EP 9
『その新手、説明できますか?』
千駄ヶ谷の鳩森八幡宮の杜を揺らす初夏の風は、青葉の青臭い匂いを含んで吹き抜けていた。
木漏れ日がまだらに落ちる舗道の上、加藤清麿は仕立ての古いリクルートスーツの袖口を整えながら、小さな喫茶店の看板を見上げた。
公式戦通算五勝一敗。
新進気鋭の吉沢四段、理論派の旗手・桐生五段、重鎮の武田六段、そして青嵐杯に入ってからの成瀬五段、梶原六段の撃破。
光星杯で佐久間七段に喫した苦い初黒星を挟みながらも、元奨励会三段の三十歳無職が叩き出したその驚異的な白星の山は、もはや「アマチュアの快進撃」という生ぬるい言葉では片付けられなくなっていた。
ネットの将棋ニュースでは連日『加藤清麿、編入試験へ王手迫る』『棋界を揺るがす謎の新戦法』と大きく特集が組まれ、専門掲示板の書き込みは秒単位で更新され続けている。
だが、世間の熱狂が沸点に達すれば達するほど、将棋界の深奥からは、得体の知れない怪物を見るような冷徹な視線が向けられ始めていた。
なぜ、四年のブランクを抱えた男が、現代最高峰の研究を誇るプロ棋士たちを、いとも容易く屠ることができるのか。
その巨大な疑問の核心に、真っ向から踏み込もうとする者がいた。
将棋専門誌『月刊棋界』のエース記者――神崎澪である。
「……ちょっと。いつまで喫茶店の前で置物みたいに突っ立ってんのよ、雑魚先祖」
真横の電柱の陰から、ピシャリと刺すような声が飛んできた。
銀と藍色のライダースーツを端末の光学迷彩で目立たないジャケット姿に変えた和令が、腕を組んでジト目を突き刺している。
「置物じゃない。……心の準備をしてるんだよ」
「心の準備? ただの新聞記者相手のインタビューでしょ。まさか、鋭い質問を浴びせられたら泡吹いて気絶する気じゃないでしょうね」
「気絶なんてするか! でも相手はあの神崎記者だぞ。全国大会の時も、桐生戦の時も、俺の痛いところばかり正確に突いてきた切れ者だ」
「だから何よ。堂々と受けて立ちなさいよ」
「簡単に言うな! 『どうしてあんな新手を思いついたんですか?』って聞かれたら、どう答えるんだよ! 『三百年後からタイムスリップしてきたひ孫に教えてもらいました』なんて言えるわけないだろ!」
「言ったら一発で精神科送りか、研究機関に連行されて解剖よ! 絶対口を割るんじゃないわよ!」
「ほら見ろ! やっぱりピンチじゃないか!」
「ピンチでも何でもないわよ! あんたが自分で考えて指したって言い張れば済む話でしょ!」
「言い張るって……成瀬戦の角打ちはともかく、吉沢戦の端角や梶原戦の急所突きなんて、俺一人じゃ逆立ちしたって思いつけない構想だぞ」
「馬鹿ねえ、本当に頭の硬い原始人ね」
和令は心底呆れ果てたように大きく溜息を吐き出すと、清麿のネクタイを乱暴に引っ張って引き寄せた。
「ぐえっ……苦しいって!」
「よく聞きなさい、清麿。三百年後の完全定跡は、魔法の呪文じゃないのよ。相手が指してきた手に対し、盤上の力学を極限まで計算し尽くした『論理の結晶』なの。あんたはそれを暗記しただけかもしれないけど、成瀬戦や武田戦の終盤で、自分の頭でその理屈を噛み砕いて盤上に叩きつけたんでしょ!」
「それは……そうだけどさ」
「だったら、あんた自身の言葉で語りなさいよ。未来人がどうこうなんて戯言は隠し通して、あんたが盤の上で見て、感じて、確信したその『理屈』を、全部ぶつけてやればいいのよ!」
「……俺自身の言葉で、か」
「そうよ! もしボロを出して怪しまれたら、アパートの鍵を取り上げて今夜から駅の段ボールハウスで野宿させるからね!」
「最後の脅迫がリアルで怖すぎるんだよ! ……分かったよ。行ってくる」
「ふん。堂々と胸を張ってきなさい!」
和令に背中をバチンと力任せに叩かれ、清麿はよろめきながら喫茶店の木製ドアを押し開けた。
カランコロンと、澄んだドアベルの音が店内に響く。
