EP 6
泥水の中の灯火
「……負け、ま……」
清麿の震える唇から、屈辱の言葉がこぼれ落ちそうになった、その時。
『こんな空っぽのバケモノになるくらいなら……一生、借金まみれで泥水すすってる方がマシだったよ!!』
脳裏に響く、千代の泣き叫ぶ声。
その言葉が、清麿の舌を強烈な力で縛り上げた。
(……そうだ)
清麿は、奥歯が砕けるほどの力で、自らの唇を噛み締めた。
口の中に、鉄の味が広がる。
血だ。
システムには存在しない、人間だけが持つ、赤く熱い命の味。
(俺は、何から逃げてたんだ……?)
感情を捨てる? システムになる?
そんなものは、天才に負ける「惨めさ」から逃げるための、ただの言い訳じゃないか。
自分は凡人だ。泥水をすすり、見下され、それでも将棋にしがみついてきた、みっともない三十路の男だ。
バケモノのフリをして、妹を泣かせてまで手に入れたかったものなんて、何一つない。
「……清麿!? 何やってるの、早く投了しなさい! 未来チャートは完全に消滅したわ! これ以上システムを動かせば、あんたの脳が焼き切れる!!」
警告音を鳴り響かせる和令が、悲痛な声で叫ぶ。
「……うるせえな」
「えっ?」
「ギャーギャー喚くな。盤上の殺し合い……鬼の棲家って奴を、舐めてんのはお前の方だろ、和令」
「清麿……あんた……!」
清麿が、ゆっくりと顔を上げた。
その瞬間。
モニター越しに対局を見守っていた数百万人、そして目の前に座る星野の背筋を、強烈な電撃が貫いた。
空っぽの虚無だった清麿の瞳に。
泥水の中で獲物を狙う、飢えた野獣のようなギラギラとした『光』が宿っていたのだ。
「……加藤、さん?」
星野の無邪気な笑顔が、初めてピクリと引きつった。
目の前の男から放たれる空気が、一変した。
今まで相手をしていた無機質な機械ではなく、血と泥と執念の悪臭を放つ「生身の人間」が、そこに座っていたからだ。
「……和令。未来チャートの『自動出力』を切れ」
清麿は、胸の奥で暴れる感情の炎を無理やり飼い慣らしながら、脳内の相棒に命じた。
「はあ!? 何言ってんの! 勝率2%なのよ!? 今のあんたの三段レベルの実力じゃ、星野に3手で殺されるわよ!」
「ああ、知ってるよ。才能じゃあいつに一生勝てない」
清麿は、自陣に迫る絶望的な星野の包囲網を見下ろした。
だが、その盤面はもう「理解不能なカオス」には見えなかった。
10年間、奨励会で嫌というほど泳いできた、見慣れた『泥沼』だった。
「でもな。勝率2%もあるなら、上等だ」
清麿は扇子を力強く握り締め、口角を獰猛に吊り上げた。
「俺は10年間……勝率0%の絶望の中で、泥水すすって生きてきたんだからな。……ここからは、俺が指す(マニュアルだ)」
「清麿……っ! あんたって奴は……!」
和令のホログラムが、呆れたように、しかしどこか嬉しそうに笑った。
『システム:自動出力モードを解除。マニュアル操作へ移行します』
無機質なアナウンスと共に、清麿の脳を縛り付けていた機械の枷が、粉々に砕け散った。
清麿は駒台から『銀』を掴み取った。
その手はもう、震えていない。
一切の考慮時間なく機械的に弾き出される0.0秒の打鍵ではない。
人間の重みを、後悔を、熱意を全て乗せた、魂の一手。
「……遊びの時間は終わりだ、星野」
バァァァンッッ!!!
対局室の静寂を木っ端微塵に破壊する、凄まじい駒音が響き渡った。
『な……っ!?』
解説室が、一斉に息を呑む。
盤上に叩きつけられたその銀は。
AIが導き出した「美しい最善手」でもなければ、先程までの「狂った自殺手」でもない。
不恰好で、泥臭くて、ただひたすらに「俺はまだ死なない」という人間の醜い生存本能だけを具現化したような、異常な『粘り』の一手だった。
「え……?」
星野の手が、ピタリと止まった。
彼の『天才的な直感』は、美しくて論理的な手には反応する。
だが、今清麿が放ったその手は、あまりにも「人間臭すぎる(ノイズが多すぎる)」せいで、星野の直感のレーダーに全く引っかからなかったのだ。
「……ここからは、大人の泥仕合だ。付き合ってもらうぜ、天才君」
清麿は、汗で張り付いた前髪をかき上げ、ギラリと星野を睨みつけた。
機械のシステムは崩壊した。
だが、妹の涙によって『心』を取り戻した凡人の、泥まみれの反撃が、勝率2%の絶望の底から今、始まったのだ。




