EP 4
『最強の答えに、弱点はある』
千駄ヶ谷の夜を濡らした激しい梅雨の雨は、明け方にはすっかり上がり、濡れた木造アパートの瓦屋根を初夏の強い日差しが白く乾かしていた。
開け放たれた六畳間の窓からは、湿ったアスファルトが温められて立ち上る熱気と、吹き抜けるかすかな青葉の匂いが混じり合って流れ込んでくる。
加藤清麿は、畳の上に正座したまま、ちゃぶ台の上に置かれた一枚の棋譜用紙をじっと見つめていた。
昨夜、日本将棋会館の特別対局室で繰り広げられた青嵐杯五回戦。
順位戦A級に君臨する『解剖医』、片桐英介八段との百二十六手におよぶ死闘。
記録用紙の末尾に記された墨文字が、今も網膜の裏で鮮烈に焼きついている。
『百二十六手にて、片桐八段の勝ち』
『加藤清麿アマ、青嵐杯敗退』
プロ公式戦通算成績、七勝二敗。
プロ棋士編入試験の申請条件である「公式戦十勝以上、かつ勝率六割五分以上」という過酷な関門まで、あと三勝。
数字だけを見れば、アマチュアとしては歴史的な大快挙であり、夢の扉まであと一歩のところまで迫っている。
だが、トーナメント戦である以上、負けた時点でその棋戦の挑戦権は完全に消滅する。
光星杯で佐久間七段の老獪な力戦に呑まれ、青嵐杯で片桐八段の精密な解剖に屈した。
二つの大きな公式戦の舞台を失った現実は、冷たい鉛の塊となって清麿の胸の奥底に沈殿していた。
しかし――その瞳には、佐久間戦の直後に見せていたような、自暴自棄の絶望や取り乱した動揺はなかった。
痛烈な悔しさはある。肺の奥を直接火箸で撫でられるような敗戦の苦さはある。
だが、逃げ出したいという弱気は、不思議なほど消え失せていた。
(届かなかった。すべてを出し尽くして……それでも、A級の怪物の深淵には届かなかった)
清麿は膝の上の拳を強く握りしめ、深く、静かに息を吐き出した。
「……いつまで棋譜の紙切れを拝んでんのよ、雑魚先祖」
台所の方から、カチャカチャと食器を並べる音とともに、聞き慣れた容赦のない声が飛んできた。
銀と藍色のライダースーツの袖をまくり、和令が盆の上に湯気を立てる味噌汁の椀と小鉢を載せて入ってくる。
「起きたならさっさと布団を押し入れに片付けなさい! 六畳間の可動域が狭まって、私の精神衛生に著しい悪影響が出てるんだけど!」
「起きてすぐ畳んだよ。……それより和令、朝ごはん作ってくれたのか」
「朝ごはんくらい作るわよ! 炭素系生命体の粗末な給餌を怠って、あんたが栄養失調で倒れたら私の三百年分の借金返済計画が頓挫するでしょ!」
「はいはい、毎度どうも。……でも、少し顔色が悪いんじゃないか? 昨日の夜、端末の画面ずっと弄ってただろ」
「なっ……! 誰が顔色悪いって!? 三百年後の加藤家が誇る美少女の肌艶を原始人の濁った眼球で評価するんじゃないわよ!」
「美少女は自分で美少女って言わないんだよ。……大体、昨日の夜はあんなに雨の中、傘持って迎えに来てくれたくせに、朝になったらその憎まれ口か」
「傘は端末が漏電して爆発したら困るから差し出しただけよ! あんたがずぶ濡れになって風邪ひいて死んだら困るからよ!」
「それを世間では『心配』って言うんだよ」
「心配じゃないわ、リスク管理よ! ほら、朝ごはんを五分で胃袋に放り込みなさい! 今日の献立は、納豆と、もやしの炒め物と、昨日スーパーで見切り品になってた油揚げの味噌汁よ!」
「……卵は?」
「あるわけないでしょ! 負けたのよ!? 公式戦二敗目を喫した男に、一個二十円の高級資源である半熟卵が支給されるわけないでしょ!」
「負けたから卵没収かよ! 相変わらずシビアすぎるだろ!」
