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『未来の将棋は暗記ゲーでした~30歳でプロを諦めた元奨励会三段、300年後の子孫に「必勝定跡」を叩き込まれて無双する~』   作者: 月神世一


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EP 8

『プロ棋士が恐れ始めた男』

 五月下旬の千駄ヶ谷には、初夏の澄み切った陽光が降り注いでいた。

 木造アパートの六畳間に開け放たれた窓からは、青葉を濡らした朝露が蒸発していくような、瑞々しい若葉の香りが吹き込んでいる。

 加藤清麿は、ちゃぶ台の前に正座し、丁寧にアイロンが当てられた白シャツの袖口に腕を通した。

 青嵐杯一回戦で、現代最高峰のAI研究派である成瀬貴史五段を七十六手で破ってから一週間。

 光星杯で佐久間七段に喫したあの手痛い初黒星の古傷は、消え去ったわけではない。だが、痛みを恐れて盤の前から逃げ出す感覚は、完全に払拭されていた。

 未来の定跡アーカイブは、盤上のすべてを保証する万能の切符ではない。未知の泥沼に足を踏み入れた時、最後に活路を切り拓くのは、生身の棋士自身の読みと胆力なのだ。

 成瀬戦で自らの頭で生み出したあの四十五手目の勝負手は、清麿の指先に確固たる手応えを残していた。

 スマートフォンの画面をタップすると、将棋連盟の公式ポータルに現在の自身の成績が冷徹な数字となって刻まれていた。

『加藤清麿アマ プロ公式戦通算成績:4勝1敗』

 プロ棋士編入試験の受験資格である「十勝以上、かつ勝率六割五分以上」まで、あと六勝。

 夢物語と嘲笑されていた三十歳の再挑戦は、いまや現実の射程圏内へと着実に近づきつつあった。

「……ちょっと。朝から鏡の前で襟元を撫で回して、ナルシストのモノマネでもしてんの、雑魚先祖」

 台所から、トントントンと軽快な包丁の音を響かせながら、和令がツンと尖った声を投げて寄越した。

 銀と藍色のライダースーツの袖をまくり、エプロン代わりに千代が置いていった花柄の布巾を腰に巻いている。

「ナルシストじゃない。ネクタイの曲がりを直してただけだ」

「同じことよ。プロに四回勝ったくらいで、自分が将棋界の主役にでもなった気でいるんじゃないでしょうね」

「主役になんて思ってないよ。……むしろ、勝てば勝つほど胃が痛くなってくるくらいだ」

「嘘おっしゃい。顔の筋肉が弛んでるわよ。ほら、朝ごはん! さっさと平らげて脳みそに糖分を送り込みなさい!」

 ちゃぶ台の上に、湯気を上げる陶器の皿がドンと置かれた。

 皿の上には、こんがりと焦げ目のついた厚焼き玉子、ちくわとキャベツの炒め物、そして炊きたての白米と豆腐の味噌汁が並んでいた。

「……お、今日はずいぶん豪華だな。卵がちゃんと二個も使われてる」

「ふん。成瀬戦の勝利で、連盟から前回の対局日当が口座に振り込まれたんでしょ。たまには炭素系生命体の生存コストに投資してあげたのよ」

「生存コストって言うな。……でも、美味そうだな。いただきます」

「味わって食べてる暇があったら、対戦相手の復習をしなさいよ!」

 和令は小さく鼻を鳴らすと、腰のホルダーから透明な薄型端末を引き抜き、空中に青白いホログラムを展開した。

 空中に浮かび上がったのは、本日の青嵐杯二回戦の対戦相手のデータだった。

『梶原英樹六段・三十八歳』

 鋭い眼光を放つ強面の顔写真の横に、極端な戦法選択グラフが記されている。

「梶原六段……現代棋界屈指の『石田流三間飛車』のスペシャリストだな」

「そうよ。プロ入り以来十五年間、どんな相手だろうと頑なに三間飛車一本で戦い続けてきた生粋の振り飛車党よ。相手の居飛車を豪快に捌いて、切れ味鋭いカウンターで何十人ものトップ棋士を血祭りにあげてきた男ね」

