第六章『プロ棋士になったら、全員が化け物でした』
『初出勤は将棋会館』
十二月中旬の千駄ヶ谷の朝は、吐き出す息が一瞬で白い霧となって消え去るほどに冷え込んでいた。
木造アパートの六畳間に差し込む冬の光は、障子の骨を鋭利な直線として畳の上に描き出している。
加藤清麿は、新調したばかりのチャコールグレーのスーツに身を包み、ちゃぶ台の上に広げられた何通もの分厚い封書に視線を落としていた。
日本将棋連盟の朱印が捺された角二サイズの封筒の山。
昨日の夕方、郵便受けから溢れんばかりに届いたそれらの表題には、清麿の心臓を締め上げるような文字が整然と並んでいた。
『新四段・公式戦手合割通知書』
『各棋戦予選トーナメント組み合わせ表』
『日本将棋連盟・棋士総会案内および所属規定書類』
『対局規定・電子機器管理プロトコル誓約書』
ペラリと捲った手合割の用紙には、年明けから組まれる公式戦の日程がびっしりと記載されていた。竜王戦、王将戦、棋王戦、そして来年度の順位戦C級2組への参戦案内。
かつて二十六歳で奨励会を追われ、社会のゴミのように蹲っていた男の元に、いま、現実の仕事としての「プロのスケジュール」が雪崩のように押し寄せていたのだ。
内ポケットに手を入れると、昨日手渡されたばかりの黒塗りの小さな手帳が、確かな重みをもって胸元を温めている。
表紙の裏に刻まれた、自分だけの『棋士番号』。
夢ではない。アマチュアの特別出場枠として背水の陣を駆け抜けた日々は終わり、今日から自分は、対局料と賞金で飯を食う正真正銘の「プロ棋士」として、千駄ヶ谷の土を踏むのだ。
「……ちょっと。朝から書類の山を前にして、遺書でも書く直前みたいな顔してんじゃないわよ、雑魚先祖」
背後の台所から、アルミ鍋の蓋をカチャリと威勢よく鳴らしながら、容赦のない甲高い声が飛んできた。
銀と藍色のライダースーツの袖をたくし上げ、千代が置いていった花柄エプロンをきゅっと腰に巻いた和令が、湯気を立てる盆を両手で持って入ってくる。
「遺書じゃない。……連盟から届いた書類に目を通してたんだよ」
「目を通すのは結構だけど、眉間の皺が深すぎて十円玉が三枚挟まりそうよ。四段の免状をもらった途端に、ペーパーワークの重圧で圧死する気?」
「挟まるわけないだろ! だいたい、手合割の量を見てみろよ。年明けから毎週のように公式戦が入ってるんだぞ。アマチュアの時とは日程の密度が段違いだ」
「当たり前でしょ! プロなんだから対局して勝ってナンボよ! 対局がない棋士なんて、ただの将棋の指せる無職と変わらないんだからね!」
「無職って言うな! 胸に刺さるんだよ! ……だいたい、お前こそ今朝は妙に早起きして何を作ってたんだ?」
「三百年後の神童たる私が、新四段の初出勤のために栄養バランスを極限まで計算した特製ブレックファストよ! 感謝して拝みなさい!」
ドン、とちゃぶ台の中央に置かれたのは、湯気を立てる豆腐とナメコの味噌汁、スーパーの見切り品のホウレンソウのおひたし、そして――皿の上でツヤツヤと輝く、見事な半熟の目玉焼きだった。
「……お、目玉焼き! 卵、昨日の寿司で予算オーバーだからしばらく封印じゃなかったのか?」
「封印の例外規定よ! 初出勤の日に低血糖で階段を踏み外して『新四段・加藤清麿、登館初日に足首骨折で不戦敗』なんて恥を晒されたら、加藤家の末代までの汚点だからよ!」
「末代はお前だって言ってるだろ! ……でも、嬉しいよ。いただきます」
「ふん! 素直に喜ぶなら、五分で胃袋に流し込みなさい! 今日は連盟事務局への手続きだけじゃないんだからね!」
和令は腰のホルダーから透明な薄型端末を引き抜き、空中に青白いスケジュールウィンドウを浮かび上がらせた。