昭和の面影を残す落ち着いた純喫茶の最奥、ネルドリップの珈琲の香りが漂うボックス席に、その女性はすでに腰を下ろしていた。
神崎澪、三十一歳。
仕立てのいいチャコールグレーのスーツに、細身の眼鏡。机の上にはすでにノートパソコンとボイスレコーダー、そして清麿の過去五局の棋譜を克明に記録した分厚いバインダーが整然と並べられていた。
「お待たせしました、神崎さん」
清麿が声をかけると、神崎はキーボードを叩く指を止め、ゆっくりと顔を上げた。
眼鏡の奥の切れ長な瞳には、取材対象を値踏みするような記者特有の冷徹さと、棋界の深淵を見つめ続けてきた者だけが持つ張り詰めた知性が宿っていた。
「いいえ、定刻前ですよ。どうぞお座りください、加藤さん」
清麿が対面の革張りソファに腰を下ろすと、神崎は運ばれてきたアイスコーヒーに口をつけ、ペンのノックをカチリと鳴らした。
「まずは、青嵐杯二回戦の勝利、おめでとうございます。公式戦通算五勝一敗……プロ棋士編入試験の受験資格まで、あと五勝ですね」
「ありがとうございます」
「世間は大騒ぎですよ。『奇跡の三十歳』『神童の完全復活』と、一般紙までもがあなたの特集を組みたがっています」
「……買い被りすぎですよ。俺はただ、目の前の一局を必死に指しているだけですから」
「謙遜は結構です」
神崎は微笑むこともなく、淡々と手帳を開いた。
「私が今日、あなたにお聞きしたいのは、そうした世俗の美談ではありません。……加藤清麿という棋士の盤上に現れている、あまりにも異質で、あまりにも美しすぎる『理論の正体』についてです」
すっと、喫茶店の空気が一段冷え込んだように感じられた。
神崎はバインダーから、一枚の棋譜用紙を取り出してテーブルの中央に滑らせた。
先日の梶原六段との対局。清麿が放った、あの三十手目の「端歩突き」と、直後の「角の引き抜き」の局面だった。
「加藤さん。この一連の手順について、感想戦で梶原六段は『何者なんだ』と呆然としていました」
神崎は眼鏡のブリッジを押し上げ、鋭い視線を清麿の瞳へと固定した。
「梶原六段の石田流三間飛車は、現代の居飛車党にとって最も厄介な難敵でした。相手の仕掛けを受け止めきれず、多くのトッププロがカウンターの餌食になってきた。しかし、あなたが放ったこの端歩からの角の転回は、現代のどの定跡書にも、どのAIの推奨手リストにも載っていません」
神崎が手帳のページをめくる。そこには、吉沢戦の「端角」と「自陣歩」、桐生戦の「二十五手目の玉上がり」の局面図までもが、びっしりと貼り付けられていた。
「吉沢四段の相掛かり、桐生五段の角換わり、成瀬五段の持久戦、そして梶原六段の石田流……。あなたは、彼らが何百時間、何千時間と積み上げてきた『現代最高峰の研究』を、ことごとく最初の数手で機能不全に追い込んでいる。しかも、一手一秒のノータイムで」
神崎の声が、わずかに低くなった。
「かつて桐生五段との対局前、あなたにはAI不正利用の疑惑が持ち上がりました。ですが、電波妨害装置を設置した完全オフラインの対局室であなたが桐生五段をねじ伏せたことで、外部通信による不正の可能性は完全に消滅しています」
「……はい」
「だからこそ、残された謎はより深くなったのです」
神崎はずいっと身を乗り出し、机の上に両手を組んだ。
「四年のブランクがあり、将棋界から完全に姿を消していた元三段が、なぜ、現代のすべての研究機関やトップ棋士の集合知を遥かに凌駕する『正解』を知っているのですか? その新手は、一体どこから湧き出てきたものなのですか? ……加藤さん。その新手、あなたご自身の言葉で、論理的に説明できますか?」
逃げ場のない、直球の問いかけだった。
ボイスレコーダーの小さな赤いランプが、無機質に点滅を繰り返している。
喉がカラカラに渇き、背筋に冷たい汗が伝い落ちそうになる。
(説明できるか……?)
