EP 10
ただいま、そして頂へ
『加藤四段、歴史的な大逆転勝利です!!』
対局室のドアが開き、待機していた記者たちが雪崩れ込んできた。
無数のフラッシュが、勝者の清麿と、泣き腫らした目で盤面を見つめる星野を照らし出す。
「加藤四段! 途中からまるで人が変わったような、凄まじい粘りでした! 勝利の要因は何だったのでしょうか!?」
マイクを向けられた清麿は、ゆっくりと立ち上がった。
数日前、武田六段を惨殺した時の『感情を失ったバケモノ』の面影は、そこにはもう1ミリもなかった。
汗で前髪を顔に貼り付け、泥だらけの笑顔を浮かべた、ただの一人の不器用な勝負師の顔。
「……意地、ですかね」
清麿は短く答え、記者たちの間をすり抜けるように歩き出した。
「あ、加藤四段!? まだインタビューが……!」
「すいません。待たせてる奴がいるんで」
清麿はそれだけ言い残し、足早に将棋会館を後にした。
◇
夜の冷たい風が頬を撫でる。
清麿は、千代に何度もメッセージを送りながら、走り続けていた。
早く会わなければ。顔を見て、ちゃんと謝らなければ。
自分はもう、あの空っぽのバケモノじゃないと。
アパートの最寄り駅まで戻ってきた時だった。
「……お兄ちゃん」
改札の陰から、小さな声が聞こえた。
清麿が足を止めると、そこには、スマホを両手で握りしめ、目を真っ赤に腫らした千代が立っていた。
「千代……!」
「見たよ……配信。スマホで、ずっと……」
千代は、ポロポロと涙をこぼしながら、ゆっくりと清麿に歩み寄った。
「お兄ちゃん、苦しそうだった。汗びっしょりで、泥臭くて……でも、すごく、すごく楽しそうに将棋、指してた……っ!」
「……ああ」
「空っぽじゃ、なかった。私のお兄ちゃんが、帰ってきたんだって……わかったから……っ!」
千代が、清麿の胸に飛び込んできた。
清麿は、その小さな背中を、震える両腕でしっかりと抱きしめた。
腕の中に伝わってくる、確かな体温。
それを「システムにとって無駄な熱」などと思う自分は、もうどこにもいなかった。
「……ごめんな、千代。寂しい思いさせて、泣かせて。俺が間違ってた」
「ううん……っ、勝ってくれて、よかった……っ。お兄ちゃん、かっこよかったよぉ……!」
「千代。また、寿司食いに行こう。今度は絶対に『美味い』って言いながら、お前と一緒に腹いっぱい食うからさ」
「……うんっ! 約束だよ、絶対だよ……っ!」
二人の様子を、少し離れた街灯の下から、ステルス状態の和令が静かに見守っていた。
ホログラムの数字(借金残高)は、今回の勝利によってついに『0』を指し示している。
「……フン。本当に、手のかかる猟犬なんだから」
和令は呆れたように肩をすくめたが、その口元には、この時代に来てから最も優しく、温かい微笑みが浮かんでいた。
◇
同じ頃。
都内の高級ホテルの最上階。
夜景を見下ろす豪奢なスイートルームで、一人の男がタブレット端末の画面を静かに見つめていた。
画面には、清麿が星野を投了に追い込んだ『泥の花』のような最終盤面が映し出されている。
「……素晴らしい」
男――現役最強のタイトルホルダーであり、将棋界の頂点に君臨する『藤堂竜将』は、ワイングラスを傾けながら、獰猛に目を細めた。
「機械のフリをした紛い物から、未来の論理と人間の執念を併せ持つ、本物の怪物へと羽化したか。……加藤清麿」
藤堂は、タブレットの電源を落とし、眼下に広がる東京の光の海を見下ろした。
その背中からは、今まで清麿が戦ってきたどんな棋士とも次元が違う、圧倒的な『覇者のオーラ』が立ち昇っていた。
「上がってこい。この鬼の棲家の、さらに奥深く……誰もたどり着けない、本当の頂へ」
泥沼から這い上がった凡人と、未来から来た相棒。
二人の戦いは、いよいよ将棋界の最高峰『タイトル戦』という最後の死地へと向かっていく。




