EP 10
『消え始めた未来の記録』
千駄ヶ谷からの帰り道、初夏の夜風は昼間の熱気を吸い込んで、肌寒いくらいに冷え込んでいた。
築四十年の木造アパートの階段を上る足音が、やけに重たく響く。
加藤清麿は、前を歩く加藤和令の背中を、無言のまま見つめていた。
いつもなら、駅からの道中も「歩く速度が遅い」「三十歳なんだからもっとシャキシャキ筋肉を動かしなさい」とマシンガンのように毒舌を浴びせてくるはずの少女が、千駄ヶ谷の喫茶店前で端末のアラートを鳴らして以来、一言も口を開いていなかった。
右手はジャケットのポケットに深く突っ込まれ、その中で薄型端末を握りしめているのが、服の膨らみから見て取れた。
カチャリと鍵を開け、六畳間の電気をつける。
蛍光灯の青白い光が、擦り切れた畳と、部屋の中央に置かれた本榧の将棋盤を照らし出した。
神崎澪記者との長時間の対話を経て、清麿の胸には「自分の将棋を言葉にし、認められた」という確かな手応えが残っていたはずだった。プロ公式戦通算五勝一敗。編入試験の受験資格である十勝まで、あと五勝。確実に、夢の輪郭は濃くなっている。
だが、部屋に漂う空気は、かつてないほど張り詰めていた。
「……おい、和令」
靴を脱いで上がった清麿が、背中を向けたままの少女に声をかけた。
「何よ」
和令は振り返りもせず、素っ気なく答えた。
「何よ、じゃないだろ。さっきからずっと様子がおかしいぞ。あの喫茶店の前で鳴った警告音……あれ、本当にただのバッテリー警告なのか?」
「そう言ったでしょ。原始人の粗末な電力インフラと違って、三百年後のナノバッテリーはデリケートなのよ。あんたに関係ないわ」
「関係ないわけあるかよ。俺たちの命運が懸かってる機械なんだぞ」
「大げさね。ほら、突っ立ってないで手を洗ってきなさい。外の雑菌を六畳間に持ち込まないでくれる?」
「話を逸らすな! 大体、お前が隠し事をしてる時って、いつもそうやって露骨に態度が尖るんだよ」
「はあ!? 誰が隠し事をしてるって!? 言いがかりも甚だしいわね!」
「隠してないなら、そのポケットの中の端末を見せろよ!」
「嫌よ! 乙女のプライベート端末を覗こうとするなんて、セクハラで訴えられたいの!?」
「三百年後の子孫にセクハラもクソもあるか! お前のプライベートなんて、未来の定跡アーカイブと俺の転落人生の年表しか入ってないだろうが!」
「あんたの転落年表は立派な国家機密級の恥部よ! 見せるわけないでしょ!」
「恥部って言うな! ……和令、頼むから誤魔化さないでくれ」
清麿が声を落とし、真っ直ぐに視線を据えると、和令の威勢のいい口調がピタリと止まった。
少女の肩が微かに揺れ、唇をぎゅっと噛み締めるのが見えた。
いつもの傲慢な自信は影を潜め、その大きな瞳には、得体の知れない事態に対する戸惑いと、隠しきれない怯えが滲んでいた。
「……座りなさいよ、雑魚先祖」
ぽつりと、低く掠れた声が落ちた。
和令はちゃぶ台の前に正座し、ジャケットのポケットから、あの透明な薄型端末をゆっくりと取り出した。
清麿も息を詰めて、その対面に腰を下ろした。
和令の細い指先が、端末の側面のスイッチに触れる。
ヒュン、という静かな起動音とともに、六畳間の空間に青白い立体ホログラムが浮かび上がった。
だが――その光景を目にした瞬間、清麿は息を呑んだ。
「な……んだ、これ……?」
いつもなら、澄み渡るような青い光の粒子で構成されていたはずのデータウィンドウが、まるで古いブラウン管テレビのように激しく明滅し、砂嵐のようなノイズを撒き散らしていたのだ。
