EP 3
『未来定跡、二度目の敗北』
六月中旬の千駄ヶ谷は、梅雨入りの冷たい雨に煙っていた。
日本将棋会館の窓ガラスを細かな水滴が斜めに叩き、遠く新宿のビル群が灰色の雨雲の向こうへと霞んでいる。
四階の特別対局室へと続く廊下の赤絨毯を踏みしめながら、加藤清麿は仕立ての古いリクルートスーツの胸元をぎゅっと押さえた。
公式戦通算七勝一敗。
青嵐杯四回戦において、現代居飛車急戦の旗手である大場拓海七段を七十四手で破った勝利は、将棋界を揺るがす熱狂を決定的なものにしていた。
ネットの将棋ニュースでは、連日『加藤清麿、編入試験へあと三勝』『現代AIを凌駕する謎の新定跡』と特大の活字が躍り、専門掲示板には一局ごとに数千件もの考察が書き込まれている。
三十歳無職、奨励会を年齢制限で追われた男が、プロ棋士編入試験の合格基準である「公式戦十勝以上、かつ勝率六割五分以上」という途方もない関門の、まさに喉元へと刃を届かせようとしていた。
だが、世間の騒ぎとは裏腹に、清麿の足取りは鉛のように重かった。
佐久間信孝七段に喫した、あの光星杯四回戦での手痛い初黒星。
そして何より――和令の端末に発生した、歴史改変の記録異常。
自分が盤上で勝利を積み重ねるたびに、三百年後の負債の歴史は崩れ去り、存在しないはずだった直系の記録が光を放ち始めている。
勝てば世界が変わる。だがそれは、自分を救ってくれた未来の少女の存在そのものを、未知の運命へと放り出す危険と隣り合わせだった。
(……勝つしかないんだ。勝って、すべてを守るしかない)
清麿は深く息を吸い込み、冷たい湿気を肺の奥へと満たした。
「……ちょっと。朝から雨降りのカタツムリみたいにノロノロ歩いてんじゃないわよ、雑魚先祖」
今朝、アパートを出る直前の六畳間での光景が、鮮烈に脳裏をよぎる。
ちゃぶ台の脇で腕を組み、冷ややかなジト目を向けていた和令の姿だ。
『ノロノロ歩いてない。昨日の大場戦の疲労が、少し腰にきてるだけだ』
『言い訳無用よ! だいたい昨日の夜、約束通りうどんに半熟卵を二個も落としてあげたでしょ! 一個二十円の高級資源を二倍も摂取しておいて、疲れたなんて口が裂けても言わせないわよ!』
『卵二個でプロに勝てるなら世の中の棋士は全員養鶏場に住んでるよ! ……でも、美味かったよ。ありがとな』
『へ、変なところで素直に感謝するんじゃないわよ、気味が悪い! 感謝するなら盤の上で白星を持ってきなさい!』
『言われなくてもそのつもりだ。……でも和令、今日の相手は青嵐杯五回戦、ベストフォーを懸けた大一番だぞ』
『知ってるわよ。相手は片桐英介八段、四十五歳。順位戦A級に連続八期君臨している、現代棋界の最高峰の一角よ』
和令が端末を操作して見せたホログラムには、眼鏡をかけた初老の男の肖像と、恐ろしいほど整った勝率データが並んでいた。
『片桐はね、桐生や成瀬みたいなAIの丸暗記タイプじゃないわ。徹底した相手研究と、精密機械のような大局観で相手の長所を完膚なきまでに封じ込める、現代屈指の「解剖医」よ』
『解剖医……』
『そう。あんたの過去七局の棋譜、吉沢戦の端角から大場戦の歩突きまで、すでに何百時間もかけて検証し尽くしてるわ。……いい、清麿? 相手はあんたが「現代の常識から外れた手」を指してくることを、百も承知で盤上に座ってくるのよ』
『分かってる。でも、三百年後の完全定跡なら、相手の対策すらも上からへし折れるはずだろ』
『……それが慢心だって言ってんのよ! 相手を甘く見たら、佐久間戦の二の舞になるわよ!』
和令の鋭い声が、耳の奥で警鐘のように鳴り響いていた。
対局室の襖を静かに開けると、張り詰めた静寂が清麿を迎えた。
上座には、すでにその男が腰を下ろしていた。
片桐英介八段。
仕立ての良い漆黒の羽織袴を身に纏い、銀縁の眼鏡の奥にある細い瞳は、深く静まり返った湖水のように濁りがない。
