EP 7
『第四局、最後の敗北』
十一月中旬、千駄ヶ谷の空はどこまでも高く青く澄み渡り、街路樹の銀杏は鮮やかな黄金色の葉を冬の初風に激しく散らしていた。
木造アパートの六畳間に差し込む朝の光は硬く冷たく、ガラス戸をガタガタと揺らす木枯らしの音が、張り詰めた季節の到来を告げている。
加藤清麿は、ちゃぶ台の前に正座し、丁寧に糊のきいた白シャツの袖口にカフスボタンを留めていた。
胸の奥で刻まれる鼓動は、驚くほど静かだった。
数日前、四年ぶりに連絡をしてきた実家の両親に対し、清麿は己の弱さと決別を告げた。
他人の虚栄心を満たすためでも、見捨てた親に褒められるためでもない。自分の足で立ち、自分自身の命を取り戻すために盤に向かうのだと、魂の底から言い切った。
かつて背負っていた見えない鎖は、完全に断ち切られていた。
プロ棋士編入試験五番勝負、本日は第四局。
成績はここまで二勝一敗。
規定の三勝まで、あと「一勝」。
今日勝てば、即座にプロ四段への編入が決定し、三段リーグ退会から四年を経て、奇跡のプロ棋士が誕生する。
大手ポータルサイトの将棋欄には、早朝から巨大な見出しが躍っていた。
『加藤清麿アマ、悲願のプロ入りへ今日決着か!』
『編入試験第四局、対するは三段リーグの不屈の闘士・高杉透四段!』
掲示板の実況スレッドは、開始前から秒刻みで加速している。
『今日決まるのか……!』
『2勝1敗からの第4局は精神的に一番有利なはず』
『相手の高杉四段は三段リーグで何度も泣いて、24歳ギリギリで上がってきた苦労人だぞ。絶対に簡単には勝たせてくれない』
『頼むから今日決めてくれ! 最終局までもつれたら心臓が持たない!』
世間の過熱する熱狂を画面越しに眺めながら、清麿は静かに息を吸い込んだ。
勝てば天国、だが負ければ二勝二敗のタイに戻され、すべてが水泡に帰しかねない最終第五局のサドンデスへと引きずり戻される。
巨大な崖っぷちの気配を背中に感じながらも、清麿の指先に震えはなかった。
「……ちょっと。朝からネクタイの結び目を十回も締め直して、何のモデル気取りよ、雑魚先祖」
台所の方から、アルミ鍋の蓋を小気味よく鳴らしながら、和令がツンと尖った声を飛ばしてきた。
銀と藍色のライダースーツの袖をたくし上げ、千代の花柄エプロンをきゅっと腰に巻いている。
「モデル気取りじゃない。結び目が少し緩んでたんだよ」
「嘘おっしゃい。鏡に映る自分の顔を二分間も見つめて、口角が三ミリ上がってたわよ。『今日でプロ棋士になる俺、マジでかっこいい』って毛穴から自惚れがダダ漏れよ」
「だから毛穴から自惚れは出ないって言ってるだろ! だいたい、少しは自信を持って対局室に入らなきゃ、相手の気迫に呑まれるだろ」
「自信と慢心は紙一重って、三百年後のことわざ辞典に太字で載ってんのよ! 今日決められなかったら、最終局で胃液吐きながら指す羽目になるんだからね!」
「脅かすなよ! 今日決める気満々で行くに決まってるだろ! ……で、今朝の朝ごはんは?」
「見れば分かるでしょ! 豆腐とワカメの味噌汁に、スーパーの見切り品の大根サラダ、そして――ほら!」
ドン、とちゃぶ台の中央に置かれた平皿を見て、清麿は息を呑んだ。
こんがりと黄金色に焼き上がった、大判のハムエッグ。
ぷっくりと張った二つの黄身が、やわらかな朝日を浴びて宝石のように輝いていた。
「……卵が、二個も……! しかもハム付きか!?」
「当たり前でしょ! 今日勝てばプロ編入試験合格、私の三百年分の借金地獄を消し去る記念すべき日よ! 一個二十円の超高級資源を二倍投じて、炭素系生命体の最高峰のタンパク質を支給してあげたんじゃないの!」
「先行投資どころか、特盛の全力投資じゃないか……! ありがとう、和令。めちゃくちゃ美味そうだ」
「へ、変に素直に感謝するんじゃないわよ、気味が悪い! プロ入りを逃して帰ってきたら、このハムエッグ代に年利三千パーセントの利息をつけて請求するからね!」
「相変わらず利息が暴利すぎるだろ! ……いただきます!」
清麿は箸を割り、半熟の黄身を白米の上で崩した。
