EP 10
『30歳を過ぎた俺に、プロへの切符が届いた』
千駄ヶ谷の夜明けは、息苦しいほどの熱気を孕んだ朝靄とともに明けた。
木造アパートの六畳間に差し込む陽光は白く煙り、薄いトタン屋根からは早くもジリジリと灼けるような熱が降り注いでいる。
加藤清麿は、ちゃぶ台の前に正座し、畳の上に置かれたスマートフォンの画面をじっと見つめていた。
画面をスクロールする指先が、かすかに震える。
夢ではなかった。
昨夜、日本将棋会館の特別対局室で百十八手に及ぶ死闘の末、B級1組の実力派・真島康平七段を破ったあの一局。
大手ポータルサイトのトップニュース、SNSの急上昇ワード、そして日本将棋連盟の公式ホームページのヘッドライン――そのすべてに、自分の名前が刻まれていた。
『【速報】加藤清麿アマ、風月杯三回戦で真島七段を破り公式戦10勝到達!』
『元奨励会三段の30歳、驚異の通算10勝2敗(勝率8割3分3厘)!』
『プロ棋士編入試験の受験資格を完全達成! アマチュアからのプロ挑戦へ!』
専門掲示板には、前夜から現在に至るまで、信じられない速度で書き込みが殺到し続けている。
『本当に10勝しやがった……!』
『プロ公式戦で10勝2敗とか、現役のトッププロでもそうそう出せない数字だぞ』
『四年前、年齢制限で三段リーグを去った男が、30歳でここまで這い上がってくるなんて奇跡としか言えない』
『編入試験は新四段5人との五番勝負だ。3勝すれば本当にプロ棋士誕生だぞ!』
スマートフォンの液晶から放たれる青白い光が、清麿の胸の奥底を熱く焦がしていく。
四年前の春、年齢制限という絶対の壁に叩き落とされ、奨励会を強制退会になったあの日。
自分には生きている価値などないと思い詰め、周囲のすべてを拒絶し、暗黒の底で膝を抱えていた三十歳の無職。
その男が、いま、かつて失った夢の扉を、自らの指先で完全にこじ開けたのだ。
胸の奥から熱いものが込み上げ、視界がかすかに滲みかける。
「……ちょっと。朝っぱらからスマホを拝み倒して、鼻の下を五センチも伸ばしてんじゃないわよ、雑魚先祖」
背後の台所から、アルミ鍋の蓋をガタガタと鳴らしながら、容赦のない甲高い声が飛んできた。
銀と藍色のライダースーツの袖をたくし上げ、千代の花柄エプロンをきゅっと腰に巻いた和令が、湯気を立てる盆を手に持って入ってくる。
「鼻の下なんて伸びてない。……ただ、本当に10勝したんだなって、実感を噛み締めてたんだよ」
「噛み締めてる暇があったら、六畳間の万年床を押し入れに片付けなさい! 湿気とあんたの自惚れオーラで部屋の不快指数が天文学的数値になってんだけど!」
「自惚れてなんかないだろ! 少しは喜んだっていいじゃないか、10勝2敗だぞ! 編入試験の条件を完全にクリアしたんだぞ!」
「条件をクリアしただけで、まだプロになったわけじゃないでしょ! 三百年後の加藤家再興ロードマップから見れば、まだスタートラインの白線に靴底の泥を擦りつけた程度の進捗よ!」
「泥って言うな! その泥を落とすために、俺はどれだけ命を削って盤に向かってきたと思ってんだ!」
「知ってるわよ! 削った命の分だけ、私の端末のエネルギーと胃薬が消費されたのも知ってんのよ!」
「お前、胃薬なんか飲んでないだろ! だいたい、今朝の朝ごはん、やけにいい匂いがするじゃないか」
「ふん! 別に感謝して作ったわけじゃないわよ! はい、朝ごはん!」
ドン、とちゃぶ台の上に置かれたのは、炊きたての白米と豆腐とワカメの味噌汁、そして――皿から溢れんばかりに盛り付けられた、黄金色に輝くふわふわのスクランブルエッグと、こんがり焼かれた特売のウインナーだった。
「……おい、和令。これ……」
「なによ、文句あんの!? 昨日の夜、あんたが取材で遅くなってどうせロクなもの食べてないと思ったから、朝市の特売卵を奮発してあげたんじゃないの!」
「卵をこんなに……! 一個二十円の超高級資源を、一気に四個も使ってるじゃないか!」
「四個くらい使わせなさいよ! 10勝目を手土産に持ってきたんだから、これくらいの特別配給は当然の権利よ! ほら、突っ立ってないでさっさと平らげなさい!」
「……ありがとう、和令。いただきます」
