第四章『元奨励会三段、プロ編入試験の扉を開く』
『六勝目の壁』
六月に入った千駄ヶ谷は、梅雨の気配を孕んだ湿り気と、初夏の強い陽光がせめぎ合う独特の熱気に包まれていた。
日本将棋会館の白壁を見上げながら、加藤清麿は仕立ての古いリクルートスーツの胸元を軽く押さえた。
シャツの襟元から伝わる自分の拍動は、以前のように恐怖で早鐘を打つのではなく、深く、静かな一定のリズムを刻んでいる。
光星杯四回戦、佐久間七段の老獪な力戦に呑まれて喫した初黒星。
そしてその夜、六畳間で和令と互いの弱さをぶつけ合い、涙とともに知った「未来の記録の変容」。
自分が盤上で勝利を積み重ねるたびに、妹の千代が背負うはずだった莫大な負債の歴史は崩れ去り、存在しないはずだった直系の記録が光を放ち始めていた。
勝てば世界が変わる。
だが、それは同時に、未来から来た少女の存在そのものを揺るがす、未知の航海への突入でもあった。
(俺が勝つ。勝って、お前が笑っていられる未来をこの手で作る)
青嵐杯に入ってからの成瀬五段、梶原六段の連破。
現在のプロ公式戦通算成績は、五勝一敗。
プロ棋士編入試験の受験資格である「十勝以上、かつ勝率六割五分以上」という途方もない関門の、ちょうど折り返し地点に立っていた。
だが、清麿の胸に慢心は微塵もなかった。
五勝までは勢いと驚きで駆け抜けられたとしても、ここから先は、相手も清麿を「ただのアマチュア」とは絶対に見てくれない。
プロ棋界の分厚い壁が、本当の牙を剥いて立ちはだかる戦いになるのだ。
「……ちょっと。何を玄関の前で悟りを開いた高僧みたいな顔してんのよ、雑魚先祖」
背後から、容赦のない甲高い声が飛んできた。
銀と藍色のライダースーツを端末の迷彩機能で薄手のサマージャケット姿に変えた和令が、腕を組んでジト目を突き刺している。
「高僧じゃない。呼吸を整えてたんだよ」
「嘘おっしゃい。顔の皮膚が緊張で一ミリ引き攣ってるわよ」
「引き攣ってない! 大体、お前こそ今朝の朝ごはん、味噌汁の具がちくわともやしだけだったぞ。手抜きすぎだろ」
「手抜きとは何よ! ちくわの魚肉タンパク質ともやしの食物繊維が、あんたの原始人脳のシナプスを活性化させる黄金比率なのよ! 感謝して拝みながら食べなさい!」
「拝むほどのメニューかよ! せめて卵くらい落としてくれてもバチは当たらないだろ!」
「卵は一個二十円もする高級資源よ! 六勝目を手土産に持って帰ってきたら、半熟にして乗せてあげるわよ!」
「手土産って言うな! ……でも、勝てば卵だな? 言ったな?」
「約束してあげるわよ。だから、無様に負けて帰ってきたら、今夜は生米をポリポリ齧らせる刑だからね!」
「刑罰のバリエーションが陰湿すぎるんだよ!」
「うるさいわね! ほら、さっさと行きなさい! 今日の相手は、これまでの連中とは守りの硬さが段違いなんだから!」
和令が清麿の背中を、手のひらでバチンと力任せに叩いた。
痛烈な衝撃が肩甲骨の間を駆け抜け、胸の奥に澱んでいた湿った空気が、一気に吐き出される。
口を開けば憎まれ口ばかりの未来人。だが、その手のひらの確かな体温が、どれほど自分の足を前へ進めてくれているか分からなかった。
日本将棋会館・四階、特別対局室。
磨き抜かれた青畳の中央に置かれた本榧の盤を挟み、上座にはすでにその男が静座していた。
乾雅之七段、三十七歳。
順位戦B級1組に籍を置き、タイトル戦挑戦の経験も持つ、現代将棋界屈指の実力派棋士である。
