EP 2
『勝ち続ける男』
六月の朝、千駄ヶ谷の空は雲ひとつない初夏の青に染まり、鳩森八幡宮の杜からは青葉の瑞々しい香りが風に乗って漂っていた。
日本将棋会館の正面玄関には、朝の対局開始前だというのに、異様な数のカメラと記者が詰めかけていた。
プロ公式戦・青嵐杯三回戦において、B級1組の重鎮にして『鋼鉄の門番』と恐れられた乾雅之七段を、百十八手の激闘の末に受け潰して破った加藤清麿。
その勝利が将棋界に走らせた衝撃は、これまでのどの白星とも質の異なる、重く冷たい震撼を伴っていた。
四年の空白を抱えた三十歳無職の元三段。
彼が叩き出した公式戦通算成績は、これで『六勝一敗』。
かつて誰もが「アマチュアの快進撃など五勝の壁に跳ね返される」と高を括っていた。プロ棋界の分厚い層が、研究と意地によってアマチュアの勢いを削ぎ落とすはずだと信じていた。
しかし、現実は違った。
清麿は壁にぶつかるどころか、プロの最高峰の研究を真正面から解剖し、手玉に取るように勝ち進み続けていたのだ。
ネットの将棋ニュースには連日『加藤清麿、編入試験へあと四勝』『現代AI定跡を凌駕する謎の男』と巨大な見出しが躍り、専門掲示板では彼の一局ごとに何千もの書き込みが殺到している。
だが、当の清麿自身の心は、驚くほど冷徹に研ぎ澄まされていた。
佐久間七段に喫したあの初黒星の苦い記憶。そして和令の端末に現れた、過去と未来が歪み始めている不気味な兆候。
勝つことは、ただの栄光ではない。
妹の千代が背負うはずだった莫大な負債を消し去り、自分と和令の未来をこの手で切り拓くための、絶対に退けない生存を懸けた戦いなのだ。
「……ちょっと。朝から玄関先で何を仁王立ちしてんのよ、雑魚先祖」
六畳間の台所から、カチャリと食器を片付ける音とともに、ピシャリと尖った声が飛んできた。
銀と藍色のライダースーツの袖をまくり、和令が腕を組んでジト目を突き刺してくる。
「仁王立ちじゃない。靴紐を結び直してたんだよ」
「嘘おっしゃい。玄関の鏡に映る自分の顔を二分間も見つめて、口角が三ミリ上がってたわよ。『六勝一敗の俺、マジで強い』って毛穴から自惚れがダダ漏れよ」
「ダダ漏れてない! 少しは自分を信じなきゃ盤の前に座れないだろ!」
「信じるのと調子に乗るのは紙一重よ! だいたいね、昨日の夜の半熟卵、感謝の言葉が足りなかったんじゃないの!?」
「ちゃんと『めちゃくちゃ美味い、ありがとう』って三回言っただろ! これ以上何を言えば満足なんだよ!」
「三百年後の神童たる私への最上級の賛辞よ! 『和令様の爪の垢を煎じて飲ませていただきます』くらい言えないわけ!?」
「誰が飲むか、そんな猛毒! お前、日増しに傲慢さに磨きがかかってないか!?」
「当たり前でしょ! あんたが六勝も稼げたのは、私の三百年分の完全定跡アーカイブと、毎夜の地獄の終盤特訓のおかげなんだから!」
「それは……まあ、否定しないけどさ」
清麿が頭を掻いて苦笑すると、和令はふんと小さく鼻を鳴らし、腰のホルダーから透明な薄型端末を引き抜いた。
