EP 2
『師匠と弟子』
九月半ばの千駄ヶ谷には、秋の気配を運ぶ涼やかな風が吹き抜け始めていた。
鳩森八幡宮の銀杏の梢からは、青い銀杏の実がかすかな芳香を漂わせ、木漏れ日が将棋会館前の舗道をまだらに照らしている。
プロ棋士編入試験五番勝負、第一局。
新鋭・宮坂真樹四段を七十八手の短手数で完膚なきまでに撃破した加藤清麿の白星は、将棋界のみならず一般のニュース番組にまで大きな波紋を広げていた。
『編入試験第一局、加藤アマが圧倒的完勝! プロ入りへあと二勝!』
『元奨励会三段の三十歳、破竹の進撃! 現代AI研究の旗手を序盤で粉砕!』
ネットの将棋専門サイトのトップには、清麿が放ったあの「玉上がり」の局面図が大々的に掲載され、解説のプロ棋士たちが「現代の定跡体系の根底を揺るがす構想」と舌を巻くコメントを寄せていた。
五番勝負において、初戦を制した側の合格率は八割を超えると言われている。
合格まで、あと二勝。
だが、築四十年のアパートの六畳間で朝を迎えた清麿の心は、決して浮かれてはいなかった。
畳の上に正座し、丁寧にアイロンの当たったシャツに腕を通しながら、清麿はスマートフォンの画面に表示された一通の短いメールを静かに見つめていた。
『今日の昼、道場へ顔を出しなさい。榊原』
かつての師匠であり、今回の編入試験の推薦人を引き受けてくれた永世棋聖・榊原雅臣九段からの、簡潔極まりない呼び出しだった。
「……ちょっと。朝からスマホを睨みつけて、何のお祈りをしてんのよ、雑魚先祖」
台所の方から、アルミの片手鍋をちゃぶ台にドンと置きながら、和令がツンと尖った声を浴びせてきた。
銀と藍色のライダースーツの袖をまくり、千代の花柄エプロンをきゅっと腰に巻いている。
「お祈りじゃない。……榊原先生から、道場に来いって連絡があったんだ」
「榊原師匠から? へえ、第一局を勝ったんだから、ご褒美に高級寿司でも奢ってくれるんじゃないの」
「そんなわけないだろ。先生はそういう浮ついたことが一番嫌いな方だ」
「ふん、真面目くさっちゃって。だいたい昨日の夜の特売牛肉の煮込みだって、あんたが美味しそうにバクバク食べるから、私の分の肉が三切れも減ったんだけど!」
「半分こにしただろ! お前が『炭素系生命体の生存コストよ』とか言って肉を鍋に放り込んだんじゃないか」
「三百年後の神童たる私への敬意として、肉の黄金比率は私七割、あんた三割が妥当なのよ!」
「理不尽すぎる配分だな! 家賃も食費も俺の口座から引き落とされてるんだぞ!」
「口座に金が入ったのは私が三百年後の完全定跡を叩き込んだからでしょ! この恩知らず先祖!」
「恩知らずって言うな! ……だいたい、今朝の朝ごはんは何なんだよ」
「見れば分かるでしょ! 大根と油揚げの味噌汁に、スーパーで見切り品だったアジの干物よ!」
「……卵は?」
「あるわけないでしょ! 一勝したからって毎朝卵が湧き出てくると思ったら大間違いよ! 三連勝してプロ入りを決めるまで、卵は週一回の特別配給制に格下げよ!」
「合格まで卵が週一回!? 相変わらずシビアすぎるだろ!」
「シビアで結構! ほら、干物の小骨を綺麗に除いて、五分で胃袋に放り込みなさい! 師匠に呼び出されたなら遅刻なんて許されないんだからね!」
「分かってるよ! いただきます!」
ギャーギャーと朝の静寂を吹き飛ばす口喧嘩を交わしながらも、清麿は香ばしく焼けたアジの干物に箸を伸ばした。
パリッとした皮の塩気と、ふっくらとした白身の旨みが、炊きたての白米と抜群に合う。
和令は小さく鼻を鳴らしながら、ちゃぶ台の横で端末を操作していたが、その横顔には、第一局の勝利に対する誇らしさと安堵が微かに残っていた。
口を開けば憎まれ口ばかりの未来人。だが、彼女の存在がどれほど自分の日常を支え、孤独だった三十歳の心を引き締めてくれているか、清麿は痛いほど分かっていた。
正午過ぎ。
清麿は中央線を乗り継ぎ、都内郊外の閑静な住宅街へとやってきていた。
木造の古い看板に『榊原将棋道場』の墨文字が掲げられたその場所は、かつて清麿が十歳で弟子入りし、奨励会時代に何千時間もの青春を過ごした思い出の原点だった。
ガラガラと引き戸を開けると、乾いた駒音と子どもたちの賑やかな声、そして使い込まれた盤と畳の懐かしい匂いが一気に清麿を包み込んだ。
