第五章『30歳からのプロ棋士編入試験』
『第一局、元三段の意地』
九月に入っても、千駄ヶ谷の街には容赦のない残暑が居座り続けていた。
日本将棋会館を取り囲む銀杏の葉先がわずかに黄色を帯び始めているものの、吹き抜ける風はぬるく、アスファルトからは昼間の照り返しが立ち上っている。
正面玄関の前には、早朝から幾重もの人垣と報道陣のカメラの放列が築かれていた。テレビ局の中継車がエンジン音を響かせ、警備員が誘導の声を張り上げている。
この日、日本将棋連盟の長い歴史の中でも、極めて稀な公式戦の幕が上がろうとしていた。
――プロ棋士編入試験五番勝負、第一局。
プロ公式戦において通算十勝二敗という異次元の数字を叩き出し、かつての師匠・榊原雅臣九段の推薦状を取り付けて試験資格を完全獲得した元奨励会三段、加藤清麿。
試験制度は、直近にプロ入りを果たした新四段五人を相手にした五番勝負。
先に三勝を挙げれば合格、四段として正式にプロ編入。
三敗を喫すれば、その瞬間に不合格となり、再びアマチュアの暗闇へと突き落とされる。
四年前、二十六歳の春に年齢制限で三段リーグを追われた男が、三十歳を過ぎて、再びあの「プロの境界線」に立つ日がやってきたのだ。
「……ちょっと。何を玄関先で靴べらを握りしめたまま、彫像みたいに固まってんのよ、雑魚先祖」
今朝、アパートを出る直前の六畳間での光景が、清麿の脳裏をよぎる。
和令がちゃぶ台の横で腕を組み、冷ややかなジト目を突き刺してきたのだ。
『固まってない。靴の踵が潰れないように慎重に履いてたんだよ』
『嘘おっしゃい。心拍数が平常時の二割増しで、ワイシャツの胸元がトクントクン波打ってたわよ』
『緊張するのは当たり前だろ! 今日からプロ編入試験だぞ。相手は奨励会を勝ち抜いたばかりの新四段なんだぞ』
『だから何よ! 新四段なんて、三百年後の将棋アカデミーから見れば、補助輪付きの自転車に乗った幼稚園児みたいなもんよ!』
『幼稚園児なわけあるか! 三段リーグの過酷さを知らないからそんな暴論が言えるんだよ! あいつらは全員、プロになれずに消えていった何十人もの屍を踏み越えてきた怪物なんだぞ!』
『その屍の一人があんたでしょ! 踏み越えられた側が、今さら何を縮こまってんのよ!』
『それを言うな! ぐうの音も出ないけど、言い方ってものがあるだろ!』
『事実を述べて何が悪いのよ! だいたいね、今朝の朝ごはん、感謝の言葉がまだ足りないんじゃないの!?』
『ちゃんと両手合わせて「いただきます」って言って、卵焼きも納豆も綺麗に平らげただろ!』
『「美味でございました、和令様」って三回唱えなさいって言ったでしょ! 特売の卵を惜しみなく二個も投じた黄金の朝食よ!』
『神仏への祝詞みたいに言うな! ……でも、美味かったよ。力はついた』
『ふん、ならよろしい! ほら、背中を出しなさい!』
バチンッ、と激しい手のひらの衝撃が肩甲骨の間に叩き込まれた。
痺れるような痛みとともに、胸の奥底に燻っていた鉛のような重圧が吹き飛んだ感覚を、清麿は今も背中に覚えていた。
対局室は、四階の特別対局室。
襖を開けて入室すると、張り詰めた冷気が頬を打った。
上座には、すでに本日の対戦相手が腰を下ろしていた。
宮坂真樹四段、二十歳。
半年前の三段リーグを、抜群の勝率で次点昇段を勝ち取ってプロ入りしたばかりの最年少新鋭である。
仕立ての真新しい紺色のスーツ。短く切りそろえた黒髪の奥から覗く双眸は、飢えた若鷹のように鋭くギラついていた。
新四段にとって、編入試験の試験官を務めることは、名誉などでは決してない。
勝って当たり前、負ければ「プロの面汚し」として将棋界やファンの間から強烈な批判を浴びる、極限の貧乏くじだ。
まして相手は、かつて三段リーグで年齢制限を迎えて去っていった、三十歳の元奨励会員。
自分たちが命を削って掴み取った四段の座を、裏口から掠め取ろうとするアマチュアを絶対に許さない――宮坂の全身から立ち上るその気迫は、息を吸い込むだけで喉が切れそうなほど刺々しかった。
清麿が下座に進み、座布団の上に正座して深々と頭を下げる。
「加藤さんですね」
宮坂の声は若々しく、だが氷のように冷たかった。
「あなたの公式戦十勝、拝見しました。……現代のAIの盲点を突く奇手ばかりで、ベテランの先生方を手玉に取ってきたようですね」
「……」
「ですが、僕ら新四段は、三段リーグで毎日のように最新のソフトと殴り合ってきた世代です。小細工なんて通用しませんよ。……プロとアマの差を、盤上で骨身に刻んで差し上げます」
剥き出しの敵意。
かつての清麿なら、その若さと勢いに圧倒され、過去の敗北の記憶に押し潰されていたかもしれない。
だが、今の清麿の胸には、微塵の怯えも動揺もなかった。
(分かるよ、宮坂先生)
清麿は静かに背筋を伸ばした。
(お前のプライドも、背負っているものの重さも、痛いほど分かる。……だからこそ、俺も命を削って、真っ向からお前を超えなきゃいけないんだ)
「よろしくお願いいたします」
清麿が静かに頭を下げると、記録係の凛とした声が響き渡った。
「定刻となりました。加藤清麿アマチュア、プロ棋士編入試験五番勝負・第一局を開始してください」
深々と交わされる礼。
振り駒の結果、宮坂の先手、清麿の後手番と決まった。
宮坂が、寸分の狂いもない鋭い手つきで初手を放つ。
――バシィッ!