濃厚な黄身のコクとハムの塩気が、炊きたてのご飯の甘みと混ざり合い、五臓六腑へ熱く染み渡っていく。
和令は小さく鼻を鳴らすと、腰のホルダーから透明な薄型端末を引き抜き、空中に青白い立体ホログラムを展開した。
「味わってないで、対戦相手のデータを頭に叩き込みなさい! 編入試験第四局、本日の相手はプロ四段の高杉透、二十四歳よ」
空中に浮かび上がったのは、無精髭をうっすらと残し、野武士のように鋭い眼光を放つ青年棋士の写真だった。
「高杉四段……三段リーグに六年間在籍し、年齢制限が迫る二十四歳で悲願のプロ入りを果たした苦労人だな」
「そうよ。第一局の宮坂みたいなスマートなAI研究派でも、第三局の北条みたいな理知的な受け潰しでもないわ。……彼は、泥水を何杯も啜って這い上がってきた生粋の『勝負師』よ」
「泥水を啜ってきた男か……」
「ええ。劣勢になればなるほど、自陣の玉を危険に晒してでも相手の急所へ噛みついてくる、猛獣のような終盤力を持ってるわ。……いい、清麿? 相手にとって、あんたは『自分と同じように三段リーグで苦しみながら、裏口からプロになろうとしている許せない敵』よ。公式戦の誰よりも、凄まじい執念でぶつかってくるわ」
「……分かってる」
清麿は力強く頷き、味噌汁を最後の一滴まで飲み干した。
「俺も、四年間の暗闇を越えてここまで来たんだ。相手の執念ごと、盤上で真っ向から受け止めてみせる」
「言ったわね、雑魚先祖! 今日勝って、プロの切符をもぎ取ってきなさい!」
バチンッ、と背中に叩き込まれた手のひらの痛快な熱狂を背負い、清麿は千駄ヶ谷の決戦場へと歩み出した。
午前九時四十分。
日本将棋会館・四階、特別対局室。
青畳の上に漂う空気は、息を吸い込むだけで肺の奥が凍りつくような冷気を孕んでいた。
上座には、すでに高杉透四段が座していた。
黒の羽織袴。短く刈り込んだ無造作な黒髪の奥から覗く双眸は、飢えた野犬のようにぎらつき、対局前から全身から立ち上る殺気が部屋の温度を塗り替えている。
清麿が下座に進み、座布団の上に正座して深々と頭を下げる。
「加藤さんですね」
高杉の声は低く、ひび割れた砥石のようにざらついていた。
「あなたの将棋、全部見ましたよ。未来の定跡だかなんだか知りませんが、随分と綺麗にプロをカモってこられたようで」
「……」
「でもね、俺は三段リーグで六年間、何十人もの仲間が夢破れて消えていく地獄を見てきたんだ。……あんたが一度逃げ出したあの場所で、俺は血反吐を吐きながら四段をもぎ取った。あんたなんかに、プロの敷居を跨がせるわけにはいかないんですよ」
剥き出しの憎悪と、誇りを懸けた敵意。
だが、清麿の心は揺らがなかった。
(そうだ。お前の言う通りだ、高杉四段)
清麿は静かに背筋を伸ばし、深く息を吐き出した。
(俺は一度逃げた。……だからこそ、今日はお前のその執念を、俺自身のすべてで越えてみせる)
「よろしくお願いいたします」
深々と礼を交わし、駒箱の蓋が開けられた。
「定刻となりました。加藤清麿アマチュア、プロ棋士編入試験五番勝負・第四局を開始してください」
記録係の声が凛と響き渡る。
振り駒の結果、高杉の先手、清麿の後手番と決まった。
高杉の手つきは、まるで盤を叩き割るかのように荒々しかった。
初手、▲7六歩。
清麿も間髪を入れずに応じる。
△3四歩。
互いに角道を開け、飛車先を突き合う。
局面は、現代将棋の激戦区――『相掛かり』へと進展していった。
序盤の二十手、清麿の指し手には寸分の淀みもなかった。
三百年後の完全定跡アーカイブが教える『パターンA・常識破壊の序盤』の哲学。
高杉が力任せに繰り出してくる銀の前進に対し、清麿は自陣の玉をふわりと中央寄りへ移動させ、相手の攻め駒の射線をわずかに逸らす絶妙な間合いを保ち続ける。
三十手、四十手。
高杉の荒々しい踏み込みが、清麿の敷いた柔軟なクッションに吸い込まれ、ことごとく空振りを繰り返していく。
じわじわと、だが確実に、盤上の主導権は清麿の後手陣へと傾いていった。
午後を回り、二階の控室。
モニターを取り囲む棋士たちと、記者の神崎澪の間で、興奮混じりの囁きが交わされていた。