「成瀬先生のような理論派とは真逆の、純粋な戦法愛と腕力でねじ伏せてくるタイプか」

「ええ。現代の将棋界じゃ、彼の石田流は『居飛車側の完璧な対策が存在しない難攻不落の超攻撃陣形』って持て囃されてるわ」

 和令はトーストを齧るように玉子焼きを小さく口に放り込むと、ニヤリと口元を意地悪く歪めた。

「でもね、清麿。三百年後の完全定跡アーカイブから見れば、あの石田流なんて穴だらけのボロ屋よ」

「ボロ屋って……あんなにプロが苦労してる戦法をか?」

「西暦二一六〇年代、未来のスーパーAIが導き出した『急所突き反転論』を知らないからよ。現代のプロは、相手の飛車の射線ばかりを警戒して受けに回るから捌かれるの。……相手が最も気持ちよく攻め駒を跳躍させようとしたその瞬間、あらかじめ埋めておいた『ある急所』を抉り抜けば、石田流の攻め足は一瞬で自縄自縛に陥るわ」

 和令の指先が、空中の局面図をパチンと弾いた。

 青白い光の粒が組み変わり、相手の陣形を根本から瓦解させる、見たこともない手順が描かれる。

 清麿は息を呑み、その構想を頭の奥深くへと刻み込んだ。

「……なるほど。相手の十八番だからこそ、その自信の拠り所を真っ向から粉砕するわけか」

「そうよ! 成瀬戦でせっかく自分の頭で踏み込む感覚を覚えたんだから、今日はこの未来の作戦を完璧に盤上で執行しなさい! 相手の得意戦法を木っ端微塵にして、プロのプライドを粉々に砕いてやるのよ!」

「粉々に砕くとか物騒なこと言うな! ……でも、作戦は完璧に理解した。行ってくるよ」

「ふん。負けて帰ってきたら、今夜の晩ごはんは出がらしの茶葉のふりかけご飯だからね!」

「地味に嫌な罰ゲームをやめろ!」

 騒がしい掛け合いを背に、清麿は力強く立ち上がり、将棋盤を磨くための布を鞄に忍ばせてアパートを飛び出した。

 午前九時四十分。

 日本将棋会館・四階、特別対局室。

 青畳の上に漂う空気は、前回までの対局とは明らかに異なる重圧を帯びていた。

 上座に座る梶原英樹六段は、黒の羽織の袖を腕まくりし、太い両腕を組んで清麿の入室を待っていた。

 無精髭をたくわえた精悍な顔立ち、額に刻まれた深い皺。対局前から全身から立ち上るような闘志は、まるで獲物を前にした野獣のようだった。

 清麿が下座に進み、座布団の上に正座して深々と一礼する。

「……加藤さん」

 梶原が口を開いた。低く、地鳴りのように響くハスキーな声。

「成瀬を破ったそうだな。……吉沢、桐生、武田に続いて成瀬か。プロを四人もなぎ倒して、いま棋界じゃあんたの話題で持ちきりだよ」

「……恐縮です」

「だがな、俺はあいつらみたいにスマートな将棋を指す気はねえ」

 梶原は太い指先で自前の扇子を握りしめ、ギラリと猛禽のような眼光を清麿に突き刺した。

「理屈やAIの研究が何枚重なっていようが、盤の上で叩き潰せば同じことだ。俺は十五年間、この三間飛車一本で飯を食ってきた。……あんたのその得体の知れない新手が、俺の魂の飛車を止められるかどうか、試させてもらうぜ」

 一切の小細工を拒絶する、戦法への絶対の誇り。

 だが、清麿の瞳には、かつてのような恐怖や動揺は微塵もなかった。

「……胸を借りるつもりで、全力を尽くします」

 静かに頭を下げた清麿の背筋は、微塵も揺らがなかった。

「青嵐杯二回戦、対局を開始してください」

 記録係の声とともに、両者が一礼を交わした。

 振り駒の結果、清麿の先手、梶原の後手番となった。

 清麿は人差し指と中指で初手を放つ。

 ――バシィッ!

 ▲7六歩。

 梶原は間髪を入れずに応じる。

 ――ズドンッ!

