EP 9
『妹と食べる、勝利の寿司』
十二月の朝の光は、木造アパートの薄いガラス戸を透かして、六畳間の畳の上に長い影を落としていた。
千駄ヶ谷の空はどこまでも澄み渡り、吹き抜ける木枯らしが遠くの電線をかすかに鳴らしている。
ちゃぶ台の前に正座した加藤清麿は、畳の上に置いたスマートフォンの画面を、夢でも見ているかのようにぼんやりと見つめていた。
画面には、昨夜から更新され続けている大手ポータルサイトや将棋連盟のニュース記事が並んでいる。
『【速報】加藤清麿アマ、最終局を制しプロ編入試験合格! 通算3勝2敗で四段昇段決定!』
『四年前の挫折を越えた奇跡の30歳! 元奨励会三段、悲願のプロ棋士誕生!』
『新四段・加藤清麿、涙の会見「逃げ出さずに戦い抜いて本当によかった」』
専門掲示板には、数万件に及ぶ祝福の書き込みが今も秒刻みで流れ続けていた。
激闘の余熱。全身の筋肉に重たく残る心地よい疲労感。
相良四段の猛攻を前に、恐怖を振り払って飛車を叩き込んだ百十四手目。
すべてを懸けて踏み込み、勝ち取ったあの瞬間から、まだ半日も経っていない。
四年前、二十六歳の春に年齢制限で奨励会を追われ、社会の片隅で膝を抱えていた男。
その男が、いま、確かにプロ棋士になったのだ。
指先で自分の胸元に触れると、奥底で刻まれる心音は、かつてないほど力強く、温かく脈打っていた。
「……ちょっと。朝っぱらからスマホを拝み倒して、何のお地蔵様気取りよ、雑魚先祖」
背後の台所から、アルミ鍋の蓋をカチャリと鳴らしながら、容赦のない甲高い声が飛んできた。
銀と藍色のライダースーツの袖をまくり、千代の花柄エプロンをきゅっと腰に巻いた和令が、お茶の入った湯呑みをちゃぶ台にドンと置く。
「お地蔵様じゃない。……実感が、少しずつ湧いてきたんだよ」
「嘘おっしゃい。顔の皮膚が緩みきって、鼻の穴が三ミリ広がってたわよ。『プロ棋士になった俺、マジで偉業達成』って毛穴から自惚れがダダ漏れよ」
「漏れてない! だいたい昨日勝ったんだぞ、少しは喜んだってバチは当たらないだろ」
「喜ぶのは勝手だけど、昨日の夜、境内でみっともなく号泣してたのはどこの誰かしらね!」
「泣いてたのはお前だろ! 『目から不凍液が漏れてる』とか見苦しい言い訳してたくせに!」
「あれはナノ冷却システムの結露よ! 三百年後のテクノロジーの熱交換エラーよ!」
「苦しすぎるだろその設定! ……まあいいけどさ。で、今朝の朝ごはんは?」
「あるわけないでしょ! 昨日の夜、親子丼で特売卵を三個も大盤振る舞いしたのよ! 我が家の食糧備蓄庫は完全なレッドゾーンよ!」
「プロ入り初日の朝に絶食かよ! 相変わらずシビアすぎるだろ!」
「当たり前でしょ! だいたいね、あんた今日、千代おばあちゃんと出かける約束があるんでしょ! 昼からご馳走を胃袋に詰め込む気満々のくせに、朝から贅沢しようだなんて言語道断よ!」
「あ……そうだった」
清麿は手元のスマートフォンを見た。
画面には、妹の千代から届いていたメッセージが表示されていた。
『お兄ちゃん、本当におめでとう! 夜勤明けで少し仮眠取ったら、お昼にお祝い行こうね! 約束のお寿司、私が奢るから!』
清麿の口元が、自然と柔らかく綻んだ。
「そうなんだよ。千代と昼飯を食いに行く約束をしててさ。……和令、お前も一緒に行くか?」
「……はあ!? 行くわけないでしょ!」
和令はプイと顔を背け、ツンと顎を上に向けて腕を組んだ。
「原始人の兄妹水入らずの場に、三百年後の私がノコノコ首を突っ込むなんて不粋な真似、するわけないでしょ! 私は留守番して、端末のデータ同期を進めるわよ!」
「そうか? 千代も喜ぶと思うけどな」