千駄ヶ谷の畳の上で四半世紀を戦い抜き、名だたるタイトルホルダーたちと鎬を削り合ってきた、正真正銘のトッププロの威厳。
清麿が下座に進み、深く頭を下げると、片桐は穏やかな、だが芯の通った声で口を開いた。
「加藤さん。お待ちしていましたよ」
「……よろしくお願いいたします」
「あなたの将棋、すべて拝見しました。……実に美しく、そして恐ろしい構想の数々でしたね。現代のAIが導き出す最善手のさらに外側から、針の穴を通すように急所を射抜いてくる」
片桐は膝の上で静かに両手を組んだ。
「棋士室の若手たちは、あなたの指し手に恐怖し、混乱しています。……ですがね、加藤さん。将棋とは、未知の知識を競い合う競技ではありません。生身の人間が、盤上の四十枚の駒を通して、互いの魂を削り合う勝負です。……私の盤上で、あなたの『真実』を確かめさせてもらいましょう」
敵意ではない。
自らの信じる将棋のすべてを懸けて、未知の挑戦者を迎え撃つという、最高峰の棋士の矜持。
清麿の背筋が、ピシリと伸びた。
「定刻となりました。青嵐杯五回戦、対局を開始してください」
記録係の声が凛と響く。
振り駒の結果、片桐の先手、清麿の後手番と決まった。
片桐の手つきは、静かで滑らかだった。
初手、▲7六歩。
清麿もすぐに応じる。
△3四歩。
序盤の十数手、局面は現代将棋の王道である『角換わり』へと進展していった。
片桐が選択したのは、かつて桐生五段が採用したような鋭利な攻めではなく、金銀を自陣深くへと手厚く引きつける、極めて重厚な持久戦の構えだった。
清麿の脳裏に、三百年後の『完全定跡アーカイブ』が青白い光となって立ち上がる。
(……角換わり、先手手厚い腰掛け銀型。桐生戦で見せた「玉上がり」のカウンターは、先手が銀を繰り出してこないこの形には使えない……)
だが、清麿のアーカイブには、この手厚い布陣に対抗するための別のルートが存在していた。
『パターンC・超長手数の時限爆弾』。
相手に無理攻めをさせず、自陣の端歩をわずかに突き捨て、自陣の玉を深い位置へ沈めることで、二十手先に相手陣の金銀を自縄自縛へと追い込む未来の深淵の構想。
二十五手目。清麿は、現代の定跡書では「手番の浪費」とされる、自陣の底歩をそっと押し上げた。
乾七段を窒息させた時と同じ、見えない糸を盤上に張り巡らせる一手。
――しかし。
その手を待っていたかのように、片桐八段の右手が動いた。
――パチリ。
片桐が放ったのは、自陣の守備駒を動かす手でも、清麿の端歩に反発する手でもなかった。
中央の歩を、ノータイムで、ただ一筋だけ静かに突き捨てたのだ。
「…………っ!?」
清麿の心臓が、ドキンと跳ね上がった。
息が止まる。
目を見開き、盤面を凝視した。
(歩の突き捨て……? この局面で、なぜ中央の歩を捨てるんだ……!?)
清麿の脳内アーカイブが、激しくノイズを走らせた。
存在しない。
未来の定跡アーカイブの樹形図の中に、このタイミングでの歩の突き捨てなど、一行たりとも記録されていなかったのだ。
なぜなら、未来のスーパーAIの論理計算において、この手は「後手にタダで歩を渡し、自陣の中央を自ら薄くするだけの明らかな悪手」として、最初の数手で枝刈りされ、破棄されていたからだ。
だが――片桐の銀縁眼鏡の奥の瞳は、氷のように冷徹だった。
(……罠だ)
清麿の背筋を、冷たい汗が流れ落ちた。
片桐は、清麿の過去の対局を徹底的に解剖していたのだ。
清麿が指す「一見すると意味のない地味な手」が、二十手先、三十手先に相手の玉陣を締め上げる時限爆弾であることを、完全に理解していた。
だからこそ、片桐は自ら形勢をわずかに損ねる悪手を指すことで、清麿の時限爆弾の「起爆装置となるマス目」を、あらかじめ中央の歩の空間によって強引に破壊しにきたのだ!
