EP 7
『絶対王者、藤堂竜将』
七月半ばの千駄ヶ谷は、アスファルトの隙間から陽炎が立ち上るほどの酷熱に包まれていた。
日本将棋会館の重い自動ドアをくぐると、外界のうだるような熱波が一瞬で断ち切られ、エアコンの効いた冷涼な空気と、使い古された青畳の匂いが鼻腔をくすぐる。
加藤清麿は、胸ポケットに収めたリクルート手帳を指先で軽く押さえた。
風月杯一回戦、長谷川悠馬五段との死闘から三日。
相手が仕掛けてきた悪手を自らの頭で読み切り、大駒を叩き込んで八十二手でねじ伏せたあの勝利によって、プロ公式戦通算成績は『八勝二敗』に到達していた。
プロ棋士編入試験の申請条件である「公式戦十勝以上、かつ勝率六割五分以上」まで、あと二勝。
ネットの将棋ニュースでは、連日『加藤清麿、編入試験へマジック2』『サドンデスを疾走する元神童』とセンセーショナルな見出しが躍り、将棋連盟のポータルサイトには彼の一局ごとに数万単位のアクセスが殺到している。
だが、会館の廊下を歩く清麿の足取りは、決して浮ついてはいなかった。
風月杯はトーナメントだ。一度でも負ければ即座に今年度の公式戦出場機会はすべて消滅し、編入試験の夢も露と消える。
薄氷を踏む思いで歩むサドンデスの道。
本日は、風月杯二回戦の対局日程と会場の確認、そして連盟事務局への書類提出のために会館を訪れていた。
「……ちょっと。何を廊下の隅っこで、壁のシミを数えるみたいに俯いて歩いてんのよ、雑魚先祖」
背後から、ツンと尖った甲高い声が飛んできた。
銀と藍色のライダースーツを端末の光学迷彩で目立たない薄手のサマーワンピースに変えた和令が、腕を組んでジト目を突き刺してくる。
「壁のシミなんて数えてない。次の二回戦の日程を確認してたんだよ」
「嘘おっしゃい。八勝二敗になった途端、歩幅が三センチ広がって、鼻の穴が五ミリ膨らんでたわよ。『あと二勝で歴史に名を残す男・加藤清麿』って顔に書いてあんのよ」
「書いてない! だいたい鼻の穴のサイズまで細かく観察するな、気味が悪い!」
「観察するのは私の仕事よ! 慢心した原始人は油断して足元をすくわれるって、三百年後の心理学の教科書に太字で載ってんの!」
「慢心なんてしてないって言ってるだろ! 長谷川戦だって、一手間違えればこっちが即死する綱渡りだったんだぞ」
「分かってんならよろしい! だいたいね、昨夜のオムレツ、感謝の念がまったく足りなかったんじゃないの!?」
「めちゃくちゃ美味いって何回も言っただろ! 卵を丸ごと使った超巨大オムレツ、綺麗に平らげたじゃないか」
「味の感想じゃなくて、私の調理技術への絶対の服従と賛美を要求してんのよ! 『和令様の黄金の右腕から生み出された奇跡のオムレツ』くらい詠嘆詩を捧げなさいよ!」
「誰が吟遊詩人になるか! お前、勝つたびに要求のハードルが理不尽になってないか!?」
「当たり前でしょ! 三百年後の加藤家を背負う神童たる私に養われてんだから、それ相応の敬意を払いなさい!」
「養われてるのはお前の方だろ! 家賃も食費も俺の口座から引き落とされてんだよ!」
「口座の残高を増やしてやってんのは私の未来知識でしょ! この経済的パラサイト先祖!」
「パラサイトって言うな! ……ったく、会館の中で大声を出すなよ。誰かに聞かれたらどうするんだ」
小声で激しい口喧嘩を交わしながら、二人は四階の特別対局室へと続く廊下の角を曲がった。
その瞬間だった。
廊下の空気が、不意に、凍りついたように澄み渡った。
重い。
足の裏から青畳を通じて這い上がってくるような、静謐で、底知れぬ威圧感。
清麿の足が、ピタリと止まった。
廊下の前方、特別対局室の襖の前。
そこに、一人の男が立っていた。
仕立てのいい漆黒の和服に、深く落ち着いた濃紺の羽織。
彫りの深い精悍な顔立ちに、彫像のように整った佇まい。
三十八歳。
現代将棋界の最高峰タイトル『竜将』をはじめ、数々のタイトルを独占し、十数年にわたり棋界の頂点に君臨し続ける「絶対王者」――藤堂晃司竜将だった。
藤堂は手元の対局時計に視線を落としていたが、清麿の足音に気づいたのか、ゆっくりと顔を上げた。