▲7六歩。
清麿も間髪を入れずに応じる。
――パシッ。
△3四歩。
互いに角道を開け、飛車先を突き合う。
局面は、現代将棋の最激戦区――『相掛かり』へと進展していった。
序盤の十数手、宮坂の手つきにはコンマ一秒の迷いもなかった。
最新の将棋AIのディープラーニングデータを自宅の並列マシンで何百万局も解析し尽くした、新四段ならではの超精密な研究手順。
銀を力強く繰り出し、飛車の射線を縦横に通し、先手のアドバンテージを極限まで拡大しようとする。
その頃、二階の控室。
モニターを取り囲む棋士たちと、記者の神崎澪の間で、緊張した囁きが交わされていた。
「宮坂四段、気合が入っていますね……」
若手の棋士が腕を組み、モニターを見つめる。
「三段リーグを抜けたばかりの新四段の切れ味は、A級棋士とはまた違った恐ろしさがある。怖いもの知らずの踏み込みと、最新研究の暗記量。加藤アマがこれまでの公式戦で見せてきたような序盤の罠を、力づくでへし折りにいくつもりだ」
「ええ……」
神崎澪は手帳を握りしめ、険しい表情で画面を凝視していた。
「編入試験の第一局は、シリーズ全体の流れを決定づける最重要局です。宮坂四段のこの猛烈なプレッシャーを、加藤さんはどう捌くのかしら……」
ネット中継のコメント欄も、息を呑む熱狂に包まれていた。
『編入試験ついに始まったぞ!』
『宮坂四段の手つきがめちゃくちゃ速い! 研究手順をノータイムで飛ばしてる』
『加藤アマ、新四段の勢いに呑まれるなよ!』
『ここを勝てば一気にプロ入りへ近づくぞ! 頼むから勝ってくれ!』
しかし――二十手を迎えた瞬間だった。
宮坂が、さらに手番の速度を上げようと、手元の銀を中央へ力強く押し出した直後。
加藤清麿の右手が、疾風のように盤上へと伸びた。
――パチリ。
清麿が放ったのは、自陣の玉を、自ら戦場に近い斜め前へとふわりと進める、奇怪極まりない一手だった。
『パターンA・常識破壊の序盤』。
現代のAI研究からすれば、自玉を危険に晒すだけの「大悪手」に見える一手。
「…………は?」
宮坂真樹の端整な眉が、ピクリと跳ね上がった。
盤面を二度見し、清麿の顔を凝視する。
(玉上がり……? このタイミングで玉を戦場に近づける手なんて、どの定跡書にも、どのソフトの候補手にも存在しないぞ……!?)
宮坂の脳内で、完璧に整理されていた何百万局面のデータベースが、激しいノイズを走らせて停止した。
宮坂は唇の端を吊り上げ、鼻から荒い息を噴き出した。
(ハッ……! 桐生先生や成瀬先生をハメたっていう、あの三味線か! 俺に通じると思うなよ!)
宮坂は自陣の飛車先から、怒涛の猛攻を仕掛けにかかった。
先手玉が危険に晒されているのだ。普通に攻め込めば、十手と持たずに粉砕できるはずだった。
――しかし。
五手、十手と進むごとに、宮坂の額から血の気が引いていった。
攻めれば攻めるほど、清麿の玉陣は薄くなるどころか、先ほど上がった玉の厚みを盾にして、宮坂の攻め駒をことごとく虚空へと空振りさせていく。
宮坂の飛車も銀も、前へ進めば進むほど、清麿の金銀の連結に絡め取られ、身動きが取れなくなっていくのだ。
(な……ぜだ……!? 悪手を指したのは相手のはずなのに……なぜ俺の陣形が崩壊している……!?)
