EP 5
『天才・星野蓮』
一月も下旬に入った千駄ヶ谷は、一年の中で最も寒さの厳しい季節を迎えていた。
木造アパートの六畳間のガラス戸は、朝の冷気で白く曇り、指先で触れると凍りつくような冷たさを返してくる。
加藤清麿は、ちゃぶ台の前に正座し、桐生彰吾五段の研究会へ向かう準備を整えながら、手元のスマートフォンに表示された棋士名鑑の画面をじっと見つめていた。
『星野蓮四段 十九歳』
画面に映る青年の写真は、仕立ての良すぎるスーツに着られているような、あどけなさを残した丸顔だった。
だが、その人懐っこい目元の奥には、盤上の宇宙を丸ごと飲み込んでしまいそうな、底知れぬ透明な光が宿っている。
史上最年少での奨励会入会。十五歳で三段リーグ入りを果たし、わずか二期で四段昇段。
プロ入り後も破竹の勢いで勝ち星を重ね、昨年末には全若手棋士の頂点を決める『新人王戦』を、十九歳という驚異的な若さで制覇していた。
現代将棋界において「次の絶対王者」「藤堂竜将の後継者」と誰もが声を揃えて呼ぶ、正真正銘の神童。
三十一歳という年齢で、泥水を啜り、四年間の空白を経て裏口の編入試験から這い上がってきた自分とは、対極の位置にいる太陽のような存在だった。
(星野蓮……。今日、この男が研究会に来るのか)
先週、棋士室で桐生から告げられたその名が、胸の奥底で鈍い痛みを伴う武者震いを呼び起こしていた。
かつて二十六歳で三段リーグを追われた日、清麿の心を完全にへし折ったのは、こうした「若き天才たち」が放つ、無慈悲なまでの才能の輝きだったのだから。
「……ちょっと。朝からスマホを睨みつけて、何のお通夜の喪主気取りよ、雑魚先祖」
背後の台所から、アルミ鍋の蓋をカチャリと威勢よく鳴らしながら、容赦のない甲高い声が飛んできた。
銀と藍色のライダースーツの袖をたくし上げ、千代の花柄エプロンをきゅっと腰に巻いた和令が、湯気を立てる盆を両手で持って六畳間に入ってくる。
「お通夜じゃない。……今日、桐生先生の研究会に来る星野四段のデータを確認してたんだよ」
「確認するのは結構だけど、スマホを握る指先がプルプル震えて、画面の照度センサーが誤作動してんじゃないの!」
「震えてない! 少し冷え込んでるだけだ! だいたい十九歳で新人王になった怪物と指すんだぞ。緊張しない方がおかしいだろ」
「怪物が何よ! 十九歳なんて、三百年後の世界じゃまだ義務教育の定跡暗記テストで赤点取って泣きべそかいてる年齢よ!」
「三百年後基準で語るなっていつも言ってるだろ! 現代の十九歳は、脳のシナプスが一番活性化してて、終盤の読みのスピードが光速の領域に達してる化け物なんだよ!」
「光速だろうが何だろうが、こちとら三百年分の完全定跡を積んでんのよ! 相手が若かろうが天才だろうが、序盤でバグらせて頭から湯気を吹かせてやればいいでしょ!」
「星野四段はそんな単純な研究派じゃない! 桐生先生も言ってたろ、現代のAIすら飛び越える直感派だって!」
「直感なんてただの脳内バグの産物よ! 科学的な最適解の前にひれ伏させてやるわ! ほら、朝ごはん! 五分で胃袋に放り込みなさい!」
ドン、とちゃぶ台の中央に置かれたのは、熱々の白菜と油揚げの味噌汁、スーパーの見切り品の納豆、そして――皿の上でこんがりと香ばしく焼き上げられた、見事な厚みのある卵焼きだった。
「……お、卵焼き! 今日も卵、使ってくれたのか?」
「天才アレルギーを発症して胃酸を逆流させてる情けない先祖のための、精神防壁用特別配給よ! 一個二十円の超高級資源を二個も投入して、トリプトファンとコリンを脳細胞に送り届けてあげたんだから!」
