↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『未来の将棋は暗記ゲーでした~30歳でプロを諦めた元奨励会三段、300年後の子孫に「必勝定跡」を叩き込まれて無双する~』   作者: 月神世一


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
59/74

EP 4

『勝利の研究室』

 一月中旬の千駄ヶ谷は、底冷えのする真冬の乾いた空気に包まれていた。

 木造アパートの六畳間では、石油ストーブの小さな青い炎がかすかに揺れ、やかんの注ぎ口から立ち上る白い湯気が、ガラス戸の隙間から吹き込む冷気と混ざり合って結露を作っている。

 加藤清麿は、ちゃぶ台の上に置いたスマートフォンの画面を、食い入るように見つめていた。

 プロデビュー戦となった棋王戦予選一回戦。

 「千駄ヶ谷の毒蛇」と恐れられる百戦錬磨のベテラン・矢野健三六段を相手に、百十二手で手に入れたあの初勝利から数日。

 将棋界における清麿への評価は、単なる「編入試験を勝ち抜いたオールドルーキー」という枠組みを完全に突破し、未知の領域へと突入していた。

『オールドルーキー・加藤清麿四段、プロ初戦で矢野六段を完封!』

『千駄ヶ谷の毒蛇を窒息させた「超長手数の時限爆弾」――棋士室に激震』

『現代AIの評価値すら追いつかない深淵の構想! 加藤四段の将棋は何を見ているのか』

 専門誌やネットの将棋ポータルサイトには、あの対局の終盤図が大々的に掲載され、解説の棋士たちが一様に舌を巻いていた。

 派手な大駒の切り捨てや奇襲の急所突きではない。二十手以上も前に自陣の底深くに打ち込まれた一枚の歩、何気なく突き捨てられた端歩が、終盤に至って相手の玉陣を逃げ場のない檻へと変貌させた、あまりにも冷徹で美しい棋理。

 専門掲示板の実況スレッドでも、棋譜の解析が連日お祭り騒ぎのように続けられている。

『矢野六段が手も足も出ずに窒息死したの、何回見ても鳥肌が立つ』

『現代の最新ソフトで何億ノード読ませても、序盤のあの底歩は候補手に出てこないぞ』

『加藤四段の脳内には、俺たちの知らない将棋の未来図が丸ごと入ってるんじゃないか』

 世間の過熱する熱狂。

 だが、清麿の胸を締め付けていたのは、そうした賞賛の言葉ではなかった。

 画面に届いていた、何通もの未読メール――。

 差出人の欄には、桐生彰吾五段をはじめとする、千駄ヶ谷の若手・中堅棋士たちの名前がずらりと並んでいた。

『加藤先生、先日の矢野戦、拝見しました。もしよろしければ、我々の研究会に参加されませんか?』

『水曜日の午後、会館の棋士室で定期研究会を行っています。ぜひ加藤四段のお知恵を拝借したい』

 複数の有力な研究グループからの、熱烈な参加要請だった。

「……はあ」

 思わず、深く重いため息が口からこぼれ落ちる。

 人付き合いが、極端に苦手だった。

 奨励会時代、四段に上がれず年齢制限に怯えていた頃から、清麿は他人と群れることを避け、一人で盤に向かい続けてきた。

 挫折し、二十六歳で退会してからの四年問は、社会のすべてから逃げ隠れるように孤独の底に引きこもっていたのだ。

 いまさら、プロ棋士たちの華やかな研究の輪に飛び込んで、何を話せばいいのか。

 三百年後の知識というチートを隠しながら、彼らの鋭い詮索の視線に耐えられるのか――。

 胃のあたりがきゅっと縮み上がるようなプレッシャーに、清麿は思わず頭を抱えた。

「……ちょっと。朝っぱらからスマホを爆発物みたいに遠巻きに眺めて、何のお通夜を開いてんのよ、雑魚先祖」

 背後の台所から、アルミ鍋の蓋をカチャリと威勢よく鳴らしながら、聞き慣れた容赦のない甲高い声が飛んできた。

 銀と藍色のライダースーツの袖をたくし上げ、千代の花柄エプロンをきゅっと腰に巻いた和令が、湯気を立てる盆を両手で持って六畳間に入ってくる。

「お通夜じゃない。……研究会の誘いが、何通も届いてるんだよ」

「研究会? プロ棋士たちの研究グループでしょ。何が不満なのよ、願ったり叶ったりじゃない!」

「願ったり叶ったりなわけあるか! 俺は三十一歳の新四段だぞ。二十代前半の若いエリートたちの中に、元奨励会三段のオッサンが飛び込んでみろ、浮きまくって息が詰まるに決まってるだろ」