宮坂の指先が、扇子の上で激しく震えた。
西暦二三二六年の完全定跡アーカイブ。
三百年後の研究において、現代の相掛かりの攻め筋は「相手の玉が中央に踏みとどまった瞬間に、攻め足が自縄自縛に陥る」という致命的な欠陥が完全に論破されていたのだ。
宮坂の持ち時間の砂が、カチカチと音を立てて消えていく。
十分、二十分、四十分――。
ノータイムで飛ばしていた新四段の手が、完全に凍りついていた。
対する清麿は、微動だにせず、静かに澄み切った瞳で盤面を見つめ続けていた。
未来の知識を暗記しただけではない。
片桐戦の敗北を越え、藤堂竜将の深淵に触れ、自分の頭で盤上の真理を噛み砕いてきた男の眼差しには、いかなる若さの暴風も呑み込む絶対の静寂が宿っていた。
宮坂は一時間の長考の末、苦肉の策として飛車を引いて受けに回った。
だが、現代の急戦派が自ら攻めの牙を折られた瞬間――勝負の天秤は、決定的に傾いていた。
清麿の反撃が始まった。
――バシィッ!
中央への歩の突き捨て。
――パシッ。
大駒を自ら敵陣へ叩き込み、手番を強奪する。
和令と夜を徹して解き続けた地獄の終盤特訓の成果が、寸分の狂いもない精度で盤上に描かれていく。
宮坂がどれほど悔しさに顔を歪め、泥臭く粘ろうと、清麿の指先は最短の寄せ筋から一ミリもブレなかった。
そして――七十八手目。
清麿は手元に残っていた一枚の銀を、宮坂の玉の頭上へと、そっと静かに打ち下ろした。
――パチリ。
静寂を震わせる、あまりにも穏やかな駒音。
王手。
逃げ場なしの、完全なる即詰み。
「…………」
対局室から、すべての音が消え去った。
宮坂真樹四段は、盤上に両手をついたまま、微動だにしなくなった。
二十歳の新鋭の肩が、激しく上下している。
やがて、深く、長い溜息とともに、宮坂は畳に額を擦りつけるようにして頭を下げた。
「……参り、ました」
掠れた、だが敗北を完全に認める声。
七十八手。
プロ棋士編入試験五番勝負・第一局。
若き新四段の誇りと研究を、元奨励会三段の三十歳が、完璧な内容で完膚なきまでに粉砕した瞬間だった。
「……ありがとうございました」
清麿もまた、深く一礼を返した。
背中には汗がびっしょりと張り付いていたが、指先には一切の震えもなかった。
記録係が震える手で公式記録用紙にペンを走らせる。
『プロ棋士編入試験第一局 勝者:加藤清麿アマチュア』
『試験成績:通算1勝0敗』
合格条件である「三勝」まで、あと二勝。
元三段の意地と未来の知性が、プロへの扉を力強く押し開いたのだ。
*
感想戦と記者会見を終え、将棋会館の外へ出ると、千駄ヶ谷の街は美しい夕暮れの茜色に包まれていた。
初秋の気配を含んだ夜風が、火照りきった清麿の頬を心地よく撫でていく。
通りを渡り、鳩森八幡宮の境内へと足を踏み入れると、街灯の薄明かりの下、ベンチの前で銀と藍色のライダースーツを着た和令が立っていた。
清麿の姿を捉えると、和令はスッと顎を上に向けて、鼻から大きく息を噴き出した。
「……遅かったじゃないの、雑魚先祖」
「七十八手で終わったんだぞ。早い方だろ」
「ふん。三百年後の正解手順なら七十四手で詰んでたわよ。四手も無駄な手番を使った減点ね!」
いつもの減らず口。
だが、その瞳の奥には、隠しきれない歓喜と誇らしさが満ち溢れていた。
「でもまあ……新四段のドヤ顔研究を序盤で粉々に砕いたのは、見てて最高にスカッとしたわよ!」
「へへっ、ありがとな」
清麿が笑うと、和令はニヤリと口元を吊り上げた。
「さあ、帰るわよ! 今夜は約束通り……いえ、一勝目のお祝いよ! スーパーで特売の牛肉を買って、すき焼き風の煮込みを作ってあげるんだから!」
「牛肉!? マジかよ、我が家の予算は大丈夫なのか!?」
「編入試験の初戦白星よ! 今日くらい景気良く奮発しなさいよ! 合格まで、あと二勝なんだからね!」
「ああ。あと二勝だ!」
夕暮れの参道に、二人の明るい笑い声が響き渡っていく。
失われたはずの夢を取り戻すための五番勝負、開幕白星。
だが、二人はまだ知らなかった。
次なる第二局において、清麿を待ち受けるプロ棋界の意地と、予想もしなかった巨大な落とし穴の存在を。
読んでいただきありがとうございます。
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