「精神防壁ね……。相変わらず口は悪いけど、本当に助かるよ。いただきます!」
「ふん! 感謝するなら味わってないで、素早くブドウ糖とタンパク質を前頭葉に送り込みなさい! 十九歳のガキに気圧されて縮こまって帰ってきたら、今夜は生卵の殻をすり鉢で粉末にして飲ませる刑だからね!」
「どんな拷問だよ! 絶対にまともな顔で帰ってくるよ!」
清麿は箸を割り、焼きたての卵焼きを一口運んだ。
出汁の効いた優しい甘みと、ふわりとした食感が口いっぱいに広がる。
和令は小さく鼻を鳴らしながら、腰のホルダーから透明な薄型端末を引き抜き、空中に青白い立体ホログラムを展開した。
「食べながら聞きなさい、清麿。星野蓮の過去五十局の棋譜を解析したけど……確かに、こいつは現代の他のプロとは毛色が違うわ」
空中に、星野の勝率グラフと複雑な局面樹形図が浮かび上がる。
「現代のプロ棋士は、誰もが将棋AIの推奨手を中心に研究を組み立ててる。でも、この星野蓮は違う。AIの評価値がマイナス二百点や三百点を示すような『疑問手』を、序盤から平気で放り込んでくるのよ」
「疑問手を……? なぜそんな手を指すんだ?」
「形勢の損得じゃないのよ。盤上の駒の躍動感とか、相手が一番嫌がるリズムとか、そういう『人間的な直感』だけで盤面を混沌に塗り替えてくるの。……三百年後の教科書にも載ってるわ。『定跡の枠に収まらない、野生の天才』ってね」
和令の整った顔立ちが、珍しく真剣な低さを帯びていた。
「いい、清麿? 三百年後の完全定跡は、相手が『合理的な最善手』を指してくることを前提に作られてる。……相手が理屈の外側から殴りかかってきた時、頼りになるのはあんた自身の『勝負師としての野生』よ」
「俺自身の……野生か」
清麿は味噌汁を飲み干し、力強く頷いた。
「分かってる。……行ってくるよ」
背中をバチンと力任せに叩かれ、清麿は冷え切った冬の空気の中へと駆け出した。
午後一時。
日本将棋会館・二階、棋士室。
重厚な木製ドアを開けると、先週と同じように熱気と激しい駒音が渦巻いていた。
だが、部屋の中央、長テーブルの周囲に漂う空気は、先週とは明らかに異なっていた。
十数名の棋士たちが、遠巻きにひとつの対局盤を見つめ、息を呑んでいる。
盤を挟んでいたのは、主催者の桐生彰吾五段と――グレーのダッフルコートを着崩した、小柄な少年だった。
「……参りました」
桐生が、苦笑混じりに深く頭を下げる。
盤上には、桐生の精緻な研究陣を真っ二つに引き裂くように、一枚のと金が深く突き刺さっていた。
「いやあ、恐れ入ったよ、星野君。あの局面から飛車を切って自陣の銀を突っ込んでくるなんて、僕のパソコンの検討画面には一秒たりとも映らなかったよ」
「えへへ、桐生先生の研究が堅すぎたんで、盤の上をぐちゃぐちゃに引っ掻き回したくなっちゃったんです」
少年の声は、驚くほど高く、無邪気だった。
星野蓮四段、十九歳。
寝癖のついた柔らかそうな黒髪を指先でポリポリと掻きながら、屈託のない笑顔を浮かべている。
傲慢さも、他人を見下すような毒気も、何一つない。
ただ、近所の公園で泥遊びをしてきた子どものような、純粋無垢な明るさだけがそこにあった。
「あ、加藤先生!」
桐生が顔を上げ、入り口に立つ清麿に気づいた。
「お待ちしていましたよ。ご紹介します、こちらが――」
「加藤清麿先生ですよね!」
桐生の言葉を遮るように、星野蓮がパッと椅子から立ち上がった。
少年は目をキラキラと輝かせ、小走りに清麿の前まで駆け寄ってくると、深々と勢いよく頭を下げた。
「初めまして! 星野蓮です! 僕、加藤先生にお会いできるのをすっごく楽しみにしてたんです!」
