EP 8
『九勝目』
七月も終わりに近づいた東京は、息をするだけで肺の奥がじっとりと焼けつくような猛暑に包まれていた。
木造アパートの六畳間では、首振り扇風機がガタガタと軋んだ音を立てながら、熱気をかき混ぜるように生ぬるい風を送り続けている。
加藤清麿は、ちゃぶ台の前に正座し、丁寧に糊の利いた白シャツの袖口をゆっくりと折り返した。
三日前、日本将棋会館の小対局室で交わした、現代将棋界の絶対王者・藤堂晃司竜将との邂逅。
あの一手が、今も清麿の網膜の奥に、眩い燐光となって焼きついて離れなかった。
未来の完全定跡アーカイブすらも「緩手」として破棄していた、あのたった一枚の端歩突き。
『盤の上に命を吹き込むのは、いつだって生身の人間の息遣いであり、その場の直感だ』
藤堂が残した言葉が、胸の奥底で静かな炎となって燻り続けている。
三百年後の知識という巨大な翼を授かりながら、自分はまだ、盤上の真理の入り口に立ったに過ぎない。
だが、恐れはなかった。
現在のプロ公式戦通算成績は、八勝二敗。
プロ棋士編入試験の申請条件である「公式戦十勝以上、かつ勝率六割五分以上」という奇跡の関門まで、あと二勝。
そして本日行われるのは、今年度最後のアマチュア特別参加枠――『風月杯』の二回戦。
トーナメントである以上、一度でも負ければ即座に敗退し、今年度の挑戦権はすべて消滅する。
一敗も許されないサドンデス。
だが、その崖っぷちの緊張感すらも、今の清麿にとっては、己が生きて盤の前に座っている証のように心地よかった。
「……ちょっと。朝っぱらから鏡の前で拳を握りしめて、何のアクション俳優の気取りよ、雑魚先祖」
背後の台所から、アルミの鍋をちゃぶ台にドンと置きながら、和令がツンと尖った声を浴びせてきた。
銀と藍色のライダースーツの袖をたくし上げ、千代が置いていった花柄のエプロンをきゅっと腰に巻いている。
「アクション俳優じゃない。気合を入れてたんだよ」
「嘘おっしゃい。藤堂竜将に声をかけられたからって、鼻の下が五ミリ伸びて、毛穴から『俺は選ばれし男』オーラが駄々漏れよ」
「伸びてないし漏れてない! だいたい藤堂先生のあの端歩を思い出したら、浮かれるどころか背筋が凍る思いだよ」
「分かってんならよろしい! あの絶対王者の変態的な大局観に比べたら、あんたの脳みそなんてまだ三百年遅れのガラパゴス諸島なんだからね!」
「ガラパゴスって言うな! ……でも、お前もあの時は顔面蒼白だったじゃないか」
「なっ……! 私がいつ青ざめたって言うのよ! あれは冷房の設定温度が低すぎてナノスーツの熱交換が追いつかなかっただけよ!」
「はいはい、そういうことにしておくよ。……で、今日の朝ごはんは?」
「見れば分かるでしょ! 豆腐ともやしの味噌汁に、スーパーの見切り品のおくら納豆よ!」
「……卵は?」
「あるわけないでしょ! 前回の巨大オムレツで我が家の卵備蓄は完全に底をついたの! 八勝二敗になったくらいで毎日贅沢できると思ったら大間違いよ!」
「卵一個を贅沢って呼ぶ我が家の経済状況をなんとかしたいよ……」
「なんとかするために今日勝ちなさいって言ってんの! ほら、納豆を五十回かき混ぜてさっさと腹に入れなさい!」
「言われなくても食べるよ! いただきます!」
清麿は箸を取り、ネバネバとした納豆を白米の上に乗せて勢いよくかき込んだ。
素朴な出汁の味が、空っぽの胃袋に染み渡っていく。
和令は小さく鼻を鳴らすと、腰のホルダーから透明な薄型端末を引き抜き、空中に青白い立体ホログラムを展開した。
「食べながら聞きなさい、清麿。風月杯二回戦、本日の相手はプロ四段の神谷遼、二十二歳よ」
空中に浮かび上がったのは、茶髪を短く刈り込み、挑戦的な眼光をぎらつかせた若手棋士の顔写真だった。
「神谷四段……奨励会三段リーグをわずか一期で駆け抜けてプロ入りした、若手きっての武闘派だな」
「そうよ。現代の将棋界じゃ『盤上のブルドーザー』なんて呼ばれてるわ。どれだけ相手が手厚く受けようが、自陣の囲いすらそこそこに、圧倒的な破壊力と手数で最短粉砕を狙ってくる超攻撃型よ」
「長谷川五段のようなネチネチした研究外しじゃなくて、最初から腕力でねじ伏せにくるタイプか」