その頃、二階の控室。
中継モニターを見つめていた棋士たちと、記者の神崎澪の間で、戦慄混じりの声が上がっていた。
「片桐先生のあの歩突き……! AIの評価値は後手――加藤アマ有利に傾いているが、これは完全に対・加藤清麿専用の罠だぞ!」
「ええ……!」
神崎澪が手帳のペンを強く握りしめる。
「加藤さんが指してきた新手の数々は、相手が『現代の最善手』を指してくることを前提に作られている。片桐八段は、その前提そのものを、自らの肉を切らせてへし折りにいったんだわ!」
ネット中継のコメント欄も、不穏な空気に包まれていた。
『加藤アマの手が止まった!』
『評価値は加藤有利なのに、加藤の表情が苦しそうだぞ』
『A級の片桐八段が、アマチュア相手にここまで徹底的に対策を練ってくるなんて……!』
対局室の静寂の中、清麿の持ち時間が削られていく。
十分、二十分、四十分――。
考慮時間のタイマーが、無慈悲に音を立てて砂を落としていく。
未来の定跡アーカイブは、画面の向こうで完全に沈黙していた。
青白い樹形図は途切れ、眼前には、片桐が意図的に作り出した「不条理な混沌」だけが横たわっている。
(読めない……! アーカイブに、この先の答えがない……!!)
胃の奥が雑巾のように絞られ、息が苦しくなる。
佐久間戦の悪夢が、頭をもたげそうになる。
あの時と同じだ。未来のカンニングペーパーを奪われ、真っ暗闇の荒野に放り出された恐怖。
(また、負けるのか……? 俺はまた、ここで自滅するのか……!?)
『――何情けない顔してんのよ、雑魚先祖!!』
鼓膜の奥で、カッと雷鳴のような怒号が響いた。
あの日の六畳間。涙を流しながら、互いの弱さをぶつけ合った和令の声だ。
『答えを知ってるだけじゃ勝てないのよ! 最後に勝負を決めるのは、生身の人間の読みと胆力なの!! 未来に答えがないなら、今ここで作ればいいでしょ!!』
――ハッと、息を呑んだ。
清麿は目を閉じ、深く、深く息を吐き出した。
そうだ。
自分はもう、答えを暗記しただけの男ではない。
佐久間戦で負けて、妹の千代の温かさに触れ、和令と夜を徹して何百局もの泥沼局面を解き続けてきたのだ。
相手は現代最高峰のA級棋士だ。
その男が、己のプライドをかなぐり捨て、自分という無職の男を倒すためだけに、命を削って罠を仕掛けてきてくれたのだ。
それに怯えて縮こまるなど、勝負師に対する最大の侮辱ではないか。
(逃げるな。読むんだ……! 俺自身の頭で、俺自身の命を削って……!!)
清麿は目を見開いた。
濁りのない、透き通った瞳が、盤上の四十枚の駒を捉える。
脳内将棋盤が、凄まじい摩擦熱を上げて猛烈な回転を始めた。
片桐の狙いは何だ。中央の歩を突いて、清麿の時限爆弾を封じ、泥沼の長期戦で清麿の経験不足を突くこと。
ならば――その土俵に乗る必要はない。
清麿の右手が動いた。
――バシィッ!
歩を取るのではない。
自陣の銀を力強く中央へと押し出し、相手の歩の頭を直接抑え込む、気迫の反発!
片桐の銀縁眼鏡の奥の眉が、わずかにピクリと跳ね上がった。
そこからは、未来の定跡など存在しない、生身の魂のぶつかり合いだった。
片桐が冷徹な受けの網を絞り上げてくる。
清麿は泥水を啜るようにして活路を探し、成瀬戦で見せたような鋭利な勝負手を次々と盤上に叩き込んでいく。
パチ、パチ、バシィッ!
激しい駒音が、対局室の静寂を切り裂き続ける。
六十手、八十手、百手――。
佐久間戦の時のように、焦りで自爆することなど決してなかった。
清麿は持ち時間が切れ、一手一分の極限状態に追い込まれても、背筋を伸ばし、濁りのない目で盤面を睨みつけ、最短の光を手繰り寄せようとしがみつき続けた。
控室の神崎澪が、息を呑んでモニターを見つめる。
「加藤さん、崩れない……! A級棋士の完璧な対策を前にして、自分の読みだけで対等に渡り合っている……!」
ネット中継のコメント欄も、息を呑む熱狂に包まれていた。
『加藤アマ、粘りが凄すぎる!』
『新手の奇襲だけじゃない、本物の地力だこれ!』
『A級の片桐相手に百手超えて互角とか信じられない!』
――しかし。
勝負の世界は、冷酷だった。
百二十手を過ぎた局面。
両者の玉が中段に剥き出しになり、一手間違えれば即死する極限の終盤戦。
清麿の視界が、酸欠でチカチカと白く明滅していた。
「――五十秒……一、二、三……」
記録係の無機質な秒読みが、心臓を直接締め上げる。
清麿は、自陣に控えていた一枚の桂馬を掴み取った。
敵玉の退路を塞ぎ、自玉の安全を確保する、渾身の勝負手。
――バシィッ!
