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『未来の将棋は暗記ゲーでした~30歳でプロを諦めた元奨励会三段、300年後の子孫に「必勝定跡」を叩き込まれて無双する~』   作者: 月神世一


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EP 2

『30歳を過ぎた新四段』

 十二月下旬の朝、千駄ヶ谷の空を覆う冬雲の隙間から、凍てつくような白い光が差し込んでいた。

 築四十年の木造アパートの六畳間は、隙間風によって外気と変わらない冷気に満たされている。

 加藤清麿は、薄い敷布団の上に正座し、手元のスマートフォンと、昨日将棋連盟の事務局から支給されたばかりの『現役棋士名鑑』を交互に見比べていた。

 画面の中では、大手ネットニュースの特集記事が眩い見出しを掲げている。

『31歳のオールドルーキー誕生! 加藤清麿四段、異例のプロ編入』

『四年の空白を越えた元神童! 挫折を知る男の再起にファン熱狂』

 コメント欄には数千件の祝福や応援の言葉が溢れ、SNSのトレンドワードにも数日間にわたって清麿の名前が残り続けていた。

 だが、その華やかな熱狂から目を離し、手元の名鑑のページをめくった瞬間、清麿の胃の腑に冷たい鉛のような重みが沈み込んだ。

『宮坂真樹四段:二十歳』

『相良恭平四段:二十歳』

『北条圭介四段:二十一歳』

『神谷遼四段:二十二歳』

『星野蓮四段:十九歳』

 同じ「四段」の肩書きを持つ棋士たちの欄に並ぶ、暴力的なまでに若い数字。

 十代や二十歳そこそこで過酷な三段リーグを突破してきた若武者たちは、これから何十年という歳月をかけて、己の才能を研ぎ澄ませていく時間を持っている。

 一方で、自分はどうか。

『加藤清麿四段:三十一歳』

 同世代を見渡せば、かつて公式戦で激突した大場七段のように、すでに順位戦の上位やタイトル戦線で第一線を張っている男たちばかりだ。

 プロ棋界のピラミッドにおいて、自分は一番底辺の四段。来期から参加する順位戦も、最下層のC級2組からのスタートとなる。

 どれほど全勝で勝ち上がり続けたとしても、最高峰のA級に昇級するまでには最低でも五年、三十六歳になる。

 体力、視力、そして何より徹夜の長考に耐えうる脳のスタミナ――。

 プロになれた歓喜の向こう側に、三十一歳という年齢が突きつける冷徹な現実の壁が、巨大な影を落としていた。

「……はあ」

 思わず、白いため息が口からこぼれ出た、その瞬間だった。

 ――バァァァンッ!!

「ぐへぇっ!?」

 突如として、背中の中央へ容赦のない質量兵器が直撃した。

 畳の上を前転するように転がり、ちゃぶ台の脚に頭をぶつけそうになりながら、清麿は激痛の走る背中を押さえて跳ね起きた。

「な、何すんだよ! いきなりドロップキックかましやがって!」

「何すんだとは何事よ、雑魚先祖!」

 銀と藍色のライダースーツの袖をたくし上げ、仁王立ちした和令が、冷ややかなジト目を突き刺してきた。

「朝の七時から布団の上で猫背になって、どんよりした湿気まみれのため息を吐いてんじゃないわよ! 六畳間の酸素濃度が三パーセント低下したわ!」

「ため息くらい吐かせてくれよ! 名鑑を見てたら、改めて自分の年齢の重さに圧倒されてたんだよ!」

「年齢が何よ! 三十一歳なんて、三百年後の平均寿命から見たらまだ離乳食を卒業したばかりの赤ん坊同然よ!」

「三百年後基準で語るな! 現代の将棋界じゃ三十代はもうベテランの入り口なんだよ! 若い連中のスタミナや研究量と、どうやって渡り合えばいいんだよ!」

「渡り合うために、私がこうして生活改善プログラムを組んであげてるんでしょ! ほら、突っ立ってないで手を洗ってきなさい! 朝食を五分で摂取するわよ!」

「生活改善プログラムって……お前のそれ、ただの理不尽なスパルタ合宿だろ!」

「何がスパルタよ! 昨夜の就寝時間も十時半厳守で、スマホのブルーライトも私が強制遮断してあげたじゃない! 感謝して拝みなさい!」

「寝床に入って三分で端末のリモート機能で部屋の電気を全消しされたら、誰だって心臓が止まりそうになるわ! せめて本を読む時間くらい寄越せ!」

「寝る前の読書なんて前頭葉を無駄に刺激する愚行よ! プロ棋士たるもの、質の良いノンレム睡眠で脳内のシナプスを完全リカバリーさせるのが義務よ!」

「理屈は正論だけどやり方が強引すぎるんだよ! ……だいたい、今朝のメニューは何なんだよ」

 文句を言いながらも、清麿は手を洗い、ちゃぶ台の前に正座し直した。

 ドン、とちゃぶ台の中央に置かれた盆を見て、清麿は思わず目を丸くした。

 具沢山の豚汁、スーパーの見切り品のブロッコリーとトマトのサラダ、そして――焼き網で香ばしく焼かれた鮭の塩焼きに、小鉢には温泉卵が添えられていた。

「……おい、和令。これ……」

「なによ、文句あんの!? 三十代の新四段の脳細胞の老化を防止するために、オメガ3脂肪酸とビタミン、そして良質なアミノ酸を黄金比率で配合した特別メニューよ! 一個二十円の温泉卵も、プロアスリートの先行投資として特別配給してあげたんだから!」

