

 だが――清麿の生身の勝負師としての本能が、喉元に氷の刃を突きつけられたような痛烈な危機感を叫んでいた。

(飛車を……取っていいのか? いや、取らなければ相手の攻めが直撃する……!)

 清麿は奥歯を噛み締め、相手の飛車をもぎ取った。

 ――バシィッ!

 その瞬間、星野蓮の顔から、少年の仮面が完全に剥ぎ取られた。

「――あはっ」

 鈴を転がすような、無邪気で獰猛な笑い声。

 ――バチィィィンッ!!

 星野がノータイムで放ったのは、自陣の底深くに眠っていた一枚の銀を、味方の守りを完全に放棄して清麿の玉陣の退路へと放り投げる、前代未聞の「毒の種まき」だった!

「…………っ!?」

 清麿の視界が、白く染まりかけた。

 見落としていた。

 飛車を取るために動かした清麿の守備駒。

 その駒が動いたことによって、先ほどまで鉄壁だったはずの自陣の連携に、ほんのわずか、髪の毛一本分の「歪み」が生じていた。

 AIの計算では見えない、三百年後のデータでも枝刈りされていた、人間同士の肉体がぶつかり合う混沌の中でしか発生しない、極小の隙間。

 星野蓮は、自らの飛車という最大の肉を相手に食らわせることで、清麿の完璧な陣形に、自らの直感だけを頼りにその「隙間」をこじ開けたのだ!

 そこからの盤上は、もはや将棋の定跡書に載るような世界ではなかった。

 星野の猛攻が始まった。

 ――ズドンッ!

 歩を叩いて玉を危険地帯へ誘い出す。

 ――バシィッ!

 角を自ら捨てて、清麿の金銀の連携を内側から爆破する。

 三百年後のアーカイブは、何も教えてくれない。画面は真っ暗なノイズに包まれ、過去何万局のデータも、この暴風雨のような盤面の前には何の役にも立たなかった。

(読め……! 俺自身の頭で、この怪物を読み切れ!!)

 清麿は汗まみれの額を抑え、猛烈な速度で脳内将棋盤を回転させた。

 相手の玉は薄い。自玉の受けを一手でも凌ぎ切れば、こちらの勝ち筋はある!

 清麿は泥水を啜るようにして、自陣の玉を中段へと進め、相手の射線を外そうと必死に足掻いた。

 ――だが。

 星野蓮の指先は、清麿の死に物狂いの抵抗の、さらにその数歩先を軽やかに飛び越えていた。

「加藤先生、そこですよね」

 星野の瞳が、青く透き通って輝く。

 ――パチリ。

 星野が打ち下ろしたのは、派手な大技ではなかった。

 清麿の玉の逃げ道を、そっと優しく塞ぐような、あまりにも静かで、あまりにも残酷な一枚の歩だった。

「…………っ、あ……」

 清麿の喉から、掠れた声が漏れ出た。

 止まった。

 玉の足が、完全に止まった。

 中段へ逃げ出したはずの清麿の玉が、気がつけば星野の張り巡らせた見えない糸に絡め取られ、逃げ場のない断崖絶壁に立たされていた。

 一手負け。

 どんなに受けの手を探しても、自玉への即詰み筋が、冷徹な真理として盤上に浮かび上がっていた。

 九十六手目。

 星野蓮は手元に残っていた最後の一枚の金を、清麿の玉の頭上へと、そっと静かに打ち下ろした。

 ――パチリ。

 静寂を震わせる、あまりにも澄み切った駒音。

 逃げ場なしの、完全なる即詰み。

「…………」

 対局室から、すべての音が消え去った。

 加藤清麿は盤上に両手を落としたまま、ガタガタと激しく肩を震わせていた。

 序盤は完璧だった。三百年後の知識で相手を圧倒し、勝勢を築いていたはずだった。

 それなのに――相手のたった一度の、理屈を超えた直感の跳躍の前に、築き上げたはずの城が、砂の城のように跡形もなく崩れ去ってしまったのだ。

 才能の差。

 埋めようのない、絶対的な「野生の深さ」。

 清麿は畳に額を擦りつけるようにして、震える声で頭を下げた。

「……参り、ました」

 九十六手。

 竜将戦予選トーナメント二回戦。

 加藤清麿四段は、十九歳の若き天才・星野蓮四段の前に、完膚なきまでの逆転負けを喫した。

「……ありがとうございました!」

 星野蓮が深々と頭を下げた。

 その顔には、勝利を誇る色も、相手を見下す色も微塵もなかった。

 少年は頬を紅潮させ、息を弾ませながら、心からの尊敬を込めて清麿の顔を見つめていた。

「加藤先生、本当に凄かったです……! 序盤のあの陣形、僕、どこから手をつけていいか分からなくて、本当に泣きそうでした! あそこで飛車を切る勝負手を指せなかったら、僕の完敗でした!」

 星野は身を乗り出し、両手で自分の膝を叩きながら、眩い瞳で訴えかけてきた。

「先生、また……また絶対に、僕と指してください! 公式戦でも、研究会でもいいです! 先生ともっともっと、盤の上で話したいです!」

「……ああ。ありがとう、星野先生」

 清麿は辛うじて唇を動かし、一礼を返した。

 だが、その心臓は、氷の底に沈められたように冷たく凍りついていた。

 少年の純粋な敬意が、敗れた己の無力さを、これ以上ないほど残酷に浮き彫りにしていた。

*

 感想戦と取材を終え、将棋会館の外へ出た頃には、千駄ヶ谷の街は底冷えのする深夜の闇に沈んでいた。

 吹き抜ける木枯らしが、汗に濡れた清麿のワイシャツを容赦なく凍えさせていく。

 通りを渡り、鳩森八幡宮の境内へと足を踏み入れると、街灯の薄明かりの下、銀と藍色のライダースーツを着た少女が立っていた。

 加藤和令。

 彼女は両腕を組み、冬風に黒髪を激しく乱されながら、じっと清麿を待っていた。

 清麿は和令の前で足を止め、俯いたまま、小さく息を吐き出した。

「……負けたよ」

 掠れた、痛切な声だった。

「三百年後の定跡で……序盤は完璧にリードを奪ってたんだ。でも、相手の飛車切りから……全部、引っ掻き回された。アーカイブのデータなんて、何一つ通用しなかった……」

 清麿の指先が、悔しさに激しく震える。

「あいつは……本物の天才だ。俺なんかがどれだけ未来の答えを暗記したって……あんな化け物には、届かないんじゃないのか……」

 弱音。

 挫折の泥沼から這い上がってきたはずの男の口から、再びこぼれ落ちた絶望の言葉。

 だが、和令は何も言わなかった。

 いつものように怒鳴り散らすことも、「雑魚先祖!」と嘲笑うこともなく、ただ静かに、夜の闇よりも深い瞳で、打ちのめされた清麿の姿を見つめていた。

 凍てつくような冬風が、二人の間を音もなく吹き抜けていく。

 未来の答えすら通じない本物の天才を前にして、加藤清麿の魂は、いま再び暗黒の深淵へと叩き落とされようとしていた。

読んでいただきありがとうございます。

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