「ええ。現代のプロ棋士でも、あの暴力的な踏み込みを受け止めきれずに何十人も圧殺されてるわ。……でもね、清麿。三百年後の完全定跡から見れば、そんな猪突猛進の攻めなんて、自分から罠に飛び込んでくる鴨ネギよ」
和令の口元に、不敵で冷徹な笑みが浮かんだ。
「相手が自陣の守りを捨てて攻めかかってくるなら、こちらは相手の大好物を差し出してやりなさい。『パターンB・大駒放棄のカウンター』よ」
「大駒放棄……。自らの飛車や角をあえて取らせる、あの構想か」
「そう。相手が最も気持ちよく大駒を食い破ったその刹那、相手の攻め足は完全に止まり、手番はあんたのものになる。……相手の暴力的なスピードを、未来の知性で逆利用してやりなさい!」
「ああ。分かった」
清麿は力強く頷き、味噌汁を最後の一滴まで飲み干した。
午前九時四十分。
日本将棋会館・四階、特別対局室。
室内の空気は、冷房が効いているにもかかわらず、肌がチリチリと痺れるような殺気に満ちていた。
上座に座る神谷遼四段は、ノーネクタイの黒シャツに腕まくりという荒々しい出で立ちで、すでに盤面を射抜くように睨みつけていた。
二十二歳の若武者。その全身から立ち上る攻撃的なオーラは、かつて清麿が三段リーグで恐れていた「若き天才たちの凶暴さ」そのものだった。
清麿が下座に進み、座布団に正座して深く一礼する。
「加藤さんっすね」
神谷が口を開いた。低く、挑発的なハスキーボイス。
「あなたの将棋、動画中継で観ましたよ。なんか未来のAIのバグを突いたような、小賢しい手ばっかり指してプロをカモってるらしいっすね」
「……」
「でも、俺にはそういう理屈っぽい小細工は通用しないんで。どんな新手が出てこようが、上から全部叩き潰しますから。覚悟してくださいよ」
剥き出しの敵意と、自らの攻撃力への絶対の自信。
だが、清麿の瞳には、かつてのような動揺は微塵もなかった。
(若さ、勢い、そして盤上の腕力……。確かに恐ろしい。だが――)
清麿は静かに背筋を伸ばし、深く息を吐き出した。
(俺はもう、相手の気迫に呑まれて自滅するような、あの頃の雑魚じゃない)
「よろしくお願いします、神谷先生」
静かな一礼とともに、駒箱の蓋が開けられた。
「定刻となりました。風月杯二回戦、対局を開始してください」
記録係の声が室内に凛と響く。
振り駒の結果、神谷の先手、清麿の後手番と決まった。
神谷の手つきは、まるで獲物に飛びかかる獣のように鋭く、激しかった。
初手、▲7六歩。
清麿もすぐに応じる。
△3四歩。
序盤の十手、神谷が選択したのは、現代の居飛車における最激戦区――超急戦型の相掛かりだった。
自陣の玉を囲う手数すら惜しみ、飛車先を突き捨て、銀を猛烈な勢いで中央へと繰り出してくる。
相手陣の急所を、最短手数で火の海に包み込むための、文字通り命知らずの特攻布陣。
二十手、二十五手。
盤上には、一触即発の火薬庫のような緊張が張り詰めていた。
その頃、二階の控室。
中継モニターを見つめていた棋士たちと、記者の神崎澪の間で、息を呑むような会話が交わされていた。
「神谷四段、完全に自分の土俵に引きずり込みましたね……」
若手の棋士が、腕を組んで呻くように言った。
「神谷の攻めは、プロの中でも指折りの破壊力です。ちょっとでも受けを間違えれば、一瞬で首を刈り落とされる。加藤アマが得意な、相手の研究を外して窒息させるような悠長な展開には絶対にならないぞ」
「ええ……」
神崎澪は手帳を握りしめ、モニターの清麿の表情を凝視していた。
「風月杯はトーナメント。加藤さんは一度でも負ければ、今年度の編入試験への道は完全に途絶えます。この極限のサドンデスで、神谷四段の暴風のような踏み込みを耐え切ることができるのかしら……」
ネット中継のコメント欄も、熱狂と緊張で文字が滝のように流れていた。
『神谷のブルドーザー攻めきたあああ!』
『加藤アマ、自陣が薄いぞ! 耐えられるのか!?』
『ここで負けたら今までの8勝が全部水の泡なんだぞ!』
『プロ編入試験まであと2勝……頼むから耐えてくれ!』
三十手目を迎えた瞬間、対局室の空気が爆発音を立てて軋んだ。
神谷四段が、右腕を大きく振り上げ、自慢の桂馬を中央へと力任せに叩きつけたのだ!
