EP 10
『三十一歳を越えて、四段になった男』
十二月の冷気は日を追うごとに鋭さを増し、千駄ヶ谷の街には本格的な冬の澄み切った静寂が降りていた。
鳩森八幡宮の境内にそびえる大銀杏は、敷き詰められていた黄金の絨毯も吹き払われ、針のように尖った冬枯れの梢をどこまでも高い灰青色の空へと突き刺している。
肌を刺すような木枯らしの中、加藤清麿は築四十年の木造アパートの六畳間で、新調したばかりの濃紺のスーツに腕を通していた。
鏡に映る自分の姿を見つめる。
四年前の春、二十六歳の年齢制限によって奨励会三段リーグを追われ、社会の片隅で膝を抱えていた男。
死ぬことすら許されず、人生のすべてに絶望していたあの暗闇から、十ヶ月。
三十歳の誕生日は、光星杯や青嵐杯の激闘の中で知らぬ間に過ぎ去っていた。
そして――三十一歳を迎えた今、日本将棋連盟の所定の理事会承認と事務手続きを経て、今日という決定的な期日が訪れたのだ。
プロ棋士編入試験、通算三勝二敗での合格。
本日付をもって、加藤清麿は正式に日本将棋連盟所属の「プロ棋士・四段」となる。
指先で触れたネクタイの結び目は、かつて三段リーグの最終局で震えていた時のように冷たくはない。
胸の奥底で刻まれる鼓動は、深く、重く、静かに熱を帯びていた。
「……ちょっと。朝から鏡の前で仁王立ちして、何のおしゃれ道場を開いてんのよ、雑魚先祖」
背後の台所から、アルミ鍋の蓋をカチャリと鳴らしながら、聞き慣れた容赦のない甲高い声が飛んできた。
銀と藍色のライダースーツの袖をまくり、千代の花柄エプロンをきゅっと腰に巻いた和令が、湯気を立てる盆を両手で持って入ってくる。
「おしゃれ道場じゃない。ネクタイが曲がってないか確かめてたんだよ」
「嘘おっしゃい。自分の胸元を五回も撫で下ろして、口角が三ミリ上がってたわよ。『今日から先生と呼ばれる男・加藤清麿』って顔全体に自己満足が滲み出てたわ」
「滲み出てない! だいたい今日から正式にプロ棋士なんだぞ。身だしなみくらいきちんとするのが社会人の常識だろ」
「社会人を四年もサボってた無職が、どの口で常識を語ってんのよ! スーツを新調したくらいでプロの風格気取りなんて、三百年早いわよ!」
「三百年後はもうお前の時代だろ! ……だいたい、昨日の夜だって千代からもらった特上寿司を美味そうにバクバク食ってたくせに、朝になったらその毒舌かよ」
「寿司は寿司、朝は朝よ! 昨日のウニの美味さに免じて昨夜の減点を取り消してあげただけで、私の師匠としての指導方針に一切の妥協はないわ!」
「相変わらず胃袋と理屈が直結してるな……。で、今朝の朝ごはんは?」
「見れば分かるでしょ! 小松菜とお揚げの味噌汁に、切り干し大根の煮物、そして――ほら!」
ドン、とちゃぶ台の中央に置かれたのは、こんがりと両面を香ばしく焼き上げた、見事な厚みのある卵焼きだった。
「……あれ? 卵、昨日の寿司で予算オーバーだからしばらく絶食って言ってなかったか?」
「絶食なんて言ってないわよ、備蓄の調整って言ったの! 今日から四段として初登庁するんだから、初日に貧血で階段から転げ落ちて『新四段、登館初日に頭部打撲で休場』なんてニュースになったら、末代までの恥でしょ!」
「末代はお前だって何度も言わせるな! ……でも、ありがとうな。いただきます」
「ふん、素直に感謝するなら味わってないで、五分で胃袋に放り込みなさい! 連盟の式典に遅刻なんてしたら、三百年後の加藤家の家訓に『遅刻魔』って刻んでやるんだから!」
清麿は箸を割り、焼きたての卵焼きを一口運んだ。
ほんのりとした甘みと、出汁の優しい塩気が口いっぱいに広がる。