「へ、変に素直に頭を下げるんじゃないわよ、気味が悪い! 味が濃すぎても文句は受け付けないからね!」
和令は顔を真っ赤にしてツンとそっぽを向いた。
清麿は笑みをこぼしながら箸を取り、スクランブルエッグを口に運んだ。
バターの香りと卵の優しい甘みが、舌の上に広がり、空っぽの胃袋に染み渡っていく。
いつもの減らず口の奥にある、不器用な祝福。
昨夜、鳩森八幡宮の境内で、大粒の涙を流しながら「バカ先祖」としゃくり上げていた少女の顔が思い出され、清麿の胸が温かく満たされた。
その時だった。
トントントン、と階段を駆け上がってくる軽やかな足音に続いて、ドアベルの代わりに玄関のドアが激しく叩かれた。
「お兄ちゃん! お兄ちゃん、いるの!?」
「千代……?」
清麿が立ち上がる間もなく、カチャリと鍵が開き、勢いよくドアが開け放たれた。
飛び込んできたのは、妹の加藤千代だった。
白衣こそ着ていないものの、夜勤明けの私服のまま、息を切らして肩を大きく上下させている。
手には、今朝の朝刊が握りしめられていた。
「千代、お前……夜勤明けだろ? 寝なくて大丈夫なのか?」
「寝てられるわけないでしょ!!」
千代は靴を脱ぎ散らかすようにして上がり込むと、ちゃぶ台の前に立つ清麿の胸元へと、一直線に飛び込んできた。
「お兄ちゃん……! お兄ちゃん、勝ったんだね……! 本当に、10勝したんだね……!!」
「千代……」
抱きついてきた妹の細い肩が、激しく震えていた。
胸元に顔を埋めた千代から、ポロポロと温かい涙が溢れ出し、清麿のシャツを濡らしていく。
「病院の休憩室で、ナースのみんなと一緒にネットの速報見てたの……! 『加藤アマ勝利、プロ編入試験資格獲得』って出た瞬間、私……声上げて泣いちゃって……同僚のみんなに抱きしめられちゃったんだから……!」
「そっか……。心配かけて、悪かったな」
「ううん……! 心配なんてしてない、信じてたよ! お兄ちゃんが、もう一度盤の前に座って、前を向いて歩いてるの、ずっと見てたから……!」
千代は顔を上げ、涙でぐしゃぐしゃになった顔で、満面の笑みを咲かせた。
「おめでとう、お兄ちゃん……! 本当におめでとう……!!」
「ああ。ありがとう、千代」
清麿は妹の背中を、優しくポンポンと叩いた。
かつて、自分の挫折によって家族を崩壊させ、この妹にどれだけの負担と苦労を背負わせてきたか分からない。
改変前の歴史では、自分の昏睡を支えるために、千代は己の人生のすべてを犠牲にして基金を作ったのだ。
だが、いま――妹は、自分の足で立ち、自分の人生を歩みながら、兄の再起を心から祝福して泣いてくれている。
部屋の隅でその光景を見ていた和令が、目元を指先でぬぐい、小さく鼻をすする音が聞こえた。
千代が落ち着き、ちゃぶ台でお茶を飲みながら和令の手料理を一口つまんで「和令ちゃん、料理上手になったね」と笑い合った後、時計の針は午前十時を指していた。
「……さてと」
清麿は立ち上がり、ハンガーに掛けてあったスーツの上着を羽織った。
「行くのか、お兄ちゃん」
「ああ。連盟に行ってくる。……約束を果たしにな」
和令もエプロンを外し、サマージャケットを羽織って立ち上がった。
「千代おばあちゃん、留守番よろしくね。雑魚先祖が緊張で道端の側溝に落ちないように、私が手綱を引いて連れていくから」
「ふふ、お願いね、和令ちゃん。いってらっしゃい、お兄ちゃん!」
妹の温かな見送りを背に、二人は照りつける夏の陽光の中へと歩み出した。
午前十一時。
日本将棋会館・三階の連盟役員応接室。
外界の酷熱とは隔絶された静謐な空間の中、重厚な革張りソファに座る清麿の対面には、一人の老棋士が静かに腰を下ろしていた。
濃紺の羽織袴を身に纏い、白髪の混じった眉の下から穏やかな眼光を放つ男。
かつての師匠――榊原雅臣九段だった。
テーブルの上には、清麿が持参した一枚の公的書類が置かれていた。
『棋士編入試験申請書』
その最下部にある『推薦人署名・捺印欄』は、まだ白紙のままだった。
「……先生」
清麿は深く頭を下げた。
「風月杯三回戦、勝ちました。通算10勝2敗……規定の条件を達成いたしました」
「うむ。昨日の対局、棋譜を見せてもらったよ」
榊原九段はゆっくりと頷き、眼鏡の奥の目を細めた。