道場の奥、一段高くなった師範席に、濃紺の羽織を着た老紳士が静かに座していた。
榊原雅臣九段。
白髪交じりの眉の下にある瞳は、静かな湖水のように澄み渡り、千駄ヶ谷の歴史を背負い続けてきた者だけが持つ圧倒的な風格を漂わせている。
「……ご無沙汰しております、先生」
清麿が歩み寄り、畳の上に正座して深々と頭を下げた。
榊原は手元の湯呑みを置き、穏やかな眼差しで清麿を見つめた。
「よく来たな、清麿。……座りなさい」
道場の子どもたちが、物珍しそうに遠巻きに清麿を見ている。
『あ、ネットニュースで見た加藤さんだ』『編入試験で勝った人だ!』と無邪気なささやき声が聞こえてくる。
榊原は子どもたちに優しく目配せをして対局に戻らせると、清麿の前に置かれた本榧の盤の上に、駒箱から駒を取り出して並べ始めた。
カチリ、パチリと、硬質な黄楊の駒が盤上に落ちる澄んだ音。
並べられたのは、数日前の編入試験第一局――清麿が宮坂四段の猛攻を「玉上がり」で空振りさせた、あの局面だった。
「第一局、見事な勝ちっぷりだったな」
榊原の声は静かだったが、その奥には深い実感がこもっていた。
「宮坂四段は、現代のAI研究を極限まで突き詰めた新鋭だ。その研究の最先端を、お前は序盤のたった一手で機能不全に追い込み、終盤は寸分の狂いもなく寄せ切った。……見事という他はないよ」
「ありがとうございます。……ですが、相手の焦りに助けられた部分も大きかったです」
「謙遜することはない。相手の焦りを誘い、自らの土俵に引きずり込むのも、立派な勝負師の腕だ」
榊原は盤上の中央の駒にそっと触れ、ふっと目を細めた。
「……清麿。お前が十歳でこの道場の敷居を跨いだ日のことを、今でも鮮明に覚えているよ」
「先生……」
「盤の前に座ると、周りの大人たちの顔色など一切見ず、ただひたすらに前へ前へと駒を進めていた。負ければ人目も憚らず大声で泣き、勝てば全身で喜びを爆発させていた。……類稀な才能だった。この子は必ず、将来の将棋界を背負って立つ棋士になると、私は確信していたんだ」
榊原の指先が、盤の木目を静かになぞる。
「だが……三段リーグの壁は、あまりにも厚く、残酷だったな」
胸の奥が、ズキリと痛んだ。
二十六歳の春。
年齢制限という非情な規定によって、奨励会を強制退会となったあの日。
清麿の視界の奥に、四年前の暗黒が冷たい泥のように蘇りかける。
「あの退会が決まった最後の日……お前は私の前に現れず、電話一本残さずに、姿を消した」
榊原の口から出た言葉に、清麿は思わず息を呑み、畳の上に額を擦りつけるようにして頭を下げた。
「……申し訳ありませんでした! 先生の期待を裏切り、泥を塗って逃げ出した最低の弟子です。合わせる顔がなくて……自分の惨めさに耐えられなくて、逃げ出してしまいました……!」
喉の奥がツンと熱くなり、声が震える。
十六年間、親身になって育ててくれた師匠に対し、最後の挨拶すら放棄して失踪したという消えない負い目。
破門されても、罵倒されても文句は言えなかった。
だが――。
「頭を上げなさい、清麿」
上から降ってきたのは、怒りの声ではなかった。
どこまでも深く、痛切な後悔を帯びた、震える声だった。
清麿が恐る恐る顔を上げると、榊原九段が苦渋に顔を歪め、両手を膝の上で白くなるほど握りしめていた。
「……謝らなければならないのは、私の方なんだよ」
「え……?」
「あの日、お前がどれほどの絶望の底にいたか……人生のすべてを懸けてきた夢を奪われ、真っ暗闇の中で立ち尽くしていたお前の痛みを、私は知っていたはずだった」
榊原の瞳に、薄く涙が滲んでいた。
「それなのに、私は……師匠でありながら、お前にどんな言葉をかければいいのか分からなかった。『よく頑張った』と言えば傷つけるのではないか、『別の道でも生きろ』と言えば突き放すことになるのではないか……。そうやって自分の無力さに怯え、言葉を探しているうちに、お前は去ってしまった」
老棋士の肩が、痛ましそうに小さく震えていた。
「私はね、清麿。お前を救えなかった自分を、この四年問ずっと責め続けていたんだよ。お前という才能を預かりながら、プロの舞台へ押し上げてやれず、最後には絶望の底へ突き落としたまま見失ってしまった。……師として、これほど不甲斐ないことはなかった」
「先生……! そんな、先生が責めることなんて何一つありません!」