仕立てのいい濃紺の羽織を身に纏い、丸眼鏡の奥にある細い瞳は、水底の岩のように静まり返っていた。
プロ棋界において彼につけられた異名は『鋼鉄の門番』。
派手な攻めや奇抜な新手を好まず、相手のいかなる鋭い仕掛けも、分厚い金銀の壁と精密な間合いの調整でことごとく無力化し、相手が焦れて隙を見せた瞬間に冷徹に息の根を止める、受け潰しの大家だった。
「加藤さんですね」
乾の声は、低く、穏やかだった。だが、その底には、何千時間もの修羅場をくぐり抜けてきた男の、逃げ場のない重厚な圧力が潜んでいる。
「あなたの棋譜は、すべて拝見しました。……実に美しく、そして恐ろしい手順の数々でしたよ」
「……恐縮です」
「吉沢四段の攻めを空振りさせ、桐生五段の研究を破壊し、成瀬五段のAI持久戦すらも鮮やかに切り裂いた。棋士室の若手たちは、あなたの指し手に恐れをなしている。……だがね、加藤さん」
乾は膝の上で両手を組み、静かに視線を上げた。
「将棋とは、華麗な新手を競い合う発表会ではありません。どんなに精緻な構想であろうと、相手の命を削り落とすまで盤上に居座り続ける……それがプロの戦いです。あなたのその『未来』が、私の盾を貫けるか……試させてもらいましょう」
一切の驕りを排した、鉄壁の覚悟。
清麿は下座の座布団の上で深く一礼し、背筋を伸ばした。
「胸を借りるつもりで、全力を尽くします」
「定刻となりました。青嵐杯三回戦、対局を開始してください」
記録係の声が凛と響く。
振り駒の結果、清麿の先手番となった。
清麿は指先に全神経を集中させ、初手を放った。
――バシィッ!
▲7六歩。
乾も間髪を入れずに応じる。
――パシッ。
△3四歩。
序盤の数手、乾が選択したのは、清麿の急戦の新手や端攻めの筋を極限まで警戒した、極めて重厚な「雁木囲い」の布陣だった。
銀を二枚、中央に手厚く並べ、玉の守りを深く固めながら、先手のいかなる仕掛けに対しても自陣の反動が生じないように隙間を埋めていく。
清麿の頭の中にある『完全定跡アーカイブ』が、青白い樹形図となって脳裏に展開される。
(……雁木、後手鉄壁型)
乾の手つきには、一切の焦りがなかった。
一手進むごとに、後手陣の金銀がスクラムを組むように連携を深めていく。
無理に攻め込めば、相手の鋼鉄の盾に跳ね返されて自爆する。かといって手を手控えていれば、乾の重厚な駒圧によって、じわじわと盤面全体の主導権を奪い取られる。
三十手、四十手。
対局室に響くのは、規則正しい乾いた駒音だけだった。
息の詰まるような、ジリジリとした押し合い。
同じ頃、二階の控室。
大型モニターに映し出される盤面を、将棋専門誌記者の神崎澪や、手合のない棋士たちが固唾を呑んで見つめていた。
「乾先生、完璧な間合いですね……」
若手の棋士が、腕を組んで呻くように言った。
「加藤アマがこれまでの対局で見せてきたような、序盤の切れ味鋭いカウンターが一切刺さらない。相手に無理攻めを誘う、乾先生の十八番の受け潰しパターンだ」
「ええ……」
神崎澪は手帳を握りしめ、険しい表情でモニターを見つめていた。
「加藤さんの公式戦通算五勝一敗という数字は、確かに驚異的です。ですが、過去の編入試験の歴史を見ても、五勝を超えたあたりからプロ側のマークは極限まで跳ね上がる。いわゆる『六勝目の壁』……。乾七段のような百戦錬磨の門番を相手に、加藤さんはどう活路を見出すのかしら」
ネット中継のテキスト速報でも、視聴者たちのコメントが秒単位で流れていた。