――ズドォォォンッ!!
本榧の盤が悲鳴を上げるような凄まじい駒音。
清麿の自陣の飛車の頭上へ、直接槍を突き立てる強襲。
神谷の瞳に、獲物の喉笛を噛み千切る獰猛な光が宿る。
(飛車を逃げれば、角が成り込む! 角を防げば、飛車をタダでぶち抜く! どう足掻いても、てめえの陣形は木っ端微塵だ!!)
神谷の咆哮が、無言の気迫となって盤上に叩きつけられる。
控室の棋士たちなら、誰もが「後手、受けなし」と息を呑むような絶望的な局面。
――しかし。
加藤清麿の右手が、コンマ一秒の迷いもなく動いた。
飛車を逃げるのではない。
角の成りを防ぐのでもない。
清麿は、自陣に控えていた一枚の銀を、神谷の玉の頭上――相手の守備駒の利きが交差する危険地帯へと、そっと静かに打ち下ろしたのだ!
――パチリ。
「…………は?」
神谷遼の息が、喉の奥で詰まった。
盤面を二度見し、清麿の顔を凝視する。
(銀打ち……? 飛車が死にそうなこの瞬間に、なんで相手陣に銀を捨てる……!?)
現代の常識からすれば、完全な錯覚、あるいは投了前のヤケクソに見える一手。
神谷は嘲笑うように鼻から息を噴き出し、予定通り清麿の飛車をもぎ取った!
――バシィッ!
「飛車いただきっすよ、加藤さん!!」
神谷の勝ち誇った叫び。
大駒の捕獲。これで先手の勝勢は揺るぎないはずだった。
――だが。
清麿の瞳には、一切の動揺も恐怖もなかった。
澄み切った青空のような静寂の中、清麿の指先が、流れるように盤上へと伸びる。
――パシッ。
先ほど捨てた銀の頭上へ、一枚の歩を静かに叩き落とした。
「…………っ!?」
その瞬間、神谷遼の全身の筋肉が、凍りついたように硬直した。
飛車を握りしめていた指が、ピクリとも動かなくなる。
見落としていた。
神谷が清麿の飛車を取るために費やした、たった「一手」の空白。
その代償として、清麿が盤上に築き上げたのは――相手陣の玉の退路をミリ単位の精度で塞ぎ止め、金銀の連結を内側から爆破する、冷徹無比な檻だった!
『パターンB・大駒放棄のカウンター』。
大駒という派手な肉を相手に食らわせている間に、相手の急所という骨を断ち切る、三百年後の圧倒的な論理!
「な……んだ、これ……!?」
神谷の額から、滝のような冷や汗が吹き出した。
自陣に目を落とすと、取ったばかりの飛車を打ち込む隙間が、清麿の陣形にはどこにも存在しない。
清麿の玉は、あらかじめ配置されていた金銀の厚みに深く潜り込み、大駒の直撃を完全に吸い取る体勢を整えていたのだ。
攻めが切れた。
そして――手番は、清麿の手に完全に渡っていた。
「馬鹿な……! 俺の攻めが……飛車を取ったのに、一手負けてる……!?」
神谷の手が、激しく震えた。
持ち時間の砂が、カチカチと音を立てて削り取られていく。
神谷は歯を食いしばり、取った飛車を清麿の玉頭へ叩き込んで強引に攻めを繋ごうとした。
――ズドンッ!
若武者の意地、剥き出しの執念!
