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『未来の将棋は暗記ゲーでした~30歳でプロを諦めた元奨励会三段、300年後の子孫に「必勝定跡」を叩き込まれて無双する~』   作者: 月神世一


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EP 3

『プロとしての初勝利』

 年が明けた一月上旬の千駄ヶ谷は、肌を切り裂くような乾いた寒風が吹き抜け、鳩森八幡宮の境内には初詣の名残である微かな線香の匂いが漂っていた。

 木造アパートの六畳間に差し込む冬の朝日は白く鋭く、障子の桟の影を畳の上に直線となって刻みつけている。

 加藤清麿は、仕立ての新しい濃紺のスーツに腕を通し、鏡の前で襟元を整えていた。

 内ポケットに手を入れると、黒革の棋士手帳が指先に触れる。表紙の裏に刻まれた自分だけの棋士番号の凹凸をなぞるたび、胸の奥底で小さな火照りが広がっていくようだった。

 今日、一月八日。

 第五十期棋王戦予選一回戦。

 加藤清麿四段としての、正真正銘の公式戦デビュー戦だった。

 アマチュア大会を勝ち抜いて手に入れた特別参加枠でもなければ、背水の陣で挑んだ編入試験でもない。

 負けても即座にすべてを失うわけではない。だが、勝てば賞金と対局料を得て、次の予選へと駒を進める――将棋を職業とする一人のプロ棋士として盤に向かう、最初の一歩。

 枕元に置いたスマートフォンを点灯させると、大手ポータルサイトの将棋欄には、すでに本日の対局カードが大きく掲げられていた。

『編入試験合格のオールドルーキー・加藤清麿四段、本日プロデビュー戦!』

『対するは「千駄ヶ谷の毒蛇」矢野健三六段! 初戦からベテランの洗礼か』

 専門掲示板の実況スレッドも、早朝から激しい書き込みで流れている。

『加藤四段、いよいよ今日からプロか』

『初戦の相手が矢野六段って一番嫌なところ引いたな。若手の勢いを潰す名人だぞ』

『アマチュア時代のような奇襲が、あの老獪な毒蛇に通じるかどうか……』

 世間の視線には、期待と同時に冷ややかな懐疑が混ざり合っていた。

 だが、その文字を見つめる清麿の胸に、かつてのような恐怖や焦りは微塵もなかった。

 深く息を吸い込むと、肺の奥まで澄み切った冷気が満ちていく。

「……ちょっと。朝からネクタイの結び目を十回も撫で回して、何のナルシスト劇場よ、雑魚先祖」

 背後の台所から、アルミ鍋の蓋をカチャリと威勢よく鳴らしながら、聞き慣れた甲高い声が飛んできた。

 銀と藍色のライダースーツの袖をたくし上げ、千代の花柄エプロンをきゅっと腰に巻いた和令が、湯気を立てる盆を両手で持って六畳間に入ってくる。

「ナルシスト劇場じゃない。プロ初戦だから、身だしなみを整えてたんだよ」

「身だしなみより脳細胞を整えなさいよ! 顔の皮膚が緊張で一ミリ引き攣って、口角がだらしなく下がってるわよ」

「引き攣ってない! だいたい初戦なんだから、少しは身が引き締まる思い配分があってもいいだろ」

「引き締まるのは結構だけど、相手は『千駄ヶ谷の毒蛇』こと矢野六段よ! ちょっとでも呑まれたら、盤上の隅っこに追い詰められて丸呑みにされるんだからね!」

「縁起でもない例え方をするな! 昨日の夜までみっちり研究しただろ!」

「研究はしたけど、あんたが実戦でビビって指を震わせたら全部水の泡でしょ! ほら、朝ごはん! 五分で胃袋に放り込みなさい!」

 ドン、とちゃぶ台の中央に置かれたのは、湯気を立ち上らせる大根と油揚げの味噌汁、スーパーの見切り品の納豆、そして――小皿の上で美しく黄金色に輝く、半熟の温泉卵だった。

「……お、温泉卵! 卵、また使ってくれたのか?」

「プロ初戦の特別先行投資よ! 一個二十円の超高級資源を、あんたのシナプス活性化のために特別配給してあげたんじゃないの!」

「先行投資か……。相変わらず素直じゃないけど、ありがとう。いただきます!」

「ふん! 感謝するなら味わってないで、素早くブドウ糖とタンパク質を前頭葉に送り込みなさい! 矢野六段のネチネチした持久戦に付き合わされたら、夕方には脳みそが干からびるんだから!」

