EP 5
『最後の公式戦参加枠』
梅雨の重たい雲を切り裂くように、本格的な初夏の強烈な陽光が千駄ヶ谷の街へ降り注ぎ始めていた。
築四十年の木造アパートの六畳間には、開け放たれた窓から熱気と湿り気を帯びた風が吹き込み、薄い障子をかすかに揺らしている。
加藤清麿は、ちゃぶ台の上に置かれた一枚の純白の和紙封筒を、息を詰めて見つめていた。
日本将棋連盟の朱印が押されたその親展通知の表面には、毛筆の端正な文字で清麿の名が記されている。
中から引き出された書面の表題は、清麿の視線を釘付けにして離さなかった。
『第五十期風月杯・アマチュア特別出場枠決定通知書』
青嵐杯五回戦において、順位戦A級に君臨する片桐英介八段に敗北を喫してから数日。
公式戦通算成績は、七勝二敗。
プロ棋士編入試験の申請条件である「公式戦十勝以上、かつ勝率六割五分以上」という途方もない関門まで、あと三勝。
だが、トーナメント方式である以上、光星杯も青嵐杯も、敗れた時点で今年度の挑戦権は完全に消滅している。
残された舞台は、春の全日本アマチュア選抜の上位入賞実績によって割り当てられた、この『風月杯』――今年度最後のアマチュア特別参加枠のみだった。
「……あと三勝。でも、風月杯はトーナメントだ」
清麿の口から、乾いた掠れ声が漏れた。
一敗した時点で即座に敗退。それはすなわち、今年度のプロ公式戦出場機会がすべて尽き、編入試験への道が完全に閉ざされることを意味していた。
一度の取りこぼしも許されない、三連勝が絶対条件のサドンデス。
指先がわずかに冷たくなり、膝の上で握りしめた拳にじわりと汗が滲む。
「……ちょっと。朝っぱらから封筒一枚を拝み倒して、何を遺書でも読むような顔してんのよ、雑魚先祖」
背後の台所から、ピシャリと容赦のない声が飛んできた。
銀と藍色のライダースーツの袖をまくり、和令が盆の上に湯気を立てる味噌汁と納豆の小鉢を載せて入ってくる。
「起きたならさっさと布団を押し入れの奥深くに叩き込みなさい! 重苦しいオーラで六畳間の湿度が九十パーセントを超えてんだけど!」
「起きてすぐに畳んだよ。……それより和令、これを見ろよ。風月杯の通知書だ」
「見なくても私の端末のスケジュールには三日前から太字でアラートが鳴り響いてるわよ! 第五十期風月杯、一回戦の対局日は来週の火曜日よ!」
「知ってたならもっと早く言えよ! 心の準備ってものがあるだろ!」
「言ったらあんたがプレッシャーで胃に穴を開けて、毎食のお粥しか喉を通らなくなると思ったから黙っててあげたんじゃないの!」
「余計なお世話だ! ……いや、配慮はありがたいけどさ、三連勝が絶対条件のサドンデスだぞ!? 一回でも負けたら、今年度は全部終わりなんだぞ!」
「何を当たり前のことを大声で喚いてんのよ! 勝負の世界なんて、最初から一敗したら終わりの綱渡りでしょ! 七勝二敗まで漕ぎ着けておいて、今さら何をチキンみたいに縮こまってんのよ!」
「チキンって言うな! 片桐八段のあの底知れない深さを思い知った後だぞ。プロのA級やB級の上位陣が、俺の棋譜を徹底的に研究して待ち構えてるんだ。怖くないわけがないだろ!」
「怖いに決まってんでしょ! でもね、清麿。ビビって盤の前で指を震わせてる暇があったら、納豆のネバネバを百回かき混ぜて前頭葉を活性化させなさい!」
「納豆のネバネバでプロに勝てるなら世の中の棋士は全員藁に包まって暮らしてるよ! ……大体、今日の朝ごはんも卵がないじゃないか!」
「卵は公式戦で勝った勇者にだけ許される最高級の褒美よ! 三連勝して編入試験の切符をもぎ取ってきたら、特売のパックを一パック丸ごと使って、超巨大オムレツでも作ってあげるわよ!」
「一パック丸ごとはコレステロールが致死量だろ! ……でも、オムレツか。悪くないな」
「食べ物の妄想で目を輝かせてんじゃないわよ、この単純先祖! ほら、さっさと平らげて、連盟に書類を提出しに行くわよ!」
けたたましい口喧嘩を繰り広げながらも、清麿は差し出された白米をかき込み、熱い味噌汁を喉へと流し込んだ。
和令の口の悪さは相変わらずだ。だが、その言葉の裏にある「退路を断って前へ進め」という強烈な後押しが、清麿の凍りつきかけた心臓を、力強く鼓動させていた。
午前十時過ぎ。
初夏の風が吹き抜ける千駄ヶ谷の街を、清麿は仕立ての古いリクルートスーツに身を包んで歩いていた。
