↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『未来の将棋は暗記ゲーでした~30歳でプロを諦めた元奨励会三段、300年後の子孫に「必勝定跡」を叩き込まれて無双する~』   作者: 月神世一


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
49/57

EP 4

『未来の子孫が、泣いた夜』

 千駄ヶ谷の夜は、秋の訪れを告げる冷え込みとともに、鉛色の静寂へと沈んでいた。

 鳩森八幡宮の木々を揺らす風は乾いて冷たく、街灯の光が石畳の上に二人の長く伸びた影を落としている。

 プロ棋士編入試験五番勝負、第二局の敗北。

 若き曲者・蓮沼涼太四段の仕掛けた泥沼の力戦に呑み込まれ、焦りから毒入りの飛車に飛びついて自滅した百三十手の終局から、すでに一時間以上が経過していた。

 清麿のポケットの中で、スマートフォンが震動を繰り返している。

 画面を見なくても、ネットの海にどんな言葉が荒れ狂っているか、容易に想像がついた。

『加藤アマ、第二局で完敗! ストレート昇段の夢散る』

『蓮沼四段の変態的力戦に手も足も出ず! 定跡を外された途端に自滅』

『やっぱりプロの壁は厚い。第一局の圧勝で調子に乗ったツケが回ったな』

『所詮は元奨励会三段。蓮沼四段に本物のプロの洗礼を浴びせられた格好だ』

 昨日まで「奇跡の神童」「プロ入り確実」と持ち上げていた世間は、たった一局の黒星で手のひらを返し、容赦のない冷笑の言葉を浴びせかけていた。

 だが、その鋭い刃のような言葉よりも、清麿の胸を抉っていたのは――目の前を歩く少女の、不自然なまでの「沈黙」だった。

 いつもなら、鳩森八幡宮の境内で会った瞬間から「この大馬鹿先祖!」「七十手で勝てる将棋を泥沼に引きずり込まれて負けるなんて、脳みそのシワが退化してんじゃないの!」と、マシンガンのように罵声を浴びせてくるはずだった。

 しかし、和令は何も言わなかった。

 境内で清麿と合流してから、駅前の雑踏を抜け、薄暗い住宅街の坂道を上る間、一言も口を開かない。

 右手に握りしめた透明な薄型端末はだらりと下げられ、青白い画面が時折ノイズを散らしながら、弱々しく明滅を繰り返している。

 カチャリ、と鍵を開け、築四十年のアパートの六畳間に足を踏み入れる。

 スイッチを入れると、蛍光灯の無機質な光が、万年床の片付けられた擦り切れだらけの畳を白く照らし出した。

 部屋の中は、すっかり冷え切っていた。

「……和令」

 靴を脱いで上がった清麿が、背中を向けたまま立ち尽くす少女に声をかけた。

「悪かった。……俺の完敗だ。蓮沼四段の誘いに乗って、焦って飛車をもぎ取って……自ら玉の逃げ道を塞いじまった。お前のせいじゃない。俺の読みの浅さと、プレッシャーに負けた弱さのせいだ」

 言い訳の余地もない、純然たる実力不足。

 叱責される覚悟で頭を下げた清麿に対し、和令は振り返りもせず、フラフラとした足取りでちゃぶ台の前へと進んだ。

 そして――糸の切れた操り人形のように、畳の上にバタリと膝から崩れ落ちた。

「……おい、和令!?」

 清麿が慌てて駆け寄ると、和令はちゃぶ台に両手をつき、肩を小刻みに震わせていた。

 床に落とされた透明端末のホログラムが、勝手に起動し、空中に青白いウィンドウを展開している。

 そこに表示されていたのは、清麿の敗北によって再計算された、未来のシミュレーションデータだった。

『編入試験成績:通算1勝1敗』

『合格確率:84% → 51%(急落)』

『警告:歴史改変プロトコルの安定性が低下。加藤家生体保存基金の負債消滅確率が変動中』

「……私のせいよ」

 ぽつりと、掠れた声が畳の隙間に落ちた。

「え……?」

「私のせいよ……! 私が、馬鹿だったのよ……!」

 和令が顔を上げた。

 その瞳から、大粒の涙がボロボロと溢れ出し、白い頬を濡らしていた。

 唇は血の気を失ってガチガチと震え、鼻の頭を真っ赤にして、まるで迷子になった幼子のように顔を歪めている。

「和令……何を言ってるんだ。指してたのは俺だぞ。お前のせいなわけ――」

「あんたのせいじゃないわよッッ!!」

 和令の絶叫が、狭い六畳間の壁を激しく叩いた。

 少女は両手で自らの太ももを力任せに殴りつけながら、喉を締め上げられたような声で慟哭を吐き出した。

「私が……あんたを過信させたのよ! 第一局で宮坂四段に勝ったからって、調子に乗って、『力戦派なんてサクッと踏み潰してきなさい』なんて偉そうに煽って……! 蓮沼四段がどれだけ狂気じみた泥沼を仕掛けてくるか、本当は分かってたはずなのに……!」