「分かってるよ! 省エネで最短粉砕を狙うんだろ!」

「言ったわね! 無様に初戦黒星を喫して帰ってきたら、今夜は生米をポリポリ噛み砕かせながら正座十時間の刑だからね!」

「刑罰のバリエーションが陰湿すぎるんだよ! ……行ってくる!」

 背中をバチンと力任せに叩かれ、清麿は熱い気迫を全身に漲らせてアパートを飛び出した。

 午前九時四十分。

 日本将棋会館・四階、特別対局室。

 青畳の上には、外界の刺すような寒気を遮断しながらも、どこか肌を刺すような冷涼な空気が張り詰めていた。

 上座には、すでに本日の対戦相手が座していた。

 矢野健三六段、四十八歳。

 年季の入った黒の羽織袴を身に纏い、丸めた背中をわずかに揺らしながら、手元の扇子をゆっくりと弄んでいる。

 細い糸のような目、深く刻まれた目尻の皺。

 順位戦B級2組に長年居座り、何十人もの若手有望株を泥沼の持久戦で絞め殺してきた「千駄ヶ谷の毒蛇」。

 清麿が入室し、下座に進んで深々と一礼すると、矢野は細い目をさらに細め、低くしゃがれた声で口を開いた。

「加藤さん……いや、加藤四段。プロ入り、おめでとうございます」

「ありがとうございます。本日はよろしくお願いいたします」

「編入試験の棋譜、拝見しましたよ。若手の手厚い攻めを、見事な構想で切り裂いておられた。……実に華々しい、結構なことです」

 矢野は薄い唇の端を吊り上げ、パチンと静かに扇子を閉じた。

「ですがね、加藤四段。ここは千駄ヶ谷の畳の上です。アマチュアの勢いや派手な新手だけで渡っていけるほど、プロの世界は甘くありませんよ。……じっくり、指させてもらいましょう」

 悪意ではない。

 四半世紀にわたり勝負の泥沼を這いずり回ってきたベテランの、逃げ場のない重圧。

 清麿は背筋を真っ直ぐに伸ばし、深く息を吐き出した。

(受けて立つ。俺はもう、逃げ出す側の人間じゃない)

「定刻となりました。第五十期棋王戦予選一回戦、対局を開始してください」

 記録係の声が凛と響き渡る。

 振り駒の結果、清麿の先手番と決まった。

 清麿は指先に全神経を集中させ、初手を放った。

 ――バシィッ!

 ▲7六歩。

 矢野も間髪を入れずに応じる。

 ――パシッ。

 △3四歩。

 序盤の十数手、局面は矢野の得意とする『矢倉』模様へと進展していった。

 だが、矢野の指し手は、現代のAIが推奨するような早い仕掛けを完全に拒絶していた。

 自陣の金銀を一段、二段と低く構え、角の射線をあらかじめ遮断し、徹底的に相手の攻めを誘う「千日手も辞さない泥沼の持久戦」の構え。

 清麿の頭の中にある『完全定跡アーカイブ』が、青白い光となって脳裏に立ち上がる。

 だが――矢野の陣形は、未来のAIから見ても「形勢はほぼ互角だが、打開しようと無理に踏み込めば反動で自玉が危険に晒される」という、極めて嫌らしいバランスを保っていた。

 三十手、四十手。

 対局室に響くのは、重く湿った駒音だけだった。

 矢野は扇子を鳴らすこともなく、まるで水底の岩のように動かない。

 清麿が仕掛けの糸口を探ろうと歩を突けば、矢野は自陣の玉を逆方向へと一歩逃がし、間合いを外してくる。

 息の詰まるような、ジリジリとした押し合い。

 午後を回り、二階の控室。

 中継モニターを見つめていた棋士たちと、記者の神崎澪の間で、緊張した囁きが交わされていた。

「……矢野六段、完全に自分の土俵ですね」

 若手の棋士が腕を組み、唸るように言った。

「加藤四段が得意とする序盤の切れ味鋭いカウンターが、一切刺さらない。矢野先生のあのネチネチした受けは、現代のAIの評価値すら狂わせる人間的な泥沼です。焦れて無理攻めを仕掛けた瞬間、毒蛇の牙が喉元に刺さるぞ」