清麿は膝の上で拳を強く握りしめた。
三百年後の完全定跡アーカイブのデータを暗記しました、などと言えるはずがない。
だが、誤魔化しの嘘を吐けば、目の前の百戦錬磨の記者は即座に見抜き、記事の上で容赦なく清麿を断罪するだろう。
脳裏に、和令の言葉が蘇る。
『未来の定跡は、論理の結晶なのよ。あんた自身の言葉で語りなさい!』
清麿は目を閉じ、深く、深く息を吸い込んだ。
珈琲の苦い香りと共に、肺の奥に新しい空気が満ちていく。
自分は、ただ手順を丸暗記していただけだっただろうか?
違う。
佐久間戦で負けて、答えのない暗闇の中で絶望し、妹の千代の温かさに触れ、和令と夜を徹して盤に向かい続けたあの時間。
成瀬戦で未来のデータを飛び越えて角を叩き込み、梶原戦で相手の魂の飛車を真正面から受け止めたあの瞬間。
自分は確かに、自分の頭と心で、その手順の意味を血肉に変えていたはずだ。
清麿はゆっくりと目を開けた。
瞳の奥から、迷いと怯えが消え去っていた。
「……神崎さん」
「はい」
「現代の将棋界は今、AIの評価値に支配されています。何台ものサーバーを並べ、初手から何十手先まで、点数が高い手だけを繋ぎ合わせて『最善の定跡』を作り上げている」
清麿の声は静かだったが、澱みなく喫茶店の空気を震わせた。
「でも……AIの計算力は、現時点ではまだ未熟なんです」
神崎の眉が、わずかにピクリと動いた。
「未熟……? 現代のトッププロすら凌駕するAIが、ですか?」
「ええ。現代のAIは、目先の駒の効率や、十手先、二十手先の部分的な優劣を測る能力には長けています。だから、プロの先生たちはその数字を信じて陣形を組み上げる。……でも、将棋の盤面は、点数だけでできているんじゃないんです」
清麿はテーブルの上の梶原戦の棋譜を指差した。
「梶原先生が指したあの石田流の桂跳ね。現代のAIに読み込ませれば、おそらく先手有利、攻めが成功していると判定するでしょう。でも、あの桂馬が跳ねた瞬間、先手陣の呼吸は止まっているんです」
「呼吸……?」
「はい。玉の退路、自陣の駒たちの逃げ道、そして盤面全体の速度です。現代の定跡は、目先の攻めの鋭さに目を奪われるあまり、二十手先、三十手先に自玉がどうやって息をするのかという『全体の大局観』を見落としている」
清麿の脳裏に、和令から叩き込まれた未来の理論が、自分自身の勝負勘と言葉となって次々と紡ぎ出されていく。
「俺が指した端歩と角の転回は、奇襲でも小細工でもありません。相手の攻め駒を力任せに止めるのではなく、相手が自ら呼吸を止めてしまう瞬間まで、じっと待つための手なんです。……相手が最も堅い、最も鋭いと過信しているその瞬間こそが、盤上で一番脆い急所になる。俺は、その歪みを突いただけです」
澱みのない、圧倒的な説得力。
神崎澪は手帳を持つ手を止め、息を呑んで清麿の顔を見つめていた。
その説明は、奇をてらったペテン師の弁明ではなかった。
何万局もの敗北と挫折を味わい、盤上の地獄の底を這いずり回った者だけが到達できる、深遠なる勝負師の哲学そのものだった。
「……なるほど」
長い沈黙の果てに、神崎がぽつりと呟いた。
「現代のAI研究が盲信している『評価値の死角』を、あなたは突いている……と」
「ええ。俺一人でゼロから見つけ出した理論ではありません。……俺に、その視点を与えてくれた存在がいました」
清麿は小さく苦笑した。
「でも、それを盤上で指すのは、俺自身です。相手の殺気を受け止め、プレッシャーに震えながら、最後に自分の指で駒を置く。……佐久間先生に負けた時、俺は思い知りました。どれほど素晴らしい理論を知っていても、自分の足で泥沼を歩く覚悟がなければ、プロの世界では一歩も進めないんだと」
清麿は真っ直ぐに神崎の目を射抜いた。
