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『未来の将棋は暗記ゲーでした~30歳でプロを諦めた元奨励会三段、300年後の子孫に「必勝定跡」を叩き込まれて無双する~』   作者: 月神世一


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EP 3

『第二局、まさかの敗北』

 十月に入った千駄ヶ谷の空は、雲ひとつない秋晴れに澄み渡っていた。

 鳩森八幡宮の境内にそびえる大銀杏の梢からは、秋風に乗って乾いた葉擦れの音がサラサラと心地よく降り注いでいる。

 だが、通りを挟んだ日本将棋会館の正面玄関を取り巻く空気は、初秋の爽やかさとは程遠い、火傷しそうなほどの熱気に包まれていた。

 テレビ局の大型カメラが何台も据え付けられ、新聞やネットメディアの記者たちが幾重もの人垣を作っている。

 プロ棋士編入試験五番勝負・第二局。

 第一局で新鋭の宮坂真樹四段を七十八手という驚異的な短手数で粉砕した加藤清麿の勝利は、世間の熱狂を危険な領域にまで押し上げていた。

 ネットの将棋ポータルサイトには、連日『加藤アマ、今日勝てばプロ入りへ王手!』『三連勝でのストレート昇段なるか』と扇情的な見出しが躍り、ファンたちの間でも「加藤清麿の合格はもはや時間の問題」という楽観的なムードが支配的になっていた。

 しかし――勝負の世界において、「勝って当然」という世間の視線ほど、当事者の精神を冷酷に蝕む劇薬はない。

 千駄ヶ谷の改札を出て会館へと向かう清麿の足取りは、まるで底なし沼を踏みしめているかのように重く軋んでいた。

「……ちょっと。何を朝からアスファルトに頭を擦りつけそうなほど項垂れて歩いてんのよ、雑魚先祖」

 今朝、アパートを出る直前の六畳間での光景が、鮮烈に脳裏をよぎる。

 和令がちゃぶ台の横で腕を組み、いつものように冷ややかなジト目を突き刺してきたのだ。

『項垂れてなんかない。……ただ、ネットもニュースも「ストレート合格だ」って騒ぎすぎてて、胃のあたりがキリキリ痛むんだよ』

『世間の無責任な雑音なんて、耳の穴にティッシュでも詰めて遮断しなさいよ! 一勝したくらいで調子に乗るのも愚かだけど、外野の期待に怯えて縮こまるのはもっと愚かよ!』

『縮こまってるわけじゃない! 少しは慎重になるだろ! 今日の相手は、三段リーグをトップ通過してきた蓮沼四段なんだぞ』

『知ってるわよ! 蓮沼涼太四段、二十三歳。現代のAI定跡なんて最初から鼻で笑って、自分からグチャグチャの泥沼に飛び込んでくる、生粋の力戦派でしょ!』

『そうだ。宮坂先生みたいなスマートな研究派じゃない。泥水を啜って相手を道連れにするタイプの曲者だ。やりづらいに決まってるだろ』

『だから何よ! 相手が力戦派だろうが何だろうが、こちとら三百年後の知性と、あんたの十何年の挫折の経験が詰まってんのよ! 第一局を勝った勢いそのままに、サクッと踏み潰してきなさい!』