「ええ……」

 神崎澪は手帳を強く握りしめ、画面の中の清麿の表情を凝視していた。

「プロデビュー戦という極限の重圧。世間は加藤四段の快進撃を期待していますが、この老獪な罠をどう突破するのかしら……」

 ネット中継のコメント欄も、不穏な空気に包まれていた。

『矢野六段の矢倉、マジで動かない!』

『加藤四段の手が止まったぞ。攻めどころがまったくない』

『プロデビュー戦でいきなり千駄ヶ谷の毒蛇に捕まるとか、運が悪すぎるだろ』

『ここを突破できなきゃ、プロでの居場所なんて作れないぞ! 耐えてくれ!』

 六十手を過ぎた局面。

 対局室の静寂の中、矢野六段が、手元の銀を一段引き締め、完璧な防空壕を完成させた。

 先手から仕掛けるルートは、完全に塞がれているように見えた。

 普通なら、ここで焦れて強引な攻めを敢行し、自滅へと突き進む場面だ。

 かつての清麿なら、編入試験の第二局や第四局のように、パニックを起こして罠に飛び込んでいたかもしれない。

 ――しかし。

 加藤清麿の瞳は、湖底のように静まり返っていた。

(焦るな。盤面全体を見るんだ)

 清麿は目を閉じ、深く息を吐き出した。

 脳裏に浮かび上がるのは、和令の端末にあった三百年後の戦術コンセプト――『パターンC:超長手数の時限爆弾』の哲学だった。

『相手が最も堅いと自負してるその囲いね、無理に正面から叩き割ろうとしちゃダメなのよ。外側から見えない糸を一本ずつ巻きつけて、二十手先に相手が自分から息苦しくなるように仕向けるのよ!』

 和令の声が、鼓膜の奥で鮮明に響く。

 清麿は目を開けた。

(相手の盾を壊すんじゃない。……相手がじっと動かないその隙に、盤面全体の呼吸を完全に支配するんだ!)

 清麿の右手が、静かに動いた。

 ――パチリ。

 清麿が放ったのは、敵陣へ突撃する手でも、大駒を打ち込む派手な手でもなかった。

 自陣の底深くに眠っていた歩を、ただ一筋、静かに押し上げる、地味極まりない一手だった。

「……ん?」

 矢野の細い眉が、わずかにピクリと動いた。

 手番の浪費に見える一手。攻めにも守りにも直接響かない、緩手にすら思える間合いの調整。

 だが――清麿の指先は、止まらなかった。

 矢野が自陣の金をわずかに動かして牽制すると、清麿は反対側の端歩をそっと突き捨てる。

 矢野がそれに応じると、今度は自陣の玉を、斜め後ろの最も安全な深奥へと一歩だけ潜らせる。

 二手、五手、十手。

 現代の将棋理論からすれば、単なる手待ちの応酬に見える手順。

 しかし――七十五手を過ぎた頃、矢野健三の額に、じわりと冷たい脂汗が滲み始めた。

(……な、なんだ? この圧迫感は……!?)

 矢野の指先が、扇子の上で微かに震えた。

 清麿は一度として強引な攻めを仕掛けてきていない。大駒の切り捨てや奇襲の急所突きなど、何一つ指してこないのだ。

 それなのに――矢野が自慢の金銀で組み上げた鉄壁の陣形が、前にも進めず、横にも動けず、気がつけば自らの玉の退路を塞ぐ「巨大な檻」へと変わり果てていた。

 先ほど清麿が突いた自陣の底歩が、矢野の桂馬の跳躍ルートを完全に消滅させている。

 先ほど清麿が突き捨てた端歩の空間から、清麿の香車が遠く敵陣の隙間を冷徹に射抜いている。

 二十手前に清麿が盤上に蒔いた小石の数々が、いま、寸分の狂いもない連携となって矢野の玉陣を締め上げていたのだ。

「馬鹿な……! こんな長手数の網を、盤上で織り上げられるはずがない……!」

 矢野の喉から、掠れた呻きが漏れた。

 考慮時間のタイマーが無慈悲に持ち時間を削り取っていく。

 矢野は奥歯を噛み締め、苦肉の策として自慢の盾を崩し、清麿の玉へ向けて捨て身の反撃を繰り出した。

 ――ズドンッ!!