「いいのよ! その代わり……分かってんでしょうね、雑魚先祖」
和令がジト目を細め、人差し指をピシッと清麿の鼻先へ突きつけてきた。
「お持ち帰りの特上寿司折を、私の分として絶対に確保してきなさい! ウニとイクラと中トロは必須よ! 一粒でも欠けてたら、今夜から六畳間の敷居を跨がせないからね!」
「現金だな相変わらず! ……分かったよ、ちゃんと特上を頼んでくる」
「ふん、なら許してあげるわ! ほら、さっさと着替えて出かけなさい! おばあちゃんを待たせたら末代までの恥よ!」
「末代はお前だろ……」
苦笑しながらも、清麿は立ち上がり、ハンガーに掛けてあった一番上等のコートに腕を通した。
正午過ぎ。
千駄ヶ谷の駅前通りから一本入った路地裏に、暖簾を掲げる小さな寿司屋があった。
昭和の風情を残す落ち着いた佇まいのその店は、かつて奨励会時代、榊原師匠に一度だけ連れてきてもらったことのある、思い出の店だった。
ガラガラと引き戸を開けると、酢飯の爽やかな香りと、白木のカウンターの清潔な温もりが清麿を迎えた。
奥の小上がりの座敷に、すでにその女性が腰を下ろしていた。
加藤千代。
淡いベージュのニットに身を包み、夜勤明けの疲れを少しも感じさせない明るい笑顔で、清麿の姿を捉えるなり大きく手を振った。
「お兄ちゃん! こっちこっち!」
「待たせたな、千代」
清麿が靴を脱いで座敷に上がると、千代は待ちきれないといった様子で、テーブル越しに身を乗り出してきた。
「ううん、今来たとこ! ……もう、お兄ちゃん、本当におめでとう!!」
「ああ。……ありがとう」
運ばれてきた熱い緑茶を一口すすりながら、清麿は妹の顔を見つめた。
注文していた特上の握り寿司が、美しい塗りの下駄に乗せられて運ばれてくる。
艶やかに輝く本マグロの中トロ、黄金色のウニ、宝石のようなイクラ、透き通るような白身。
「わあ……すごい! 美味しそう!」
千代が目を輝かせてパチンと手を合わせた。
「ほら、お兄ちゃん、食べて食べて! 編入試験に合格したら絶対にお寿司をご馳走するって、ずっと決めてたんだから!」
「千代……お前、看護師の手取りだってそんなに多くないだろ。俺が払うよ」
「ダメ! 今日は私が奢るの! 妹にお祝いさせてよ!」
千代がふくれたように頬を膨らませる。
その仕草が子どもの頃とまるで変わっていなくて、清麿の胸の奥がじんわりと温かくなった。
「じゃあ……ごちそうになるよ。いただきます」
清麿は箸を取り、中トロを口に運んだ。
舌の上でとろけるような脂の甘みと、酢飯の酸味が絶妙に広がる。
噛み締めるごとに、涙が出そうになるほど美味しかった。
「どう、お兄ちゃん?」
「……美味いよ。本当に美味い」
「よかったぁ!」
千代は満面の笑みを咲かせ、自分も嬉しそうにサーモンを口に運んだ。
二貫、三貫と寿司を平らげ、お茶の湯気を挟んで一息ついた頃。
清麿は膝の上に両手を置き、小さく息を吸い込んだ。
「……千代」
「ん? なに、お兄ちゃん?」
「……謝らなきゃいけないことがある」
清麿の声が、わずかに低くなった。
千代が箸を止め、不思議そうに清麿を見つめる。
「四年前……俺が奨励会を辞めた時のことだ」
胸の奥底に澱んでいた苦い記憶が、言葉となってこぼれ落ちていく。
「あの時、俺はプロになれなかった惨めさに耐えきれなくて、自暴自棄になって……周りのすべてを拒絶した。実家から勘当されて、東京のボロアパートに引きこもって……お前が心配して何度も様子を見に来てくれたのに、俺は酷い態度ばかり取って、追い返した」
清麿の視界が、かすかに滲んだ。