「いい、清麿? 今日のあんたの予定は、九時半に連盟事務局で諸手続き、十時半から広報部で新四段の公式プロフィール写真撮影、午後は棋士室への挨拶回りと専門誌の囲み取材よ。超過密スケジュールなんだから、ボサッとしてたら置いていかれるわよ!」
「写真撮影に挨拶回り……。本当に、プロになったんだな」
「しみじみ浸ってんじゃないわよ、雑魚先祖! ほら、醤油かけてさっさと米をかき込みなさい!」
箸を割り、目玉焼きの黄身を白米の上でそっと崩す。
濃厚なコクと醤油の風味が、炊きたてのご飯の甘みとともに五臓六腑へ染み渡っていく。
和令の口の悪さは相変わらずだ。だが、その小言の端々に、清麿が新しい世界で足元をすくわれないようにという、彼女なりの厳格なサポートが満ちているのを清麿は知っていた。
未来の借金を消し去った後も、この少女は千駄ヶ谷の六畳間に残り、清麿の背中を押し続けてくれている。
朝食を平らげ、コートを羽織った清麿は、玄関で革靴に足を入れた。
「じゃあ……行ってくるよ」
「ちょっと待ちちなさい」
和令がツカツカと歩み寄り、清麿のネクタイを乱暴に掴んでキュッと引き締めた。
「ぐえっ……苦しいって!」
「結び目が一ミリ斜めになってたわよ。いい、清麿? 今日からあんたは『加藤先生』って呼ばれるのよ。アマチュアの泥臭い挑戦者じゃない、プロの看板を背負った一人の棋士なのよ。背筋をピンと伸ばして、堂々と胸を張ってきなさい!」
バチンッ、と背中に強烈な手のひらの衝撃が叩き込まれた。
痛烈な熱が肩甲骨の間を駆け抜け、胸の奥底に澱んでいた緊張が一気に吹き飛ぶ。
「……ああ。行ってくる!」
午前九時半。
冬晴れの陽光を浴びる日本将棋会館の白壁を見上げながら、清麿は正面の自動ドアをくぐった。
一歩足を踏み入れた瞬間、外界の乾いた寒気が遮断され、磨き抜かれた青畳と年季の入った木材の匂いが全身を包み込む。
一階の売店には、すでに一般のファンが詰めかけており、ショーケースには名だたるタイトルホルダーの扇子や揮毫色紙が並んでいた。
階段を上がり、二階の事務局へ向かう赤絨毯の廊下。
すれ違う職員や若手棋士たちが、清麿の姿を捉えるなりピタリと足を止め、次々と丁寧に頭を下げてくる。
「加藤先生、おはようございます」
「新四段昇段、本当におめでとうございます」
「あ、おはようございます……!」
慌てて会釈を返しながらも、背筋がむず痒くなるような感覚を覚える。
かつて奨励会三段だった頃、自分にとってこの会館の廊下は、すれ違うプロの先生方にペコペコと頭を下げ、壁際を這うように歩く場所だった。
二十六歳で去ったあの日まで、自分は何者でもなかった。
だが、いま――自分に向けられる視線には、一人の「同業者」に対する、礼儀と敬意が込められていた。
事務局の窓口で対局カードの交付を受け、印鑑を押し、広報部のスタジオでスーツ姿の宣材写真を撮影する。
「加藤先生、もう少しアゴを引いて、キリッとした表情でお願いします! はい、素晴らしいです!」
カメラの白いストロボが焚かれるたび、自分が四段になったという実感が、外側から輪郭を帯びて固まっていくようだった。
そして――正午過ぎ。
清麿は、二階の奥にある、重厚な木製ドアの前に立っていた。
扉に掲げられた真鍮のプレートには、ただ一言、こう彫り込まれている。
『棋士室』
奨励会員にとって、そこは不可侵の聖域だった。
四段以上のプロ棋士だけが入ることを許され、盤を挟んで日夜最新の研究をぶつけ合い、棋界の最先端の理論が紡ぎ出される実験室であり、修羅の溜まり場。
三段時代、記録係の仕事の合間に恐る恐るお茶を運ぶことしか許されなかったあの部屋の扉に、清麿は自らの右手をかけた。
深呼吸をひとつ。
ノブを回し、静かに扉を押し開けた。
カチャリ。
室内に満ちていた濃密な熱気と、激しい駒音が、一気に清麿の鼓膜を叩いた。
――パチッ、パチパチパチッ!
