EP 4
『未来の子孫が、泣いた夜』
千駄ヶ谷の夜は、秋の訪れを告げる冷え込みとともに、鉛色の静寂へと沈んでいた。
鳩森八幡宮の木々を揺らす風は乾いて冷たく、街灯の光が石畳の上に二人の長く伸びた影を落としている。
プロ棋士編入試験五番勝負、第二局の敗北。
若き曲者・蓮沼涼太四段の仕掛けた泥沼の力戦に呑み込まれ、焦りから毒入りの飛車に飛びついて自滅した百三十手の終局から、すでに一時間以上が経過していた。
清麿のポケットの中で、スマートフォンが震動を繰り返している。
画面を見なくても、ネットの海にどんな言葉が荒れ狂っているか、容易に想像がついた。
『加藤アマ、第二局で完敗! ストレート昇段の夢散る』
『蓮沼四段の変態的力戦に手も足も出ず! 定跡を外された途端に自滅』
『やっぱりプロの壁は厚い。第一局の圧勝で調子に乗ったツケが回ったな』
『所詮は元奨励会三段。蓮沼四段に本物のプロの洗礼を浴びせられた格好だ』
昨日まで「奇跡の神童」「プロ入り確実」と持ち上げていた世間は、たった一局の黒星で手のひらを返し、容赦のない冷笑の言葉を浴びせかけていた。
だが、その鋭い刃のような言葉よりも、清麿の胸を抉っていたのは――目の前を歩く少女の、不自然なまでの「沈黙」だった。
いつもなら、鳩森八幡宮の境内で会った瞬間から「この大馬鹿先祖!」「七十手で勝てる将棋を泥沼に引きずり込まれて負けるなんて、脳みそのシワが退化してんじゃないの!」と、マシンガンのように罵声を浴びせてくるはずだった。
しかし、和令は何も言わなかった。
境内で清麿と合流してから、駅前の雑踏を抜け、薄暗い住宅街の坂道を上る間、一言も口を開かない。
右手に握りしめた透明な薄型端末はだらりと下げられ、青白い画面が時折ノイズを散らしながら、弱々しく明滅を繰り返している。
カチャリ、と鍵を開け、築四十年のアパートの六畳間に足を踏み入れる。
スイッチを入れると、蛍光灯の無機質な光が、万年床の片付けられた擦り切れだらけの畳を白く照らし出した。
部屋の中は、すっかり冷え切っていた。
「……和令」
靴を脱いで上がった清麿が、背中を向けたまま立ち尽くす少女に声をかけた。
「悪かった。……俺の完敗だ。蓮沼四段の誘いに乗って、焦って飛車をもぎ取って……自ら玉の逃げ道を塞いじまった。お前のせいじゃない。俺の読みの浅さと、プレッシャーに負けた弱さのせいだ」
言い訳の余地もない、純然たる実力不足。
叱責される覚悟で頭を下げた清麿に対し、和令は振り返りもせず、フラフラとした足取りでちゃぶ台の前へと進んだ。
そして――糸の切れた操り人形のように、畳の上にバタリと膝から崩れ落ちた。
「……おい、和令!?」
清麿が慌てて駆け寄ると、和令はちゃぶ台に両手をつき、肩を小刻みに震わせていた。
床に落とされた透明端末のホログラムが、勝手に起動し、空中に青白いウィンドウを展開している。
そこに表示されていたのは、清麿の敗北によって再計算された、未来のシミュレーションデータだった。
『編入試験成績:通算1勝1敗』
『合格確率:84% → 51%(急落)』
『警告:歴史改変プロトコルの安定性が低下。加藤家生体保存基金の負債消滅確率が変動中』
「……私のせいよ」
ぽつりと、掠れた声が畳の隙間に落ちた。
「え……?」
「私のせいよ……! 私が、馬鹿だったのよ……!」
和令が顔を上げた。
その瞳から、大粒の涙がボロボロと溢れ出し、白い頬を濡らしていた。
唇は血の気を失ってガチガチと震え、鼻の頭を真っ赤にして、まるで迷子になった幼子のように顔を歪めている。
「和令……何を言ってるんだ。指してたのは俺だぞ。お前のせいなわけ――」
「あんたのせいじゃないわよッッ!!」
和令の絶叫が、狭い六畳間の壁を激しく叩いた。
少女は両手で自らの太ももを力任せに殴りつけながら、喉を締め上げられたような声で慟哭を吐き出した。
「私が……あんたを過信させたのよ! 第一局で宮坂四段に勝ったからって、調子に乗って、『力戦派なんてサクッと踏み潰してきなさい』なんて偉そうに煽って……! 蓮沼四段がどれだけ狂気じみた泥沼を仕掛けてくるか、本当は分かってたはずなのに……!」
「和令……」
