EP 6
『あと二勝』
七月に入った千駄ヶ谷の朝は、容赦のない真夏の陽光がアスファルトを白く焼き焦がしていた。
木造アパートの薄いトタン屋根からは熱気がジリジリと室内に染み込み、蝉のけたたましい鳴き声が、張り詰めた神経を絶え間なく震わせている。
加藤清麿は、ちゃぶ台の前に正座し、アイロンの当たった白いワイシャツのボタンをひとつずつ留めていた。
指先は汗ばみ、ネクタイを締める手が微かに強張る。
胸の奥で刻まれる心音は、普段よりわずかに速く、そして重い。
プロ公式戦通算成績、七勝二敗。
プロ棋士編入試験の申請条件である「公式戦十勝以上、かつ勝率六割五分以上」まで、あと三勝。
だが、その三勝を掴み取るための足場は、あまりにも脆く、あまりにも険しい断崖絶壁だった。
光星杯と青嵐杯から相次いで脱落した清麿に与えられた、今年度最後のアマチュア特別参加枠――『風月杯』。
負ければその瞬間、今年度の公式戦出場機会は完全に消滅する。
三連勝が絶対条件の、完全なるサドンデス。
一度のミスも、一度の油断も許されない。一歩足を踏み外せば、すべてが水泡に帰す背水の陣だった。
(……だが、俺はもう一人じゃない)
清麿は胸元に手を当てた。
数日前、鳩森八幡宮の境内でかつての師匠・榊原九段から授かった、あの言葉が胸の奥で火を灯している。
『二度と、盤の前から逃げるな。どんな暗闇に追い込まれようと、お前自身の魂の一手を指し切れ。それができるなら、私が推薦人を引き受けてやる』
逃げ道はない。だが、前に進むための確固たる覚悟が、今の清麿には宿っていた。
「……ちょっと。朝からネクタイを首吊り縄みたいに握りしめて、何のお通夜をしてんのよ、雑魚先祖」
台所から、アルミの片手鍋をドンとちゃぶ台に置きながら、和令がツンと尖った声を浴びせてきた。
銀と藍色のライダースーツの裾をまくり、千代の花柄エプロンをきゅっと腰に巻いている。
「首吊り縄じゃない。結び目を整えてたんだよ」
「嘘おっしゃい。顔の筋肉が緊張で石膏像みたいに固まってて、眉間の皺に小銭が挟まりそうよ」
「挟まるわけないだろ! 少しは緊張もするさ、今日から風月杯なんだぞ。一敗もできないサドンデスなんだ」
「だから何よ! 一敗もできないなんて、三段リーグの頃からずっと経験してきたことじゃないの!」
「三段リーグの時はその重圧に潰れて退会になったんだよ! トラウマを蒸し返すな!」
「過去のトラウマを乗り越えるためにここまで来たんでしょ! ほら、朝ごはん! 五分で胃袋に流し込みなさい!」
ちゃぶ台の上に置かれたのは、いつもの見切り品のもやし炒めと豆腐の味噌汁、そして――皿の中央に鎮座する、ツヤツヤと輝く半熟の目玉焼きだった。
「……あれ? 卵……?」
「なによ、文句あんの!? 一個二十円の超高級資源を、あんたの戦闘力向上のために特別に先行投資してあげたんじゃないの!」
「い、いや、文句どころか感謝しかないけど……勝つまで卵は没収じゃなかったのか?」
「勝つための先行投資よ! 風月杯の一回戦で無様に転がり落ちて、私の三百年分の借金返済計画を水の泡にされたら困るからよ!」
「先行投資かよ……。相変わらず素直じゃないな」
