EP 6
『絶縁した両親からの連絡』
十一月に入った千駄ヶ谷には、冬の気配を孕んだ乾いた北風が吹き抜け始めていた。
鳩森八幡宮の境内にそびえる大銀杏は、見事な黄金色の葉を敷き詰めるように石畳へと散らし、参拝客の足元でカサコソと静かな乾いた音を立てている。
木造アパートの六畳間に差し込む朝の光はどこか白っぽく、ガラス戸の隙間から忍び込む冷気が、擦り切れた畳の表面をひんやりと冷やしていた。
ちゃぶ台の前に正座した加藤清麿は、湯呑みから立ち上る薄い湯気をぼんやりと見つめていた。
プロ棋士編入試験五番勝負、第三局。
若き鉄壁・北条圭介四段を相手に、未来の定跡アーカイブにない自らの読みで活路を切り拓き、九十八手で掴み取ったあの劇的な勝利から一週間。
五番勝負の通算成績は、これで『二勝一敗』。
合格条件である三勝まで、ついにあと「一勝」――プロ棋士誕生へ向けて、完全に王手(マジック1)がかかっていた。
ネットの将棋ニュースや一般紙の社会面には、連日『加藤清麿アマ、次回勝利でプロ入り決定!』『四年前の挫折を越えた三十歳の奇跡』と巨大な見出しが躍り、将棋連盟の事務所には連日テレビ局からの取材依頼が殺到しているという。
世間は完全に、お祭り騒ぎだった。
だが、当の清麿の心は、熱狂の渦から切り離されたように静まり返っていた。
勝てば天国、負ければカド番。
重圧がないと言えば嘘になる。だが、第二局で蓮沼四段に負けた時のように、恐怖で足が竦むような感覚は不思議と消え失せていた。
自分は一人ではない。
未来から来た相棒と互いの脆さをさらけ出し、泥水を啜ってここまで歩んできたのだ。その確信が、冷えた身体の奥底で、小さな薪のように温かい熱を放ち続けていた。
「……ちょっと。朝っぱらから虚空を凝視して、何のお地蔵様のモノマネをしてんのよ、雑魚先祖」
台所の方から、カチャカチャと食器を並べる音とともに、聞き慣れた容赦のない甲高い声が飛んできた。
銀と藍色のライダースーツの袖をたくし上げ、千代の花柄エプロンをきゅっと腰に巻いた和令が、盆を両手に持って六畳間へと入ってくる。
「お地蔵様じゃない。集中力を高めてたんだよ」
「嘘おっしゃい。顔の筋肉が弛緩しきって、口角がだらしなく二ミリ下がってたわよ。『王手をかけた俺、マジで歴史の主役』って毛穴から自惚れ蒸気がシューシュー噴き出してたわ」
「自惚れ蒸気ってなんだよ! 噴き出してない! だいたい二勝一敗になったくらいで調子に乗るほど、俺は能天気じゃないぞ」
「能天気のくせに口先だけは達者ね! 第四局で負けたら二勝二敗のタイに戻されて、最終局の地獄のサドンデスに逆戻りなのよ! 分かってんでしょうね!?」
「言われなくても痛いほど分かってるよ! だから朝から気を引き締めてたんじゃないか!」
「引き締めるのは気合じゃなくて、六畳間の押し入れの隙間よ! 北風がピューピュー吹き込んできて、私のナノスーツの温度維持機能が電力不足でエラー吐きそうなんだけど!」
「アパートの気密性の低さを俺のせいにするな! 築四十年なんだから隙間風くらい我慢しろ!」
「三百年後の高気密シェルター育ちの私に木造ボロ屋の隙間風を耐えろなんて、人道に対する罪よ! ほら、文句があるなら朝ごはんを五分で胃袋に放り込みなさい!」
ドン、とちゃぶ台の上に置かれたのは、湯気を立てる豆腐と長ネギの味噌汁、スーパーの見切り品の大根の煮物、そして――小鉢に盛られた納豆だった。
「……あれ? 卵は?」
「あるわけないでしょ! 第三局の前に、特売の卵を二個丸ごと使った超絶美味な極上だし巻き玉子を先行投資してあげたじゃないの!」
「先行投資って……第三局に勝ったんだから、配給が復活してもいいだろ!」