「文句なんてあるわけないだろ……! めちゃくちゃ美味そうじゃないか」

「ふん! 美味そうじゃなくて、栄養素を細胞に叩き込むのよ! ほら、鮭の皮を残したら承知しないんだからね!」

「皮のコラーゲンまで指定してくるのかよ……。いただきます!」

 清麿は箸を取り、熱々の豚汁をすする。

 豚肉の甘みと根菜の出汁が、冷え切っていた胃袋を芯からじんわりと温めていく。

 香ばしい鮭の塩気と、とろりとした温泉卵の濃厚な黄身が白米に絡み、噛み締めるごとに力が湧き上がってくるようだった。

 和令は小さく鼻を鳴らしながら、ちゃぶ台の横で透明な薄型端末を操作していた。

「いい、清麿。あんたが若い棋士たちにビビる気持ちは、百歩譲って理解してあげるわ」

 空中に、青白い立体ホログラムが展開される。

 そこには、清麿のバイオリズムデータと、現代プロ棋士たちの勝率分布グラフが浮かび上がっていた。

「十代や二十代前半の棋士は、確かに瞬発力と長時間の終盤の読みの切れ味では驚異的よ。でもね、将棋は瞬発力だけで勝てるスポーツじゃないわ」

「……大局観と、経験か」

「そうよ。そして何より――あんたには、現代の誰一人として持ち得ない、三百年後の『完全定跡アーカイブ』があるのよ!」

 和令は人差し指をピシッと立て、画面をタップした。

「相手が何百時間かけて最新ソフトで研究してこようが、あんたの頭の中にはその数歩先を行く正解がすでにインプットされてるの。序盤で相手の研究を空振りさせれば、相手は慣れない中盤で膨大な脳のメモリを浪費するわ。そうすれば、終盤に入る頃には相手のスタミナは枯渇して、年齢差なんて完全にチャラになるのよ!」

「なるほどな……。相手に序盤で考えさせて、こちらの消費を最小限に抑えるわけか」

「当たり前でしょ! これぞ三百年後の省エネ勝負術よ! だから、年齢がどうこうなんて泣き言を吐いてる暇があったら、基礎体力を維持して、アーカイブの更新データを頭に叩き込みなさい!」

「分かったよ。……ありがとうな、和令」

「へ、変に素直に感謝するんじゃないわよ、気味が悪い! ほら、食べ終わったらストレッチ三十回よ!」

「食後すぐのストレッチは胃下垂になるだろ!」

 けたたましい掛け合いを終え、食器を片付けた後、清麿は再びスマートフォンの画面を開いた。

 将棋連盟の公式ポータルサイトには、年明けの公式戦トーナメントの組み合わせが確定し、トップニュースとして掲載されていた。

『第五十期・棋王戦予選一回戦』

『加藤清麿四段 対 矢野健三六段』

 対局日は、年明けの一月八日。

 矢野健三六段、四十八歳。

 順位戦B級2組に長年君臨し、「千駄ヶ谷の毒蛇」の異名を取る老獪なベテラン棋士だった。

 派手な攻めは一切見せず、相手の得意戦法をあえて受け止めながら、じわじわと嫌らしい小技を盤上に散りばめて相手を苛立たせ、泥沼の持久戦に引きずり込んで絞め殺す、生粋の職人肌。

 専門掲示板の実況スレッドでも、この対局カードは早くも大きな議論を呼んでいた。

『加藤四段のプロデビュー戦の相手、矢野六段かよ! 一番嫌な相手引いたな』

『編入試験で新四段を倒した勢いなんて、矢野六段のネチネチした指し回しには通用しないぞ』

『若手の切れ味なら未来定跡でハメられても、矢野六段みたいなベテランは絶対に怪しい手には乗ってこない』

『プロの洗礼を浴びて即敗退の未来が見える……』

『いや、加藤四段ならあの毒蛇すらも序盤でへし折ってくれるはずだ!』

 ネットのコメントを見つめながら、清麿の唇がふっと引き締まった。

 プロの世界は、若い天才たちだけではない。

 何十年もの風雪に耐え、泥水を啜りながら生き残ってきた、老獪な化け物たちが牙を研いで待っているのだ。

 だが、その不気味な威圧感に触れながらも、清麿の心臓は恐れではなく、静かな興奮に脈打っていた。

 二十六歳で三段リーグを追われたあの日の自分なら、矢野六段のような相手を前にすれば、対局前から胃を痛めて縮こまっていただろう。

 だが、今の清麿には、和令とともに泥沼を這い上がってきた誇りがある。

 三十一歳。遅咲きかもしれない。

 だが、失った四年間の悔しさと、泥水を啜って得た勝負師の胆力は、決して若い天才たちに引けを取るものではないはずだ。

「……和令」

 清麿は顔を上げ、将棋盤の前に腰を据えた。

「相手は矢野六段だ。現代のAI定跡にも惑わされない、生粋の受けの職人だぞ」

「ふん、望むところじゃない」

 和令はニヤリと口元を吊り上げると、腰のホルダーから端末を引き抜いて盤上に翳した。

「どれほど老獪な毒蛇だろうと、三百年後の完全定跡から見れば、自陣の隙間に自ら毒を溜め込んでるようなものよ。……相手が一番嫌がる急所を、針の穴を通すように突く手順を叩き込んであげるわ!」

「ああ。徹底的に頼む!」

 冬の朝の六畳間に、パチリ、パチリと乾いた駒音が澄み切って響き渡る。

 三十一歳を迎えた新四段と、未来から来た少女。

 年齢の壁も、プロの分厚い洗礼もすべて叩き潰すための、新たな研鑽の日々が、いま熱く幕を開けたのだった。

読んでいただきありがとうございます。

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