『簡単に踏み潰すとか言うな! ……だいたい、今朝の朝ごはん、卵焼きすらついてなかったぞ! 第一局に勝ったのに、また配給制限かよ!』

『当たり前でしょ! 卵は週一回の特別配給制に格下げって言ったじゃない! 一勝したくらいで毎朝コレステロールを摂取できると思ったら大間違いよ!』

『卵一個でコレステロール過多になるか! 編入試験中くらい、少しは景気良くしてくれてもバチは当たらないだろ!』

『今日勝って二連勝したら、明日の朝は卵を二個使ってだし巻き玉子にしてあげるわよ! だから余計な心配してないで、さっさと白星をもぎ取ってきなさい!』

『言われなくても勝ってやるよ! だし巻き玉子、絶対に作れよな!』

 背中をバチンと力任せに叩かれ、アパートを飛び出してきた。

 口喧嘩で気を紛らわせようとしても、胸の奥底に巣食った「負けられない」というプレッシャーは、少しも軽くはなってくれなかった。

 日本将棋会館・四階、特別対局室。

 静まり返った青畳の上、上座にはすでに本日の対戦相手が腰を下ろしていた。

 蓮沼涼太四段、二十三歳。

 仕立ての崩れた紺のスーツに、ノーネクタイ。無造作に伸ばされた前髪の隙間から覗く瞳は、どこか眠たげで、飄々とした空気を漂わせている。

 だが、清麿が下座に進み、座布団の上に正座して深々と一礼した瞬間、その瞳の奥にギラリと、得体の知れない怪物の光が宿ったのを清麿は見逃さなかった。

「加藤さん、おはようございます」

 蓮沼の声は柔らかく、人懐っこい笑みを浮かべていた。

「第一局、拝見しましたよ。宮坂君の研究を、二十手目の玉上がり一発で粉砕しちゃって……いやあ、凄まじかったですねえ」

「……恐縮です」

「棋士室じゃ、連日あなたの将棋の話題で持ちきりですよ。『三百年後の将棋だ』『現代の定跡が全部破壊された』ってね。でも――」

 蓮沼は手元の扇子をパチンと鳴らし、首をコキリと傾けた。

「僕、そういう最新のAI定跡とか、綺麗な研究手順ってやつが、昔から反吐が出るほど大嫌いでしてね」

 薄い唇が、獰猛な笑みの形に歪む。

「ここは千駄ヶ谷の畳の上です。綺麗な答えなんて最初から存在しない、泥まみれの暗闇へ……お連れしますよ」

 宣戦布告。

 佐久間七段や片桐八段の時と同じ、定跡の破壊者の匂い。

 だが、清麿の背筋に冷たい汗が伝うのと同時に、心の中で警報が激しく鳴り響いた。

(呑まれるな。俺は片桐戦の敗北から学んだはずだ。相手が形を崩して泥沼を仕掛けてきても、その歪みを自分の頭で読み切ればいいんだ……!)

「定刻となりました。加藤清麿アマチュア、プロ棋士編入試験五番勝負・第二局を開始してください」

 記録係の声が凛と響き、両者が深々と一礼を交わした。

 振り駒の結果、蓮沼の先手、清麿の後手番と決まった。

 蓮沼が、無造作な手つきで初手を放つ。

 ――パシッ。

 ▲7六歩。

 清麿もすぐに応じる。

 ――バシィッ!

 △3四歩。

 序盤の二手を終えた瞬間、蓮沼の手が、現代のあらゆる定跡書に存在しない奇怪な軌道を描いた。

 三手目、蓮沼が指したのは、自陣の銀をふらりと、味方の守りから完全に遊離した中央寄りの宙空へと押し出す一手だった。

 角道も開けきらず、飛車先も突かず、ただ自陣のバランスを自ら破壊するような、前代未聞の力戦の構え。

(……な、なんだこの手は……!?)

 清麿の心臓が、ドキンと嫌な音を立てて跳ね上がった。

 即座に脳内の『完全定跡アーカイブ』を検索する。

 ――しかし。

 青白い樹形図は、激しいノイズを走らせた末に、プツリと点滅を停止した。

『該当データなし:評価不能』

 未来のスーパーAIから見れば、こんな手は「自陣を自ら弱体化させるだけの意味不明な愚手」として、最初の数手で枝刈りされ、破棄されていたのだ。

「ふふ……どうしました、加藤さん?」

 蓮沼が、膝の上で組んだ手を緩め、楽しげに清麿を覗き込んでくる。

「宮坂君のように、綺麗な最新型で突っ込んできてくれると思いましたか? 残念でしたね。この盤上には、あなたの大好きな『未来の正解』なんて、最初から一マスも用意していませんよ」

(落ち着け……! 相手の手は悪手なんだ!)