『乾の雁木、マジで岩石みたいに動かない』
『加藤アマの手が止まったぞ。攻めどころがまったくない』
『プロを五人倒しても、B級1組のトップどころは格が違うな……』
『ここを突破できなきゃ、プロ編入試験なんて夢のまた夢だぞ』
五十手を過ぎた局面。
乾七段が、自陣の金を一段引き締め、完璧な防空壕を完成させた。
先手から仕掛けるルートは、完全に塞がれているように見えた。
普通なら、ここで焦れて無理な攻めを敢行するか、あるいは弱気に自陣に引きこもり、相手の手番に怯え始める場面だ。
かつての清麿なら、佐久間戦のようにパニックを起こして自爆へと突き進んでいたかもしれない。
――しかし。
加藤清麿の瞳は、湖底のように静まり返っていた。
(焦るな。盤面全体を見るんだ)
清麿は目を閉じ、深く息を吐き出した。
脳裏に浮かび上がるのは、和令の端末にあった三百年後の戦術コンセプト――『パターンC:超長手数の時限爆弾』の哲学だった。
『相手が最も堅いと自負してるその囲いね、無理に正面から叩き割ろうとしちゃダメなのよ。外側から見えない糸を一本ずつ巻きつけて、二十手先に相手が自分から息苦しくなるように仕向けるのよ!』
和令の声が、鼓膜の奥で鮮明に響く。
清麿は目を開けた。
成瀬戦で未来の答えを超えて踏み込み、和令と夜を徹して何百局もの泥沼局面を解き続けた、あの極限の感覚が指先に蘇る。
(相手の盾を壊すんじゃない。……相手の盾の重みそのものを、敵玉を圧殺する重石に変えるんだ!)
清麿の右手が、静かに動いた。
――パチリ。
清麿が放ったのは、敵陣へ突撃する手でも、大駒を打ち込む派手な手でもなかった。
自陣の底深くに眠っていた歩を、ただ一筋、静かに押し上げる、地味極まりない一手だった。
「……ん?」
乾の丸眼鏡の奥の眉が、わずかにピクリと動いた。
手番の浪費に見える一手。攻めにも守りにも直接響かない、緩手にすら思える間合いの調整。
だが――清麿の指先は、止まらなかった。
乾が自陣の銀をわずかに動かして牽制すると、清麿は反対側の端歩をそっと突き捨てる。
乾がそれに応じると、今度は自陣の玉を、斜め後ろの最も安全な深奥へと一歩だけ潜らせる。
二手、五手、十手。
現代の将棋理論からすれば、単なる手待ちの応酬に見える手順。
しかし――六十五手を過ぎた頃、乾雅之の額に、じわりと冷たい脂汗が滲み始めた。
(……な、なんだ? この息苦しさは……!?)
乾の指先が、扇子の上で微かに震えた。
清麿は一度として強引な攻めを仕掛けてきていない。大駒の切り捨てや奇襲の急所突きなど、何一つ指してこないのだ。
それなのに――乾が自慢の金銀で組み上げた鉄壁の陣形が、前にも進めず、横にも動けず、気がつけば自らの玉の呼吸を塞ぐ「巨大な檻」へと変わり果てていた。
先ほど清麿が突いた自陣の底歩が、乾の桂馬の跳躍ルートを完全に消滅させている。
先ほど清麿が突き捨てた端歩の空間から、清麿の香車が遠く敵陣の隙間を冷徹に射抜いている。
二十手前に清麿が盤上に蒔いた、一見無意味に見えた小石の数々が、いま、寸分の狂いもない連携となって乾の玉陣を締め上げていたのだ。
「馬鹿な……! こんな超長手数の網を、事前の研究なしで盤上で織り上げられるはずがない……!」
乾の喉から、掠れた呻きが漏れた。
考慮時間のタイマーが、カチカチと無慈悲に音を立てて持ち時間を削り取っていく。
乾は奥歯を噛み締め、苦肉の策として自慢の盾を自ら崩し、清麿の玉へ向けて捨て身の反撃を繰り出した。
――ズドンッ!!