「分かってるならいいわ。……で、今日の青嵐杯四回戦の相手、頭に入ってんでしょうね?」
「大場拓海七段、三十歳。……同い年だ」
清麿の表情から、コミカルな色がすっと消え去った。
大場拓海。
清麿が奨励会で苦しみ、年齢制限に怯えていた二十代前半の頃、弱冠二十歳で四段昇段を果たし、棋界に颯爽と現れた居飛車の鋭角派。
順位戦でも昇級を重ね、鋭利極まりない最新急戦を武器に、次代のタイトルホルダー候補と目されている現代将棋の若きトップエリートだった。
「大場はね、桐生や成瀬以上の『AI研究の狂信者』よ」
和令が端末を操作すると、空中に大場の膨大な棋譜データが青白く展開された。
「自宅に十台以上の並列サーバーを組み上げて、現代最高峰の評価関数を二十四時間ぶん回してるわ。彼が選ぶ急戦の仕掛けは、現代のAIが『先手勝率六割二分』と結論づけた絶対の切れ味を誇る最新構想よ」
「現代の切れ味の極致、か」
「そう。でもね、清麿。その現代最強の仕掛け、西暦二一七〇年代に『自玉の薄さを過小評価した致命的な欠陥』として、完全に論破されてるわ」
和令の口元に、不敵で獰猛な笑みが咲いた。
「相手が最も自信満々に踏み込んできたその瞬間、現代の常識じゃ考えられない『ある受けの構想』をぶつけてやりなさい。……プロの自慢の研究を、根底から粉砕してやるのよ!」
「ああ。行ってくる」
二人の拳が、静かに、だが熱くぶつかり合った。
午前九時四十分。
日本将棋会館・四階、特別対局室。
青畳の上に漂う空気は、息を吸い込むだけで喉が切れそうなほど張り詰めていた。
上座に座る大場拓海七段は、現代風のスマートなチャコールグレーのスーツを身に纏い、彫りの深い横顔で盤面を射抜くように見つめていた。
同い年。かつて奨励会の廊下ですれ違った記憶が、清麿の脳裏をかすめる。
あの頃の大場は、眩いばかりの光を放つエリートであり、清麿は暗闇へ滑り落ちていく落ちこぼれだった。
清麿が下座に進み、深々と一礼する。
「……加藤さん」
大場が口を開いた。金属のように硬く、冷徹な声。
「あなたの快進撃、拝見していますよ。……乾先生まで破るとは、正直驚きました」
「恐縮です」
「世間はあなたを『覚醒した神童』と呼び、プロ編入試験の誕生を期待している。……だがね、加藤さん。私は研究を信じないロマンチストではありません」
大場は机の上の扇子を指先で弄ぶことなく、真っ直ぐに清麿の目を射抜いた。
「あなたの新手がどれほど特異であろうと、現代のAIが導き出す計算の深さを超えることはできない。……私が何百時間もかけて磨き上げた最新の居飛車急戦で、あなたのその奇跡を、今日ここで終わらせて差し上げます」
プロとしての誇り。何台ものサーバーを回し、現代の知性の頂点に立っているという揺るぎない自負。
清麿は静かに座布団の上で姿勢を正した。
「……全力を尽くして、受けて立ちます」
「青嵐杯四回戦、対局を開始してください」
記録係の声が響き渡る。
振り駒の結果、大場の先手、清麿の後手番と決まった。
大場が一切の躊躇なく、初手を放つ。
――バシィッ!
