EP 9
『十勝目の一手』
八月の朝、千駄ヶ谷の空は白く濁るほどの猛烈な陽光に灼かれ、街全体が巨大な蒸し風呂のように淀んだ熱気を放っていた。
日本将棋会館の正面入り口には、まだ対局開始の三十分以上前だというのに、テレビ局の大型中継車と無数の報道陣が押し寄せていた。警備員が汗だくになってロープを張り、通りがかる歩行者たちが「何事だ」と足を止めてざわめいている。
それもそのはずだった。
本日行われるのは、第五十期風月杯トーナメント三回戦。
だが、世間の熱狂の焦点は、単なる棋戦のベストエイト進出争いなどではなかった。
――元奨励会三段、加藤清麿アマ。
プロ公式戦通算成績、九勝二敗。
日本将棋連盟が定めるプロ棋士編入試験の申請条件――『プロ公式戦において、最も良いところから見て十勝以上、かつ勝率六割五分以上』。
新四段の吉沢を破り、理論派の桐生、重鎮の武田、AI求道者の成瀬、振り飛車党の梶原、鋼鉄の門番・乾、急戦派の大場、そして若手実力派の神谷を薙ぎ倒してきた三十歳の挫折者が、ついにその頂の扉に手を掛けたのだ。
勝てば、十勝二敗――勝率八割三分三厘で、編入試験の受験資格を完全達成。
負ければ、今年度最後のアマチュア特別参加枠である風月杯から脱落し、その瞬間に今年度の挑戦はすべて露と消える。
天国か地獄か。退路なきサドンデスの、正真正銘の最終関門だった。
ネットの将棋ポータルサイトのトップには、早朝から巨大なバナー広告のように特集記事が掲げられていた。
『加藤清麿アマ、運命の第十局! 三十歳の元神童、プロ編入へ王手!』
『本日勝てば即日資格獲得! 対するは百戦錬磨の実力派・真島康平七段!』
専門掲示板の実況スレッドは、開始前から信じられない速度で書き込みが乱舞していた。
『ついにここまできたか……!』
『今日勝てば本当に編入試験なのかよ、漫画でも出来すぎてるだろ』
『相手の真島七段は順位戦B級1組の上位常連だぞ。乾七段以上の超本格派だ』
『片桐八段に負けた時みたいに、研究を外されたらアマチュアには耐えられない』
『頼むから勝ってくれ加藤! 俺たち負け組の希望になってくれ!』
「……ちょっと。何をスマホの画面を睨みつけて、魂抜けたような顔してんのよ、雑魚先祖」
六畳間の古びた台所から、アルミ鍋をドンとちゃぶ台に置きながら、和令が容赦のない甲高い声を浴びせてきた。
銀と藍色のライダースーツの袖をたくし上げ、千代の花柄エプロンをきゅっと腰に巻いている。
「魂抜けてない。……ただ、世間の騒ぎが凄すぎて、少し胃が痛いだけだ」
「世間の雑音なんて耳栓して無視しなさいよ! だいたいね、あと一勝ってところでガタガタ震えてんじゃないわよ!」
「震えてない! 少し武者震いしてるだけだ! だいたいお前こそ、今朝は妙に早起きして台所でガタゴト音を立ててただろ」
「なっ……! あれは三百年後の体内時計が現代のサマータイムに誤作動しただけよ! あんたのために早起きしたわけじゃないんだからね!」
「誰もそんなこと言ってないだろ。……で、今日の朝ごはんは?」
「見れば分かるでしょ! 昨夜の豚の生姜焼きの残りと、もやしのナムル、そして――ほら!」
和令がドヤ顔でちゃぶ台の中央に滑り込ませたのは、熱々の白米の上に鎮座する、黄金色の卵かけご飯だった。
「……あれ? 卵、昨日のオムレツで全滅したんじゃなかったのか?」
「近所のスーパーの朝市で、開店ダッシュして勝ち取ってきたのよ! 一個二十円の超高級資源を、最後の一番のために特別に配給してあげたんだから!」
「和令……開店ダッシュしたのかよ……」