和令は小さく鼻を鳴らしながら端末を弄っていたが、その口元には、千代との寿司を眺めていた時と同じ、温かな安堵が微かに滲んでいた。
未来の加藤家を圧殺していた一億二千四百万クレジットの巨額債務は、清麿のプロ編入によって完全に消滅した。
だが、二人の奇妙な同居生活は、何ひとつ終わっていなかった。
むしろ、ここからが本当の人生の始まりなのだと、狭い六畳間の空気が告げていた。
午前十時。
冬晴れの陽光を浴びる日本将棋会館の前に、清麿は立っていた。
正面玄関の自動ドアをくぐると、使い込まれた青畳と木材の懐かしい匂いが鼻腔をくすぐる。
小学生で初めて足を踏み入れ、奨励会の十六年間を過ごし、そして四年前、逃げるように去っていった場所。
かつては奨励会員として、頭を下げて隅っこを歩くことしか許されなかった赤絨毯の廊下。
だが、すれ違う職員や若手棋士たちが、清麿の姿を捉えるなり立ち止まり、次々と会釈を向けてくる。
「加藤先生、おはようございます」
「おめでとうございます、加藤先生」
先生――。
その二文字が耳朶を打つたびに、背筋が粟立つような緊張と、ずっしりとした重みが両肩に乗しかかる。
三階の役員応接室の扉を開けると、そこには日本将棋連盟の会長をはじめとする幹部棋士たち、そして――濃紺の羽織袴を身に纏った師匠・榊原雅臣九段が、静かに腰を下ろしていた。
「加藤清麿さん」
会長が立ち上がり、毛筆で力強く認められた一枚の免状を両手で捧げ持った。
「棋士編入試験五番勝負において、所定の成績を収められました。日本将棋連盟の規定に基づき、本日付をもって、あなたをプロ棋士四段に昇段、正会員として認定いたします」
恭しく両手で受け取った桐箱の中、白く輝く和紙の免状には、墨痕鮮やかに自分の名と『四段』の二文字が刻まれていた。
そして、手渡された小さな黒塗りの手帳。
その表紙の裏側には、四段昇段の証である、清麿だけの『棋士番号』が刻印されていた。
将棋界の長い歴史の中で、神話の時代から連綿と受け継がれてきた、選ばれし者だけの背番号。
指先が、その数字の刻印をなぞる。
三十一歳。
かつて年齢制限の二十六歳という非情な壁に撥ね飛ばされ、死んだ魚のような目で社会を彷徨っていた男が、ついにプロの系譜の中に、自らの名前を刻み込んだのだ。
視界が、急速に熱い涙で滲みかけた。
「……清麿」
低く、温かみのある声が降ってきた。
顔を上げると、榊原九段が穏やかな笑みを湛えて清麿の前に立っていた。
老棋士は、四年前の退会以来、ずっと胸に仕舞い込んでいたのであろう言葉を、噛み締めるように口にした。
「……おかえり、加藤四段」
「先生……!」
喉の奥が詰まり、声が出なかった。
深々と、畳に額が届くほど頭を下げる。
「ありがとうございます……! 先生のおかげで、俺はもう一度、ここに帰ってくることができました……!」
「礼を言うのは私の方だよ」
榊原の手が、清麿の肩を力強く叩いた。
「お前が諦めずに戻ってきてくれたから、私の十六年間の悔恨も、ようやく今日で報われた。……だが、清麿。プロの世界は、入ってからが本当の修羅場だぞ」
「はい……!」
「年齢制限で辞めたお前を、温かく迎え入れてくれる者ばかりではない。プロの厳しさを思い知らせようと、誰もが牙を研いで待っている。……堂々と、胸を張って戦いなさい」
「はい! 全力を尽くします!」
応接室を出た廊下には、記者腕章を巻いた神崎澪が待っていた。
手帳とペンを握りしめ、眼鏡の奥の切れ長な瞳を清麿へ向けてくる。
「加藤先生。……いえ、加藤四段。正式なプロ入り、おめでとうございます」
「ありがとうございます、神崎さん」
「編入試験の合格劇、世間では『奇跡の三十歳』『アマチュアの英雄』と大絶賛の嵐ですよ」