▲2六歩。
清麿もすぐに応じる。
――パシッ。
△8四歩。
互いに飛車先を突き合い、角道を開け、銀を繰り出す。
局面は、現代将棋で最も研究が進んでいるとされる『相掛かり最新型』へと進展していった。
序盤の二十手、大場の手つきにはコンマ一秒の迷いもなかった。
扇子を鳴らすこともなく、まるで正確なメトロノームのようにノータイムで駒が進められていく。
それは、大場が最新のAIクラスタで何百万局面も検証し尽くした、現代の居飛車における「最速・最強の急戦布陣」だった。
自陣の飛車の利きを縦横に通し、清麿の後手陣のわずかな歪みを見逃さず、最短手数で急所を抉り抜く構え。
観戦室やネット中継の画面越しでも、その鋭利な気迫がビリビリと伝わってくるような布陣だった。
その頃、二階の控室。
大盤解説のモニターを見つめていた棋士たちと、記者の神崎澪の間で、息を呑むような会話が交わされていた。
解説を担当していたのは、かつて清麿に敗れ、いまや彼の将棋の最大の理解者の一人となっている桐生彰吾五段だった。
「……大場七段、自慢の超急戦を踏み込んできましたね」
神崎澪が手帳のペンを握りしめ、桐生に問いかける。
「桐生先生、この局面は……」
「ええ。現代の将棋AIが最も推奨する、先手勝率六割超えの必勝形です」
桐生は眼鏡のブリッジを押し上げ、厳しい表情でモニターを見つめた。
「この仕掛けをまともに食らうと、後手は受けが効かず、三十手以内に玉陣が崩壊します。……加藤さんがいくら序盤巧者でも、この現代最強の矛を正面から受け止めるのは不可能に近い。どう受ける気なのか……」
ネット中継のコメント欄も、熱狂と緊張で埋め尽くされていた。
『大場の研究手順、完全に決まったぞ!』
『この急戦はプロでも誰も止められないやつだ』
『加藤アマ、さすがにここは耐えられないか……!?』
『ここで勝てば通算7勝1敗、編入試験まであと3勝だぞ! 踏ん張れ!』
三十手目を迎えた瞬間、対局室の空気が爆発するように軋んだ。
大場七段が、右手で自慢の銀を掴み取ると、清麿の陣形の中央へと力任せに叩きつけたのだ!
――ズドォォォンッ!!
盤が割れんばかりの轟音。
仕掛けの決行。現代AIの最高峰が導き出した、絶対の踏み込み。
大場の瞳に、獲物を仕留めた肉食獣の光が宿る。
(受かるはずがない。後手は自陣の金を引いて受けるしかないが、それでは先手の攻めが止まらない!)
――しかし。
大場が駒を置いたコンマ二秒後。
清麿の右手が、静かに、だが迷いなく盤上へと伸ばされた。
――パチリ。
清麿が放ったのは、金を引いて受ける手でも、玉を逃がす手でもなかった。
自らの飛車の目の前へ、ぽつりと一枚の歩を突っ掛ける――現代の感覚では、自陣の攻め駒の利きを自ら遮断するだけの、完全な「自殺行為」に見える一手だった。
「…………え?」
大場拓海の息が、喉の奥で止まった。
盤面を二度見し、清麿の表情を凝視する。
(歩突き……? なぜだ? 自分の飛車の利きを止めて、何をする気だ……!?)
控室の桐生五段も、モニターの前で立ち上がった。
「なっ……!? なんだあの手は!? 現代のAIの初期判定なら、一瞬で評価値が先手プラス千点に跳ね上がる大悪手だぞ!」
神崎澪も息を呑む。
誰もが清麿の狂気を疑った。
しかし――大場がその歩を払おうと手を伸ばしかけた瞬間、男の指先が、ピタリと空中で凍りついた。
(待て……。この歩を取ると、何が起きる……?)
大場の優れた頭脳が、猛烈な速度で先の手順を追っていく。
歩を取る。すると、清麿の角が信じられない角度から大場の玉陣の急所を睨みつけてくる。
それを防ぐために金を上がると、先ほど清麿が突いた歩の空間から、清麿の桂馬がふらりと跳ね上がり、大場が最も誇らしく突っ込ませたはずの中央の銀の退路を、ミリ単位の精度で封鎖してしまうのだ。
(……嘘だろ? 自陣の銀が、死んでいる……!?)