「……加藤アマ、完璧な指し回しですね」
解説の若手棋士が身を乗り出し、感嘆の声を上げる。
「高杉四段の力強い攻めを、見事な大局観でいなしています。AIの評価値は後手――加藤アマにプラス六百点。このまま手堅く駒得を広げていけば、夕方には新プロ棋士が誕生する展開ですよ」
「ええ……」
神崎澪は手帳のペンを握りしめ、画面を凝視していた。
「両親との確執を乗り越え、加藤さんの指し手から迷いが完全に消えています。……ついに、悲願の瞬間が訪れるのかしら」
ネット中継のコメント欄も、お祭り騒ぎの歓喜で埋め尽くされていた。
『加藤アマ勝勢きたあああ!』
『評価値完全に傾いたぞ! 今日で合格決定だ!』
『30歳でプロ入りとか歴史的瞬間すぎるだろ!』
『高杉四段の手が止まった! いけるぞ加藤!!』
――しかし。
勝負の世界の魔物は、勝利の果実が最も甘く熟したその瞬間に、暗闇の底から牙を剥く。
七十手を迎えた夕暮れ時。
誰もが「後手優勢、先手受けなし」と確信し、投了のタイミングを計り始めていたその瞬間だった。
盤の向こうで肩を落とし、うずくまるように長考していた高杉透四段が、突如としてガバリと顔を上げたのだ。
血走った両眼。
羽織の襟元を乱し、喉の奥から獣のような荒い息を吐き出すと、高杉は自陣の飛車を力任せに掴み取った。
そして――。
自らの玉の守りを完全に放棄し、清麿の玉陣の喉元――金銀の連携が最も分厚い危険地帯へと、飛車を叩き落としたのだ!
――ズドォォォォンッ!!
特別対局室の障子がビリビリと共鳴するような、凄まじい轟音。
「…………っ!?」
清麿の心臓が、跳ね上がるように硬直した。
息が止まる。
飛車の捨て駒!
現代の将棋AIの計算であれば、自玉の詰みを早めるだけの「完全な暴発」「大悪手」と判定されるはずの、狂気の特攻だった。
だが――盤上に立ち上る高杉の気迫は、死地に飛び込む獣そのものだった。
(取れるものなら取ってみろ、加藤清麿!! 綺麗に勝とうなんて思うな!! てめえの喉笛を食い破ってでも、俺はこの盤にしがみついてやる!!)
無言の咆哮が、盤上から津波のように清麿を呑み込みにかかる。
「――加藤アマ、残り時間五分です」
記録係の冷徹な声が、対局室の静寂を切り裂いた。
清麿の視界が、急速に狭窄していった。
頭がカッカと熱い。
(落ち着け……! 相手の手は無理攻めだ。冷静に対処すれば、絶対に勝てる……!)
清麿の脳内将棋盤が、猛烈な速度で先の手順を追っていく。
手は、二つあった。
一つは――自陣の玉を中段へ一歩進め、相手の暴風のような捨て駒を完全に無視して、敵玉へ最短の詰み筋を叩き込みにいく『踏み込みの手』。
読み切れば、わずか七手で高杉の玉は即詰みに討ち取れる。
そしてもう一つは――相手の飛車を手堅く自陣の金で払い、相手の攻めを一度受け止め、長い持久戦で安全に逃げ切る『受けの手』。
「三十秒……四十秒……五十秒……」
記録係の秒読みが無慈悲に迫る。
その瞬間、清麿の脳裏に、ふっと悪魔のような囁きがよぎった。
(……今日、勝てばプロになれる)
あと一手。あと数手。
今日勝てば、すべてが終わる。千代が笑い、和令が喜び、プロ棋士としての新しい人生が始まる。
その「勝ちたい」という強烈な執着が――ほんのわずか、清麿の指先を踏みとどまらせた。
(踏み込んで、もし読み落としがあったらどうする……? 自玉が即死したらどうする……? 確実に受けておけば、相手の攻め駒は切れるはずだ……!)
無意識の保身。
勝負の熱狂の中で生じた、コンマ一秒の「安全への逃げ水」。
清麿の右手が、震えながら伸びた。
――パシッ。
清麿は、高杉の飛車を手堅く金で払った。
その瞬間だった。
高杉透の口元が、獲物を罠にハメた獰猛な肉食獣のように、吊り上がった。
「……逃げましたね、加藤さん」
低く、地鳴りのような囁き。
――バチィィィンッ!!
高杉がノータイムで放ったのは、自陣の底深くに眠っていた一枚の香車を、清麿の玉の退路を断つ絶妙な間隙へと走り込ませる、恐るべき「反撃の狼煙」だった!