「分かってたのに、対策を教えられなかった! 三百年後のアーカイブに載ってない手順だったから! 未来の答えがない盤面になった途端……私には、あんたに授けられる知恵なんて、何一つ残ってなかったのよ……ッ!!」
和令は胸元を掻きむしるようにして、しゃくり上げた。
その細い肩が、痛ましいほど小さく縮こまる。
いつもの傲慢で不敵な態度は、木っ端微塵に吹き飛んでいた。
そこにいたのは、未来の知性を誇る超人などではない。
ただの、傷つき、自分の無力さに打ちのめされた、二十歳の生身の少女だった。
「……私ね、清麿」
和令は涙でぐしゃぐしゃになった顔を袖で乱暴に拭いながら、途切れ途切れに言葉を紡ぎ出した。
「三百年後の世界で……一度も、プロの公式戦で勝てなかったの」
重い告白が、静まり返った部屋に落ちる。
「西暦二三二六年の世界じゃね……将棋は完全に解析され尽くしてるわ。小学生の研修生だって、私が持ってきたような定跡アーカイブなんて全員が頭に丸暗記してんのよ。……答えを知ってることなんて、スタートラインですらないの」
和令の視線が、虚空を彷徨う。
「差がつくのはね、定跡を外された混沌の盤面で、相手の息遣いを感じながら、暗闇の中へたった一人で踏み込んでいく『読みの深さ』と『精神力』なのよ」
ぎゅっと、少女の拳が畳を握りしめた。
「でも……私はそれができなかった。物心ついた時から『借金まみれの加藤家の娘』って見下されて育って……プロになって、家を立て直して、見返してやりたいって焦れば焦るほど……盤の前で指が震えたのよ」
涙が、顎の先からポタポタと畳の上に落ちていく。
「相手が定跡から外れた手を指してきた瞬間、頭の中が真っ白になって……怖くて、逃げ出したくて、安全そうな手ばかり選んで……自滅していったわ。何十回指しても、何百局戦っても、一度も勝てなかった! 三段リーグに上がる資格すら取れずに……私は、未来の世界で、完全に挫折したのよ……ッ!!」
胸が、焼けるように痛かった。
清麿は息を詰めて、和令の告白を聞いていた。
(そうだったのか……)
なぜ、この少女が、清麿が終盤で日和りそうになるたびに、誰よりも激しく怒り狂っていたのか。
なぜ、清麿が負けそうになると、まるで自分が刺されたかのように顔色を失っていたのか。
すべてが、一本の線で繋がっていた。
和令は、清麿の盤上に、未来で無様に負け続けた「自分自身の姿」を重ね合わせていたのだ。
「私はね……逃げてきたのよ」
和令の声は、絞り出すような嗚咽に変わっていた。
「借金を消すためなんて、半分はただの口実よ! 未来で誰にも勝てなかった負け犬の私が……三百年も前の時代に逃げてきて、未熟な先祖に未来の答えを押し付けて、ドヤ顔でプロをなぎ倒して……自分が強くなった気になりたかっただけなのよ……ッ!!」
和令は両手で顔を覆い、畳の上に突っ伏した。
「あんたを利用したのよ……! 自分が未来で味わった挫折の痛みを埋めるために、あんたの体を操り人形にして、プロの壁を破らせようとしたの……! でも、結局は同じだった……! 私が未熟だから、相手が泥沼を仕掛けてきた時に、あんたを支えてあげられなかった……! 一勝一敗……あと二回負けたら、あんたの人生も、千代おばあちゃんの未来も、全部私のせいで終わっちゃうのよ……!!」
子どものように泣きじゃくる和令の小さな背中。
未来のチートアイテムを持ち込み、神童を気取っていた少女の、あまりにも脆く、傷だらけの正体。
清麿は、ゆっくりと膝を進めた。
そして――畳に突っ伏して震える和令の前に、静かに正座した。
清麿は右手を伸ばし、和令の乱れた黒髪の上に、そっと大きな掌を置いた。
「……バカだな、お前は」
低く、どこまでも穏やかな声だった。
和令の肩が、ビクリと跳ね上がる。
「な、なによ……! バカって……慰めるなら、もっとマシなこと言えないわけ……!?」
「バカだよ。とんでもない大馬鹿野郎だ」
清麿は苦笑しながら、和令の頭を優しく撫でた。
「操り人形だなんて、よくそんな偉そうなことが言えたもんだな。……あの日、ベランダから消えようとしていた俺の胸ぐらを掴んで、ドロップキックでこの畳の上に引き戻してくれたのは誰だ?」
「それは……」
「スーパーの面接で侮辱され、両親からも絶縁され、世の中の全員から『お前はゴミだ』って言われてた俺に……『あんたは世界でたった一人の将棋指しよ』って、もう一度駒を握らせてくれたのは誰なんだよ」