清麿は思わず身を乗り出し、叫んでいた。
「俺が弱かったんです! 自分の才能に溺れ、泥臭く足掻く覚悟を持たず、勝負の重圧から目を逸らして自滅したんです! 先生はいつだって、俺に正しい道を指し示してくださっていました!」
「清麿……」
「俺は、先生に顔向けできない自分が恥ずかしくて逃げ出したんです。でも……あの暗闇の中で、もう一度将棋の駒に触れた時、頭に浮かんだのは、この道場で先生が教えてくださった、将棋の楽しさでした」
清麿は両手を畳につき、真っ直ぐに師匠の目を見つめ返した。
「逃げ出して、四年も音信不通にして……それでも、俺が十勝を挙げた時、先生は迷わずに推薦人を引き受けてくださいました。『二度と盤の前から逃げるな』と、背中を押してくださいました。……俺は、先生の弟子でいられて、本当によかったです」
胸の奥底から絞り出した、偽りのない感謝の言葉。
四年間、心の奥底で凍りついていた氷の塊が、温かい涙となって音を立てて溶け崩れていくようだった。
榊原九段は、しばらくの間、息を詰めて清麿の顔を見つめていた。
やがて、老棋士の唇が、かつて少年の清麿を褒める時に見せていたような、柔らかく温かい弧を描いた。
「……そうか。ありがとう、清麿」
榊原は目元を指先でぬぐい、深く、長く息を吐き出した。
「お前はもう、あの頃の脆い少年ではないな。敗北の痛みを骨の髄まで知り、他人の痛みを背負い、自分の足で盤の前に戻ってきた……立派な勝負師の顔だ」
榊原は懐から一冊の古びた棋譜ノートを取り出し、清麿の前へと滑らせた。
表紙には、擦れかけた文字で『加藤清麿・指導対局記録』と記されていた。
「これは……」
「お前が十歳で入門してから、三段リーグを去るあの日までに指した、千局以上の棋譜だ。……お前が去った後も、ずっと大切に保管していたよ」
胸が詰まり、言葉が出なかった。
師匠は、見捨ててなどいなかったのだ。
失踪した出来損ないの弟子の歩んできた軌跡を、何年もの間、祈るように手元に残し続けてくれていたのだ。
「持って行きなさい。お前が積み重ねてきた十数年の時間は、何一つ無駄ではなかった。三百年後の知識があろうとなかろうと……盤の上で戦うのは、この棋譜を刻んできた加藤清麿という人間だ」
「……はい! 大切に、胸に刻みます!」
清麿は両手でノートを抱きしめた。
ずっしりとした重み。
それは、過去の挫折の重みであると同時に、これからの未来を切り拓くための、何よりも心強い武器だった。
道場を出た頃には、秋の夕暮れが街を柔らかな朱色に染め上げていた。
涼やかな風が、清麿の頬を心地よく冷ましていく。
将棋界から完全に断絶されていた男が、いま、師匠との確執を乗り越え、確固たる居場所を取り戻したのだ。
駅へ向かう並木道。
スマートフォンの画面をタップすると、将棋連盟の公式ポータルに、次なる大一番の告知が掲載されていた。
『プロ棋士編入試験五番勝負・第二局』
『対局日:十月五日』
『対局者:加藤清麿アマチュア(1勝) 対 蓮沼涼太四段(0勝)』
蓮沼涼太四段、二十三歳。
直近の三段リーグをトップの成績で駆け抜け、プロ入り直後から驚異的な勝率を誇る若手実力派。
宮坂四段のような鋭利な急戦派とは異なり、変幻自在の力戦と徹底した泥沼戦で相手を絡め取る、極めて厄介な曲者だった。
掲示板やネット中継の予想では、『加藤アマ有利』の声が大半を占めている。
第一局の圧倒的な勝ちっぷりを見て、世間はもはや「三連勝でのストレート合格」を期待し始めていた。
だが――清麿の胸の奥で、微かな警鐘が鳴っていた。
プロ棋士たちのプライドは、一敗した程度で折れるほど脆くはない。
むしろ、第一局を完璧に粉砕されたからこそ、プロ棋界全体の意地と結束が、次なる第二局へ向けてかつてないほどの巨大な罠を研ぎ澄まして待ち構えているはずなのだ。
夕闇が迫る空を見上げながら、清麿は師匠から託された棋譜ノートをぎゅっと胸に抱きしめた。
合格まで、あと二勝。
だが、その扉を開くための道は、決して平坦な花道ではない。
次なる戦場に待ち受ける、予想もしなかった巨大な試練の影が、静かに、だが確実に忍び寄ろうとしていた。
読んでいただきありがとうございます。
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