 △3四歩。

 耳を劈くような激しい駒音が室内に木霊する。

 序盤の十数手、梶原の手つきには一切の淀みがなかった。

 自陣の飛車を迷いなく三筋へと振り、角を軽快に飛び出させ、石田流の理想形である「好形」を組み上げていく。

 桂馬を跳ね、銀を繰り出し、ひとたび戦端が開かれれば一瞬で相手陣を火の海にする必殺の速攻布陣。

 現代の居飛車党のプロたちが何十局と苦杯を舐めさせられてきた、梶原の代名詞である。

 その頃、二階の控室。

 中継モニターを見つめていた若手棋士たちと、記者の神崎澪の間で、緊張した囁きが交わされていた。

「梶原先生、完全に自分のペースですね……」

「この形を組まれたら、居飛車側は相当受けにくいぞ。ちょっとでも仕掛けを急ぐと、梶原先生の鋭い捌きが炸裂して一瞬で潰される」

 神崎澪は手帳を握りしめ、モニターの清麿の横顔を凝視していた。

「でも……加藤さんの手つき、まったく迷いがありません。梶原六段の最も得意な形を、あえて正面から組ませているように見えます」

 ネットのテキスト速報のコメント欄も、息を呑んで見守っていた。

『梶原の石田流、完全に決まったぞ!』

『プロの十八番を相手に、加藤はどう受けるんだ?』

『ここで勝てば通算5勝1敗……だが相手は歴戦の振り飛車党だぞ』

 対局室の空気が張りつめたのは、三十手目を迎えた瞬間だった。

 梶原が、ニヤリと唇を吊り上げ、手元の桂馬を中央へと力強く跳躍させたのだ。

 ――バチィンッ!!

 仕掛けの口火。

 飛車と角の利きを直通させ、清麿の陣形の中央を突破しにかかる、梶原が何千局と指し継いできた絶対の決め手。

 梶原の瞳に、勝利を確信する光が灯る。

(居飛車の受けは追いつかねえ。これで俺の捌きが決まった!)

 ――しかし。

 梶原が駒を置いたコンマ一秒後。

 清麿の右手が、疾風のように盤上へと振り下ろされた。

 ――パシィッ!!

 清麿が放ったのは、相手の攻めを受ける手でも、玉を逃がす手でもなかった。

 自陣の端――まったく味方の駒の応援がない虚空へと、ぽつりと一枚の歩を突っ掛ける、奇怪極まりない一手だった。

「…………あ?」

 梶原の太い眉が、ピクリと跳ね上がった。

 盤面を二度見し、清麿の顔を凝視する。

(端歩……? 中央で大戦争が始まるこの瞬間に、なんでこんな端っこを突いてくる……!?)

 現代の将棋理論からすれば、あからさまな手抜きの疑問手。

 梶原は鼻から荒い息を噴き出し、予定通り中央の銀を前進させて清麿の急所へと襲いかかった。

 ――だが、その瞬間。

 清麿の指先が、流れるように動いた。

 自らの角を、自陣からふわりと引き抜き、先ほど突いた「端」の空間へと、斜めに滑り込ませたのだ。

 ――ズバァンッ!!

「…………っ!?」

 梶原の息が、喉の奥で完全に止まった。

 扇子を握りしめていた太い指が、ピクリとも動かなくなる。

 端から斜めに突き刺さる、清麿の角の射線。

 その斜めのラインが――梶原が最も誇らしく中央へ跳ね上げたはずの桂馬の頭上と、その背後に控える自陣の飛車の急所を、一直線に串刺しにしていたのだ。

『パターンA・常識破壊の序盤――急所突き反転論』。

 三百年後の未来において、石田流三間飛車が「自陣の反動を抑えきれない欠陥戦法」として葬り去られた最大の理由。

 相手が最も美しく跳ね上げた桂馬こそが、自陣の飛車の横利きを自ら遮断する最大の障害物へと反転する瞬間だった。

「な……んだと……!?」

 梶原の額から、滝のような冷や汗が吹き出した。

 桂馬を逃げれば、飛車が死ぬ。

 飛車を逃げれば、中央の攻め駒が全滅する。

 十五年間、己の血肉として信じ続けてきた自慢の十八番が、たった二手の組み合わせによって、中から爆破されたようにバラバラに瓦解していく。

「馬鹿な……! 俺の石田流に……こんな隙があるはずがねえ……!!」

 梶原の手が激しく震えた。

 考慮時間のタイマーが、カチカチと無慈悲に音を立てて持ち時間を削り取っていく。

 十分、二十分、四十分――。

 対する清麿は、呼吸を乱すことすらなく、静かに、冷徹に盤面を見据え続けていた。

 事前研究の正解をただなぞるだけではない。

 成瀬戦を経て、未知の反撃にも動じない胆力を手に入れた清麿の眼差しには、プロの執念すらもすべて呑み込むような、深淵の静寂が宿っていた。

 梶原は苦渋に顔を歪めながら、苦肉の策として飛車を引いて受けに回った。

 だが、攻撃力を奪われ、自陣に引きこもった振り飛車に、もはや勝機は残されていなかった。

 清麿の反撃が始まった。

 ――バシィッ!