「うるさいわね! 文句があるなら目玉焼きの黄身だけ私が吸い取ってあげるわよ!」
「吸い取るな! 美味しくいただきます!」
清麿は箸を割り、半熟の黄身を白米の上でそっと崩した。
濃厚なコクと醤油の塩気が、乾いた五臓六腑に染み渡っていく。
和令は小さく鼻を鳴らし、腰のホルダーから透明な薄型端末を引き抜いて、空中に青白いホログラムを展開した。
「味わってないで、対戦相手のデータを頭に叩き込みなさい! 風月杯一回戦、相手はプロ五段の長谷川悠馬、二十六歳よ」
空中に浮かび上がったのは、細身で鋭い眼光を持つ青年棋士の顔写真だった。
「長谷川五段……昨年の新人王戦で準優勝した、若手のホープだな」
「そう。最新の将棋AIの深層データを極限まで暗記して、序盤から相手をハメ殺しにくる『定跡の狩人』よ。……しかも彼、あんたが片桐八段に負けた青嵐杯五回戦の棋譜を徹底的に研究してるわ」
「片桐戦の棋譜を……」
「ええ。あんたが『定跡から外された混沌』に弱いこと、そして時限爆弾のマス目をあらかじめ崩されると受けに回る癖を、完全にマークしてくるはずよ」
和令の瞳が、低く引き締まる。
「いい、清麿? 相手はあんたの弱点を突くために、最初から不完全な変化球を投げてくるわ。……片桐戦の反省、生かせるんでしょうね?」
「……ああ」
清麿は力強く頷き、最後の一口を飲み干した。
「相手が悪手を指して形を崩してきたら、恐れずにその場で歪みを読み切って咎める。……もう、答えがないことに怯えたりはしないよ」
「言ったわね、雑魚先祖! 負けて帰ってきたら、今夜は生卵の殻だけをバリバリ食べさせる刑だからね!」
「殻はただのカルシウムの塊だろ! ……行ってくるよ!」
午前九時四十分。
日本将棋会館・四階、特別対局室。
青畳の上には、すでにエアコンの冷気が張り詰め、外界のうだるような熱気を完全に遮断していた。
上座には、若手気鋭の長谷川悠馬五段が、仕立てのいいグレーのスーツに身を包んで座していた。
切れ長の涼しげな瞳、薄い唇。
清麿が入室し、下座に正座して深く一礼すると、長谷川は冷ややかな笑みを口元に浮かべた。
「加藤さんですね。……お会いできて光栄ですよ」
「本日はよろしくお願いいたします」
「あなたの快進撃、棋士室でも大いに話題になっていますよ。現代のAIの盲点を突く、息を呑むような新手の数々。……ですが、片桐先生との対局で、あなたの『種』は割れました」
長谷川は指先で扇子を回し、清麿の目を射抜いた。
「あなたは、相手が現代の最善手を指してくることを前提に、パズルのようなトラップを仕掛けているだけだ。……ならば、最初からそのパズルのピースを叩き割ってしまえば、あなたは何一つ指せなくなる。私があらかじめ用意した『特製の迷宮』へ、ご案内しましょう」
挑発的な宣戦布告。
だが、清麿の心は微塵も波立たなかった。
(迷宮か……。望むところだ)
清麿は静かに背筋を伸ばし、深く息を吐き出した。
「定刻となりました。風月杯一回戦、対局を開始してください」
記録係の声が凛と響き、両者が深々と一礼を交わした。
振り駒の結果、清麿の先手番となった。
清麿は指先に全神経を集中させ、初手を放った。
――バシィッ!