「え……あ、初めまして。加藤です……」
予想もしなかった熱烈な歓迎に、清麿は思わず気圧されてたじろいだ。
てっきり、二十代の若手エリートのように、冷ややかな敵意やプロのプライドをぶつけられるものと身構えていたのだ。
「僕、先生の編入試験の棋譜も、先日の矢野先生との対局も、何回も並べ直したんですよ!」
星野は興奮を隠せない様子で、身振り手振りを交えながら早口で捲し立てた。
「特に矢野戦の七十五手目の底歩! あれ、本当に凄かったです! 現代のソフトの評価値は全然反応しないのに、盤面全体が呼吸を止めたみたいに静かになって……鳥肌が立ちました! 先生の頭の中には、僕たちの知らない新しい将棋の景色が見えてるんですよね!?」
「……」
清麿は言葉を失った。
十九歳の少年の瞳には、編入試験組に対する偏見も、元奨励会員を見下す色も、微塵も存在しなかった。
ただ、素晴らしい将棋を指す人間に対する、どこまでも純粋で、貪欲なまでの敬意と憧憬。
(なんて……澄んだ目をしてるんだ)
毒気がないからこそ、その奥にある「将棋への底知れぬ愛」が、巨大な怪物のように清麿の心臓を威圧してくる。
「星野君、加藤四段が圧倒されてるじゃないか」
桐生が苦笑しながら間に入り、長テーブルの盤を指し示した。
「どうですか、加藤さん。せっかく星野君も来てくれたことですし……お二人で、一番指してみませんか?」
「えっ、いいんですか!?」
星野がパッと顔を輝かせ、期待に満ちた瞳で清麿を見上げる。
「加藤先生、ぜひお願いします! 先生の将棋、僕の体で直接味わってみたいんです!」
逃げ場はなかった。
清麿は唾を飲み込み、ネクタイをキュッと締め直した。
「……喜んで。よろしく頼むよ、星野四段」
「はいっ!」
棋士室の中央、本榧の盤を挟んで二人が腰を下ろす。
周囲の若手棋士たちが、息を詰めて盤を取り囲んだ。
三十一歳の編入プロと、十九歳の若き新人王。
公式戦ではない研究対局でありながら、部屋の空気が一瞬でピンと張り詰める。
駒箱から駒を取り出し、並べ終えた盤上。
振り駒の結果、清麿の先手番となった。
「よろしくお願いします!」
両者が一礼を交わす。
清麿は指先に全神経を集中させ、初手を放った。
――バシィッ!
▲7六歩。
星野も間髪を入れずに応じる。
――パシッ。
△3四歩。
局面は、互いに飛車先を突く『相掛かり』模様へと進展していった。
序盤の十数手、清麿は脳裏に『完全定跡アーカイブ』を展開した。
相手の研究を外すための、三百年後の洗練された駒組み。
自陣の玉をあらかじめ中段へ逃がし、相手の攻め足を空振りさせる『パターンA』の構想を盤上に描き出していく。
並のプロであれば、この現代の常識から外れた陣形に戸惑い、持ち時間を削られるはずだった。
――しかし。
二十手を迎えた瞬間、星野蓮の指先が、信じられない軌道を描いた。
パチリ。
星野が指したのは、現代の定跡書にも、AIの候補手にも、そして三百年後の完全定跡アーカイブの樹形図にすら存在しない一手だった。
自陣の角を、味方の銀の進路を自ら塞ぐような、中央の窮屈な位置へとふわりと転回させたのだ。
(……な、なんだこの手は……!?)
清麿の心臓が、ドキンと嫌な音を立てて跳ね上がった。
脳内のアーカイブを猛烈な速度で検索する。
だが――画面には『該当データなし』の赤いノイズが激しく明滅するだけだった。
三百年後のスーパーAIの論理計算において、自らの攻め駒の効率を著しく落とすこの一手は、「無意味な自縄自縛の愚手」として、初期段階で完全に切り捨てられていたのだ。
(悪手だ……! こんな手、成立するはずがない!)