その双眸に宿る光を目にした瞬間、清麿の心臓がトクンと硬く跳ねた。
冷徹でありながら、盤上のすべてを優しく包み込むような、深淵の静寂。
かつてテレビや雑誌の画面越しでしか見たことのなかった現代最強の怪物が、わずか数メートルの距離に立っていた。
「……あ」
清麿が思わず息を呑み、反射的に直立不動の姿勢をとる。
隣に立つ和令も、いつもの軽口を完全に飲み込み、息を詰めて男の姿を凝視していた。
藤堂の視線が、静かに清麿を捉えた。
そして――男の唇の端が、穏やかに、柔らかく弧を描いた。
「加藤清麿さん、ですね」
低く、深く響くバリトンが、静まり返った廊下に染み渡る。
「……は、はい! 加藤清麿です!」
思わず声が裏返りそうになるのを必死に堪え、清麿は深々と頭を下げた。
「初めまして、藤堂先生。突然お目にかかり、失礼いたしました」
「いや、構いませんよ。……会えてよかった」
藤堂はゆっくりと歩み寄り、清麿の前で足を止めた。
「あなたの将棋は、光星杯の吉沢戦から先日の長谷川戦まで、すべて見せてもらっていますよ」
「先生が……俺の将棋を、ですか……?」
「ええ。とても刺激的だ。序盤の構想、中盤の踏み込み、そして終盤の切れ味……現代の定跡という枠組みを、軽やかに飛び越えている」
絶対王者からの、あまりにも惜しみない賛辞。
だが、藤堂の瞳の奥には、単なる称賛を超えた、純粋無垢な「知的好奇心の炎」が揺らめいていた。
「もし時間があるなら……少しだけ、盤を挟んでみませんか?」
「え……?」
清麿は目を丸くした。
耳を疑った。現代の竜将が、公式戦でもない場で、一介のアマチュアに盤を挟もうと誘っているのだ。
「あ、あの、先生……俺のようなアマチュアが、先生のお時間を奪うわけには……」
「公式戦の対局ではありませんよ。先日のあなたの対局で、どうしても気になる局面があってね。ほんの十分、いや五分でいい。……どうですか?」
断る理由など、どこにもなかった。
清麿は喉を鳴らし、深く頭を下げた。
「……よろしく、お願いいたします」
案内されたのは、特別対局室の隣にある小対局室だった。
障子から差し込むやわらかな光の中、本榧の盤を挟んで二人が腰を下ろす。
和令は部屋の隅に正座し、息を殺してその光景を見守っていた。
藤堂は駒箱から駒を取り出し、無駄のない所作で盤上に並べ始めた。
カチリ、パチリと、最高級の黄楊の駒が盤上に落ちる乾いた音。
藤堂が並べ直したのは、先日の風月杯一回戦――清麿が長谷川五段の仕掛けた研究外しに対し、大駒を急所へ叩き込んで粉砕した、あの直前の局面だった。
「この局面です」
藤堂が細い指先で盤面を指し示した。
「長谷川五段は、自陣の銀を繰り出してあなたの時限爆弾を消しにきた。それに対し、あなたは自らの大駒を敵陣の急所へ叩き込み、一気に玉陣を崩壊させた。実に見事な反撃でした」
「……ありがとうございます」
「しかしね、加藤さん」
藤堂はスッと右手を伸ばした。
「もし、長谷川五段があそこで銀を繰り出すのではなく……こう指していたら、あなたはどう受けていましたか?」
――パチリ。
藤堂が指先で滑らせたのは、敵陣に攻めかかる手でも、自陣の銀を動かす手でもなかった。
自陣の底深く、玉の守りとはまったく逆方向にある端歩を、静かに、ただ一筋だけ押し上げる一手だった。
「…………っ!?」
清麿の心臓が、鷲掴みにされたように凍りついた。
息が止まる。
目を見開き、盤面を凝視した。
(端歩……? この局面で、なぜ玉と逆の端を突くんだ……!?)
清麿の脳裏の暗闇に、三百年後の『完全定跡アーカイブ』が展開される。
――しかし。
アーカイブの樹形図は、激しくノイズを散らし、該当する手順を見つけ出せずに沈黙した。
なぜなら、未来のスーパーAIの論理計算において、この局面での端歩突きは「手番を放棄し、相手に中央の主導権を明け渡すだけの緩手」として、最初の数手で枝刈りされていたからだ。
だが――盤上の駒たちの息遣いを見つめ直した瞬間、清麿の背筋を冷たい氷水が流れ落ちた。
(待て……。この端歩を無視して、大駒を叩き込むと……どうなる?)