▲7六歩。
長谷川も間髪を入れずに応じる。
――パシッ。
△3四歩。
互いに角道を開け、飛車先を突き合う。
局面は、現代将棋の王道である『相掛かり』へと進展していった。
だが――十五手目を迎えた瞬間、長谷川の手が、定跡のレールから完全に外れた軌道を描いた。
パチリ。
長谷川が指したのは、現代の定跡書であれば「自陣のバランスを崩す疑問手」とされる、自陣の銀をふらりと中途半端な位置へ繰り出す一手だった。
相手の攻めを誘い、清麿が得意とする未来の時限爆弾のマス目を、あらかじめ自らの銀の利きで強引に歪めにかかる露骨な「研究外し」。
(……来たな)
清麿の脳裏の暗闇に展開されていた『完全定跡アーカイブ』が、激しいノイズとともに点滅を停止した。
該当データなし。
未来のスーパーAIから見れば、自陣の守りを薄くするだけの明らかな悪手として、初期段階で枝刈りされていた手順だった。
長谷川の唇が、ニヤリと吊り上がる。
(どうした、加藤清麿? 自慢のカンニングペーパーには、この手順は載っていないはずだ。暗記した答えがない暗闇の中で、パニックを起こして自滅するがいい)
長谷川の瞳が、無言でそう嘲笑っていた。
その頃、二階の控室。
中継モニターを見つめていた棋士たちと、記者の神崎澪の間で、息を呑むような囁きが交わされていた。
「長谷川五段、完全に片桐八段の戦法を踏襲してきましたね……」
若手の棋士が腕を組み、険しい表情で呟く。
「あえて自陣の形を崩し、加藤アマの得意な未来的なトラップを無効化しにきている。片桐戦の再現を狙った、露骨な研究外しだ」
「ええ……」
神崎澪が手帳のペンを強く握りしめ、モニターの清麿の顔を凝視していた。
「風月杯はトーナメント。加藤さんは一度でも負ければ、今年度の編入試験への道は完全に絶たれます。この極限の重圧の中で、答えのない暗闇を歩き切ることができるのか……」
ネット中継のコメント欄も、緊張と不安で埋め尽くされていた。
『長谷川の嫌らしい研究外しきたあああ!』
『加藤アマ、また片桐戦みたいに手が止まるんじゃないか?』
『サドンデスの一回戦でこれはキツすぎる……!』
『負けたら全部終わりなんだぞ! 耐えてくれ!』
しかし――。
対局室の静寂の中、加藤清麿の呼吸は、驚くほど静かに整っていた。
迷いはなかった。
瞳の奥に宿っていたのは、恐れではなく、冷徹な勝負師の知性だった。
(長谷川五段……あなたの狙いは分かっている)
清麿は目を閉じ、脳内のアーカイブを完全に消去した。
頼るべきは、暗記した手順ではない。
片桐戦の敗北から学び、和令と夜を徹して検証し尽くした、盤上の真理だ。
『相手が悪手を指して形を崩してきたら、その歪みを自分の頭で見つけ出して刺し貫けばいいんだよ!』
自らが導き出した結論が、血肉となって全身を駆け巡る。
長谷川が繰り出した銀。
確かに、清麿の時限爆弾のマス目を遮断した。
だが――その銀を繰り出した瞬間、長谷川の自陣の玉を守る右側の金と、飛車の横利きとの間に、わずか一筋の「隙間」が生まれている。
相手が罠を仕掛けようとして自ら作った、決定的な歪み!
(未来のデータにはない。……だが、俺の頭には、はっきりと見えている!)
考慮時間、わずか三分。
清麿の右手が、疾風のように盤上へと伸びた。
――ズドォォォンッ!!
静寂を切り裂く、重く鋭い駒音。
清麿が放ったのは、受けの手でも、安全策でもなかった。
相手の繰り出した銀を完全に無視し、自らの大駒を敵陣の深い急所――金と飛車の連携を真っ二つに引き裂く間隙へと、容赦なく叩き込む一手だった!
『パターンB・大駒放棄のカウンター』。
相手に大駒を取らせる間に、手番を強奪し、自陣の厚みを使って相手の薄くなった玉陣を最短で圧殺する、未来の美学と清麿自身の読みの融合!
「…………っ!?」
長谷川悠馬の体が、跳ね上がるように硬直した。
扇子を弄んでいた指が、ピクリと凍りつく。
大駒の叩き込み。
長谷川が用意していた「特製の迷宮」の入り口そのものを、外側から巨大なハンマーで叩き割るような、凶暴極まりない踏み込みだった。
「な……に……!?」
長谷川の喉から、掠れた悲鳴が漏れた。
大駒を取れば、清麿の桂馬が跳ねてきて玉の退路が塞がれる。
取らなければ、清麿の成駒が敵陣を火の海にする。
相手の仕掛けてきた悪手を、たった一手で「致命的な隙」へと反転させたのだ!