「真島七段の渾身の攻めに対し、自陣の受けを捨てて角を叩き込んだ百四手目……。あれは、お前自身の魂が絞り出した勝負手だったな」
「はい。……先生にいただいた『どんな暗闇でも、お前自身の魂の一手を指し切れ』という言葉が、背中を押してくれました」
「そうか」
榊原は懐から万年筆と印鑑を取り出すと、テーブルの上の申請書を自らの手元へと引き寄せた。
「先日、鳩森八幡宮で約束した通りだ。……お前が10勝を掴み取ったなら、私が推薦人を引き受ける、とな」
迷いのない手つきで、榊原は推薦人欄に『榊原雅臣』と力強く署名し、朱肉をつけた印を寸分の狂いもなく捺印した。
カツン、と乾いた重みのある音が室内に響く。
「……先生、本当にありがとうございます」
「礼には及ばん。だが清麿、ここからが本当の試練だぞ」
榊原は万年筆を置き、厳格な勝負師の眼光で清麿を見据えた。
「編入試験は、新四段五人との五番勝負だ。対戦相手となる若手プロたちは、いずれも過酷な奨励会三段リーグを勝ち抜いて四段に上がったばかりの、勢いと才能に満ち溢れた新鋭たちだ」
「はい」
「彼らにとって、編入試験は絶対に負けられない戦いだ。アマチュアにプロの座を奪われることは、彼ら自身の誇りを粉々に砕かれる屈辱を意味する。……公式戦とは比べ物にならない殺気とプレッシャーで、お前を叩き潰しにくるぞ」
「望むところです」
清麿は背筋を真っ直ぐに伸ばし、揺るぎない声で答えた。
「俺もまた、すべてを失い、泥水を啜ってここまで這い上がってきました。どんな殺気がぶつかってこようと……一歩も引く気はありません」
榊原の唇に、満足げな笑みが浮かんだ。
「よし。行ってきなさい、加藤清麿。……プロの盤上で、待っているぞ」
応接室を出た清麿は、二階の事務局の窓口へ向かった。
神崎澪をはじめとする報道陣が遠巻きに見守る中、清麿は窓口の職員に向かって、推薦人の署名が刻まれた申請書を両手で差し出した。
「棋士編入試験の申請をお願いいたします」
職員は厳粛な面持ちで書類を確認し、受領印をパチンと押した。
「確かに受理いたしました。……加藤清麿アマチュア、棋士編入試験への挑戦を正式に受理します」
その瞬間、清麿の胸の中で、カチリと巨大な運命の歯車が噛み合う音が聞こえた気がした。
ついに、届いたのだ。
失われたはずのプロへの切符が、いま、三十歳を過ぎた男の掌の上に、確かに握りしめられていた。
*
将棋会館の外へ出ると、夕暮れの茜色の空が千駄ヶ谷の街を美しく染め上げていた。
涼やかな夕風が、火照った清麿の頬を心地よく撫でていく。
通りを渡り、鳩森八幡宮の境内の木製ベンチの前へ進むと、和令が腕を組んで待っていた。
夕日を浴びた少女の黒髪が、風にさらさらと揺れている。
清麿が歩み寄ると、和令はスッと顔を上げ、ツンと顎を上に向けて鼻から大きく息を噴き出した。
「……手続き、終わったわけ、雑魚先祖」
「ああ。正式に受理されたよ。……来月から、編入試験五番勝負が始まる」
「ふん。ようやくスタートラインね」
和令はそう言って、小さく口元を歪めた。
だが、その瞳の奥には、かつてないほどの熱い光が宿っていた。
「いい、清麿? 五番勝負で三勝。三つ勝てば、あんたは四段プロ棋士よ。三百年後の加藤家の借金地獄も、千代おばあちゃんの悲劇も、全部あんたの腕一本で粉砕できるのよ!」
「ああ。分かってる」
清麿は夕暮れの空を見上げた。
四年前の暗闇の底で、死ぬことすらできずに蹲っていた男。
未来から降ってきた生意気な子孫にドロップキックを食らい、未来の定跡を叩き込まれ、敗北と挫折を乗り越えて、ここまで走ってきた。
もう、後ろを振り返る必要はない。
「勝つぞ、和令。新四段が相手だろうが、誰が来ようが……俺たちの将棋で、プロの扉を完全にぶち破ってやる」
「当たり前でしょ! 泣き言言ったら、今度こそ脳天にドロップキックだからね!」
初夏の夕空に、二人の決意に満ちた声が力強く響き渡った。
人生で一度閉ざされた夢を取り戻すための、最後の戦い――『プロ棋士編入試験五番勝負』の幕が、いま堂々と上がろうとしていた。
読んでいただきありがとうございます。
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