「家賃が払えなくなった時、お前が自分の給料から生活費を振り込んでくれたこともあったよな。それなのに、俺はまともにお礼も言えず、情けなさに当たり散らして……。お前の人生に甘えて、お前にどれだけの苦労と心配をかけたか分からない」
畳の上に両手をつき、清麿は深々と頭を下げた。
「本当に……すまなかった、千代」
静寂が、座敷の空間を満たした。
カウンターの向こうで板前が包丁を引くトントンという音だけが、静かに響いている。
やがて、向かい側から、フッと吹き出すような小さな笑い声が聞こえた。
清麿が恐る恐る顔を上げると、千代が両手で口元を押さえながら、目尻に涙を浮かべて笑っていた。
「もう……なに改まってんのよ、お兄ちゃん」
「千代……?」
「謝る必要なんて、最初から何一つないよ」
千代は優しく首を横に振った。
その瞳は、春の陽だまりのように温かく、澄み切っていた。
「確かにね、あの頃のお兄ちゃんは見てて本当に痛々しかったよ。生きる気力を失ってて、目が死んでて、声をかけるのも怖かった。……でもね、私、一度だってお兄ちゃんを恨んだり、重荷だなんて思ったことないよ」
「千代……」
「だって、覚えてる? 私が小学生の時、学校で嫌なことがあって泣いて帰ってきた日、お兄ちゃん、何時間も私の話を聞いてくれたじゃない」
千代は懐かしそうに目を細めた。
「奨励会の対局前で、自分の勉強で一番忙しいはずなのに……『千代、将棋やろうか』って盤を出してくれてさ。私の下手くそな手を優しく待ってくれて、勝たせてくれて、笑わせてくれた。……私にとって、お兄ちゃんはずっと、世界で一番優しくてかっこいい自慢のお兄ちゃんだったんだよ」
千代の瞳から、ポロポロと温かい涙がこぼれ落ちた。
「三段リーグを辞めた時、お兄ちゃんが夢を失って苦しんでるのが、私、本当に悲しかった。私がお金を工面したのは、お兄ちゃんに恩を着せるためじゃないよ。ただ……お兄ちゃんに、生きててほしかったの。将棋で勝てなくたって、プロになれなくたっていいから、生きててほしかったのよ」
千代はテーブルの上に手を伸ばし、清麿の節くれ立った手を、両手でぎゅっと包み込んだ。
「だからね……この何ヶ月か、お兄ちゃんがもう一度盤の前に座って、前を向いて、必死に戦ってる姿を見て……私、本当に嬉しかったんだよ」
涙で濡れた顔に、満開の笑顔が咲いた。
「プロになれたこともすごいけど……何より、お兄ちゃんがまた心から笑って、自分の人生を歩き始めてくれたことが、私にとって最高のお祝いなんだから。……ありがとう、お兄ちゃん。戻ってきてくれて、生きててくれて、本当にありがとう」
胸の奥底が、熱い奔流となって震えた。
喉が詰まり、言葉にならなかった。
四年前の暗闇の中で、自分がどれほど傷つけ、遠ざけてしまったと思っていた妹は――最初から、一度たりとも自分を見捨ててなどいなかったのだ。
清麿は千代の手を力強く握り返し、溢れ出る涙を堪えながら、深く、何度も頷いた。
「ああ……。ありがとう、千代。俺……もう二度と、自分の人生から逃げないよ」
「うん! 約束だよ、プロ棋士さん!」
二人の笑い声が、温かな座敷に溶け込んでいった。
注文していた和令用の特上寿司折を大事に抱え、店を出た千駄ヶ谷の道。
冬の木枯らしは冷たかったが、並んで歩く兄妹の横顔には、二度と消えることのない確かな絆の光が灯っていた。
*
同じ頃。
千駄ヶ谷の築四十年の木造アパート、六畳間。
静まり返った部屋の中央で、加藤和令は一人、ちゃぶ台の前に正座していた。
机の上には、透明な薄型端末が置かれ、青白い立体ホログラムが激しい粒子となって室内に展開されている。
ピピピ、ピピピと、高速の電子処理音が鳴り響く。