「勝ったからこそ引き締めるのよ! 第四局でプロ入りを完全に決めるまで、卵は我が家の最高機密金庫に厳重封印よ! 卵一個でたるんだ脳みそを引き締め直して、さっさと納豆を百回かき混ぜなさい!」
「百回は混ぜすぎだろ! 腕が筋肉痛になるわ! ……でも、味噌汁は美味そうだな。いただきます」
「ふん、味わってないで素早く糖分とタンパク質を前頭葉に送り込みなさい!」
減らず口の応酬を繰り広げながら、清麿は熱い味噌汁をすすった。
長ネギの甘みと出汁の温かさが、冷えた胃袋にじんわりと染み渡っていく。
和令の口の悪さは相変わらずだ。だが、その言葉の端々に、清麿を決して孤独なプレッシャーの中に置き去りにしないという、不器用な気遣いが溢れているのを清麿は知っていた。
二人がちゃぶ台を挟んで箸を進めていた、その時だった。
ブーッ、ブーッ、ブーッ。
畳の上に置かれていた清麿のスマートフォンが、けたたましい振動音を立てて震え始めた。
「……ん? 誰からだ?」
清麿が茶碗を置き、画面に目を落とした瞬間。
全身の血液が、音を立てて凍りついたように冷たくなった。
液晶画面に表示されていたのは、電話帳に登録されていない、見覚えのある市外局番から始まる十桁の固定電話番号だった。
四年問、一度たりとも着信履歴に残ることのなかった番号。
静岡の実家――両親の住む家の番号だった。
「…………っ」
清麿の指先が、空中でピタリと硬直した。
呼吸が止まり、心臓が肋骨を内側から激しく叩くような不快な鼓動を打ち始める。
「……清麿? どうしたのよ」
和令が怪訝そうに眉をひそめ、ちゃぶ台の上のスマートフォンを覗き込んできた。
「誰からの着信よ。また神崎記者? それとも連盟の事務局?」
「……いや」
清麿の喉から、かすれた息が漏れ出た。
「……実家だ」
「実家?」
和令の大きな瞳が、丸く見開かれた。
「あんたのご両親……? でも、あんた、四年前に奨励会を退会した時に絶縁されたって……」
「ああ。……勘当同然で追い出されたよ。電話番号も変えられて、二度と連絡してくるなって言われてた」
脳裏に、あの忌まわしい記憶が、泥の底から湧き上がるように鮮烈に蘇った。
四年前、二十六歳の春。
年齢制限により、人生のすべてを捧げてきた三段リーグからの退会が決まったあの日。
清麿は、新幹線の自由席に揺られ、静岡の実家へと向かった。
幼い頃から「神童」と持て囃され、奨励会に入ってからは新幹線代や対局費用、宿泊費など、決して裕福ではない家計から莫大な支援を受けてきた。
その期待を裏切り、何の実績も肩書きも残せず、ただの二十六歳の無職になって帰ってきた長男。
実家の居間で、清麿は畳に額を擦りつけ、涙を流して土下座した。
『申し訳ありませんでした。……プロになれませんでした』
返ってきたのは、父親の氷のように冷たく、そして激昂に満ちた怒声だった。
『十六年間! 十六年間も好き勝手に将棋を指させてやって、いくらの金をドブに捨てさせたと思ってるんだ! 周囲の親戚や近所には「息子はもうすぐプロ棋士になる」と言い続けてきた私の面目は丸潰れだ!』
父親は居間のガラス戸を蹴破らんばかりに怒鳴り散らした。
『お前は我が家の恥晒しだ! 三十手前にもなって定職にも就けない穀潰しなど、私の息子ではない! 親子の縁を切る! 二度とこの家の敷居を跨ぐな!!』
母親もまた、そんな父親の怒声の横で、清麿から冷淡に目を逸らし、ただの一言も庇おうとはしなかった。
それどころか、清麿が東京へ戻った数日後、実家の電話番号は変更され、清麿が送った謝罪の手紙は「受取拒否」のスタンプを押されて送り返されてきたのだ。
絶望の底に突き落とされ、自暴自棄になった清麿は、自分を支えてくれていた恋人の理央すらも傷つけて突き放し、千駄ヶ谷のボロアパートで社会のゴミのように蹲り続けた。
その両親から、四年ぶりに電話がかかってきている。