「馬鹿な……! 研究を外したはずなのに……なぜ、迷いなく踏み込んでこられるんだ……!?」
長谷川の額から、大粒の汗がボタボタと畳の上に滴り落ちる。
考慮時間のタイマーが、音を立てて長谷川の持ち時間を削り取っていく。
十分、二十分、四十分――。
長谷川が必死にひねり出した受けの手は、もはや延命にすらなっていなかった。
清麿の瞳には、一切の躊躇も驕りもなかった。
ただ静かに、澄み切った瞳で盤面を見つめ、最短の寄せ筋を寸分の狂いもなく手繰り寄せていく。
――バシィッ!
歩を叩いて玉を中段へ引きずり出す。
――パシッ。
金を自ら捨てて退路を遮断する。
そして――八十二手目。
清麿は手元に残っていた一枚の銀を、長谷川の玉の頭上へと、そっと静かに打ち下ろした。
――パチリ。
逃げ場のない、完全なる即詰み。
「…………」
対局室に、深い沈黙が落ちた。
長谷川悠馬は盤上に両手をつき、悔しさに唇を噛み締めながら、深々と頭を下げた。
「……参り、ました」
八十二手。
若手のホープ・長谷川悠馬五段が、己の仕掛けた罠を正面から粉砕され、完敗を認めた瞬間だった。
「……ありがとうございました」
清麿が静かに一礼を返した。
背中には汗がびっしょりと張り付いていたが、胸の中には、これまでのどの勝利とも違う、揺るぎない確信が満ちていた。
答えをなぞっただけの勝ちではない。
暗闇を自分の足で歩き、掴み取った本物の勝利だった。
記録係が公式記録用紙にペンを走らせる。
『風月杯一回戦 勝者:加藤清麿アマ』
『プロ棋士編入試験対象成績:通算8勝2敗』
通算八勝二敗。
サドンデスの初戦を突破し、プロ棋士編入試験の合格条件である「十勝」まで――あと二勝。
*
対局を終え、将棋会館の外へ出ると、千駄ヶ谷の街は美しい夕暮れの茜色に包まれていた。
涼やかな風が、火照った清麿の頬を心地よく冷ましていく。
鳩森八幡宮の鳥居の脇。
街灯の下で待っていた和令が、清麿の姿を捉えるやすっと立ち上がり、腕を組んでツンと顎を上向けた。
「……遅かったじゃないの、雑魚先祖」
「八十二手で終わったんだぞ。早い方だろ」
「ふん。三百年後の正解手順なら七十八手で詰んでたわよ。四手も無駄な手番を使った減点ね!」
憎まれ口を叩く和令。
だが、その瞳の奥には、隠しきれない歓喜と誇らしさが満ち溢れていた。
「でもまあ……相手の小細工を正面から叩き割ったのは、見てて最高にスカッとしたわよ!」
「へへっ、ありがとな」
清麿が笑うと、和令はニヤリと口元を吊り上げた。
「さあ、帰るわよ! 今夜は約束通り、特売の卵を贅沢に使った超巨大オムレツを作ってあげるんだから!」
「おお、オムレツ! 最高だな!」
「大喜びするんじゃないわよ! 編入試験まで、あと二勝なんだからね!」
「ああ。あと二勝だ!」
夕暮れの参道に、二人の明るい笑い声が響き渡っていく。
だが、二人はまだ知らなかった。
次なる戦いの幕が上がる前、将棋界の頂点に君臨する『絶対王者』が、自ら清麿の前に姿を現すことになるということを。
読んでいただきありがとうございます。
面白いと思っていただけましたら、★評価やブックマークで応援していただけると励みになります。