「勘違いしないでよね! あんたが栄養失調で指を滑らせて、私の未来の借金返済計画をパーにされたら末代までの恥だからよ!」
「末代って、お前がその末代だろ……。でも、ありがとうな。いただきます」
「味わって食べてる暇があったら、真島七段のデータを叩き込みなさいよ!」
和令はツンと顎を上に向けると、腰のホルダーから透明な薄型端末を引き抜き、空中に青白いホログラムを展開した。
「真島康平七段、四十一歳。順位戦B級1組に十年以上在籍し、タイトル挑戦歴もある本格派の居飛車党よ」
空中に浮かび上がったのは、仕立てのいい和服を身に纏い、落ち着いた口元と鋭利な眼光をたたえた中堅実力派の写真だった。
「真島七段は、大場みたいなAI一辺倒の早攻めでも、神谷みたいな無謀なブルドーザーでもないわ。……相手の攻めを完璧に受け止め、じわじわと盤面を制圧して息の根を止める、現代屈指の『重戦車』よ」
「乾先生の受けの硬さに、片桐先生のような精密な大局観を併せ持った相手、か」
「そうよ。しかも彼、あんたの過去十一局の棋譜を、将棋連盟の研究会総出で洗い直してるわ。……プロの意地よ。アマチュアに編入試験の扉を開かせるわけにはいかないって、連盟全体の重圧が真島の背中に乗っかってるのよ」
「連盟全体の重圧……」
「そう。でもね、清麿」
和令は端末をパチンと閉じ、真っ直ぐに清麿の目を射抜いた。
「重圧を背負ってんのは、あっちだけじゃないわ。あんたの後ろには千代おばあちゃんがいて、榊原師匠がいて、そして――三百年後の私がいるのよ! 歴史を変える最後の一歩よ。……絶対に、負けて帰ってくるんじゃないわよ!」
「……ああ。行ってくる」
清麿は黄金色の卵かけご飯を一気に掻き込み、力強く立ち上がった。
午前九時四十分。
日本将棋会館・四階、特別対局室。
冷房の風が静かに吹き抜ける室内は、まるで見えない火花が散っているかのように張り詰めていた。
上座に座る真島康平七段は、黒の羽織の裾を正し、彫りの深い顔立ちで微動だにせず盤面を見つめていた。
千駄ヶ谷の畳の上で二十年以上を戦い抜き、無数の強豪を葬ってきた本格派の風格。
清麿が下座に進み、座布団の上に正座して深々と一礼する。
「加藤さん」
真島が口を開いた。低く、砂利を踏みしめるような重厚な声。
「あなたの戦い、すべて拝見してきました。……吉沢、桐生、武田、成瀬、梶原、乾、大場、神谷。プロの第一線を張る男たちが、ことごとくあなたの盤上に沈んだ。敬意を表します」
「……恐縮です」
「世間は、あなたを『奇跡のアマチュア』と呼び、今日の勝利を心待ちにしている。だがね、加藤さん。我々プロ棋士にとって、編入試験の扉をアマチュアに開かれるということは、我々の人生のすべてを否定されるに等しい屈辱なのだ」
真島は膝の上の扇子をぎゅっと握りしめ、射抜くような眼光を清麿に突き刺した。
「私は、奇をてらった手は指さない。小細工も弄さない。……プロが積み上げてきた本物の正攻法で、あなたのその夢を、ここで断ち切らせてもらう」
逃げ場のない、プロ棋界全体の誇りを背負った宣戦布告。
清麿の背筋が、ゾクリと粟立った。
だが、その恐怖の裏側で、清麿の心臓は熱く、誇らしく脈打っていた。
(そうだ。プロの世界は、こうでなくてはならない)
清麿は深く息を吐き出し、静かに顔を上げた。
「……よろしく、お願いいたします」
「定刻となりました。風月杯三回戦、対局を開始してください」
記録係の張り詰めた声が響き、両者が深々と一礼を交わした。
振り駒の結果、真島の先手、清麿の後手番と決まった。
真島が、骨太の指先で初手を放つ。
――バシィッ!