十数回のコールの後、着信はプツリと切れ、留守番電話の通知アイコンが画面に灯った。
清麿は震える指先で画面をタップし、スピーカーをオンにした。
『――あー、清麿か。父親だ』
スピーカーから流れてきたのは、四年という歳月を感じさせない、横柄で、どこか勝ち誇ったような男の声だった。
『テレビのニュースを見たぞ。なんだ、プロの編入試験とやらに王手をかけてるそうじゃないか。あと一勝でプロ棋士になるんだってな』
背後で、母親の「あなた、もっと優しく言いなさいよ」という甘ったるい囁き声が微かに混じる。
『まあ、昔のことは水に流してやる。お前が正式にプロ四段になったら、実家に戻ってきなさい。親戚中にも「うちの息子がプロ棋士になった」と伝えてあるし、地元の後援会も作れるよう手配してあるからな。次の対局はいつだ? 家族なんだから、晴れ舞台には両親として会館へ応援に行ってやる。この電話を聞いたら、すぐに折り返しなさい』
ブツリ、と一方的に録音が切れた。
六畳間に、静まり返った沈黙が落ちた。
あまりにも、身勝手だった。
二十六歳で夢破れ、死に瀕していた時には「恥晒し」「親子の縁を切る」と罵倒して路頭に迷わせた人間が。
テレビで息子の活躍を見て、プロ入りが目前に迫った途端、何事もなかったかのように「親」の顔をして擦り寄ってきたのだ。
謝罪の言葉も、この四年間の苦労を案じる言葉も、何一つない。
あるのは、「プロ棋士の親」という肩書きを親戚や近所に自慢したいという、卑しい虚栄心だけだった。
「…………なんなのよ、こいつらッッ!!!!」
沈黙を切り裂いたのは、和令の怒号だった。
少女はちゃぶ台をバンッと両手で叩いて立ち上がると、肩を激しく怒りに震わせ、目を吊り上げた。
「何が『水に流してやる』よ! 何が『応援に行ってやる』よ! どのツラ下げて親面してんのよ、この厚顔無恥な原始人どもは!!」
「和令……」
「一番苦しくて、死にそうになってた時にはゴミみたいに切り捨てたくせに! プロになってチヤホヤされそうになったら、手のひら返して寄生しにくる気満々じゃないの! 虫が良すぎるにも程があるわよ!!」
和令の怒りは、清麿以上に凄まじかった。
彼女は三百年後の未来から、加藤家の悲惨な歴史を背負ってやってきたのだ。
清麿が意識不明の重体になった正史において、この両親が千代に兄の介護と莫大な保存費用のすべてを押し付け、自らは早々に逃げ出したという記録を、和令は知っているのかもしれなかった。
「清麿! こんなの着信拒否よ! 二度と連絡なんて取らなくていいわ!」
和令が激昂してスマートフォンの画面を操作しようとした、その時だった。
トントントン、と階段を駆け上がってくる足音が響き、勢いよく玄関のドアが開いた。
「お兄ちゃん! いるんでしょ!?」
飛び込んできたのは、妹の加藤千代だった。
私服のトレンチコートの肩を息で大きく上下させ、頬を紅潮させている。
「千代……? どうしたんだ、そんなに息を切らして」
「どうしたじゃないよ! ……お父さんから、連絡あったでしょ」
千代の言葉に、清麿は息を呑んだ。
「お前のところにも……電話が?」
「うん。今朝、病院の夜勤明けにスマホ見たら、実家から着信が入ってて……」
千代は靴を脱いで六畳間に上がると、悔しさに唇をぎゅっと噛み締めた。
「お父さん、すっごく興奮した声で言ってきたの。『清麿がプロになりそうだ、今すぐ連絡先を教えろ、静岡の後援会に千代も顔を出せ』って……! 私、頭に血が上っちゃって、思わず怒鳴っちゃった」
千代の瞳に、悔し涙が滲んでいた。
「『お兄ちゃんが一番辛かった時に、親子の縁を切るって追い出したのは誰よ! お兄ちゃんが死にそうだった四年間、一度だって心配の電話一本くれなかったくせに、今さら都合よくお父さん面しないで!』って……!」