文字や数値が、小刻みに波打ち、歪んでいる。
「……神崎の取材が終わった直後からよ」
和令は膝の上の拳を白くなるほど強く握りしめ、震える声で画面を指差した。
「あんたが自分の言葉で、未来の定跡の理屈を現代の記者に語り、プロ編入への覚悟を宣言したあの瞬間……この端末の同期プログラムが、異常ログを吐き出し始めたの」
「異常ログ……?」
「歴史の改変よ」
和令の口から出た単語に、部屋の空気が凍りついた。
「私が2326年から持ってきたこの端末にはね、三百年間の確定した歴史記録がアーカイブされてるわ。……でも、これを見なさい」
和令が空中のウィンドウを指で払うと、ひとつの年表データが拡大された。
そこに記されていたのは、清麿の心臓を鷲掴みにするような、忌まわしい過去の記録だった。
『西暦2026年2月14日:加藤清麿、自宅アパートにて意識不明の重体で発見』
『診断:重度脳損傷による長期昏睡状態』
『妹・加藤千代により、将来の医療回復を期した長期低温保存基金が設立される』
あの日、和令がドロップキックで清麿をベランダから蹴り戻さなければ、現実に起きていたはずの「正史」の記録。
だが、その文字の列が――いま、目の前で、パチパチと青い火花を散らしながら、輪郭を失い始めていた。
「文字が……消えかけてる……?」
「消えかけてるんじゃないわ。書き換わろうとしてるのよ」
和令の言葉通り、『長期昏睡状態』という文字列の上に、二重露光のように別の文字が重なり合って点滅していた。
『生存――全日本アマチュア選抜優勝』
『光星杯本戦進出(通算3勝1敗)』
『青嵐杯本戦進出(現在2連勝中・通算5勝1敗)』
清麿がこの二ヶ月間、盤の上で泥水を啜りながら掴み取ってきた現実の戦績が、三百年後の確定した過去を、力づくで上書きしようと激しく衝突していたのだ。
「さらに、ここを見て」
和令が別のタブをスワイプした。
表示されたのは、天文学的な数字が並ぶ会計簿のようなグラフだった。
『加藤家生体保存基金・累積債務残高:一億二千四百万クレジット』
三百年後の加藤家を縛り付け、和令を貧困と絶望の底に突き落としていた巨額の借金。
その赤い折れ線グラフの末端が、まるで断崖絶壁から崩れ落ちるように、垂直に急降下を始めていた。
数字が目まぐるしくカウントダウンを刻むように減少し、グラフ全体が淡い光の粒子となって霧散しかけている。
「借金が……減ってるのか?」
「そうよ。あんたが意識不明にならなかったことで、千代おばあちゃんが基金を作る理由そのものが揺らいでるの。あんたがプロ公式戦で勝ち進み、編入試験の可能性を現実のものにしたことで……未来の加藤家を破滅させていた負債の歴史が、根底から消滅しようとしてるのよ」
息が止まった。
信じられない光景だった。
自分はただ、目の前の一局に必死にしがみつき、二度と負け犬に戻りたくないと足掻いていただけだった。
だが、その指先が盤上に下ろした一手一手が、三百年という時空の濁流を押し返し、妹の千代が背負うはずだった地獄を、未来の子孫が流すはずだった涙を、本当に消し去りつつあるのだ。
「……すごいじゃないか、和令」
清麿の口から、感嘆と安堵の息がこぼれた。
「お前の目的は、これだったんだろ。加藤家の借金地獄を消し去るために、過去へ飛んできたんだろ。……うまくいってるじゃないか! 俺たちのやってきたことは、間違いじゃなかったんだ!」
「……馬鹿言わないでよ」