▲7六歩。
清麿も間髪を入れずに応じる。
――パシッ。
△3四歩。
序盤の二十手、局面は現代将棋の最高峰の激戦区――『角換わり腰掛け銀』へと進展していった。
真島の手つきには、一切の迷いがなかった。
長谷川戦のような変則的な研究外しも、神谷戦のような無謀な突撃もない。
現代の最新将棋AIが導き出す最善手を寸分の狂いもなくトレースしながら、自陣の金銀を完璧に連結させ、清麿のいかなる反撃にもビクともしない金城湯池の布陣を組み上げていく。
清麿の頭の中にある『完全定跡アーカイブ』が、青白い光となって脳裏に展開される。
(真島七段は、俺が桐生戦で見せた「玉上がり」も、大場戦で見せた「歩突き」も、すべて織り込み済みで構えている……)
三十手、四十手。
午前中の対局室には、規則正しく重い駒音だけが落ちていた。
隙がない。
力づくでこじ開けようとすれば、真島の重厚な盾に跳ね返されて自滅する。かといって手を手控えていれば、真島の卓越した大局観によって、盤面全体の呼吸を徐々に締め上げられていく。
午後になり、対局は終盤戦へと突入した。
二階の控室。
有線モニターを取り囲む棋士たちの間に、息の詰まるような重圧が漂っていた。
「……真島先生、完璧だ」
解説の若手棋士が、青ざめた顔でモニターを見つめる。
「加藤アマの未来的な新手に対し、一歩も引かずに正攻法で押し込んでいる。AIの評価値は完全な互角だが、人間的な心理から見れば、加藤アマの手番のほうが一手間違えれば即死する地獄の綱渡りだ」
「加藤さんの持ち時間が、残り十分を切りました……」
神崎澪が手帳のペンを握りしめ、祈るように画面を凝視していた。
ネット中継のコメント欄も、息を呑む緊張で埋め尽くされている。
『互角のまま百手超えそう!』
『真島七段の壁が厚すぎる……!』
『加藤アマ、一手一分に入ったぞ!』
『ここまで来て負けるのか!? 耐えてくれ加藤!!』
「――三十秒……四十秒……五十秒」
記録係の無機質な秒読みが、対局室の静寂を切り裂く。
百手目を迎えた局面。
真島七段が、満を持して右手を振り下ろした!
――ズドォォォンッ!!
盤が軋むような激震。
真島が放ったのは、自陣の飛車を清麿の玉陣の急所へと叩き込む、乾坤一擲の勝負手だった!
羽織の襟元を乱し、真島の血走った双眸がギラリと光る。
(受かるものなら受けてみろ、加藤清麿! これが二十年間、千駄ヶ谷の畳で生きてきたプロの魂だ!!)
飛車を取れば、真島の角が清麿の玉の退路を撃ち抜く。逃げれば、飛車が成り込んで清麿の陣形は一瞬で崩壊する。
「十秒……二十秒……三十秒……」
秒読みが非情に迫る中、清麿の視界が白く霞みかけた。
頭がカッカと熱い。心臓が肋骨を突き破らんばかりに暴れている。
アーカイブの画面は、脳内で点滅を停止していた。
現代のトッププロが命を削って繰り出したこの局面の手順は、三百年後のデータの中にも存在しない。
(答えが……ない……!)
四年前の恐怖が、黒い濁流となって胸の奥底から噴き上がりそうになる。
あと一勝でプロになれた、あの三段リーグ最終局。相手のなりふり構わぬ勝負手に怯え、頭が真っ白になって自滅していった地獄。
(また……なのか? 俺はまた、ここで負けて、すべてを失うのか……!?)
『――何情けない顔してんのよ、雑魚先祖ッッ!!!!』
鼓膜の奥で、カッと雷鳴のような怒号が炸裂した。
今朝、アパートを出る前に背中を叩かれた手のひらの痛烈な熱狂。
和令の声だ。
『最初から、盤の前で指してんのはあんた一人でしょ! 三百年後の加藤家の未来を背負って、ここまで泥水を啜って勝ってきたのは誰なのよ! 未来に答えがないなら、今ここで作ればいいでしょ!!』
――ハッと、息を呑んだ。
視界を覆っていた黒い霧が、音を立てて吹き飛んでいく。
(……そうだ)
清麿は目を閉じ、深く、深く息を吐き出した。
自分はもう、答えを暗記しただけのピエロではない。
佐久間戦で負けて、和令と夜を徹して何百局もの泥沼を解き、成瀬戦で自らの手で活路を切り拓き、藤堂竜将の深淵に触れ、長谷川と神谷の猛攻を耐え抜いてきた。
俺には、和令から授かった三百年分の論理がある。
そして――十年以上、挫折の底で磨き続けてきた、俺自身の魂の読みがある!