「…………っ!?」
清麿の背筋を、冷たい氷水が滝のように流れ落ちた。
見落としていた。
飛車を取るために動かした清麿の金。
その金が動いたことによって、先ほどまで鉄壁だったはずの後手陣の守備ラインに、わずか一マスの「空白」が生まれていたのだ。
高杉の狙いは、飛車で清麿の玉を殺すことではなかった。
清麿に飛車を取らせることで、清麿の守備駒の連結を乱し、自らの香車を急所へ突き刺すための「一手」を稼ぐことだったのだ!
(しまっ……た……!?)
清麿の喉から、声にならない悲鳴が漏れた。
最短の詰み筋を見逃し、安全策を選んだ結果、盤上の主導権は完全に高杉の掌へと渡っていた。
「六、七、八――」
秒読みが非情にカウントされる。
高杉の猛攻が始まった。
――ズドンッ!
桂馬を跳ねて王手。
――バシィッ!
銀を叩きつけて退路を断つ。
三段リーグで六年間、命を削り合ってきた男の、執念の寄せ。
清麿は泥水を啜るようにして必死に受けの手を探したが、一度狂った歯車は二度と戻らなかった。
逃げ場がない。
百二十四手目。
高杉は手元に残っていた最後の一枚の金を、清麿の玉の頭上へと、力任せに叩きつけた。
――ドォォンッ!!
逃げ場なしの、完全なる即詰み。
「…………」
対局室から、すべての音が消え去った。
加藤清麿は盤上に両手を落としたまま、ガタガタと肩を震わせていた。
勝機は、確かにあったのだ。
七十手目の局面で、恐怖に打ち勝ち、あの一歩を踏み出してさえいれば、自分がプロ棋士になっていたはずだった。
だが、プロへの切符の眩しさに目が眩み、安全策に逃げた己の弱さが、この敗北を招いたのだ。
清麿はゆっくりと畳に額を擦りつけ、掠れた声で頭を下げた。
「……参り、ました」
百二十四手。
プロ棋士編入試験五番勝負・第四局。
加藤清麿は、高杉透四段の捨て身の猛反撃に呑まれ、痛恨の逆転負けを喫した。
「……ありがとうございました」
高杉四段が深く頭を下げた。
その顔には、勝利の奢りは微塵もなかった。全身から湯気を立て、肩で激しく息をしながら、ただ死線をくぐり抜けた者だけが持つ疲労と執念の光を宿していた。
記録係が公式記録用紙にペンを走らせる。
『プロ棋士編入試験第四局 勝者:高杉透四段』
『敗者:加藤清麿アマチュア』
『試験成績:通算2勝2敗』
二勝二敗。
五番勝負は、ついに最終局――勝った方がプロ、負けた方がすべてを失う、運命の第五局へと持ち越されたのだ。
*
重苦しい感想戦と取材を終え、将棋会館の外へ出た頃には、千駄ヶ谷の街は凍てつくような夜の闇に沈んでいた。
吹き抜ける木枯らしが、汗に濡れた清麿のワイシャツを容赦なく凍えさせていく。
通りを渡り、鳩森八幡宮の境内へと足を踏み入れると、街灯の薄明かりの下、銀と藍色のライダースーツを着た少女が立っていた。
加藤和令。
彼女は両腕を組み、夜風に黒髪を激しく乱されながら、じっと清麿を待っていた。
清麿は和令の前で足を止め、俯いたまま、小さく息を吐き出した。
「……負けたよ」
掠れた、痛切な声だった。
「七十手目……踏み込めなかった。今日勝ちたいって、プロになりたいって欲を出して……手堅い受けを選んで、逆転された。……俺の、心の弱さのせいだ」
和令は何も言わなかった。
第二局の夜のように泣き崩れることも、「雑魚先祖!」と怒鳴り散らすこともなかった。
少女はただ、ぎゅっと唇を噛み締め、清麿の前に一歩歩み寄った。
そして――。
ドンッ、と自らの額を、清麿の胸元へと力強く押し当ててきた。
「……バカ先祖」
低く、震える声だった。
「七十手目で日和ったのは、百発殴ってやりたいくらい腹が立つわよ。……でもね、清麿」
和令は顔を上げ、夜空のように深く澄んだ瞳で、真っ直ぐに清麿を見据えた。
「二勝二敗よ。まだ、負けてないわ」
「和令……」
「次が……正真正銘、最後の勝負よ。第五局で勝てばプロ、負ければ終わり。最初から、私たちは崖っぷちの綱渡りをしてきたんじゃないの!」
少女の掌が、清麿の凍えた手をギュッと強く握りしめた。
「帰るわよ! 今夜から、最終局へ向けて死ぬ気で研究し直すんだから! 泣き言なんて、プロになってからいくらでも聞いてあげるわよ!」
「……ああ」
清麿は力強く握り返した。
絶望は、もうなかった。
すべてを懸けた最終決戦へ向けて、二人の魂の炎は、木枯らしの夜空の下で、かつてないほど熱く燃え上がっていた。
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