EP 6
『思考停止』の快進撃
「2六歩」
開始の合図と同時だった。
清麿の手が伸びる。
対戦相手の男子高校生は、まだお辞儀の頭を上げきっていない。
「えっ……?」
高校生が面食らったように顔を上げる。
将棋は挨拶から始まる。通常、初手には一呼吸置くのがマナーであり、呼吸だ。
だが、今の清麿にそんな「人間的な間」は存在しない。
(チャートNo.1、展開開始)
脳内に、和令がインプットした数百の定跡パターンが展開される。
相手が「3四歩」と突けば、即座に「7六歩」。
相手が「8四歩」と飛車先を突けば、間髪入れずに「2五歩」。
(速い……!)
清麿自身が驚いていた。
かつての自分なら、ここで迷いが生じていた。
「相手の研究手ではないか?」「今日は調子が良いのか?」そんな余計なノイズが思考を濁らせていた。
だが今は、目の前の盤面に**赤いライン(勝ち筋)**が光って見える。
「くっ……な、なんだこの人……」
高校生が焦り始める。
自分の考慮時間はゼロ。相手が指した瞬間に手が伸びてくる。
まるで壁打ちテニスだ。
息つく暇も与えられないプレッシャー。
「4五桂」
清麿が指した一手。
会場の空気がピリリと変わった。
「おい、見たか今の」
「序盤で桂馬跳ね? 暴走だろ」
「いや、あれ……AIの推奨手にあるやつだぞ」
ギャラリーがざわつき始める。
高校生は長考に沈んだ。
額に脂汗をかき、扇子をパチパチと鳴らす。
心理的な動揺。
しかし、清麿は無表情のまま、ペットボトルの水を口に含んだ。
(……考えるな。考えたら負ける)
和令の言葉を反芻する。
思考はノイズだ。感情はバグだ。
俺はただの出力装置。未来の結論を、この時代に再現するためだけの機械。
「……負けました」
開始からわずか15分。
高校生が投了した。
盤面は、清麿の玉が全く傷ついていない完封勝利。
「……ありがとうございました」
清麿は淡々と頭を下げた。
勝利の余韻に浸ることもなく、すぐに駒を片付け始める。
「おい、加藤さん……勝ったぞ」
「しかも秒殺だ。あの高校生、県代表クラスだぞ?」
周囲の目が変わっていく。
「負け犬」「元奨励会」という侮蔑の色が消え、底知れぬ不気味なものを見る目に変わっていく。
◇
二回戦、三回戦。
清麿の快進撃は止まらなかった。
相手がベテランの強豪だろうが、奇襲戦法を使う若手だろうが、関係ない。
全て『チャート』にある。
未来のAIが300年かけて解析し尽くした「将棋の結論」の前では、現代のアマチュアの手など、赤子のハイハイに等しい。
「……強い」
「なんだあの指し回しは。人間味がない」
「『機械』だ……」
会場に、新たな二つ名が囁かれ始めた。
かつての「早指しの加藤」ではない。
感情を殺し、相手の希望を摘み取る、冷徹な処刑人。
(……これが、勝つということか)
清麿はトイレの鏡で自分の顔を見た。
顔色は悪い。目の下には隈がある。
だが、その瞳には奇妙な光が宿っていた。
麻薬のような高揚感。
相手が苦悶の表情を浮かべ、長考し、そして悪手を指す。
その瞬間、脳内のチャートが「勝利」を確定させる。
そのプロセスが、たまらなく快感だった。
「いい顔になってきたじゃない」
個室から出ると、和令が腕組みをして立っていた。
ステルス迷彩を解除し、ニヤリと笑っている。
「予選ブロック決勝。次はちょっと骨があるわよ」
「……誰だ?」
「アマ王将の『金田』。あんたの苦手な『振り飛車穴熊』の使い手よ」
穴熊。
玉をガチガチに固め、遠くから攻める戦法。
かつての清麿は、この「堅さ」を崩せず、焦って攻め急ぎ、自滅することが多かった。
「……穴熊か」
「ビビってるの?」
「いや」
清麿は首を振った。
脳内に、和令から新たなデータが転送されてくる。
『対穴熊・最終解法チャート』。
それは、穴熊を「堅さ」ではなく「ただの狭い棺桶」に変える、未来の定跡。
「崩し方は分かってる。……俺の頭の中に、全部ある」
「よろしい。行ってきなさい、私の最高傑作」
和令に背中を叩かれ、清麿は対局場へと向かった。
◇
予選ブロック決勝。
人だかりができていた。
その中心で、清麿は静かに盤を見つめていた。
対岸には、金田という巨漢の男が座っている。
豪快な指し回しで有名なアマ強豪だ。
「元奨励会だって? 久しぶりだな、プロ崩れを捻り潰すのは」
金田が挑発的に笑う。
清麿は答えない。
ただ、静かに歩を突いた。
対局は予想通り、金田の穴熊に進んだ。
金銀四枚で玉を囲う、鉄壁の要塞。
通常なら、ここから長いねじり合いになる。
だが。
「……3五歩」
清麿が仕掛けた。
まだ囲いが完成しきっていない、一瞬の隙。
いや、現代の定跡では「隙」とは見なされないタイミングだ。
「はっ、早いな! 焦ったか若造!」
金田が笑いながら応手する。
しかし、清麿の手は止まらない。
歩を突き捨て、銀を繰り出し、飛車を回る。
その手順は、まるでパズルのピースをはめるように正確無比。
(……ここだ)
チャートが赤く点滅する。
『4五銀直』。
普通なら、タダで取られる位置に銀を放り込む。
「なんだそれは! ミスか!?」
金田が即座に銀を取る。
会場がざわつく。
「やっちまったか?」「いや、暴発だろ」
だが、清麿の表情は変わらない。
銀を犠牲にしたことで、金田の穴熊の一角に、小さな「穴」が空いた。
その穴は、現代の目には見えない。
300年後の視点だけが捉えられる、崩壊へのトリガー。
「……終わりだ」
清麿がボソリと呟いた。
「あ?」
そこからの10手。
それは、会場の誰もが理解できない、しかし結果として「神速」と呼ばれる手順だった。
鉄壁だったはずの穴熊が、見るも無惨に剥がされていく。
金が剥がされ、銀が飛ばされ、玉が裸にされる。
「な、なんでだ……!? なんで受けが効かない!?」
金田の顔が蒼白になる。
どんなに受けても、清麿の攻めが止まらない。
まるで、未来から「詰み」を逆算して指されているような、絶対的な強制力。
「……詰みです」
清麿が最後の銀を打った。
金田の玉は、盤の真ん中で立ち往生していた。
「…………」
金田は投了を告げられなかった。
あまりの衝撃に、言葉を失っていたのだ。
周囲のギャラリーも、息をするのを忘れていた。
「……勝ちました」
清麿が静かに頭を下げる。
予選通過。
決勝トーナメント進出決定。
拍手すら起きない。
ただ、恐怖と敬畏の混じった沈黙が、会場を支配していた。
その光景を、遠くから見つめる男がいた。
佐伯健太だ。
「……嘘だろ」
佐伯は持っていたコーヒーを握り潰しそうになっていた。
「あいつの将棋……『思考』が見えない」
かつての清麿は、迷い、苦しみ、泥臭く指していた。
だが今の清麿は違う。
そこに「人間」はいない。
あるのは、勝利という結果だけを吐き出す、冷徹なシステム。
「……加藤。お前、何に魂を売った?」
佐伯の背筋に、冷たい汗が伝った。
かつての友が、得体の知れない「怪物」になって帰ってきた。
その予感が、確信へと変わろうとしていた。