 中央の桂馬を確実に食い破る。

 ――パシッ。

 相手の玉の退路を断つ、冷徹な歩の突き捨て。

 相手の十八番を根底から粉砕した清麿の手順は、寸分の狂いもない正確さで梶原の玉を追い詰めていく。

 そして――六十八手目。

 清麿は手元に残っていた銀を、梶原の玉の頭上へと、そっと静かに打ち下ろした。

 ――パチリ。

 逃げ場のない、完璧な即詰み。

「…………」

 対局室に、重く、痛切な沈黙が落ちた。

 梶原英樹は盤上に両手をつき、肩を小刻みに震わせていた。

 やがて、深く、長い溜息とともに、深々と頭を下げた。

「……参り、ました」

 掠れた、だが完敗を認める声。

 六十八手。

 プロ生活十五年を三間飛車に捧げてきた歴戦の猛者が、何一つ己の将棋を指せないまま、盤上で息絶えた瞬間だった。

「……ありがとうございました」

 清麿が静かに一礼を返した。

 背中には汗が滲んでいたが、指先には一切の迷いも震えもなかった。

 対局前に立てた作戦を完璧に遂行し、相手の最も強い武器を真っ向からへし折って掴み取った完勝。

 記録係が公式記録用紙にペンを走らせる。

『青嵐杯二回戦 勝者:加藤清麿アマ』

『プロ棋士編入試験対象成績:通算5勝1敗』

 通算五勝一敗。

 合格条件である「十勝」の、ちょうど半分に到達した瞬間だった。

 感想戦を終え、盤を片付け始めた梶原が、ふと顔を上げた。

 その瞳には、敗北の悔しさを通り越した、得体の知れない怪物を見るような「畏怖」が浮かんでいた。

「……加藤さん」

「はい」

「あんた、一体何者なんだ……? 俺の石田流を、何年も研究し尽くしたスペシャリストだって、あんな手順は思いつかねえぞ」

 梶原は震える指先で頭を掻いた。

「吉沢や桐生が負けた時、連中は『新手の奇襲だ』と言っていた。成瀬が負けた時も『AIの盲点だ』と。……だが、違うな。あんたの指し手は、俺たちが積み上げてきた現代の将棋の常識そのものを、遥か上から見下ろして解体している」

 梶原の言葉が、対局室の静寂に重く響いた。

「……恐ろしい男だよ、あんたは。棋士室の連中も、もうあんたを『元三段のアマチュア』なんて目で見てねえよ。……次に当たる奴は、みんな震え上がってるぜ」

 将棋会館を出ると、千駄ヶ谷の街には心地よい初夏の夕風が吹き抜けていた。

 鳩森八幡宮の鳥居の脇。

 ベンチに座っていた和令が、清麿の姿を認めるやすっと立ち上がり、腕を組んでツンと顎を上向けた。

「……遅かったじゃないの、雑魚先祖」

「六十八手で終わったんだから、早い方だろ」

「内容の話をしてんのよ! 六十八手なんて、私の立てた作戦通りなら六十五手で終わってたはずでしょ! 三手も余計な手番を浪費するなんて、まだまだ爪が甘いわね!」

「三手の誤差くらい許せよ! 完勝だったんだぞ!」

「ふん! でもまあ……相手の十八番を真っ向から叩き折ったのは、見ててスカッとしたわよ」

 和令はそう言って、隠しきれない誇らしげな笑みをこぼした。

「これで通算五勝一敗。折り返し地点よ、清麿! 編入試験の扉まで、あと半分ね!」

「ああ。あと五勝だ」

 夕暮れの空を見上げる清麿の胸の奥で、かつてないほど熱い闘志が静かに滾っていた。

 だが、二人はまだ気づいていなかった。

 プロ棋士たちを震撼させ始めたその圧倒的な「未来の新手」の数々が、将棋界の鋭利なジャーナリズムの視線を引き寄せ、次なる巨大な問いを突きつけてくることになるということを。

読んでいただきありがとうございます。

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