「和令……」

「分かってたのに、対策を教えられなかった! 三百年後のアーカイブに載ってない手順だったから! 未来の答えがない盤面になった途端……私には、あんたに授けられる知恵なんて、何一つ残ってなかったのよ……ッ!!」

 和令は胸元を掻きむしるようにして、しゃくり上げた。

 その細い肩が、痛ましいほど小さく縮こまる。

 いつもの傲慢で不敵な態度は、木っ端微塵に吹き飛んでいた。

 そこにいたのは、未来の知性を誇る超人などではない。

 ただの、傷つき、自分の無力さに打ちのめされた、二十歳の生身の少女だった。

「……私ね、清麿」

 和令は涙でぐしゃぐしゃになった顔を袖で乱暴に拭いながら、途切れ途切れに言葉を紡ぎ出した。

「三百年後の世界で……一度も、プロの公式戦で勝てなかったの」

 重い告白が、静まり返った部屋に落ちる。

「西暦二三二六年の世界じゃね……将棋は完全に解析され尽くしてるわ。小学生の研修生だって、私が持ってきたような定跡アーカイブなんて全員が頭に丸暗記してんのよ。……答えを知ってることなんて、スタートラインですらないの」

 和令の視線が、虚空を彷徨う。

「差がつくのはね、定跡を外された混沌の盤面で、相手の息遣いを感じながら、暗闇の中へたった一人で踏み込んでいく『読みの深さ』と『精神力』なのよ」

 ぎゅっと、少女の拳が畳を握りしめた。

「でも……私はそれができなかった。物心ついた時から『借金まみれの加藤家の娘』って見下されて育って……プロになって、家を立て直して、見返してやりたいって焦れば焦るほど……盤の前で指が震えたのよ」

 涙が、顎の先からポタポタと畳の上に落ちていく。

「相手が定跡から外れた手を指してきた瞬間、頭の中が真っ白になって……怖くて、逃げ出したくて、安全そうな手ばかり選んで……自滅していったわ。何十回指しても、何百局戦っても、一度も勝てなかった! 三段リーグに上がる資格すら取れずに……私は、未来の世界で、完全に挫折したのよ……ッ!!」

 胸が、焼けるように痛かった。

 清麿は息を詰めて、和令の告白を聞いていた。

(そうだったのか……)

 なぜ、この少女が、清麿が終盤で日和りそうになるたびに、誰よりも激しく怒り狂っていたのか。

 なぜ、清麿が負けそうになると、まるで自分が刺されたかのように顔色を失っていたのか。

 すべてが、一本の線で繋がっていた。

 和令は、清麿の盤上に、未来で無様に負け続けた「自分自身の姿」を重ね合わせていたのだ。

「私はね……逃げてきたのよ」

 和令の声は、絞り出すような嗚咽に変わっていた。

「借金を消すためなんて、半分はただの口実よ! 未来で誰にも勝てなかった負け犬の私が……三百年も前の時代に逃げてきて、未熟な先祖に未来の答えを押し付けて、ドヤ顔でプロをなぎ倒して……自分が強くなった気になりたかっただけなのよ……ッ!!」

 和令は両手で顔を覆い、畳の上に突っ伏した。

「あんたを利用したのよ……! 自分が未来で味わった挫折の痛みを埋めるために、あんたの体を操り人形にして、プロの壁を破らせようとしたの……! でも、結局は同じだった……! 私が未熟だから、相手が泥沼を仕掛けてきた時に、あんたを支えてあげられなかった……! 一勝一敗……あと二回負けたら、あんたの人生も、千代おばあちゃんの未来も、全部私のせいで終わっちゃうのよ……!!」

 子どものように泣きじゃくる和令の小さな背中。

 未来のチートアイテムを持ち込み、神童を気取っていた少女の、あまりにも脆く、傷だらけの正体。

 清麿は、ゆっくりと膝を進めた。

 そして――畳に突っ伏して震える和令の前に、静かに正座した。

 清麿は右手を伸ばし、和令の乱れた黒髪の上に、そっと大きな掌を置いた。

「……バカだな、お前は」

 低く、どこまでも穏やかな声だった。

 和令の肩が、ビクリと跳ね上がる。

「な、なによ……! バカって……慰めるなら、もっとマシなこと言えないわけ……!?」

「バカだよ。とんでもない大馬鹿野郎だ」

 清麿は苦笑しながら、和令の頭を優しく撫でた。

「操り人形だなんて、よくそんな偉そうなことが言えたもんだな。……あの日、ベランダから消えようとしていた俺の胸ぐらを掴んで、ドロップキックでこの畳の上に引き戻してくれたのは誰だ?」

「それは……」

「スーパーの面接で侮辱され、両親からも絶縁され、世の中の全員から『お前はゴミだ』って言われてた俺に……『あんたは世界でたった一人の将棋指しよ』って、もう一度駒を握らせてくれたのは誰なんだよ」