「四十秒……五十秒……一、二、三……!」
清麿は目を見開いた。
濁りのない、透き通った瞳が、盤上の四十枚の駒を捉える。
真島の飛車の打ち込み。確かに凶暴だ。
だが――冷静に、冷徹に盤面全体を俯瞰すれば、真島が飛車を打ち込んだ瞬間、先手陣の底を支えていた守備のバランスに、わずか「一マス」の空白が生まれている。
自陣の飛車を手放した代償。
相手が勝負を懸けて命を削ってきたからこそ生じた、針の穴のような急所!
(飛車は取らない。逃げもしない……。ここへ、踏み込む!!)
「六、七、八――」
記録係の声が「九」を数える直前、清麿の右手が疾風のように盤上へと振り下ろされた。
――ズドォォォンッ!!
特別対局室の空気を震わせる、重く鋭い駒音。
清麿が放ったのは、受けの手ではなかった。
自陣に眠っていた自らの角を鷲掴みにすると、真島の玉の頭上――相手の金銀の利きが交差する死地へと、迷いなく叩き落としたのだ!
『パターンB・大駒放棄のカウンター』。
しかし、それはただの未来定跡のなぞり書きではない。
相手が飛車で清麿の玉を仕留める手数よりも、わずか「一手」早く、真島の玉陣を麻痺させるために清麿自身の頭脳が弾き出した、命懸けの勝負手だった!
「…………っ!?」
真島康平の体が、跳ね上がるように硬直した。
扇子を握りしめていた手が、ピクリと凍りつく。
角の叩き込み。
取れば清麿の桂馬が跳ねてきて玉が即詰みになる。取らなければ、清麿の角が真島の玉の退路を完全に消滅させる。
「馬鹿な……! 自玉の受けを捨てて……踏み込んできたというのか……!?」
真島の喉から、掠れた叫びが漏れる。
真島は歯を食いしばり、取った飛車を成り込ませて清麿の玉へ王手をかけた。
だが――清麿の応手は、氷のように滑らかだった。
――パシッ。
玉を自ら斜め前、中段の戦場へと一歩進める。
あらかじめ配置されていた清麿の金銀が、竜の射線をミリ単位の精度で遮断し、王手がピタリと止まる。
王手が、続かない。
そして――清麿の瞳が、冷徹な光を宿した。
「真島先生」
清麿は静かに顔を上げ、真島の目を真っ直ぐに見据えた。
「俺をここまで育ててくれた、プロの世界のすべてに……感謝します」
清麿の右手が、最後の引導を渡すために伸びた。
――バシィッ!
桂馬を跳ねて王手。
――パシッ。
歩を叩いて退路を塞ぐ。
手数にして、わずか五手。
そして――百十八手目。
清麿は手元に残っていた一枚の銀を、真島の玉の頭上へと、そっと静かに打ち下ろした。
――パチリ。
静寂を震わせる、あまりにも穏やかな駒音。
王手。
合駒利かず。
逃げ場なしの、完全なる即詰み。
「…………」
対局室から、すべての音が消え去った。
記録係がストップウォッチを止めるカチリという音だけが、やけに大きく響く。
真島康平七段は、盤上に両手をついたまま、微動だにしなくなった。
肩で息をしていた男の呼吸が、ゆっくりと、静かに整っていく。
やがて、深く、長い溜息とともに、真島はゆっくりと背筋を正した。
その顔には、すべてを出し尽くした勝負師の、清々しい諦念が浮かんでいた。
真島は両手を畳につけ、深々と頭を下げた。
「……参り、ました」
百十八手。
千駄ヶ谷の本格派・真島康平七段が、己の誇るすべての正攻法をぶつけ尽くし、完敗を認めた瞬間だった。
「……ありがとうございました」
清麿もまた、畳に額を擦りつけるようにして頭を下げた。
その瞬間、全身の筋肉から熱い汗が一気に噴き出し、指先がガクガクと激しく震え出した。
勝ったのだ。
背水の陣、サドンデスの極限の盤上で、現役プロ七段を相手に、己の読みで勝ち切ったのだ。