「千代……お前、そんなこと言ったのか」
「当たり前だよ! 私、許せないよ……! お兄ちゃんがどれだけ苦しんで、どれだけ泣いて、ここまで這い上がってきたか、何一つ知らないくせに……! プロになりそうだからってすり寄ってくるなんて、あまりにも勝手すぎるよ……!」
千代の肩が、激しい怒りと悲しみで震えていた。
かつて清麿が絶望していた時、兄を責めず、見捨てず、ただ静かに寄り添ってくれた妹。
その千代が、清麿の代わりに両親への怒りを爆発させてくれている。
清麿は胸の奥が熱くなり、静かに妹の肩に手を置いた。
「ありがとう、千代。……お前がそこまで怒ってくれて、胸がすいたよ」
「お兄ちゃん……」
千代は鼻をすすり、清麿の顔を真っ直ぐに見上げた。
「でもね、お兄ちゃん。決めるのは、お兄ちゃんだよ」
「え……?」
「お父さんたちのことを許してもいい。許さなくてもいい。……全部、お兄ちゃんが自分で決めていいんだよ」
千代の声は、優しく、そして力強かった。
「だって、これはお兄ちゃんの人生なんだから。お父さんの顔色を伺うためでも、親戚に褒められるためでもない……お兄ちゃん自身の将棋なんだからね」
千代の言葉が、清麿の心の奥底に深く、静かに染み渡っていった。
そうだ。
自分はかつて、なぜ将棋を指していたのだろうか。
子どもの頃は、盤の上に駒を並べるだけで楽しかった。
だが、いつの間にか「プロにならなければ親に認めてもらえない」「周囲の期待に応えられなければ自分には価値がない」という強迫観念に縛られていた。
他人の承認を求め、他人の目を恐れ、負けることに怯え続けた結果、あの三段リーグで心を壊して自滅したのだ。
だが、今は違う。
自分は、親に褒められるために盤の前に座っているのではない。
世間にチヤホヤされるために戦っているのではない。
自分の足で立ち上がり、失った時間を取り戻し、自分を信じて支えてくれた千代や和令、師匠の榊原九段とともに、真の勝負師として生きるために盤に向かっているのだ。
清麿は深く息を吐き出すと、ちゃぶ台の上のスマートフォンを手に取った。
「……清麿? 何する気よ」
和令が心配そうに身を乗り出してくる。
「電話をかけるよ」
「えっ!? あんな毒親どもに電話なんてかけたら、言いくるめられて利用されるわよ!」
「大丈夫だ」
清麿は静かに微笑んだ。
その瞳の奥には、迷いも、怒りも、恐れもなかった。
ただ、澄み切った水底のような静寂が宿っていた。
「逃げ回るんじゃない。……俺自身の言葉で、終わらせてくる」
清麿は実家の番号をタップし、発信ボタンを押した。
プルルル、プルルルと、冷たい呼び出し音がスピーカーから鳴り響く。
三回、四回。
ガチャリ、と受話器が上がる音がした。
『――もしもし! 清麿か!? 遅かったじゃないか!』
父親の、弾んだ声が響く。
『留守電は聞いたな? まったく、プロになるならもっと早く連絡してくればいいものを。母さんも喜んでるぞ。で、次の第四局の対局会場のチケットは手に入るのか? 親戚の叔父さんたちも連れて――』
「父さん」
清麿は静かに、だが遮るように声を落とした。
『……あ? なんだ、改まって』
「留守電、聞きました。……連絡をくれたことには、感謝します」
『おう、分かればいいんだ。過去のことは水に流してやると言っただろ。お前もこれで立派なプロ棋士として――』
「ですが、実家に戻るつもりはありません」
ピタリと、受話器の向こうの言葉が止まった。
『……は? お前、何を言ってるんだ?』
「後援会の話も、応援に来るという話も、すべてお断りします」
清麿の声は、一切の震えもなく、凛と六畳間の空気を震わせた。
