EP 9
天才の涙
「……まだだ、まだ終わってない……!」
星野の甲高い声が、特別対局室に響き渡った。
彼の額にはびっしりと汗が浮かび、制服のシャツはすでにくしゃくしゃになっていた。
手元のスポーツドリンクはとっくに空になり、握りしめられたペットボトルがベキベキと悲鳴を上げている。
パァンッ!
星野が放った起死回生の『銀』の打ち込み。
それは、今までの彼が指してきたような「芸術的で美しい手」ではなかった。
ただひたすらに、清麿の泥沼の包囲網から1ミリでも遠くへ逃げるための、見苦しく、泥にまみれた手。
『星野四段、必死の粘りです! あの直感の天才が、見たこともないような泥臭い手で応戦している!』
配信スタジオの解説者も、喉を枯らしながら実況を続ける。
(……そうだ。それでいい)
清麿は、荒い息を吐きながら盤面を睨みつけた。
(遊びのつもりで盤面を荒らされるのは胸糞悪いが……『生きたい』って必死に足掻くなら、いくらでも相手をしてやる)
清麿の脳内で、和令のホログラムが凄まじいタイピング音を響かせている。
『清麿、星野の銀打ちに対するルート検証完了! 左辺からの逃走経路、封鎖可能よ!』
(よし。なら、この桂馬で上部を叩き潰す!)
『生存確率維持100%! いけっ!!』
パァァンッ!!
清麿の桂馬が、星野の玉の頭上から重くのしかかる。
それは未来のAIが単独で弾き出した冷徹な最適解ではなく、清麿という「泥水をすすってきた人間」の皮膚感覚が選び取り、未来の演算がそれを「完全な盾」として裏付けた、最強のハイブリッドの一手。
「あっ……ううっ……!」
星野の喉から、嗚咽のような声が漏れた。
逃げ道がない。
自分がどれだけ天才的な閃きで新しいルートを開拓しようとしても、その先に必ず、泥にまみれた清麿の罠が待ち構えている。
「なんで……なんで……っ!」
星野の視界が、滲み始めた。
将棋は楽しいものだった。盤の前に座れば、いつでも美しい世界が広がっていて、自分の思い通りに駒たちが踊ってくれた。
負ける人間の「悔しさ」なんて、想像したこともなかった。
だから、清麿がかつて泣きながら自分に向かってきた時も、「苦しそうでつまらない」と笑い飛ばせたのだ。
でも、今は違う。
怖い。負けたくない。
自分の信じてきた世界が、才能が、目の前の男の『執念』に押し潰されていくのが、死ぬほど悔しい。
「……僕の、僕の将棋は……っ!!」
星野は、残された持ち時間を全て使い切り、涙で盤面が見えなくなりながら、最後の一手を放った。
『王手』。
それは、天才がその才能の全てを燃やし尽くして放った、最後の煌めき。
もし清麿が少しでも気を抜けば、あるいは未来の演算に頼り切っていれば、一瞬で首を刎ねられていたかもしれない鋭利な刃。
だが。
「……届かねえよ」
清麿は、その刃を素手で握り潰すかのように、自らの『金』を静かに、そして力強く盤上に置いた。
パチリ、と。
泥仕合の終焉を告げる、澄んだ音が鳴った。
その金を置いた瞬間。
星野の王将を囲む全ての空間が完全に封鎖され、一切の逃げ場が消滅した。
星野が放った最後の刃は、清麿の心臓の数ミリ手前で、完全にその勢いを止められていた。
「……詰みだ、星野」
清麿の声は、低く、そしてひどく優しかった。
盤上に完成したその図は。
機械が作る無機質な幾何学模様でもなく、天才が描く華麗な芸術でもない。
血と汗と涙にまみれた人間同士が、命を削ってぶつかり合った末にだけ生まれる、残酷なまでに美しい『泥の花』だった。
「…………」
星野は、自分の王将を見つめたまま、動けなかった。
どこにも逃げられない。
終わったのだ。自分の、完全な敗北。
「あ……ああ……っ」
ポロリ、と。
星野の目から、大粒の雫が盤上に落ちた。
「負け、ました……っ」
絞り出すような投了の言葉と共に、星野は両手で顔を覆い、肩を震わせた。
それは、純粋な遊びを楽しむ子供の涙ではない。
『勝負の世界(鬼の棲家)』の本当の厳しさと、負けることの血を吐くような悔しさを知った、一人の勝負師としての初めての涙だった。
「……っ、悔しいっ……! 加藤さん、僕、悔しいよぉ……!!」
子供のように声を上げて泣きじゃくる天才。
その姿を見て、清麿は深く、静かに息を吐き出した。
かつて自分が、和令の前で泣き叫んだ時のように。
「……ああ。知ってるよ」
清麿は、星野の震える肩を真っ直ぐに見つめ、泥にまみれた最高の笑顔を向けた。
「将棋ってのはな……死ぬほど悔しいから、面白いんだ」
『……と、投了!! 星野四段、投了です!!』
解説者の絶叫と同時に、別室から嵐のようなフラッシュと歓声が対局室へと押し寄せてくる。
サイコパスのシステムを捨て、人間の泥臭い炎を取り戻した加藤清麿が。
絶対無敵の天才を、完全な力勝負でねじ伏せた、歴史的な瞬間だった。