「オッサンとか年齢を言い訳にして逃げんじゃないわよ! 精神年齢が思春期の中学生レベルで止まってんのはあんたの勝手だけど、プロ棋士の義務を放棄する気!?」

「義務って……研究会は強制参加じゃない! 一人でアパートで研究してたって、お前の端末があるんだから十分だろ!」

「三百年後の端末があれば十分? あんた、矢野戦で一勝したくらいで、脳みそのシワが全部ツルツルに伸びきったんじゃないの!?」

 和令は盆をちゃぶ台にドンと置くと、両手を腰に当てて仁王立ちし、冷ややかなジト目を突き刺してきた。

「いい、清麿? 三百年後のアーカイブは確かに最強よ。でもね、現代のプロ棋士たちが命を削ってパソコンを何百時間も回して絞り出してる『生身の知性』を甘く見んじゃないわよ!」

「甘くなんて見てない! むしろ怖がってるんだよ!」

「怖がるくらいなら、他人の研究を全部吸い取って自分の血肉にしなさいって言ってんのよ! 殻に閉じこもった原始人に、藤堂竜将の首が取れると思ってんの!?」

「う……っ、それは……」

「反論できないならさっさと朝ごはんを食べなさい! 五分で胃袋に放り込んで、将棋会館へ出頭よ!」

「出頭って言うな、犯罪者じゃないんだから! ……だいたい、今朝のメニューは何なんだよ」

 文句を言い合いながらも、清麿はちゃぶ台の前に正座し直した。

 置かれた盆の上には、豆腐とワカメの熱々の味噌汁、スーパーの見切り品の長ネギを使った甘辛炒め、そして――こんがりと絶妙な焦げ目をまとった、厚焼きの卵焼きが鎮座していた。

「……お、卵焼き! 卵、また使ってくれたのか?」

「社交不安障害を発症しかけてる情けない先祖のための、精神安定用特別配給よ! 一個二十円の超高級資源を二個も投じて、トリプトファンとビタミンB群を脳細胞に送り届けてあげたんじゃないの!」

「トリプトファンまで計算してるのかよ……。相変わらずシビアだけど、めちゃくちゃ美味そうだ。いただきます」

「ふん! 美味そうじゃなくて、さっさと前頭葉に糖分とタンパク質を充填しなさい! 研究会で借りてきた猫みたいに隅っこで縮こまってたら、今夜は生卵の殻をバリバリ噛み砕かせる刑だからね!」

「殻は絶対に食わないからな! ……でも、行ってくるよ」

 熱い味噌汁をすすり、出汁の利いた卵焼きを噛み締める。

 和令の容赦のない叱責の裏側にある、「現代の棋士たちから学べ」という真摯な意図が、胸の奥にじんわりと熱く染み渡っていった。

 午後一時。

 日本将棋会館・二階、棋士室。

 重厚な木製ドアを開けると、外界の刺すような寒気とは打って変わり、熱気と激しい駒音が渦を巻いていた。

 ――バシィッ!

 ――パチパチパチッ!

 十数台の本榧盤が並ぶ室内の中央、長テーブルの上には、三台のハイスペックノートパソコンが冷却ファンを高らかに唸らせていた。

 画面には、最新の将棋AIが弾き出す評価値の折れ線グラフと、複雑怪奇な樹形図が目まぐるしく明滅している。

 そのモニターを取り囲むように、五、六名の若手・中堅棋士たちが、額を突き合わせて激しい議論を交わしていた。

「……いや、やはりおかしいですよ」

 腕を組み、険しい表情で画面を睨みつけていたのは、二十代半ばの気鋭の四段だった。

「矢野戦の七十五手目、加藤四段が指したあの底歩……。うちの並列ワークステーションで五千万局面読ませても、候補手の四番目にすら上がってこない。なのに、そこから二十手進めると、評価値が突如として先手に五百点跳ね上がるんだ」

「ええ。現代のソフトの評価関数は、自陣の駒の連結や手番の効率を優先しますからね」

 眼鏡のブリッジを指先で押し上げながら、冷静な声で応じたのは、桐生彰吾五段だった。

「加藤四段の一手は、AIの短中期的な枝刈りの盲点を完全に突いている。相手に無理攻めをさせず、自らの手番を最小限に消費しながら、二十手先の急所をあらかじめ埋めているんだ。……まるで、この局面の終着駅を、最初からすべて知っているかのようにね」