襖が音を立てて開き、控室から駆けつけてきた報道陣と関係者が、雪崩のように対局室へと押し寄せてきた。
無数のカメラのフラッシュが一斉に焚かれ、白い閃光が部屋を昼間のように照らし出す。
記録係が震える手で記入した、公式記録用紙の文字が、清麿の滲む目に飛び込んできた。
『風月杯三回戦 勝者:加藤清麿アマ』
『プロ公式戦通算成績:10勝2敗(勝率8割3分3厘)』
『規定により、プロ棋士編入試験の受験資格を完全獲得』
十勝到達。
四年前、二十六歳で奨励会を追われ、社会の片隅で膝を抱え、死ぬことすら許されなかった三十歳の無職の男。
その男が、いま、自らの指先で、閉ざされていたプロへの鉄の扉を、完全にこじ開けた瞬間だった。
*
記者会見と感想戦を終え、将棋会館の外へ出た頃には、千駄ヶ谷の空は深い紫紺の夜の帳に包まれていた。
熱帯夜の生ぬるい風が、火照りきった清麿の頬を撫でていく。
会館の周囲にはまだ多くのファンや記者が残っていたが、清麿は裏口から抜け出し、通りを渡って鳩森八幡宮の境内へと足を踏み入れた。
静まり返った境内の石畳。
街灯の淡い光の下、古びた木製ベンチの前に、銀と藍色のサマーワンピースを着た少女が立っていた。
加藤和令。
彼女は両腕を組み、長い黒髪を夜風になびかせながら、じっと清麿を待っていた。
清麿の足音が近づくと、和令はスッと顔を上げ、ツンと顎を上に向けて鼻から息を噴き出した。
「……遅かったじゃないの、雑魚先祖」
いつもの、聞き慣れた生意気な声。
「百十八手なんて、手こずりすぎよ。こっちは待ちくたびれて、夜風で風邪ひきそうだったわよ」
「悪かったよ。取材が山ほどあってさ……」
清麿は和令の前まで歩み寄り、立ち止まった。
そして、夜空を見上げ、深く息を吸い込んだ。
「……和令」
「なによ」
「勝ったぞ。十勝目……掴み取った」
言葉にした瞬間、喉の奥がツンと熱くなり、視界が滲んだ。
「プロ編入試験の資格、取れたぞ。……俺たち、やったんだ」
和令は何も言わなかった。
いつものように毒舌で茶化すことも、「当たり前でしょ」と笑うこともなかった。
少女はただ、ぎゅっと唇を噛み締め、俯いた。
その細い肩が、小刻みに震え始める。
ぽたぽたと、大粒の涙が、石畳の上に落ちて染みを作っていった。
「……バカ先祖」
掠れた、震える声だった。
「当たり前でしょ……! 誰のサポートを受けてきたと思ってんのよ……! 三百年後の神童たる加藤和令が手塩にかけて育てたんだから……勝たなきゃ承知しないわよ……ッ!」
和令は両手で顔を覆い、しゃくり上げた。
三百年後の世界で、負け犬として見下され、絶望の底で過去へ飛んできた少女。
その少女が、いま、自らの先祖とともに、運命の濁流を押し返し、奇跡の白星を掴み取ったのだ。
「……泣くなよ、和令」
「泣いてないわよ! 目からナノ冷却水が漏れてるだけよ!」
「相変わらず素直じゃないな」
清麿は笑いながら、そっと和令の頭の上に手を置いた。
少女の柔らかい髪の温もりが、手のひらを通して伝わってくる。
「ありがとう、和令。お前がいなきゃ、俺はここにいなかったよ」
「……ふん。感謝するなら、編入試験で五番勝負に勝ちなさいよ。プロにならなきゃ、全部ただの紙切れなんだからね」
「ああ。分かってる」
夜の千駄ヶ谷の空を見上げる二人の胸には、確固たる光が灯っていた。
公式戦通算十勝二敗。
失われたはずの人生の詰み筋をぶち破り、加藤清麿はついに、プロ棋士編入試験という運命の最終決戦へと足を踏み入れようとしていた。
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