風月杯への参加承諾書を日本将棋会館の事務局へ直接提出するためだった。
隣には、端末の光学迷彩で目立たない薄手のジャケット姿に身を包んだ和令が、腕を組んでツカツカと並んで歩いている。
「いい、清麿? 風月杯は若手実力派からベテランの曲者まで、トーナメントの山が極めて険しいわ。一回戦から何が飛んでくるか分からない。……昨日あんたと研究した『相手が定跡を崩してきた時の咎め方』、完璧に頭に入ってんでしょうね?」
「ああ。片桐先生の歩突きを徹底的に検証したからな。相手が無理に形勢を損ねて泥沼を仕掛けてきたら、その歪みを自分の頭で読み切って刺し貫く。……もう、答えがないことに怯えたりはしない」
「ふん、口先だけは一丁前ね。実戦で冷や汗かいて泣きついてきても、背中を蹴り飛ばして対局室に押し戻すだけだからね」
「鬼かよ、お前は……」
苦笑を交わしながら、将棋会館の向かいにある鳩森八幡宮の境内へと足を踏み入れた時だった。
木漏れ日が青畳のように敷き詰められた境内の参道。
古びた御神木の脇から、ゆっくりと歩み出てきた一人の老紳士の姿が、清麿の視界に飛び込んできた。
仕立てのいい濃紺の和服に、年季の入った黒の羽織。
白髪の混じった眉の下にある眼光は、秋の夜の星のように澄み渡り、そして千駄ヶ谷の歴史を半世紀にわたって背負い続けてきた者だけが放つ、圧倒的な静けさを湛えていた。
「…………っ!?」
清麿の心臓が、早鐘のように激しく跳ね上がった。
足が、石畳の上に縫い付けられたようにピタリと止まる。
喉がカラカラに渇き、息を吸い込むことすら忘れていた。
榊原雅臣九段、六十二歳。
タイトル獲得通算六期、永世棋聖の資格を持ち、長年にわたり将棋界の最高峰に君臨し続けてきた伝説の棋士。
そして――清麿が十歳で弟子入りし、二十六歳で三段リーグを強制退会となるあの日まで、十六年間にわたって将棋のすべてを教えてくれた、かつての『師匠』だった。
脳裏に、四年間の空白の暗闇が、激しい痛みを伴って甦る。
年齢制限で三段リーグを去った二十六歳の春。
プロになれなかった惨めさと屈辱に耐えかね、清麿は師匠の家へ最後の挨拶に行くことすらできず、電話も着信拒否にし、逃げるように千駄ヶ谷から姿を消したのだ。
何の実績も残せず、師匠の期待を裏切り、泥を塗って逃げ出した最低の弟子。
合わせる顔など、あるはずがなかった。
踵を返して逃げ出したいという衝動が、背筋を駆け抜ける。
だが――。
「……逃げる気、雑魚先祖?」
隣に立つ和令が、低く、冷徹な声で清麿の耳元に囁いた。
その瞳は、いつもの嘲笑ではなく、清麿の魂の芯を試すような厳しさに満ちていた。
「過去から逃げ回るために、ここまでプロを倒してきたわけ? あんたが本当に前を向いたっていうなら……向き合いなさいよ。あんたをここまで育ててくれた、その人に」
和令の言葉が、胸の奥深くに突き刺さった。
(そうだ……俺はもう、逃げないと決めたんだ)
清麿は奥歯を噛み締め、震える両足を一歩、前へと踏み出した。
榊原九段が、静かに足を止めた。
老棋士の視線が、ゆっくりと清麿の姿を捉える。
参道を満たす初夏の風が、二人の衣服の裾を音もなく揺らした。
清麿は、榊原の数歩手前まで進み出ると、敷石の上に両膝をつき、深々と額を擦りつけるようにして頭を下げた。
「……榊原先生」
掠れた、だが全身の力を絞り出した声が、境内に落ちた。
「ご無沙汰しております。……四年もの間、ご挨拶にも伺わず、音信を絶って逃げ出していたこと……本当に、申し訳ありませんでした」
地面の小石が額に食い込む。
破門されても文句は言えなかった。罵倒され、唾を吐きかけられても当然の不義理を働いてきたのだ。
沈黙が、永遠のように長く感じられた。
セミの声が遠くで鳴り響き、砂利を踏む微かな衣擦れの音が近づいてくる。
やがて、頭上から、深く、温かみのあるバリトンが静かに降ってきた。
「……顔を上げなさい、清麿」
清麿が恐る恐る顔を上げると、榊原九段が穏やかな笑みを口元に浮かべ、真っ直ぐに清麿を見下ろしていた。
怒りの色は、微塵もなかった。
そこにあったのは、長い旅から帰ってきた不器用な息子を迎えるような、深い慈愛の光だった。
「ずいぶんと……逞しい顔つきになったな」
「先生……」