「俺は、編入試験を受けます。そして、プロになります。……俺の将棋が本物かどうかは、これからの盤上の結果で証明し続けます」
神崎はしばらくの間、動かなかった。
やがて、記者の唇が、ふわりと柔らかく弧を描いた。
神崎はボイスレコーダーの停止ボタンを押し、手帳をパタンと閉じた。
「……参りましたね」
神崎は眼鏡を外し、目元を指先で揉んだ。
「実を言うとね、加藤さん。私は今日の取材で、あなたの理論の矛盾を突き、背後にある『何か』を暴き出してやろうと意気込んでいたんです」
「……そうだったんですか」
「ええ。四年の空白を抱えた元三段が、突然現代最高峰を凌駕するなんて、論理的に説明がつきませんから。……でも、あなたの言葉を聞いて、分かりました」
神崎は立ち上がり、清麿に向かって丁寧に頭を下げた。
「あなたは、ただ答えを与えられただけの操り人形ではない。盤の上で血を流し、苦しみながら、その答えを自分のものにしようと足掻いている……本物の将棋指しです」
神崎の瞳には、一切の疑念は残っていなかった。
代わりに灯っていたのは、一人の孤高の棋士に対する、純粋な敬意だった。
「完全には納得していませんよ。あなたの背後にある研究環境の謎は、まだ霧の中です。……ですが、記者として、あなたの戦いを最後まで見届ける義務ができました。青嵐杯の次戦、期待していますよ」
「……ありがとうございました」
清麿も立ち上がり、深々と一礼を返した。
喫茶店を出ると、初夏の夕暮れが千駄ヶ谷の街を美しい茜色に染め上げていた。
爽やかな夜風が、緊張で火照った清麿の頬を心地よく冷ましていく。
通りの向かい側、鳩森八幡宮の石段の影から、銀と藍色のジャケットを着た和令がツカツカと歩み寄ってきた。
「……終わったわけ、雑魚先祖」
和令は腕を組み、ツンと顎を上に向けて鼻から息を噴き出した。
「ガラス越しに見てたけど、何かしおらしく頭下げたりドヤ顔したり、忙しい男ね。ちゃんとボロを出さずに喋れたんでしょうね?」
「ああ。……たぶんな」
清麿は大きく伸びをして、夕暮れの空を見上げた。
「全部話したよ。未来のことは隠したけど……俺が盤の上で何を感じて、どうやって勝ってきたのか、自分の言葉で全部ぶつけてきた」
「ふん。まあ、神崎記者のあの顔を見る限り、落第点は免除してあげてもいいわね」
和令はそう言って、小さく口元を綻ばせた。
だが――その直後だった。
和令の腰のホルダーに収められていた透明な薄型端末が、ピピピ、と今までに聞いたこともない乾いた電子警告音を鳴らしたのだ。
「……え?」
和令の足がピタリと止まった。
彼女は眉をひそめ、ホルダーから端末を引き抜いた。
画面をタップした瞬間、和令の整った顔立ちから、サーッと血の気が引いていった。
「な……に、これ……?」
「和令? どうしたんだよ」
清麿が怪訝そうに覗き込もうとすると、和令は咄嗟に端末の画面を手で覆い隠した。
その指先が、小刻みに、だが激しく震えているのを、清麿は見逃さなかった。
「……な、何でもないわよ! バッテリーの残量警告が出ただけよ!」
「バッテリー? お前の端末、充電なんていらないって言ってなかったか……?」
「い、いいから! 帰るわよ、お腹空いたんだから!」
和令は清麿の目を逸らすように背を向け、早足で駅の方へと歩き出した。
その背中は、いつもの傲慢で強気な佇まいとはまるで違う、得体の知れない冷たい影に怯えているように見えた。
夕闇が迫る千駄ヶ谷の空の下。
編入試験への階段を一歩ずつ登り続ける二人の足元で、三百年という時を隔てた歴史の歯車が、静かに、だが決定的な軋み音を立てて狂い始めていた。
読んでいただきありがとうございます。
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