「当たり前よ! 編入試験の資格まであと三勝なのに、青嵐杯から叩き落とされたのよ!? 危機感の足りない脳みそに贅沢品なんて不要よ!」
「危機感なら痛いほど持ってるよ! だから朝から昨日の棋譜を並べ直してたんじゃないか!」
「口答えする暇があったら箸を持ちなさい! さっさと平らげて、昨日の敗戦の反省会を始めるわよ!」
ギャーギャーと朝の静寂を吹き飛ばすような口喧嘩を交わしながらも、清麿は差し出された熱い味噌汁をすすった。
油揚げの甘みと味噌の塩気が、空っぽの五臓六腑にじんわりと染み渡っていく。
いつも通りの減らず口。だが、和令が昨夜、冷たい雨の中で傘を差し出してくれた時の震えるような手のひらの感触を、清麿は忘れていなかった。
この少女もまた、清麿と同じように、あるいはそれ以上に、敗北の痛みを背負って震えているのだ。
朝食を平らげ、ちゃぶ台の上を片付けると、二人は本榧の将棋盤を挟んで向かい合った。
和令が腰のホルダーから透明な薄型端末を引き抜き、昨日の片桐八段戦の全棋譜データを盤上にホログラムとして展開する。
青白い光の駒たちが、昨夜の盤面を寸分の狂いもなく再現していく。
「……さて、清麿。どこから崩れたか、あんた自身の言葉で説明しなさい」
和令の声から、日常のコミカルな毒気が完全に消え去っていた。
冷徹な師匠としての、鋭い眼差し。
清麿は盤面の一点を指差した。
「ここだ。二十五手目……片桐八段が指した、中央の歩の突き捨てだ」
「そうね」
和令が端末をタップすると、その歩が青く発光した。
「三百年後の完全定跡アーカイブにおいて、この局面での歩の突き捨ては『明確な悪手』として枝刈りされ、データベースから抹消されていた手よ。なぜなら、未来のスーパーAIの計算では、相手にタダで歩を渡し、自陣の中央を自ら薄くするだけの勝率マイナス評価の手だからよ」
「ああ。だが……片桐八段はその悪手を、迷いなく指してきた」
「そうよ。そしてあんたは、その悪手に対して頭が真っ白になった。桐生戦や成瀬戦で見せたような鋭いカウンターを繰り出すこともできず、相手の仕掛けてきた泥沼の力戦に引きずり込まれて、最後は終盤の底歩一枚に屈した」
和令は腕を組み、厳しい視線を清麿に突き刺した。
「なぜ負けたと思う? 三百年後の完全定跡が、現代のプロ棋士に劣っていたからだと思うわけ?」
清麿は首を静かに横に振った。
「違う。……定跡のせいじゃない。俺が、未来の答えの『意味』を、本当には理解していなかったからだ」
「……ほう?」
和令の眉が、わずかにピクリと跳ね上がった。
清麿は盤上の駒を手に取り、二十手前から一手ずつ、ゆっくりと再現しながら言葉を紡いだ。
「片桐八段は、俺の過去の対局を完璧に解剖していた。吉沢戦の端角、桐生戦の玉上がり、梶原戦の端歩突き、乾戦の超長手数の時限爆弾……。俺が放ってきた新手の数々は、どれも『相手が現代の最善手を指してくること』を前提にして作られていたんだ」
「……ええ、そうよ。未来の定跡は、双方が最善を尽くし合う極限の攻防の中でこそ、相手の微細な歪みを針の穴を通すように突くために構築されているわ」
「そうだろ。相手が現代の教科書通りに、AIの評価値が高い手を指して陣形を組むからこそ、二十手先に『玉の呼吸が止まる』という時限爆弾が起爆する。……でも、片桐八段はその前提そのものを壊しにきたんだ」
清麿の指先が、盤上の中央の歩をトントンと叩く。
「片桐八段は、あえて自分から悪手を指した。自陣を少し薄くしてでも、俺が未来の手順に従って起爆させようとしていた『急所のマス目』を、あらかじめ自ら破壊しにいったんだ。形勢の損を承知で、未来のレールを脱線させるためだけにな」
和令は息を呑み、静かに清麿の言葉を聞いていた。