清麿の言葉に、和令が涙に濡れた瞳をわずかに持ち上げた。
「お前がいなきゃ、俺はとっくに死んでたんだよ。千代に地獄を背負わせたまま、何一つやり直せないまま、冷たい土の下で終わってたんだ。……俺に生きる意味をくれたのは、お前なんだぞ、和令」
「清麿……」
「利用されたっていいさ。お前が未来で負け犬だったなら、俺と一緒じゃないか。俺だって、二十六歳で奨励会を追われて、大切な人たちを傷つけて逃げ出した、筋金入りの負け犬だ」
清麿は膝の上の拳をぎゅっと握りしめ、和令の目を真っ直ぐに見つめ返した。
「負け犬同士が二人で手を組んで、ここまで来たんだろ。桐生五段を倒し、武田六段を破り、片桐八段の深淵に触れて、風月杯を駆け抜けて……プロの公式戦で十勝もしてきたんだ。……全部、お前と二人で勝ち取ってきた本物の勝利だ」
指先に力を込める。
「一勝一敗になっただけじゃないか。まだ、一回負けただけだろ。五番勝負は、先に三回負けた方が終わりなんだ。……あと二回、勝てばいいんだよ」
「で、でも……!」
和令が唇を震わせ、掠れた声で訴えかけてくる。
「第三局の相手は、蓮沼四段以上に厄介な相手よ……! プロ棋界はもう、あんたの研究を完全に警戒してるわ。未来の定跡に頼れない局面になったら……また、今日みたいに……」
「頼らなくていいさ」
清麿はニヤリと口元を吊り上げた。
「未来の定跡がないなら、俺自身の頭で読むまでだ。片桐戦の時だって、長谷川戦の時だって、最後はそうやって活路をこじ開けてきただろ。……俺には、お前が授けてくれた三百年分の知性がある。そして、十数年間、泥水を啜りながら積み上げてきた俺自身の将棋がある」
清麿は立ち上がり、ちゃぶ台の横に置かれていた駒箱を掴み取ると、盤上にガラガラと豪快に黄楊の駒をぶちまけた。
「研究だ、和令。蓮沼戦の棋譜を最初から並べ直すぞ。相手のあの力戦に対し、どこで自陣の呼吸を整えるべきだったのか……朝まで徹底的に検証するんだ」
和令は呆然と、盤上の駒を見つめていた。
敗北の絶望に怯えて泣きじゃくっていた自分に対し、目の前の先祖は、一歩も退くことなく、盤の前に腰を据え直している。
あの日、ボロアパートで死にかけていた情けない男の姿は、そこには影も形もなかった。
泥臭く、何度叩き落とされても前を睨みつける、本物の勝負師の魂が、そこにあった。
「……なによ」
和令は手の甲で乱暴に目元の涙を拭い、小さく鼻をすすり上げた。
「偉そうに……。三段の雑魚のくせに、私に説教するなんて百年早いのよ」
「百年どころか三百年早いけどな。……ほら、座れよ、相棒」
清麿が笑うと、和令の整った顔立ちに、いつもの勝ち気で不遜な光が、ゆっくりと、力強く戻ってきた。
「……ふん! 言われなくても座るわよ!」
和令はちゃぶ台の前に正座し直すと、落ちていた透明端末を素早く拾い上げ、盤上に青白い解析画面を投影した。
「いい!? 今夜の特訓は容赦しないからね! 相手の力戦の手順、一手指すごとに十パターン以上の迎撃ルートを脳みそに叩き込んでもらうわよ! 泣いて許しを請うても絶対に寝かせてあげないんだから!」
「望むところだ! 脳みそから煙が出るまで付き合ってやるよ!」
「言ったわね! それと……清麿」
「ん?」
和令は端末の画面からスッと視線を逸らし、ぷいと横を向いた。
その耳の先端が、林檎のように真っ赤に染まっていた。
「……明日の朝、約束通りだし巻き玉子、作ってあげるわよ。特売の卵を、二個丸ごと使ってね」
清麿は一瞬目を丸くし、それから破顔した。
「おお! 楽しみにしとくよ!」
夜の六畳間に、パチリ、パチリと駒を並べる澄んだ音が響き渡る。
互いの剥き出しの弱さをさらけ出し、痛みを分かち合ったその部屋で、二人の絆は、これまでの「チートの貸し借り」を完全に超えた、魂の共犯者としての結束へと生まれ変わっていた。
一勝一敗、振り出しに戻ったプロ棋士編入試験五番勝負。
だが、二人の心には、もはや恐れなど微塵も残っていなかった。
真の勝負師として覚醒した加藤清麿の、運命の第三局へのカウントダウンが、いま静かに始まった。
読んでいただきありがとうございます。
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