『な……何を生意気なことを言っているんだ! 親がわざわざ歩み寄ってやってるんだぞ! 十六年間、お前にどれだけの金をかけてやったと思ってるんだ!』
途端に、父親の声がかつての怒気を取り戻して荒れ狂い始める。
『プロになれそうだからって、調子に乗るんじゃない! 誰のおかげでここまで将棋が指せたと思ってるんだ! 親の恩を忘れて――』
「恩は、忘れていません」
清麿は真っ直ぐに前を見据え、言葉を紡いだ。
「子どもの頃、将棋を指させてくれたことには、心から感謝しています。……ですが、四年前、プロになれなかった俺を『恥晒し』と罵倒し、親子の縁を切ったのは、父さんと母さんです」
『それは……お前が不甲斐ないから、親として厳しく叱っただけで――』
「違います。あなた方は、プロになれなかった俺を切り捨てたんです。自分のプライドのために、都合の悪い息子を見捨てたんです」
淡々と、だが揺るぎない事実を突きつける。
「俺はあの日、すべてを失いました。死のうとさえ思いました。……その暗闇から、泥水を啜って、這い上がらせてくれたのは、あなた方ではありません」
清麿は横に立つ千代と、和令の顔を見つめた。
「俺を信じてくれた妹と、命がけで支えてくれた相棒と、見捨てずにいてくれた師匠です。……俺が今、盤の前に座っていられるのは、その人たちのおかげです」
『き、清麿……お前……!』
「俺は、あなた方に褒められるためにプロを目指しているんじゃない。親戚に自慢させるために将棋を指しているんじゃない」
清麿は深く息を吸い込み、最後の言葉を告げた。
「俺は、俺自身の人生を生きるために、戦っています。……ですから、もう二度と、連絡してこないでください。失礼します」
カチリ。
父親が何かを喚き散らそうとする声を遮り、清麿は通話終了ボタンを押した。
そして、迷うことなくその電話番号を着信拒否リストへと登録した。
静寂が、六畳間に戻ってきた。
スマートフォンの画面が暗転し、清麿の顔が黒いガラスにぼんやりと映し出される。
震えはなかった。
後悔も、胸を締め付けるような罪悪感も、何一つ湧き上がってこなかった。
あったのは、長年自分を縛り付けていた重たい鎖が、音を立てて砕け散ったような、圧倒的な解放感だった。
過去の傷を認め、他人に人生を委ねることを完全に拒絶した瞬間。
加藤清麿は、三十歳にして初めて、自らの人生の主導権を完全にその掌に取り戻したのだ。
「……お兄ちゃん」
千代が、涙をポロポロとこぼしながら、清麿の腕にしがみついてきた。
「かっこよかったよ……! お兄ちゃん、本当にかっこよかった……!!」
「千代……ありがとうな」
清麿は妹の頭を優しく撫でた。
その隣で、腕を組んで仁王立ちしていた和令が、ツンと顎を上に向けて鼻から大きく息を噴き出した。
「……ふん! まあ、原始人のにしては、上出来の啖呵だったんじゃないの」
和令はそう言って、ぷいと横を向いた。
だが、その瞳の奥には、かつてないほどの敬意と、誇らしげな光が満ち溢れていた。
「自分のケツは自分で拭く。他人の敷いたレールなんて叩き割って、自分の足で盤の前に座る……それでこそ、私の雑魚先祖よ!」
「雑魚は余計だろ。……でも、すっきりしたよ」
清麿は大きく伸びをして、笑った。
窓の外を見ると、千駄ヶ谷の空はどこまでも高く、澄み切った秋の青に染まっていた。
過去の亡霊は、もうどこにもいない。
目の前にあるのは、自分自身の意志で勝ち取るべき、たった一枚のプロへの切符だけだった。
プロ棋士編入試験五番勝負、運命の第四局。
自らの魂を完全に解き放った加藤清麿の、悲願達成へ向けた最後の戦いが、いま静かに幕を開けようとしていた。
読んでいただきありがとうございます。
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