「俺は……あの歩突きを見せられた瞬間、パニックになった。アーカイブに載っていない、答えがない、どうすればいいんだ、ってな。……でも、よく考えればおかしいんだよ。相手が悪手を指したんだぞ? 未来のAIが『勝率が下がる手だ』と判定した愚手を、相手が自ら指してくれたんだ。だったら――その悪手を、その場で咎められないはずがないんだ」
清麿の瞳に、強い光が宿った。
「俺は、三百年後の定跡をただの『魔法の呪文』として丸暗記していただけだったんだ。なぜその手が最善なのか、なぜ相手の手が悪手なのか、盤上の駒たちの力学と呼吸を、自分の骨の髄まで理解していなかった。だから、相手がレールから外れた不完全な手を放ってきた時、その歪みをどう咎めればいいのか分からず、立ち往生してしまったんだ」
痛切な、だが極めて本質的な反省。
和令はしばらくの間、黙り込んでいた。
やがて、深く息を吐き出すと、視線を伏せてぽつりと呟いた。
「……未来の世界ではね」
「ん?」
「三百年後の将棋界では……誰もあんな『悪手』なんて指さないのよ」
和令の声は、どこか遠い世界を思い馳せるように静かだった。
「未来では、すべての棋士が幼少期から完全定跡アーカイブを頭に叩き込まれているわ。誰もが評価値のマイナスになる手なんて指さないし、疑問手を指せば即座にプログラムに弾かれて落第よ。……だから、未来の定跡書には『相手が意図的に悪手を指して泥沼を仕掛けてきた時の咎め方』なんて、泥臭い手順は載っていないのよ」
和令は顔を上げ、清麿を見つめた。
「未来の将棋は、綺麗すぎたのよ。純粋な論理の極致だからこそ、生身の人間が肉を切らせて骨を断ちに来るような、泥臭い勝負師の狂気に対する免疫がなかったのよ」
「和令……」
「あんたの言う通りよ、清麿。未来の答えを知っているだけじゃ、現代のA級棋士の魂には勝てないわ。……最強の答えにも、弱点はあったのよ」
「だったら、話は簡単だろ」
清麿はニヤリと口元を吊り上げた。
盤上の黄楊の駒を、迷いなく動かし始める。
「未来の定跡に載っていないなら、俺たちの手でその続きを作ればいい。片桐八段のあの歩突きに対して、未来の知識を土台にしながら、どうやって相手の無理攻めを咎めるべきだったのか……今ここで、徹底的に検証しよう」
「……え?」
「ほら、見てろよ。あの時、俺は銀を中央に押し出して反発した。でも、あれは相手の誘い球に乗っかった愚手だったんだ。そうじゃなくて――自陣の金を一段引き締めて、相手の歩をあえて取らせてから、反対側の端から桂馬を跳ねていれば……」
清麿の指先が、疾風のように盤上を走る。
パチ、パチ、パチリ。
小気味よい駒音が、朝の六畳間に響き渡る。
未来の定跡アーカイブが教える『大局観の厚み』と、清麿自身が十年以上の奨励会生活で培ってきた『生身の勝負勘』が、ひとつの盤面の上で激しく混ざり合い、新たな手順を紡ぎ出していく。
和令の端末のホログラムが、清麿の指し手をリアルタイムで解析し、評価値のグラフを跳ね上げた。
『後手+800点――優勢』
「……嘘でしょ」
和令の目が、見開かれた。
「アーカイブの推奨手じゃないのに……手が進むごとに、先手の中央が完全に崩壊していく……!?」
「そうだろ。片桐先生の歩突きは、確かに時限爆弾のマス目を消した。でも、その代償として、自陣の玉の退路を確実に一手分狭めていたんだ。……相手が形を崩して罠を仕掛けてきたなら、その崩れた隙間を、自分の頭で見つけ出して刺し貫けばいいんだよ」
清麿は汗を拭い、少年のように無邪気な笑みを浮かべた。
「和令。三百年後の定跡は、やっぱりすげえよ。でもな、それを盤の上で生かすのは、生身の俺たちの仕事だ。暗記しただけのカンニングペーパーから、俺自身の血肉に変えていくんだ」