――バシィッ!
十台以上並べられた対局用の本榧盤。
部屋の中央では、若手棋士たちがノートパソコンに映し出されたAIの評価値グラフを睨みながら、目にも留まらぬ速さで駒を動かしている。
窓際のソファでは、ベテランの八段が新聞の詰将棋欄を広げながら後輩の対局に鋭い横槍を入れ、奥の畳スペースでは、現役のタイトル挑戦者が額に手を当てて盤面を睨みつけていた。
空気が、あまりにも濃い。
一秒間に何十通りもの未来の分岐が、生身の脳髄から弾き出され、盤上で激しく衝突している。
将棋という知の深淵に、人生のすべてを捧げた人間だけが放つ、狂気にも似た知性の摩擦熱。
清麿が入室した瞬間、手前の盤を挟んでいた数名の棋士の手がピタリと止まり、視線が一斉に清麿へと注がれた。
「……おや」
部屋の奥、パソコンを開いていた細身の男が、眼鏡のブリッジを押し上げながら立ち上がった。
桐生彰吾五段、三十四歳。
かつて光星杯で完全オフラインの死闘を演じ、清麿の未来定跡に敗れながらも、その実力を真っ先に認めた理論派の旗手だった。
「噂をすれば……加藤新四段じゃないですか」
桐生が口元に知的な笑みを浮かべ、ゆっくりと歩み寄ってくる。
「桐生先生……ご無沙汰しております」
清麿が深々と頭を下げると、桐生は小さく苦笑して首を振った。
「先生はやめてくださいよ。これからは同じプロの仲間……ライバルなんですから。まずは編入試験合格、本当におめでとうございます」
「ありがとうございます……!」
「第三局の北条戦、そして第五局の相良戦……実に見事な踏み込みでしたよ。棋士室のモニターでも全員が息を呑んで見ていました。……特に相良四段を投了に追い込んだあの飛車の叩き込みは、現代のAIの盲点を突いた、恐ろしい一手でしたね」
桐生の言葉に、周囲の若手棋士たちもざわめきながら清麿を見つめていた。
そこにあるのは、アマチュアを見るような色眼鏡ではない。
自分たちと同じ、あるいはそれ以上の深淵を覗き込んでいる「危険な新参者」に対する、剥き出しの警戒心と知的好奇心だった。
「……ですが、加藤四段」
桐生の声が、ふっと勝負師の冷徹な低さを帯びた。
「編入試験の合格は、素晴らしい快挙です。ですが……ここからが、本当の地獄ですよ」
「地獄……ですか」
「ええ。編入試験は、言ってしまえば『試験官』を務めた新四段五人との戦いでした。彼らにはアマチュアに負けられないという過剰なプレッシャーがあった。……ですが、これからの公式戦であなたが当たる相手は違います」
桐生は棋士室の奥、熱心に盤を睨み続ける無数の棋士たちへと視線を向けた。
「順位戦を何十年と戦い抜いてきた老獪なベテラン、タイトル戦の常連、そして十代でプロ入りしてきた本物の天才たち……。彼らはあなたの過去の棋譜を、それこそ毛穴の数まで数えるように徹底的に解剖し尽くして盤上に座ってきます。少しでも定跡の手順に隙を見せれば、骨の髄までしゃぶり尽くされる。……全員が、盤上で生き残るために牙を研ぎ澄ませた『化け物』ばかりです」
背筋が、ゾクリと粟立った。
脅しではない。
千駄ヶ谷の畳の上で何百局もの修羅場をくぐり抜けてきた男の、偽らざる現実の告白だった。
だが――その恐るべき言葉を聞きながら、清麿の胸の奥底で、奇妙なほど熱い炎が静かに燃え上がるのを清麿は感じていた。