大場の背筋を、氷水のような悪寒が駆け抜けた。
現代AIが「最強」と信じていた銀の前進。
その銀の勢いそのものを利用し、相手の攻め駒を自陣の奥深くにおびき寄せて窒息させる――三百年後の未来において確立された、『パターンA・常識破壊の序盤――迎撃の時限構造』だった。
「馬鹿な……! そんなはずはない……! 最新のAIが、最善と判定した手順なんだぞ……!!」
大場の額から、ボタボタと大粒の汗が畳の上に滴り落ちる。
攻めを続ければ、清麿の網に絡め取られて銀をタダで取られる。
攻めを引けば、先手の手番の利が完全に消滅し、清麿の分厚い反撃が直撃する。
大場が何百時間と積み上げてきた現代の叡智が、たった一手、三百年後の圧倒的な論理の前に、砂の城のように崩壊していく。
控室の桐生五段が、震える声で叫んだ。
「……評価値が、逆流している……! AIに数手読み込ませたら、先手有利から一瞬で後手勝勢に反転した! なんだあの構想は……! 現代のいかなる研究会からも、こんな手は出てこない!!」
ネット中継のコメント欄が、爆発的な熱狂で埋め尽くされていく。
『うおおおおっ! 大場の研究が木っ端微塵に砕かれた!』
『プロの最新急戦をたった一手で受け潰したぞ!』
『加藤清麿、マジで化け物すぎるだろ!!』
大場は一時間近い大長考の末、苦肉の策として銀を引いて受けに回った。
だが、現代の急戦派が自ら攻めの牙を折られた瞬間――勝負の天秤は、決定的に傾いていた。
清麿の瞳が、青く澄み渡る。
(届く……!)
清麿の反撃が始まった。
――バシィッ!
中央への歩の突き捨て。
――パシッ。
角を成り込み、相手玉の喉元へ刃を突きつける。
和令と繰り返した地獄の終盤特訓の成果が、淀みない流れるような手順となって盤上に描かれていく。
大場がどれほど泥臭く粘ろうと、清麿の指先は一切ブレなかった。
そして――七十四手目。
清麿は手元に残っていた一枚の銀を、大場の玉の頭上へ、そっと静かに打ち下ろした。
――パチリ。
逃げ場のない、完全なる即詰み。
「…………」
対局室に、長い、痛切な沈黙が落ちた。
大場拓海は盤上に両手をつき、悔しさに唇を噛み締めながら、肩を激しく震わせていた。
やがて、深く息を吐き出すと、深々と頭を下げた。
「……参り、ました」
七十四手。
現代居飛車急戦の旗手・大場拓海七段が、己の誇る最高峰の研究を根底から覆され、完敗を認めた瞬間だった。
「……ありがとうございました」
清麿が静かに一礼を返した。
記録係が震える手で公式記録用紙にペンを走らせる。
『青嵐杯四回戦 勝者:加藤清麿アマ』
『プロ棋士編入試験対象成績:通算7勝1敗』
通算七勝一敗。
プロ棋士編入試験の合格条件である「十勝」まで、あと三勝。
勝ち続ける男・加藤清麿の名は、もはや誰も否定できない本物の旋風となって、将棋界の頂を揺るがし始めていた。
*
対局後の感想戦を終え、将棋会館の外へ出た頃には、千駄ヶ谷の空は美しい茜色に染まり、初夏の風が心地よく火照った頬を撫でていた。
鳩森八幡宮の鳥居の脇。
街灯の下で待っていた和令が、清麿の姿を捉えると、スッと立ち上がって腕を組んだ。
「……遅かったじゃないの、雑魚先祖」
「七十四手で終わったんだぞ。早い方だろ」
「ふん。三百年後の正解手順なら七十手で詰んでたわよ。四手も無駄な手番を使った減点ね!」
ツンと顎を上に向ける和令。
だが、その瞳の奥には、隠しきれない歓喜と誇らしさが満ち溢れていた。
「でもまあ……大場のドヤ顔急戦を完膚なきまでに叩き潰したのは、見てて最高にスカッとしたわよ!」
「へへっ、ありがとな」
清麿が笑うと、和令はニヤリと口元を吊り上げた。
「さあ、帰るわよ! 今夜は約束通り、うどんに半熟卵……いや、贅沢に二個落としてあげるんだから!」
「二個!? マジかよ、最高じゃないか!」
「卵二個で飛び跳ねるんじゃないわよ、この単純先祖! 編入試験まで、あと三勝なんだからね!」
「ああ。あと三勝だ!」
夕暮れの街に、二人の明るい笑い声が響き渡っていく。
だが、二人はまだ知らなかった。
次なる青嵐杯五回戦において、清麿の棋譜を徹底的に解剖し尽くした怪物が、冷酷な罠を研ぎ澄まして待ち構えているということを。
読んでいただきありがとうございます。
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