 清麿の言葉に、和令が涙に濡れた瞳をわずかに持ち上げた。

「お前がいなきゃ、俺はとっくに死んでたんだよ。千代に地獄を背負わせたまま、何一つやり直せないまま、冷たい土の下で終わってたんだ。……俺に生きる意味をくれたのは、お前なんだぞ、和令」

「清麿……」

「利用されたっていいさ。お前が未来で負け犬だったなら、俺と一緒じゃないか。俺だって、二十六歳で奨励会を追われて、大切な人たちを傷つけて逃げ出した、筋金入りの負け犬だ」

 清麿は膝の上の拳をぎゅっと握りしめ、和令の目を真っ直ぐに見つめ返した。

「負け犬同士が二人で手を組んで、ここまで来たんだろ。桐生五段を倒し、武田六段を破り、片桐八段の深淵に触れて、風月杯を駆け抜けて……プロの公式戦で十勝もしてきたんだ。……全部、お前と二人で勝ち取ってきた本物の勝利だ」

 指先に力を込める。

「一勝一敗になっただけじゃないか。まだ、一回負けただけだろ。五番勝負は、先に三回負けた方が終わりなんだ。……あと二回、勝てばいいんだよ」

「で、でも……!」

 和令が唇を震わせ、掠れた声で訴えかけてくる。

「第三局の相手は、蓮沼四段以上に厄介な相手よ……! プロ棋界はもう、あんたの研究を完全に警戒してるわ。未来の定跡に頼れない局面になったら……また、今日みたいに……」

「頼らなくていいさ」

 清麿はニヤリと口元を吊り上げた。

「未来の定跡がないなら、俺自身の頭で読むまでだ。片桐戦の時だって、長谷川戦の時だって、最後はそうやって活路をこじ開けてきただろ。……俺には、お前が授けてくれた三百年分の知性がある。そして、十数年間、泥水を啜りながら積み上げてきた俺自身の将棋がある」

 清麿は立ち上がり、ちゃぶ台の横に置かれていた駒箱を掴み取ると、盤上にガラガラと豪快に黄楊の駒をぶちまけた。

「研究だ、和令。蓮沼戦の棋譜を最初から並べ直すぞ。相手のあの力戦に対し、どこで自陣の呼吸を整えるべきだったのか……朝まで徹底的に検証するんだ」

 和令は呆然と、盤上の駒を見つめていた。

 敗北の絶望に怯えて泣きじゃくっていた自分に対し、目の前の先祖は、一歩も退くことなく、盤の前に腰を据え直している。

 あの日、ボロアパートで死にかけていた情けない男の姿は、そこには影も形もなかった。

 泥臭く、何度叩き落とされても前を睨みつける、本物の勝負師の魂が、そこにあった。

「……なによ」

 和令は手の甲で乱暴に目元の涙を拭い、小さく鼻をすすり上げた。

「偉そうに……。三段の雑魚のくせに、私に説教するなんて百年早いのよ」

「百年どころか三百年早いけどな。……ほら、座れよ、相棒」

 清麿が笑うと、和令の整った顔立ちに、いつもの勝ち気で不遜な光が、ゆっくりと、力強く戻ってきた。

「……ふん! 言われなくても座るわよ!」

 和令はちゃぶ台の前に正座し直すと、落ちていた透明端末を素早く拾い上げ、盤上に青白い解析画面を投影した。

「いい!? 今夜の特訓は容赦しないからね! 相手の力戦の手順、一手指すごとに十パターン以上の迎撃ルートを脳みそに叩き込んでもらうわよ! 泣いて許しを請うても絶対に寝かせてあげないんだから!」

「望むところだ! 脳みそから煙が出るまで付き合ってやるよ!」

「言ったわね! それと……清麿」

「ん?」

 和令は端末の画面からスッと視線を逸らし、ぷいと横を向いた。

 その耳の先端が、林檎のように真っ赤に染まっていた。

「……明日の朝、約束通りだし巻き玉子、作ってあげるわよ。特売の卵を、二個丸ごと使ってね」

 清麿は一瞬目を丸くし、それから破顔した。

「おお! 楽しみにしとくよ!」

 夜の六畳間に、パチリ、パチリと駒を並べる澄んだ音が響き渡る。

 互いの剥き出しの弱さをさらけ出し、痛みを分かち合ったその部屋で、二人の絆は、これまでの「チートの貸し借り」を完全に超えた、魂の共犯者としての結束へと生まれ変わっていた。

 一勝一敗、振り出しに戻ったプロ棋士編入試験五番勝負。

 だが、二人の心には、もはや恐れなど微塵も残っていなかった。

 真の勝負師として覚醒した加藤清麿の、運命の第三局へのカウントダウンが、いま静かに始まった。

読んでいただきありがとうございます。

面白いと思っていただけましたら、★評価やブックマークで応援していただけると励みになります。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。