清麿は自陣の歩を突き、星野の窮屈な角を咎めるべく、手堅く陣形を締め上げにかかった。
――しかし。
五手、十手と進むごとに、清麿の背筋を冷たい氷水が流れ落ちていった。
星野の指し手には、AI特有の冷徹な計算の匂いがまったくしなかった。
損得勘定を完全に無視し、自陣の駒を生き物のように自由に躍動させていく。
窮屈に見えた角は、いつの間にか清麿の玉の急所を斜め遠くから射抜き、塞がれたはずの銀は、自ら歩の前に躍り出て清麿の飛車先を軽やかに跳ね返していた。
清麿が三百年後の論理で相手の首を絞めようと網を投げるたび、星野はその網の結び目そのものを素手で引きちぎるように、常識外れの妙手を盤上に咲かせていくのだ。
「……どうして、そんな手を指せるんだ」
清麿の口から、掠れた声が無意識に漏れ出た。
額から、ツッと一筋の冷や汗が畳の上に落ちる。
盤の向こうで、星野蓮は頬杖をつき、無邪気な笑顔で盤面を見つめていた。
「どうしてって……未来の正解なんて、僕には分かりませんよ」
星野は、手元に残っていた一枚の桂馬を指先で弄びながら、楽しそうに笑った。
「でも、僕……この局面が、すっごく好きなんです」
――バシィッ!!
星野が放ったのは、自らの玉をノーガードで敵陣に晒しながら、清麿の玉の喉元へ直接桂馬を叩き込む、狂気にも似た閃きの一手だった。
その瞬間、盤上のすべての駒が、星野の手のひらの上で歌い狂っているかのような錯覚を覚えた。
理屈ではない。暗記でもない。
盤上の宇宙と完全に一体化した者だけが繰り出せる、神の悪戯のような直感の刃。
(化け物だ……)
清麿の指先が、膝の上で小刻みに震えた。
三百年分の知識というチートを持ちながら、目の前にいる十九歳の少年が放つ圧倒的な「才能」の光に、清麿の魂は完全に呑まれかけていた。
手数にして、八十六手。
研究対局は、星野の鮮やかな寄せが決まり、清麿の玉が即詰みに討ち取られて幕を閉じた。
「…………参り、ました」
清麿が絞り出すように頭を下げると、星野はパッと顔をほころばせ、深々と頭を下げ返した。
「ありがとうございました! 加藤先生、すっごく楽しかったです! 中盤のあの受けの厚み、僕、一手間違えたら即死してました!」
勝って誇るでもなく、ただ純粋に対局の楽しさを噛み締める星野の笑顔。
その眩しさが、清麿の胸の奥底をチリチリと焼け焦がしていく。
周囲を取り囲んでいた棋士たちからも、感嘆の息が漏れていた。
「星野君の感覚、相変わらず人間離れしてるな……」
「加藤四段の構想も凄まじかったが、それを野生の直感でねじ伏せるか……」
その時だった。
盤面を片付けようとしていた二人の横で、手元のスマートフォンを見ていた桐生彰吾が、小さく声を上げた。
「……おや。加藤さん、星野君」
「え? なんですか、桐生先生?」
星野が首を傾げる。
桐生は眼鏡の奥の目を細め、二人の顔を交互に見つめながら、静かに告げた。
「連盟から、次の公式戦の手合割が発表されましたよ」
桐生が口にしたその言葉に、棋士室の全員が息を呑んだ。
「来週の『竜将戦』予選トーナメント二回戦……。加藤清麿四段 対 星野蓮四段の対局が、正式に決定しました」
「えっ……!?」
清麿の全身の血液が、音を立てて逆流した。
向かい側に座る星野蓮が、目を丸くし、それから――少年の無邪気な顔から、獰猛な勝負師の笑みがゆっくりと溢れ出した。
「公式戦で……加藤先生と!」
星野の双眸に、青白い炎がメラメラと燃え上がる。
「先生、来週……本気でぶつかり合いましょうね!」
「……ああ」
清麿は辛うじて頷いた。
だが、その指先は、恐怖と武者震いで激しく震え続けていた。
三百年後の未来知識すらも軽やかに飛び越えていく、十九歳の天才・星野蓮。
プロの世界の本当の怪物を前にして、三十一歳のオールドルーキーは、いま最大の試練の舞台へと引きずり出されようとしていた。
読んでいただきありがとうございます。
面白いと思っていただけましたら、★評価やブックマークで応援していただけると励みになります。