 飛車を清麿の玉陣の急所へ叩き込む、乾坤一擲の勝負手!

 控室のモニター前で、棋士たちが息を呑む。

「矢野先生の反撃だ! 毒蛇の最後の一撃!」

 しかし――。

 清麿の瞳は、揺るがなかった。

(見える……! 和令と夜を徹して解いた、あの地獄の詰将棋の盤面だ!)

 清麿の脳内将棋盤が、凄まじい摩擦熱を上げて回転する。

 相手の剥き出しの執念。

 だが、今の清麿には、その暗闇を一歩ずつ手探りで歩き、最短の光を手繰り寄せる「本物の終盤力」が備わっていた。

 ――パシッ。

 玉を自ら一歩だけ中段へ進め、相手の飛車の射線をあらかじめ配置していた銀の厚みで吸い取る。

 王手が続かない。

 そして――清麿の反撃の刃が閃いた。

 大駒を捨て、手番を奪い、敵玉の退路をミリ単位で塞ぎにいく。

 手数にして、わずか七手。

 百十二手目。

 清麿は手元に残っていた一枚の金を、矢野の玉の頭上へと、そっと静かに打ち下ろした。

 ――パチリ。

 逃げ場のない、完全なる即詰み。

「…………」

 対局室に、長い沈黙が落ちた。

 矢野健三六段は盤上に両手をついたまま、微動だにしなくなった。

 やがて、深く息を吐き出すと、深々と頭を下げた。

「……参り、ました」

 百十二手。

 千駄ヶ谷の毒蛇と呼ばれたベテランが、己の誇るすべての受けを凌駕され、完敗を認めた瞬間だった。

「……ありがとうございました」

 清麿が深く一礼を返した。

 その瞬間、全身の筋肉から熱い汗が噴き出し、胸の奥底から込み上げる熱い塊が視界を潤ませた。

 記録係が公式記録用紙にペンを走らせる。

『第五十期棋王戦予選一回戦 勝者:加藤清麿四段』

 プロとしての、初勝利。

 アマチュアの挑戦者としてではなく、日本将棋連盟所属のプロ棋士として手に入れた、最初の白星だった。

 勝って当たり前などではない。

 命を削り、泥水を啜り、自分の足で盤上の真理を掴み取った男だけが味わえる、至高の喜びがそこにあった。

*

 感想戦を終え、将棋会館の外へ出ると、千駄ヶ谷の街は美しい紫紺の夜空に包まれていた。

 凍てつくような冬風が、火照りきった清麿の頬を心地よく撫でていく。

 通りを渡り、鳩森八幡宮の境内へと足を踏み入れると、街灯の薄明かりの下、銀と藍色のサマージャケットを着た少女が立っていた。

 加藤和令。

 彼女は両腕を組み、冬風に黒髪をなびかせながら、じっと清麿を待っていた。

 清麿の足音が近づくと、和令はスッと顔を上げ、ツンと顎を上に向けて鼻から大きく息を噴き出した。

「……遅かったじゃないの、雑魚先祖」

「百十二手までかかったんだ。……でも、勝ったぞ」

「知ってるわよ。連盟の速報、ずっとスマホで見てたんだから」

 和令はぷいと横を向いた。

 だが、その大きな瞳の奥には、隠しきれない歓喜と誇らしさが、涙のように潤んで揺らめいていた。

「相手のネチネチした矢倉を、超長手数の時限爆弾で内側から窒息させるなんてね。……まあ、プロ初戦としては、九十八点はあげてもいいわよ」

「九十八点! 残りの二点は?」

「百手を超えて持ち時間をギリギリまで浪費したチキン減点よ! ほら、帰るわよ! 今夜は約束通り……いえ、初勝利のお祝いよ! スーパーで特売の豚肉を買って、豚キムチ鍋にしてあげるんだから!」

「豚キムチ鍋!? 最高じゃないか!」

「大喜びするんじゃないわよ、この単純先祖! プロとしての一勝目を挙げただけなんだからね!」

「ああ。ここからが、本当のスタートだ!」

 冬の夜空に、二人の明るい笑い声が力強く響き渡っていく。

 プロ棋士・加藤清麿四段の、真の伝説の第一歩が、いま堂々と刻まれたのだ。

読んでいただきありがとうございます。

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