 清麿は奥歯を噛み締め、呼吸を整えた。

 片桐戦の反省を思い出せ。相手が悪手を指して形を崩してきたなら、その歪みを咎めればいい。

 清麿は自陣の歩を突き、相手の浮いた銀を咎めるべく、手堅く陣形を整備しにかかった。

 ――しかし。

 蓮沼の指し手は、清麿の理性をあざ笑うように、さらに奇怪な迷路を編み上げていった。

 攻めてくると見せかけて、突如として玉を自ら囲いのない危険地帯へと移動させる。

 清麿がその隙を突こうとすると、蓮沼は自らの金銀を自陣の奥深くへとバラバラに引き離し、意味のないような端歩の突き捨てを挟んでくる。

 パチ、パチと、不規則なリズムで落ちる駒音。

 形勢判断がつかない。狙いが見えない。

 まるで、真っ暗な霧の立ち込める樹海に放り込まれ、一歩足を踏み出すたびに泥沼に足首を取られていくような、息苦しい圧迫感。

 その頃、二階の控室。

 有線モニターを取り囲む棋士たちと、記者の神崎澪の間で、戦慄混じりの声が上がっていた。

「……蓮沼四段、完全に自分の土俵に引きずり込んだな」

 ベテランの棋士が腕を組み、唸るように言った。

「AIの評価値は後手――加藤アマ有利を示しているが、これは人間同士の対局だ。蓮沼四段は、三段リーグ時代からこういう『形を崩した泥沼の力戦』だけで何十人ものエリートを血祭りにあげてきた男だぞ」

「加藤さんの手が、完全に止まっています……」

 神崎澪が手帳のペンを強く握りしめ、痛ましそうに画面を見つめていた。

「第一局で見せていたような、一手一秒の淀みない決断力が消え失せている。……持ち時間は蓮沼四段が一時間以上残しているのに対し、加藤さんはもう残り十分を切っています」

 ネット中継のコメント欄も、不穏なざわめきで埋め尽くされていた。

『加藤アマ、どうしたんだ? 全然手が伸びないぞ』

『蓮沼の変態的な力戦に完全に捕まってる』

『AIの評価値は加藤有利なのに、加藤の表情が苦しそうだ』

『やっぱりプロの意地は凄い……ストレート合格なんてそう簡単にいくわけないか……!?』

「――加藤アマ、残り時間五分です」

 記録係の冷酷な宣告が、対局室の静寂に落ちた。

 清麿の視界が、酸欠でチカチカと白く明滅し始めていた。

 焦り。

 勝たなければならないという重圧。

 今日勝てばプロ入りへ王手がかかる。世間はストレート合格を期待している。妹の千代が、榊原師匠が、そして和令が見つめている。

 その「負けられない」という恐怖が、清麿の指先に見えない重りをぶら下げていた。

(どこだ……どこに歪みがある……!?)

 盤面を見れば見るほど、蓮沼のバラバラな陣形が、すべて罠に見えてくる。

 自陣を手堅く引き締めて待つべきか? それとも、無理やり敵陣をこじ開けにいくべきか?

 迷えば迷うほど、時間が溶けていく。

 そして――六十手を迎えた局面。

 蓮沼四段が、ニヤリと不敵に口元を歪めると、手元の飛車を、清麿の守備駒の利きが直通する危険地帯へと、無造作に放り投げてきたのだ!

 ――ズドンッ!!

「…………っ!?」

 清麿の全身の血が、逆流するように沸騰した。

 飛車のタダ捨て!?

 取れば飛車が手に入る。だが、取った瞬間、相手の角の睨みが清麿の玉陣の急所へと直通する。

「三十秒……四十秒……五十秒……」

 記録係の秒読みが、心臓を直接締め上げる。

「一、二、三、四……」

 頭の中が真っ白になりかける。

(飛車を取るべきか? それとも、玉を逃がすべきか……!?)

 未来のアーカイブは、何も教えてくれない。

 頼るべきは、生身の自分の読みだけだ。

 だが、その自分の読みを、極限の恐怖が曇らせていた。

(飛車を取れば、相手の攻めを凌ぎ切れるはずだ……! 大駒を取って、相手の攻めを切らせるんだ!)

 焦りに背中を押された清麿の右手が、震えながら伸びた。

 ――バシィッ!

 清麿は、蓮沼の飛車をもぎ取った。

 その瞬間だった。

 盤の向こうで俯いていた蓮沼涼太の瞳が、獲物を罠にハメた獣のように、ギラリと妖しく光った。

「……引っかかりましたね、加藤さん」

 蓮沼の喉から、低く濁った囁きが漏れた。

「あなたの将棋は、綺麗で、合理的すぎるんですよ。……だから、毒入りの肉を目の前にぶら下げられると、理屈で『取れる』と判断して飛びついてしまう」

 ――バチィンッ!!

 蓮沼がノータイムで放ったのは、自陣の底深くに眠っていた一枚の桂馬を、清麿の玉陣の退路を断つ絶妙な間隙へと跳ね上げる、恐るべき「毒殺の一手」だった!