「人間業じゃないですよ……。一体どういう脳内の構造をしてるんだ」

 若手棋士たちが呻くように息を吐き出す。

 その熱烈な研究の渦の真ん中に、自分の指した一手がある。

 入り口に立ち尽くしていた清麿は、唾を飲み込み、そっと足を踏み出した。

「……あの、失礼します」

 清麿が声をかけた瞬間、棋士室の空気がピタリと止まった。

 一斉に振り返る視線。

 桐生五段がパッと顔を上げ、その端整な口元に歓喜の笑みを浮かべた。

「おお、加藤四段! 来てくれたんですね!」

「桐生先生……メールをいただきまして。お邪魔でなければ、少し見学させていただこうかと……」

「お邪魔なわけがありませんよ! まさに今、あなたの指した棋譜をみんなで解剖していたところなんです!」

 桐生に手招きされ、清麿は恐る恐るテーブルの前へと進み出た。

 取り囲む若手棋士たちの瞳には、疑惑や軽蔑の色など微塵もなかった。

 そこにあったのは、未知の真理を目の当たりにした研究者特有の、純粋無垢で、貪欲なまでの「知的好奇心」だった。

「加藤先生、初めまして! C級2組の佐伯です!」

「あの七十五手目の底歩、どういう大局観から着想されたんですか!?」

「矢野六段の受けを崩すのに、なぜ中央ではなく端から圧力をかけようと判断されたんでしょうか!?」

 矢継ぎ早に飛んでくる質問の嵐。

 清麿は圧倒されそうになりながらも、ネクタイを軽く緩め、盤上の駒を見つめた。

 三百年後の完全定跡アーカイブ。

 だが、今の清麿は、ただ未来の答えを丸暗記して吐き出しているだけの男ではない。

 片桐八段に敗れ、和令と夜を徹して検証し、藤堂竜将の端歩突きに戦慄し、編入試験の極限の泥沼を自分の頭で歩き抜いてきた。

 なぜ未来のAIがその手を最善としたのか、その「理由」が、いまの清麿には生身の言葉として理解できていた。

「……矢野先生の矢倉は、正面からの攻めに対しては鉄壁です」

 清麿は駒箱から駒を取り、盤上にカチリと置いた。

「ですが、金銀を低く構えて受けに専念している分、自陣の玉の横への逃げ道が狭くなっています。正面から叩き割ろうとすれば反動で自滅しますが……相手が動かないなら、こちらが手を渡しながら、二十手先に相手の桂馬が跳ねられないよう、あらかじめ自陣の底を塞いでおく。そうすれば、相手は自分から陣形を崩すしかなくなるんです」

「……相手に、自分から崩れさせる?」

 佐伯四段が息を呑み、盤面を凝視する。

「手番を争う現代将棋のスピード競争とは真逆の……『間合いの支配』か」

 桐生五段が深く、重く頷いた。

「恐ろしい大局観だ。AIが示す数値の奥にある、人間同士の息遣いを計算し尽くしている……」

 そこからの二時間は、清麿にとって奇跡のような時間だった。

 盤を挟み、駒を動かし、互いの読みをぶつけ合う。

「いや、ここで後手がこう反発してきたらどうします?」

「それなら、角を引いて自陣の厚みで受け止められます」

「なるほど! そこが繋がるのか!」

 年齢差も、ブランクも、経歴の違いも、盤の前では何の意味も持たなかった。

 ただ一手の一手を深く掘り下げ、将棋という無限の宇宙の真理を追い求める仲間たち。

 かつて奨励会を去った日、自分は永遠にこの場所から追放されたのだと思っていた。

 だが――自分を迎え入れてくれたこの部屋の熱気の中に、確かに自分の「居場所」があった。

 胸の奥底から熱いものが込み上げ、清麿の頬が自然と綻んでいく。

(将棋を指していて……よかった)

 心から、そう思えた。

「加藤さん」

 検討が一段落した夕刻、桐生が温かい缶コーヒーを清麿に差し出しながら、穏やかに微笑みかけた。

「どうですか。私たちの研究会、毎週水曜日にここでやっています。正式に参加していただけませんか?」

「……俺なんかで、いいんですか?」

「あなただから来てほしいんですよ。あなたの持っている異次元の大局観は、私たちにとっても最高の刺激になります。……ライバルとして、お互いを高め合いましょう」

 桐生の真っ直ぐな瞳。

 清麿は缶コーヒーを両手で強く握りしめ、深々と頭を下げた。

「喜んで……参加させていただきます! よろしくお願いいたします!」

「よかった」

 桐生は嬉しそうに目を細め、それから悪戯っぽく口元を歪めた。

「あ、そうそう。来週の研究会には、もう一人、強烈なメンバーが参加する予定なんですよ」

「強烈なメンバー……ですか?」

「ええ。先日の新人王戦を最年少で制した、今もっとも勢いのある若手です」

 桐生が口にしたその名前に、棋士室の空気がわずかにざわめいた。

「星野蓮四段、十九歳。……現代のAI定跡すら軽やかに飛び越えていく、本物の『天才』ですよ」

 星野蓮――。

 その名を聞いた瞬間、清麿の背筋を、冷たく鋭い戦慄が駆け抜けた。

 名鑑で目にした、十九歳という圧倒的な若さ。

 プロ棋界の荒波を突き進む清麿の前に、未来の定跡すら通用しないかもしれない規格外の怪物が、いま静かにその姿を現そうとしていた。

読んでいただきありがとうございます。

面白いと思っていただけましたら、★評価やブックマークで応援していただけると励みになります。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。