和令は、目の前で盤面を熱心に見つめる三十歳の男を、じっと見つめていた。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるような感覚。
(この人は……)
あの日、人生に絶望してベランダから飛び降りようとしていた、無職の負け犬。
最初は、三百年後の借金地獄を消し去るための、ただの便利な操り人形として利用するつもりだった。
だが、今の清麿はどうだ。
A級棋士に完敗し、二度目の挫折を味わいながらも、誰のせいにもせず、言い訳もせず、盤上の真理に向かって貪欲に手を伸ばし続けている。
未来の世界で、答えを知りながらプレッシャーに怯えて盤から逃げ出した自分とは、まるで違う。
泥水を啜り、痛みを噛み締めながら、一歩ずつ本物の勝負師へと脱皮していく男の姿が、そこにあった。
「……ふん。偉そうに語っちゃって、生意気よ」
和令はツンと顎をそらし、ぷいと横を向いた。
だが、その口元には、隠しきれない敬意と、誇らしげな笑みが浮かんでいた。
「まあ……今の読み筋は、三百年後の視点で見ても九十八点をあげてもいいわよ」
「おお、九十八点! 過去最高得点じゃないか!」
「調子に乗らないで! 残りの二点は、昨日対局室でその手に気づけなかった間抜け減点よ!」
「手厳しいな相変わらず! でも、視界が開けたよ。どんな変則的な罠を仕掛けられても、慌てる必要はないんだってことが、骨身にしみて分かった」
清麿は深く息を吐き出し、将棋盤の上の駒をひとつずつ片付け始めた。
現在のプロ公式戦通算成績は、七勝二敗。
編入試験資格の「十勝」まで、あと三勝。
だが――清麿の手元には、もう公式戦の切符は残されていなかった。
「……なあ、和令」
「なによ」
「俺が出場できる公式戦……光星杯も、青嵐杯も終わっちまった。今年度、俺がプロと指せる舞台は、もう残ってないのか?」
切実な問いかけ。
和令は膝の上の端末をカチリと鳴らし、画面を操作した。
青白い光の中に、ひとつのトーナメント表が浮かび上がる。
「……あるわよ」
和令の声が、低く引き締まった。
「あんたが春の全日本アマチュア選抜で上位入賞したことで手に入れた、今年度最後のアマチュア特別参加枠……」
画面に表示された棋戦の名前に、清麿の喉が鳴った。
『第五十期・風月杯』
伝統ある大型トーナメント棋戦。
「風月杯よ。これが、今年度あんたに与えられた、正真正銘最後のチャンスよ」
和令は人差し指を立て、清麿の鼻先を鋭く指差した。
「いい、清麿? 編入試験の条件である十勝まで、あと三勝。でも風月杯はトーナメント戦よ。つまり――一度でも負ければ即座に敗退、今年度の公式戦出場機会はすべて消滅するのよ」
部屋の空気が、ピシリと張り詰めた。
「三連勝が絶対条件の、完全なサドンデスよ。一敗も許されない崖っぷちの絶壁を、あんたは三回連続で駆け抜けなきゃいけないのよ!」
一敗も、許されない。
負ければ、今年度の挑戦はすべて水泡に帰し、千代の未来も、和令の存在も、再び暗黒の濁流へと呑み込まれる。
だが――清麿の瞳には、微塵の怯えも迷いもなかった。
清麿は力強く拳を握りしめ、和令を真っ直ぐに見据え返した。
「望むところだ。……三連勝して、プロへの扉をこじ開けてやるよ」
「言ったわね、雑魚先祖」
二人の視線が、火花を散らすように交錯した。
退路なき背水の陣。
人生のすべてを懸けた、最後の公式戦『風月杯』への幕が、いま静かに上がろうとしていた。
読んでいただきありがとうございます。
面白いと思っていただけましたら、★評価やブックマークで応援していただけると励みになります。