「…………っ!?」

 清麿の息が、喉の奥で完全に止まった。

 見落としていた。

 飛車を取った清麿の駒が、自らの玉の唯一の逃げ道を塞ぐ「壁」へと変貌していたのだ。

 大駒を取らされた代償として、自玉の呼吸が、完全に停止していた。

「あ……っ、嘘だろ……!?」

 清麿の顔から、サーッと血の気が引いていく。

 受からない。

 逃げ道がない。

 手に入れたはずの飛車を打ち込む隙間など、どこにも残されていなかった。

 ――バシィッ!

 蓮沼の反撃が、容赦なく清麿の喉元を抉り抜く。

 派手さはない。だが、長年の修羅場で磨き抜かれた泥臭い寄せの手順が、清麿の玉を逃げ場のない絶壁へと追い詰めていく。

「六、七、八――」

 秒読みが非情にカウントされる。

 清麿の指先が、盤上で力なく震えた。

 何も見えない。

 盤上の四十枚の駒が、自分を嘲笑う亡霊のように霞んでいく。

 四年前、三段リーグの最終局で味わった、あの息の止まるような暗黒が、完全に清麿を呑み込んでいた。

 百三十手目。

 蓮沼が、清麿の玉の頭上へと、最後の一枚の金を静かに打ち下ろした。

 ――パチリ。

 逃げ場なしの、完全なる詰み。

「…………」

 特別対局室から、すべての音が消え去った。

 加藤清麿は、盤上に両手を落としたまま、ガタガタと肩を震わせていた。

 やがて、絞り出すように、掠れた声で頭を下げた。

「……参り、ました」

 百三十手。

 プロ棋士編入試験五番勝負・第二局。

 加藤清麿は、若き曲者・蓮沼涼太四段の仕掛けた泥沼の迷路に呑まれ、痛恨の敗北を喫した。

「ありがとうございました」

 蓮沼四段が頭を下げ、扇子をパチンと閉じた。

 その顔には、勝利を誇る色も、相手を見下す色もなかった。ただ、すべてを出し尽くした疲労と、プロの意地を守り切った安堵の光が宿っていた。

 記録係が公式記録用紙にペンを走らせる。

『プロ棋士編入試験第二局 勝者:蓮沼涼太四段』

『敗者:加藤清麿アマチュア』

『試験成績:通算1勝1敗』

 一勝一敗。

 五番勝負は、完全に振り出しへと戻ったのだ。

*

 重苦しい感想戦と取材を終え、将棋会館の外へ出た頃には、千駄ヶ谷の街はすっかり夜の闇に沈んでいた。

 秋の冷たい夜風が、汗でぐっしょりと濡れた清麿のワイシャツを容赦なく凍えさせていく。

 通りの向かい側、鳩森八幡宮の鳥居の脇。

 街灯の薄暗い光の下、古びた木製ベンチの前に、銀と藍色のライダースーツを着た少女が立っていた。

 加藤和令。

 彼女は、右手に持った透明端末をだらりと垂らし、夜風に長い黒髪を揺らしながら、立ち尽くしていた。

 ザッ、と清麿の革靴が砂利を踏むと、和令の肩がピクリと跳ねた。

 少女はゆっくりと顔を上げた。

 いつものように「遅いわよ、雑魚先祖!」と怒鳴り散らす声は、どこからも聞こえてこなかった。

「……和令」

 清麿が掠れた声で呼びかけた。

 だが、和令は何も言えなかった。

 街灯に照らし出されたその顔は、血の気が完全に引き、まるで陶器の仮面のように真っ青に染まっていたのだ。

 大きな瞳は信じられないものを見るように見開かれ、唇は小刻みにガチガチと震えている。

 三百年後の完全定跡を持ち込み、現代のプロなど赤子同然だと豪語していた少女。

 その少女が、目の前で突きつけられた「一勝一敗」という冷酷な現実に、魂を抜かれたように立ち尽くしていた。

 秋の冷たい夜風が、二人の間を音もなく吹き抜けていく。

 プロへの扉を開きかけた男と、未来から来た少女の足元で、築き上げてきたはずの希望の城が、音を立てて大きく揺らぎ始めていた。

読んでいただきありがとうございます。

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