和令の声は、少しも晴れやかではなかった。
それどころか、青ざめた唇を震わせ、今にも泣き出しそうな顔で画面を凝視していた。
「何が『うまくいってる』よ。……そんな単純な話じゃないのよ」
「え……?」
「歴史の改変っていうのはね、都合のいい部分だけを綺麗に消しゴムで消してくれる魔法じゃないのよ。ひとつの巨大な運命の幹を切り倒せば、そこから枝分かれしていたすべての因果が狂い始めるの」
和令は震える指で、ホログラムの最深部――家系図のデータベースを呼び出した。
画面に展開されたのは、加藤家の血統樹だった。
一番上にある『加藤清麿』の名から伸びる、細い光の糸。
これまでのデータでは、その糸は途切れ、妹の『加藤千代』が独身のまま兄を支え続け、遠縁の養子によって辛うじて家名が三百年後まで引き継がれていたはずだった。
――しかし。
いま、画面に映し出されていた家系図には、恐ろしい異常が発生していた。
千代から伸びていたはずの系譜が、ノイズの砂嵐に呑まれてプツリと断絶している。
代わりに――清麿自身の名前の真横から、今まで存在しなかった「未知の枝」が、猛烈な速度で発光しながら枝分かれを始めていたのだ。
『直系尊属データ:未登録』
『2022年――女児誕生(記録断片)』
『血統接続率:99.98%――加藤和令の直系祖先と判定』
「な……に、これ……?」
和令の喉から、掠れた悲鳴が漏れた。
画面に浮かび上がる、ぼやけた写真のようなノイズの影。
そこには、小さな女の子の後ろ姿のような、不完全なシルエットが点滅していた。
「直系尊属……? 2022年生まれの、女の子……? 何よこれ、私のデータベースのどこにも、こんな記録は存在しなかったわよ……!?」
和令は狂ったように端末をタップし、解析コマンドを連打した。
だが、返ってくるのは無機質なエラー音だけだった。
『警告:歴史の因果律に重大な矛盾を検知』
『時間移動者・加藤和令の存在確率が不安定化しています』
『帰還プロトコルに必要なエネルギー消費率が上昇中』
「嘘でしょ……? なんで……? 私は千代おばあちゃんの家系を引き継いだ遠縁の末裔じゃなかったの……? 直系って何よ……!? 清麿の子供が、四年前からこの時代に存在してるってこと……!?」
和令の叫びが、狭い六畳間に木霊した。
その混乱と動揺に満ちた視線が、清麿へと突き刺さる。
「清麿、あんた……! まさか、誰か……」
――ドクンッ!!
心臓が、破裂するような衝撃で跳ね上がった。
清麿の全身の血液が、音を立てて逆流していくような感覚。
2022年。
四年前。
奨励会を年齢制限で追われ、すべてに絶望し、酒に溺れ、自暴自棄になっていたあの春。
脳裏に、激しい痛みを伴って蘇る、ひとつの面影。
『清麿くん、お願いだから自分を責めないで……! 私は、どんな清麿くんでも一緒にいるから……!』
泣きながら縋り付いてきた、あの女性の手。
佐倉理央。
実績もなく、未来もない自分を、何年間も無償の愛で支え続けてくれた、たった一人の恋人。
その彼女に対し、自分は何をした?
『お前なんかに俺の惨めさが分かってたまるか! 同情するな! 二度と俺の前に現れるな!!』
最低の罵声を浴びせ、部屋を飛び出し、連絡先を消去して一方的に姿を消したのだ。
(まさか……理央が……?)
清麿の視界が、白く霞んだ。
喉がカラカラに渇き、声が出ない。
あの日、自分が踏みにじり、傷つけて逃げ出した過去の暗闇の奥に、自分の知らない「命」が芽生えていたというのか……?