清麿の脳内将棋盤が、猛烈な速度で先の手順を追っていく。
大駒を叩き込む。長谷川戦と同じように、手番を奪って相手の玉陣を圧殺しにいく。
――だが。
藤堂が突いたそのたった一枚の端歩の空間から、相手の香車がふわりと一歩浮き上がり、清麿が最短の詰み筋として使おうとしていた自陣の桂馬の跳躍ラインを、遠くから完全に射抜いてしまうのだ!
大駒を捨てた反撃が、一手違いで不発に終わる。
そして、手番を失った清麿の玉が、逆に相手の反撃に晒されて即死する。
「……っ、あ……」
清麿の喉から、掠れた声が漏れ出た。
額から、ツッと一筋の冷や汗が畳の上に落ちる。
見落としていた。
未来の定跡アーカイブすらも「緩手」として破棄していたその一手は、清麿の放つ必殺のカウンターの威力を、あらかじめ最小限の犠牲で吸い取るための、深遠極まりない「呼吸の調整」だったのだ。
三百年後の未来知識を持たない、現代の人間。
その男が、自宅のパソコンの計算でも、AIの暗記でもなく――己の肉体と頭脳に刻み込まれた直感だけで、未来の答えのさらに先にある「急所」を見抜いていた。
「……受かり、ません」
清麿は絞り出すように答えた。
「この端歩を突かれたら……俺の大駒の叩き込みは成立しません。攻め足を止められ、自陣が崩壊します」
「そうですね」
藤堂は静かに頷き、盤上の駒をそっと元の位置へと戻した。
その顔には、勝ち誇る色も、相手を試すような傲慢さも微塵もなかった。
ただ、澄み渡るような穏やかさで、清麿の目を真っ直ぐに見つめていた。
「あなたの将棋は、恐ろしいほどに合理的で、美しい。まるで、遠い未来の完成された設計図を見ているようだ」
藤堂の声が、静まり返った対局室に響く。
「だがね、加藤さん。将棋盤の上の宇宙は、どれほど精緻な設計図であっても、すべてを描き切ることはできない。……盤の上に命を吹き込むのは、いつだって生身の人間の息遣いであり、その場の直感だ」
藤堂は立ち上がり、羽織の裾を正した。
「君の将棋は、実に面白い。……だが、私は君が暗記してきた答えではなく、君自身が盤上で血を流して見つけ出した、君だけの将棋を見たい」
藤堂の唇に、少年のように無垢で、そして獰猛な勝負師の笑みが浮かんだ。
「風月杯、勝ち上がってくるといい。……いつか、公式戦の舞台で会おう」
衣擦れの音を残し、絶対王者が対局室を去っていった。
部屋に残された清麿は、正座したまま、しばらくの間ピクリとも動くことができなかった。
膝の上の拳が、小刻みに震えている。
恐怖ではない。
全身の血液が沸騰するような、凄まじい衝撃と武者震いだった。
未来の最善手を知らなくても、それ以上の深淵を見通す怪物が、この時代の頂点に実在している。
三百年分の知識というチートを持っていながら、自分はまだ、その怪物の足元にすら及んでいないのだ。
「……ちょっと、清麿」
部屋の隅から、掠れた声が聞こえた。
和令が、青ざめた顔で立ち上がり、震える指先で自らの透明端末を見つめていた。
「なによ、あいつ……。現代の原始人のくせに……アーカイブの深層解析すら飛び越えて、盤上の急所を感覚だけで突いてきたわよ……!?」
未来人である和令すらも、藤堂の底知れぬ深さに戦慄していた。
「……ああ」
清麿はゆっくりと立ち上がり、自らの両手を見つめた。
震えは、いつの間にか止まっていた。
胸の奥底で、かつてないほど激しい炎が燃え上がっていた。
「和令。俺は……あの人と指したい」
「え……?」
「藤堂竜将と、公式戦の舞台で……タイトル戦の舞台で、盤を挟みたい」
かつて二十六歳で奨励会を追われ、社会のゴミのように蹲っていた男が。
いま、将棋界の絶対王者の背中を見据え、魂の底から叫んでいた。
「そのためには、まず編入試験だ。……風月杯二回戦、絶対に勝つぞ」
清麿の瞳には、一切の迷いはなかった。
和令は息を呑み、そして――不敵な笑みを口元に咲かせた。
「ふん。言われなくても、そのつもりよ、雑魚先祖! あの絶対王者の鼻っ柱をへし折るために、次の相手も木っ端微塵にしてやりなさい!」
退路なき風月杯、二回戦。
プロ棋士編入試験の扉まで、あと二勝。
絶対王者との邂逅を経て、加藤清麿の魂は、いま真の勝負師として覚醒の時を迎えようとしていた。
読んでいただきありがとうございます。
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