だが――清麿の瞳は、揺るがなかった。
(見える……! 藤堂先生との局面検討、そして和令と解いた地獄の詰将棋の盤面だ!)
清麿は慌てて受けるのではない。
玉を自ら斜め前、中段の戦場へと一歩進め、相手の飛車の射線を自陣の駒の厚みで完全に逸らす。
王手が続かない。
そして――清麿の反撃が始まった。
――バシィッ!
桂馬を跳ねて相手玉の喉元を抉る。
神谷が必死に金で受ける。
――パシッ。
その金を自ら捨て去り、玉を宙空へと引きずり出す。
迷いがない。淀みがない。
未来の知識という骨格に、清麿自身の粘り強い読みの血肉が通った手順は、寸分の狂いもない精度で神谷の玉を追い詰めていく。
そして――百四手目。
清麿は手元に残っていた一枚の銀を、神谷の玉の頭上へと、そっと静かに打ち下ろした。
――パチリ。
静寂を震わせる、あまりにも澄み切った駒音。
王手。
逃げ場のない、完全なる即詰み。
「…………」
対局室に、重く、痛切な沈黙が落ちた。
神谷遼は盤上に両手をつき、悔しさに唇を噛み締めながら、肩を激しく震わせていた。
やがて、深く、長く息を吐き出すと、深々と頭を下げた。
「……参り、ました」
百四手。
若手きっての武闘派・神谷遼四段が、己の誇るすべての破壊力を受け止められ、完敗を認めた瞬間だった。
「……ありがとうございました」
清麿が静かに一礼を返した。
背中には汗がびっしょりと張り付いていたが、指先には一切の震えもなかった。
相手の暴力的な猛攻を、自らの頭と未来の知性で完全に受け潰し、掴み取った本物の勝利。
記録係が震える手で公式記録用紙にペンを走らせる。
『風月杯二回戦 勝者:加藤清麿アマ』
『プロ棋士編入試験対象成績:通算9勝2敗』
通算九勝二敗。
プロ棋士編入試験の申請条件である「十勝」まで――ついに、あと「一勝」。
将棋界の歴史を揺るがす奇跡の扉へ、ついに王手(マジック1)がかかった瞬間だった。
*
対局を終え、将棋会館の外へ出ると、千駄ヶ谷の街には心地よい夜風が吹き抜けていた。
街灯に照らされた鳩森八幡宮の鳥居の脇。
古びた木製ベンチの前で、銀と藍色のサマーワンピースを着た和令が、腕を組んで立っていた。
清麿の姿を捉えると、和令はスッと顎を上に向けて、鼻から大きく息を噴き出した。
「……遅かったじゃないの、雑魚先祖」
「百四手までかかったんだ。……でも、勝ったぞ」
「知ってるわよ。テキスト速報、ずっとスマホで見てたんだから」
和令はぷいと横を向いた。
だが、その大きな瞳の奥には、隠しきれない歓喜と誇らしさが、涙のように潤んで揺らめいていた。
「相手の暴風急戦を、大駒放棄のカウンターで鮮やかに捌き切るなんてね。……まあ、三百年後の視点で見ても、九十九点はあげてもいいわよ」
「九十九点! あと一点は何なんだよ?」
「百手を超えてヒヤヒヤさせた心臓への負担料よ! ほら、帰るわよ! 今夜は約束通り……いえ、特別にお祝いよ! スーパーで豚肉を買って、生姜焼きを作ってあげるんだから!」
「豚の生姜焼き!? マジかよ、最高じゃないか!」
「大喜びするんじゃないわよ、この単純先祖! 次はいよいよ……風月杯三回戦よ」
和令の声が、ふっと低く引き締まった。
少女は立ち止まり、真剣な眼差しで清麿を見つめた。
「勝てば十勝到達、プロ棋士編入試験の資格獲得。……負ければ敗退、今年度の挑戦はすべて終了。正真正銘、人生を懸けた最後の一番よ」
「……ああ」
清麿は夜空を見上げ、強く拳を握りしめた。
東京の空には、数えるほどしか星は見えなかったが、その光はどこまでも透き通っていた。
「勝つよ。……十勝目を掴み取って、俺たちの手で、プロへの扉をこじ開けてやる」
退路なき絶壁の頂。
三十歳の元神童が、失った夢を取り戻すための運命の「第十局」へ向けて、最後の幕が静かに上がろうとしていた。
読んでいただきありがとうございます。
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