EP 5
亡霊たちの戦場
「……まいりました」
権田が深々と頭を下げた。
その声は震え、額には脂汗が滲んでいる。
周囲の野次馬たちも、水を打ったように静まり返っていた。
「……3000円。いや、レート倍だから6000円か」
清麿は乾いた声で言った。
勝利の興奮は、急速に冷めていた。
代わりに、奇妙な虚無感が胸に広がる。
(勝った……のか?)
権田は、アマチュアとしては確かに強豪だ。
かつての自分なら、もっと苦戦しただろう。
それが、終盤は一方的な虐殺だった。
相手の思考を先読みし、希望を潰し、淡々と首を絞める作業。
「へ、へへ……加藤ちゃん、強くなったなぁ。何か、憑き物でも落ちたみたいだ」
権田が震える手で千円札を数え、清麿に押し付けてくる。
その目は怯えていた。
かつて自分を「負け犬」と嘲笑った男が、今は恐怖している。
「……行くぞ、和令」
「はいはい。ごちそうさまー」
和令は札束をひったくると、権田に「次はもっと腕磨いてきなさいよね」と捨て台詞を吐き、清麿の背中を押した。
◇
夜風が冷たい。
コンビニで買った缶ビールを飲みながら、二人は夜道を歩いていた。
「6000円か。ま、今日の宿代とエントリー費にはなるわね」
「……なぁ、和令」
「ん?」
「俺は……卑怯なんじゃないか?」
清麿は自分の手を見つめた。
「あれは俺の実力じゃない。未来の……お前たちが積み上げた『答え』を盗み見ただけだ。カンニングして勝って、金まで巻き上げて……」
「はあ?」
和令が立ち止まり、呆れたような顔をした。
「あんた、まだそんなこと言ってんの? 『卑怯』? 『実力』? 笑わせないでよ」
彼女は缶ビールを地面に叩きつけた。
カコン、と乾いた音が響く。
「歴史を見てみなさいよ。勝てば官軍、負ければ賊軍。あんたが『実力』とやらにこだわって負けた結果が、植物人間のあんたであり、借金地獄の私よ。綺麗事で腹が膨れるなら、300年も苦労してないわ!」
「……」
「結果が全て。勝った者が強いの。プロセスなんて、後世の歴史家が勝手に美化してくれるわよ」
和令の言葉は乱暴だが、真理だった。
奨励会時代もそうだった。
どれだけ努力しても、どれだけ将棋を愛していても、勝てなければゴミ扱い。
それが勝負の世界だ。
「……そうだな。やるしかないんだな」
「そうよ。次は全国アマチュア将棋名人戦、東京予選。優勝賞金50万円。まずはこれを獲る」
和令はニヤリと笑った。
「あんたの元同期も出るらしいわよ。……『佐伯』って男、知ってる?」
清麿の足が止まった。
心臓がドクリと跳ねる。
「……佐伯、だと?」
忘れるはずがない。
佐伯健太。
奨励会時代の同期であり、最大のライバルだった男。
そして、自分より先に年齢制限で退会し、今はIT企業の社長をしながら『最強のアマチュア』として君臨している男だ。
「あいつが出るのか……」
「ええ。今のあいつは『アマ名人』のタイトルを持ってる。あんたが植物人間になる未来では、あいつはあんたの入院先に見舞いに来て、こう言うのよ。『加藤は運が悪かっただけだ』ってね」
和令の声が低くなる。
「同情されるなんて、死ぬより屈辱的でしょ?」
清麿は拳を握りしめた。
爪が食い込む痛みが、意識を覚醒させる。
「ああ……そうだな。あいつにだけは、負けたくない」
◇
一週間後。
千駄ヶ谷、将棋会館近くの市民ホール。
アマチュア名人戦、東京予選会場は熱気に包まれていた。
参加者は300人以上。
学生服の少年から、白髪の老人まで。
その中に、ヨレヨレのスーツを着た清麿の姿があった。
(……空気が重い)
久しぶりの大会の雰囲気。
駒音、対局時計を叩く音、ため息、舌打ち。
その全てが、かつての古傷を刺激する。
「あれ……? お前、加藤か?」
不意に声をかけられた。
振り返ると、仕立ての良いブランドスーツを着こなした男が立っていた。
整えられた髪、自信に満ちた表情。
その隣には、綺麗な女性秘書のような人が付き従っている。
「……佐伯」
佐伯健太だった。
かつて同じ安アパートでカップ麺を啜り合い、「絶対にプロになろうな」と誓い合った仲。
だが今、二人の間には、天と地ほどの差があった。
「久しぶりだな。生きてたのか」
佐伯は驚いたような、それでいてどこか見下すような目で清麿を見た。
「風の噂で聞いたよ。退会した後、荒れてたんだって? バイトも続かなくて、親とも絶縁したとか」
「……お前には関係ないだろ」
「いやいや、心配してたんだよ。同期のよしみとしてね」
佐伯は笑った。
悪気はないのかもしれない。
だが、その「余裕」が、今の清麿には何よりも鋭利な刃物だった。
「で、今日は記念参加か? リハビリにはいいかもな。……まあ、俺はシードで決勝トーナメントからだから、予選で負けないように頑張れよ」
佐伯は清麿の肩をポンと叩き、去っていこうとした。
その背中に、清麿は声をかけた。
「佐伯」
「ん?」
「……優勝するのは、俺だ」
佐伯は一瞬きょとんとして、それから「ハハッ」と乾いた笑い声を上げた。
「面白い冗談だ。あの頃の『早指しの加藤』ならともかく、今のブランクまみれのお前に、今の俺が止められるかな?」
冷ややかな視線を残し、佐伯はVIP席へと消えていった。
「……ムカつくわね、あいつ」
清麿の影から、和令が姿を現した。
彼女は一般人には見えないステルスモード(未来の光学迷彩)を使っている。
「データ照合完了。佐伯健太。棋風は『完全居飛車党』。堅実だけど、新しい定跡への対応が遅い」
和令の目が、青白く光った。
「カモよ。今のあんたなら、30手で詰み筋が見える」
「ああ……」
清麿は胸ポケットから、ボロボロになった扇子を取り出した。
かつて奨励会時代に使っていたものだ。
「行ってくる」
予選第一局。
対戦相手の高校生が座った。
清麿は盤の前に座る。
脳内で、和令から転送された膨大な『チャート』が展開される。
視界に、赤いライン(勝ち筋)が走る。
「お願いします」
清麿の声は、もう震えていなかった。
これは復讐戦だ。
自分を捨てた社会と、見下してきた同期と、そして「負け犬」だった過去の自分への。
パチリ。
乾いた駒音が、会場に響き渡った。