画面には、かつて清麿を縛り、未来の和令を苦しめ続けていた『加藤家の歴史記録』が映し出されていた。
だが――その光景は、もはや過去の忌まわしい年表とは、まるで別のものへと変貌を遂げていた。
『――歴史同期プロトコル:第5段階完了』
『西暦2026年12月:加藤清麿、プロ棋士編入試験合格(プロ四段昇段)』
『加藤清麿の生体障害事故――完全回避』
『加藤家生体保存基金の設立記録――【消滅】』
青白い文字の列が、パチパチと淡い火花を散らしながら、サラサラと光の砂となって崩壊していく。
さらに、画面が自動的に切り替わった。
そこに現れたのは、妹・加藤千代の生涯記録だった。
『加藤千代:改変後タイムライン』
『看護師として自立したキャリアを継続』
『兄の重介護および巨額債務の引き継ぎ――【完全消滅】』
『生涯にわたり、自己の意志に基づく幸福な人生を享受』
千代を三百年後の破滅まで縛り付けていた、あの残酷な犠牲の歴史が、完全に白紙へと還っていた。
そして――和令の目を釘付けにしたのは、累積債務のグラフだった。
『加藤家生体保存基金・累積負債総額:一億二千四百万クレジット』
天文学的な数字で未来の一族を圧殺していた赤い折れ線グラフが、まるで幻だったかのように、垂直にゼロへと向かって落ちていく。
チリチリと音を立てて、グラフ全体が透明な光の泡となって霧散した。
「……消えた」
和令の口から、掠れた呟きがこぼれ落ちた。
端末を見つめる少女の瞳から、大粒の涙がポロポロと溢れ出し、畳の上に落ちていく。
「本当に……消えちゃったわよ……」
物心ついた時から背負わされ、「借金まみれの加藤家」と見下され、未来の世界で将棋の盤面に向かうことすら怖くなっていた、あの暗黒の呪縛。
それが、いま、完全に消滅したのだ。
清麿が命を削り、泥水を啜り、自分の足でプロへの扉をこじ開けたことによって、千代の未来も、加藤家の一族の運命も、すべてが救われたのだ。
「……バカ先祖」
和令は袖口で乱暴に目元を拭い、鼻をすすった。
「雑魚のくせに……本当に、歴史をぶち壊しちゃったじゃないの……」
その顔には、三百年後の世界では一度も見せたことのなかった、心からの誇らしさと、眩いばかりの笑顔が輝いていた。
その時、トントントンと階段を駆け上がってくる足音が響き、カチャリと玄関のドアが開いた。
「おーい、和令! 戻ったぞ! 約束の特上寿司折、ウニもイクラも大盛りで買ってき――」
両手に大きな包みを提げた清麿が、満面の笑みで部屋に入ってくる。
和令は慌てて端末のホログラムを消去すると、パッと後ろを向き、ツンと顎を上に向けて鼻から息を噴き出した。
「……遅いわよ、雑魚先祖!」
「えっ、まだ一時半だぞ?」
「お腹を空かせた師匠を待たせるなんて、弟子としてマイナス百点よ! ほら、さっさとその寿司を出しなさい! ウニが一粒でも潰れてたら承知しないんだからね!」
「潰れてないよ、大事に抱えて走ってきたんだから。……ほら、一緒に食べようぜ」
「ふん、当たり前でしょ! 私の分なんだから!」
ちゃぶ台の上に広げられた、折詰の特上寿司。
減らず口を叩き合いながらも、二人の笑い声が、冬の六畳間にどこまでも温かく響き渡っていった。
失われたはずの夢を取り戻し、未来の破滅を打ち砕いた二人。
だが――これは、すべての終わりではなかった。
正式なプロ四段への昇段、そして千駄ヶ谷の頂点に君臨する絶対王者・藤堂晃司竜将との邂逅へ向けて、プロ棋士・加藤清麿の新たな航海が、いま静かに始まろうとしていた。
読んでいただきありがとうございます。
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