だが、画面のノイズはあまりにも激しく、それ以上の情報はモザイクのように霞んで読み取ることができなかった。
「……消えかけてる」
和令が、呆然と呟いた。
青白いホログラムが、フッと光を失い、チリチリと音を立てて端末の中へと吸い込まれていく。
部屋に、重苦しい沈黙が戻った。
和令は両手で端末を抱え込み、小さく震えていた。
「……清麿」
「……」
「あんたが勝つたびに、世界は変わってるわ。借金は消えかけてる。千代おばあちゃんの悲劇も消えかけてる。……でもね、それだけじゃないのよ。あんたがプロ棋士として生き直そうとすればするほど、あんたが過去に捨ててきたはずの『運命のツケ』が、猛烈な力でこの時代に引き戻されてるのよ」
和令は顔を上げた。
その瞳には、未来の定跡を語る師匠としての顔はなかった。
自らの存在の根源を揺るがされ、未知の未来へ放り出されそうになっている、一人の少女の脆さが剥き出しになっていた。
「もし……あんたが本当にプロになって、すべてを変えてしまったら……私は、どうなるの? 三百年後の加藤家が別の歴史を歩んだら……私は、元の未来に帰れるの……? それとも、最初から存在しなかったことになって、消えてしまうの……?」
痛切な問いかけが、清麿の胸を抉った。
答えなど、持っているはずがなかった。
三百年後の完全定跡アーカイブすらも、自分たちの運命の行き先までは教えてくれない。
だが――。
清麿はゆっくりと両手を伸ばし、和令の震える手元、冷たくなった端末の上に、そっと自分の節くれだった手を重ねた。
「……和令」
「なによ……気休めなんて、いらないわよ」
「気休めじゃない」
清麿は真っ直ぐに、和令の濡れた瞳を見つめ返した。
「俺は、お前に命を拾われたんだ。あの日、ベランダから落ちていたら、俺は何も知らず、誰も救えず、千代を地獄に突き落としたまま終わっていた」
指先に力を込める。
「過去に何があったのか、俺がどれだけの過ちを犯してきたのか……今はまだ、分からない。でも、どんな真実が待っていようと、俺はもう盤の前から逃げない。お前を消させたりもしない」
「清麿……」
「俺が勝って、プロになって、加藤家の破滅を全部ぶち壊す。そして――お前が胸を張って『私の先祖はプロ棋士だ』って笑える未来を、俺自身のこの手で作り直してみせる」
迷いのない、鋼のような誓い。
和令は息を呑み、しばらくの間、清麿の顔を見つめていた。
やがて――少女の瞳から涙が引いていき、いつもの勝ち気で不遜な光が、ゆっくりと、力強く戻ってきた。
「……ふん。口だけは一人前ね、雑魚先祖」
和令は乱暴に鼻をすすると、清麿の手をピシャリと払いのけた。
「誰が消えるもんですか! 三百年後の加藤家が誇る天才棋士志望の私が、原始人の不完全な因果律ごときに負けるわけないでしょ!」
「その意気だ。……さあ、端末をしまえ」
清麿は立ち上がり、将棋盤の前に腰を据え直した。
「青嵐杯の三回戦が待ってる。編入試験の受験資格まで、あと五勝だ。……立ち止まってる暇なんて、一秒もないんだろ?」
「当たり前よ!」
和令も立ち上がり、ちゃぶ台の上の駒箱を掴み取ると、盤上にガラガラと豪快に駒をぶちまけた。
「青嵐杯を勝ち上がって、今年度中に編入試験の扉をこじ開けるわよ! 未来がどう書き換わろうと、あんたがプロにならなきゃ始まらないんだから!」
「おう! 特訓の続きだ、いくらでも相手になってやるよ!」
夜の六畳間に、駒を並べる澄んだ乾いた音が響き渡る。
消えゆく未来の記録と、姿を現し始めた過去の因果。
巨大な運命の嵐が近づく中、一度人生を諦めた三十歳の元神童と、未来の孤独を背負った少女の戦いは、いよいよプロ棋士編入試験の扉を開くための、決死の領域へと突入しようとしていた。
読んでいただきありがとうございます。
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