「お前の将棋は、吉沢四段との一局から、先日の片桐八段戦まで……一手残らず、すべて見ているよ」
榊原の言葉に、清麿は息を呑んだ。
「現代の常識を覆すような、見たこともない新手の数々……棋士室では、お前がどんな研究環境を手に入れたのか、連日大騒ぎだ。だがね、清麿」
榊原は一歩近づき、清麿の細くなった肩の上に、節くれだった大きな手をポンと置いた。
ずっしりとした、かつて奨励会で負けて泣いていた少年の頃に何度も感じた、あの温かい掌の重み。
「盤を見れば分かる。お前がどれほどの重圧に耐え、どれほど命を削って盤上の駒と対話しているか……十六年間、お前の将棋を見てきた私に、分からんはずがない」
「先生……俺は……」
視界が、急激に熱い涙で滲み始めた。
「お前が三段リーグを去ったあの日、私は自分を責め続けたよ。お前という稀代の才能を、プロの舞台へ押し上げてやれなかった。私の指導が足りなかったのではないか、とね」
榊原は静かに首を振った。
「だが、お前は腐らずに、戻ってきた。アマチュア大会を勝ち抜き、プロの公式戦で七つの白星を挙げ、自らの力でここまで歩いてきたんだ。……師として、これほど誇らしいことはないよ」
「っ……! あ、ありがとうございます……!」
喉の奥から、嗚咽が込み上げて止まらなかった。
ずっと、許されたかったのだ。
自分が逃げ出した過去を、師匠に顔向けできないという負い目を、心の中でずっと引きずり続けていた。
その氷のように冷たい自責の念が、師のたったひと言によって、温かく溶け落ちていく。
「清麿。風月杯の出場が決まったそうだな」
榊原の声が、ふっと勝負師の厳しさを帯びた。
「はい。今年度、最後のアマチュア参加枠です」
「編入試験の申請資格まで、あと三勝。だが、風月杯はトーナメントだ。一度でも負ければ、今年度の道は閉ざされる」
「分かっています。三連勝……一敗も許されないサドンデスです」
「そうだ。だが、恐れることはない。お前の将棋にはいま、迷いを断ち切った強さがある」
榊原は懐から扇子を取り出し、パチンと心地よい音を鳴らした。
「もし……お前が風月杯を勝ち上がり、十勝の資格を手に入れたなら――編入試験の推薦人は、この私が引き受ける」
「え……!?」
清麿は目を見開いた。
プロ棋士編入試験を受験するためには、連盟規定により、現役プロ棋士の推薦状が必須となる。
かつての師匠が、その重責を自ら担うと言ってくれたのだ。
「先生……よろしいのですか? 俺のような、一度挫折した男のために……」
「馬鹿を言うな。弟子の晴れ舞台の推薦人を引き受けなくて、何が師匠だ」
榊原は豪快に笑うと、清麿の目を強く射抜いた。
「ただし、条件がある。……二度と、盤の前から逃げるな。どんな暗闇に追い込まれようと、最後の最後まで、お前自身の魂の一手を指し切れ。それができるなら……私はいつでも、お前の背中を押してやる」
「……はい! 絶対に、逃げません!」
清麿は再び、深く、深く頭を下げた。
迷いは、完全に消え去っていた。
榊原九段が千駄ヶ谷の雑踏の中へと去っていった後、参道には爽やかな初夏の風が吹き抜けていた。
立ち上がり、涙を拭った清麿の隣で、和令が腕を組んだまま、ツンと横を向いていた。
「……何よ、みっともなく鼻水なんか垂らしちゃって。雑魚先祖の癖に、感動の師弟再会劇なんて百年早いのよ」
「うるさいな。鼻水は出てない、目から汗が出ただけだ」
「はいはい、原始人の強がり乙。……でもまあ」
和令はチラリと清麿の横顔を見上げた。
その瞳には、隠しきれない安堵と、相棒への絶対の信頼が灯っていた。
「いい顔になったじゃない。……これなら、風月杯の怪物ども相手にも、少しは戦えそうね」
「少しどころじゃないさ。三連勝して、必ず十勝に到達してみせる」
清麿は青空を見上げ、強く拳を握りしめた。
妹の千代がいて、隣で口汚く罵倒しながら支えてくれる和令がいて、背中を押してくれる師匠がいる。
孤独な三十歳の無職だった男は、いま、数え切れないほどの絆を背負い、本物の棋士として覚醒しつつあった。
退路なき背水の陣、第五十期『風月杯』。
プロ棋士編入試験の扉をこじ開けるための、命を懸けた三連勝へのカウントダウンが、いま静かに始まった。
読んでいただきありがとうございます。
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