(化け物ばかり、か……)
かつての清麿なら、その重圧に怯え、胃を痛めて逃げ出していたかもしれない。
だが、今の清麿には、和令とともに泥水を啜り、敗北の暗闇を自分の足で歩き抜いてきた誇りがあった。
全員が化け物だからこそ、この世界は美しいのだ。
命を懸けて盤上の真理を追い求める怪物たちと、対等に刃を交えることができる。
その場所に、自分はついに戻ってきたのだ。
「望むところです、桐生先生」
清麿は真っ直ぐに桐生の目を射抜いた。
「胸を借りるつもりはありません。……全員を倒す気で、盤に向かいます」
桐生は目を見張り、それから嬉しそうに口元を歪めた。
「……いい眼光だ。なら、今度私の研究会にも顔を出してください。あなたとじっくり盤を挟みたいと言っている棋士が、山ほどいますからね」
「はい! ぜひお願いいたします!」
棋士室を出た頃には、冬の陽光はすでに傾き、茜色の夕暮れが将棋会館の窓ガラスを赤く染め上げていた。
廊下の掲示板の前に立ち止まる。
貼り出された直近の公式戦トーナメント表。
その最下段、予選一回戦の枠の中に、墨黒の活字でしっかりと印字されていた。
『加藤清麿四段』
アマチュアの二文字は、どこにもない。
正真正銘、プロ棋士としての第一歩が、そこに刻まれていた。
会館の外へ出ると、凍てつくような冬風が、火照った清麿の頬を心地よく引き締めていく。
通りを渡り、鳩森八幡宮の鳥居の前に進むと、街灯の薄明かりの下で、銀と藍色のサマージャケットを羽織った和令が、腕を組んで待っていた。
吐き出す白い息の中で、少女の大きな瞳が清麿の姿を捉える。
「……遅かったじゃないの、雑魚先祖」
いつもの、ツンとした生意気な声。
「写真撮影で鼻の下を伸ばして、棋士室で迷子にでもなってたんじゃないでしょうね?」
「迷子になんてなるかよ。……挨拶回りも、手続きも、全部終わったよ」
清麿は和令の前まで歩み寄り、ポケットから四段の手帳を取り出して、そっと見せた。
「見てくれよ、和令。……棋士番号、もらってきたぞ」
和令の視線が、手帳の黒い革表紙と、そこに刻まれた金色の数字へと注がれる。
少女の細い指先が、その数字の刻印をそっと撫でた。
ほんの一瞬、その瞳の奥に、言葉にならない深い感慨と、眩い誇らしさが揺らめいたのを清麿は見逃さなかった。
「……ふん。ただの数字じゃないの」
和令はパッと手を引っ込めると、ツンと横を向いて鼻から息を噴き出した。
「浮かれてんじゃないわよ。今日からあんたはプロの底辺、新四段よ! 三百年後の加藤家の名誉のためにも、一局たりとも無様な負けは許さないんだからね!」
「ああ。分かってるよ」
清麿は夕暮れの空を見上げ、力強く拳を握りしめた。
全員が化け物のプロの世界。
だが、恐れることは何一つない。
自分には、未来から来た最高の相棒と、泥水を啜って手に入れた本物の勝負師の魂があるのだから。
木枯らしの千駄ヶ谷に、二人の足音が力強く響き渡っていく。
プロ棋士・加藤清麿四段の、真の伝説の幕が、いま堂々と上がったのだ。
読んでいただきありがとうございます。
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