飛車を清麿の玉陣の急所へ叩き込む、乾坤一擲の勝負手!
控室のモニター前で、棋士たちが息を呑む。
「乾先生の反撃だ! これを受け切るのは至難の業だぞ!」
しかし――。
清麿の瞳は、揺るがなかった。
(見える……! 和令と解いた、あの地獄の詰将棋の盤面だ!)
清麿の脳内将棋盤が、凄まじい摩擦熱を上げて回転する。
未来のアーカイブにない、相手の剥き出しの執念。
だが、今の清麿には、その暗闇を一歩ずつ手探りで歩き、最短の光を手繰り寄せる「本物の終盤力」が備わっていた。
――パシッ。
玉を自ら一歩だけ中段へ進め、相手の飛車の射線をあらかじめ配置していた銀の厚みで吸い取る。
王手が続かない。
そして――清麿の反撃の刃が、電光石火の速さで閃いた。
大駒を捨て、手番を奪い、敵玉の退路をミリ単位で塞ぎにいく。
手数にして、わずか七手。
百十八手目。
清麿は手元に残っていた一枚の金を、乾の玉の頭上へと、そっと静かに打ち下ろした。
――パチリ。
逃げ場のない、完全なる即詰み。
「…………」
対局室に、長い、痛切な沈黙が落ちた。
乾雅之は盤上に両手をついたまま、微動だにしなくなった。
やがて、深く息を吐き出すと、深々と頭を下げた。
「……参り、ました」
百十八手。
B級1組の重鎮にして『鋼鉄の門番』と呼ばれた男が、己の誇るすべての受けを凌駕され、完敗を認めた瞬間だった。
「……ありがとうございました」
清麿が深く一礼を返した。
全身の筋肉から熱い汗が噴き出し、指先が心地よい痺れに震えていた。
記録係が公式記録用紙にペンを走らせる。
『青嵐杯三回戦 勝者:加藤清麿アマ』
『プロ棋士編入試験対象成績:通算6勝1敗』
通算六勝一敗。
誰もが恐れる「六勝目の壁」を、生身の読みと未来の知性を融合させた男が、堂々と打ち破った瞬間だった。
*
将棋会館の外へ出ると、夕暮れの淡い紫紺の空が千駄ヶ谷の街を包み込んでいた。
涼やかな風が、火照った清麿の頬を撫でていく。
鳩森八幡宮の鳥居の脇。
街灯に照らされたベンチの前で、和令が腕を組んで立っていた。
清麿の足音に気づくと、和令はスッと顔を上げ、ツンと顎を上に向けて鼻から息を噴き出した。
「……遅かったじゃないの、雑魚先祖」
「百十八手までかかったんだ。……でも、勝ったぞ」
「知ってるわよ。スマホの速報でずっと見てたんだから」
和令はぷいと横を向いた。
だが、その瞳の奥には、隠しきれない安堵と誇らしさが滲んでいた。
「乾の鉄壁の雁木を、超長手数の時限爆弾で内側から窒息させるなんてね。……まあ、三百年後の視点で見ても、九十五点はあげてもいいわよ」
「珍しく高得点だな。残りの五点は?」
「百手を超えて持ち時間をギリギリまで浪費したチキン減点よ! ほら、帰るわよ! 今夜は約束通り、うどんに半熟卵を落としてあげるんだから!」
「おお、待ってました! やっぱり卵は正義だな!」
「卵一個で大喜びするんじゃないわよ、この貧乏先祖! 編入試験の十勝まで、あと四勝なんだからね!」
「ああ。あと四勝だ!」
二人の笑い声が、初夏の夜空へと溶けていく。
歴史の改変に怯えながらも、目の前の勝利を力強く掴み取った二人。
プロ棋士編入試験の扉を開くための戦いは、いよいよ誰にも止められない熱狂の渦へと突入しようとしていた。
読んでいただきありがとうございます。
面白いと思っていただけましたら、★評価やブックマークで応援していただけると励みになります。