だが――その瞬間。
片桐英介八段の右手が、疾風のように盤上へと振り下ろされた。
――パチリ。
静かな、あまりにも穏やかな駒音。
片桐が指したのは、清麿の桂馬を取る手でも、逃げる手でもなかった。
自陣の底深くに、ぽつりと一枚の歩を打ち下ろす――絶妙極まりない「底歩」の一手だった。
「…………っ!?」
清麿の息が、喉の奥で完全に止まった。
見落としていた。
清麿が放った渾身の桂馬の攻撃ルートを、そのたった一枚の歩が、ミリ単位の精度で塞ぎ止めていたのだ。
王手が続かない。
そして――片桐の玉陣には、もはや清麿が攻め込むための駒が一枚も残されていなかった。
四半世紀にわたりA級の頂点に君臨し続けてきた男の、底知れない「終盤の深さ」。
未来の知識でも、付け焼き刃の特訓でも届かない、本物の怪物の地力が、そこにあった。
「……六、七、八……」
秒読みが非情にカウントされる。
清麿の指先が、盤上で力なく止まった。
すべてを出し尽くした。
焦りから逃げ出したわけではない。弱気に縮こまったわけでもない。
自分の持てるすべての知性と、十年以上の研鑽と、和令と培った胆力のすべてをぶつけ尽くして――それでも、届かなかった。
清麿はゆっくりと両手を畳の上に落とした。
そして、静かに、深く頭を下げた。
「……参り、ました」
百二十六手。
青嵐杯五回戦。
加藤清麿の快進撃は、A級棋士・片桐英介の圧倒的な研究と実力の前に、完全に打ち砕かれた。
「……ありがとうございました」
片桐八段が深々と一礼を返した。
その顔には、勝利の奢りは微塵もなかった。額にはびっしょりと汗が滲み、呼吸を乱しながら、清麿の顔を真っ直ぐに見つめていた。
「……素晴らしい将棋でした、加藤さん」
片桐の声が、静まり返った対局室に響く。
「私の事前研究は、六十手目で完全に破綻していました。そこから先は、あなたの恐ろしいまでの読みの力に、何度も喉元を切り裂かれそうになった。……完敗していてもおかしくなかった一番です」
片桐は頭を下げた。
「あなたがプロの資格を目指していること、心から納得しました。……ぜひ、上へ上がってきてください」
敗者に対する、最大の敬意。
だが、その言葉を受け止めながらも、清麿の胸の奥底には、冷たい絶望の刃が突き刺さっていた。
記録係が公式記録用紙にペンを走らせる。
『青嵐杯五回戦 勝者:片桐英介八段』
『敗者:加藤清麿アマ(青嵐杯敗退)』
『プロ棋士編入試験対象成績:通算7勝2敗』
七勝二敗。
青嵐杯からの、完全な脱落。
光星杯に続き、二つ目のプロ公式戦の扉が、音を立てて閉ざされた瞬間だった。
*
対局を終え、将棋会館の外へ出た頃には、夜の雨足はさらに強まっていた。
冷たい雨粒が、傘を持たない清麿のスーツの肩を容赦なく濡らしていく。
鳩森八幡宮の鳥居の脇。
街灯の薄暗い光の下で、透明なビニール傘を差した少女が立っていた。
加藤和令。
彼女は雨の中に佇み、ずぶ濡れになって歩いてくる清麿の姿を、じっと見つめていた。
清麿は和令の前で足を止め、濡れた前髪の隙間から、小さく息を吐き出した。
「……負けたよ」
掠れた声だった。
「全部、出し切った。……でも、届かなかった」
和令は何も言わなかった。
いつものように「この雑魚先祖!」と罵倒することも、毒舌を吐くこともなかった。
ただ、ぎゅっと唇を噛み締め、傘を傾けて清麿の頭上へと差し出した。
冷たい雨の中、二人の間に落ちる沈黙。
編入試験の条件である「十勝」まで、あと三勝。
だが、残された公式戦の機会は、今年度、最後の一つしか残されていなかった。
一度でも負ければ即座に夢が潰える、退路なき絶壁の淵へと、二人は確実に追い詰められていた。
読んでいただきありがとうございます。
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