神崎は微笑みながらも、記者特有の鋭い眼差しを崩さなかった。
「ですが、ここから先は『アマチュアの快進撃』という下駄は一切脱ぎ捨てられます。全棋士があなたの過去の棋譜を徹底的に研究し、丸裸にして挑んでくる。……プロ棋士・加藤清麿の本当の真価が問われるのは、これからですね」
「ええ。分かっています」
清麿は真っ直ぐに神崎の視線を見据え返した。
「挑戦者のつもりで、目の前の一局にしがみつくだけです」
「期待していますよ。……次回の公式戦、取材に入らせてもらいますね」
神崎は満足そうに一礼し、足早に去っていった。
将棋会館の外へ出ると、冬の午後の風が吹き抜けていた。
胸ポケットに収めた四段の棋士手帳が、内ポケット越しに確かな質量を伝えてくる。
鳩森八幡宮の杜を抜け、鳥居をくぐった時だった。
ふっと、清麿の足が止まった。
風の音の向こうから、ある男の静かな声が、脳裏に鮮烈に蘇ったのだ。
『君の将棋は、実に面白い』
『だがね、加藤さん。将棋盤の上の宇宙は、どれほど精緻な設計図であっても、すべてを描き切ることはできない』
『風月杯、勝ち上がってくるといい。……いつか、公式戦の舞台で会おう』
現代将棋界の頂点に君臨する絶対王者――藤堂晃司竜将。
風月杯の最中、小対局室でたった一枚の端歩突きによって、未来の完全定跡アーカイブの盲点を感覚だけで射抜いて見せた、あの規格外の怪物。
(藤堂竜将……)
清麿は自らの掌を見つめた。
プロ棋士になった。
失われたはずの夢を取り戻し、妹を救い、未来の加藤家の悲惨な運命を打ち破った。
だが――これは、すべての終わりなどでは断じてない。
自分が手に入れたのは、ただの「スタートラインに立つ資格」に過ぎないのだ。
プロ棋界という魔境には、宮坂や北条、高杉や相良のような飢えた若手だけでなく、乾七段や片桐八段、そして藤堂竜将のような、生身の魂を削り合って盤上に宇宙を創り出す化け物たちが、数え切れないほどひしめき合っている。
彼らと同じ土俵に立ち、自らの足で歩み、いつかあの絶対王者の喉元へと刃を届かせる――。
背筋を駆け抜ける戦慄。
だが、その恐怖の奥底で、清麿の勝負師としての血が、かつてないほど激しく沸騰していた。
「……ちょっと、清麿」
参道の木漏れ日の中から、聞き慣れた声が響いた。
振り返ると、街灯の脇で、銀と藍色のサマージャケットを羽織った和令が、腕を組んでツンと顎を反らしていた。
「何を鳥居の前で黄昏れてんのよ。手続き、全部終わったんでしょうね?」
「ああ。……四段の免状、受け取ってきたよ」
「ふん。これで名実ともにプロ棋士ってわけね」
和令はツカツカと歩み寄ると、清麿のスーツの胸元をジロリと見上げた。
その瞳の奥には、いつも通りの不遜な強気と、相棒への絶対の信頼が灯っていた。
「いい、清麿? 三百年後の加藤家を背負うプロ棋士四段が、プロの底辺でモタモタ負け越してたら、承知しないわよ! ここから先は、全員が化け物の本物の戦場なんだから!」
「言われなくても分かってるよ」
清麿は胸を張り、冬の青空を真っ直ぐに見上げた。
「プロになったからって、守りに入る気なんて微塵もないさ。……上へ行くぞ、和令。あの藤堂竜将がいる、将棋界のてっぺんまでな」
「言ったわね、雑魚先祖! 泣き言を吐いたら、今度こそ脳天にドロップキックだからね!」
木枯らしの千駄ヶ谷に、二人の笑い声が力強く響き渡っていった。
三十一歳を越えて、地獄の底から這い上がってきた男。
プロ棋士・加藤清麿四段の、真の伝説の幕が、いま堂々と上がろうとしていた。
読んでいただきありがとうございます。
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