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『未来の将棋は暗記ゲーでした~30歳でプロを諦めた元奨励会三段、300年後の子孫に「必勝定跡」を叩き込まれて無双する~』   作者: 月神世一


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EP 7

『未来にない勝負手』

 五月の風が、千駄ヶ谷の銀杏の青葉を鮮やかに揺らしていた。

 初夏特有の乾いた日差しが、日本将棋会館の白壁を眩しく照らし出している。

 加藤清麿は、四階の特別対局室へと続く廊下の窓際で、一度足を止め、深く息を吸い込んだ。

 肺の奥を満たす、使い慣れた畳と研ぎ澄まされた空気の匂い。

 光星杯四回戦での敗北から二週間。

 佐久間信孝七段の老獪な力戦に翻弄され、焦りから暴発して喫した、あの無残な初黒星の痛みは、今も胸の奥底にチリチリとした熱を持って燻っている。

 だが、その痛みに怯えて縮こまる感覚は、もうどこにもなかった。

 あの日、アパートの六畳間で和令と互いの剥き出しの弱さをぶつけ合い、涙を流しながら誓い合ったのだ。

 答えを知っているだけの男で終わってたまるか、と。

 未来の定跡アーカイブは、盤上のすべてを保証する万能の魔法ではない。未知の荒野に放り出された時、最後に勝負を決めるのは、生身の棋士自身の読みの深さと、一歩を踏み出す胆力なのだ。

 この二週間、和令から課された地獄の終盤特訓――三百年後の超難解な詰将棋と、泥沼の極限局面を何百局と脳内で解き続けた記憶が、清麿の指先に確かな熱となって宿っていた。

 本日の舞台は、第五十三期『青嵐杯』本戦一回戦。

 光星杯で敗退した清麿に与えられた、今年度二つ目のプロ公式戦への挑戦機会だった。

 現在のプロ棋士編入試験対象成績は、三勝一敗。

 十勝以上、かつ勝率六割五分以上という過酷な合格基準へ向けて、これ以上の取りこぼしは許されない。

「……行くぞ」

 清麿はリクルートスーツのネクタイをきゅっと締め直すと、静かな足取りで対局室の襖へと手を掛けた。

 特別対局室の青畳の上には、すでに一人の青年棋士が着席していた。

 成瀬貴史五段、二十八歳。

 現代将棋界において「AI研究の求道者」と称される、若手きっての理論派実力者である。

 仕立てのいい紺色のジャケットを羽織り、短く切りそろえられた黒髪に、縁なしのシャープな眼鏡。机の上に置かれた扇子を一切弄ぶことなく、背筋を定規のように伸ばして盤面を凝視している。

 清麿が下座に進み、座布団の上に正座して一礼すると、成瀬は眼鏡の奥の切れ長な瞳を、スッと清麿の顔へと向けた。

「加藤さんですね」

 成瀬の声は、感情の起伏を完全に削ぎ落としたように平坦で、冷ややかだった。

「あなたの光星杯の全四局、徹底的に分析させていただきました」

「……分析、ですか」

「ええ。吉沢四段を粉砕した相掛かりの端角、桐生五段の研究を破壊した角換わりの玉上がり、そして武田六段を窒息させた矢倉の受け。……どれも恐るべき精度の構想でした。まるで、現代のAIの盲点をピンポイントで突き刺すために、何世代も先の解析機を使って作られたかのような手順だ」

 成瀬の指先が、膝の上で微かに動いた。

「しかし、佐久間七段との対局で、あなたの『底』は見えましたよ」

 ズキリ、と古傷を突かれたような痛みが走る。

「あなたは、事前に準備された正解のレールの上を走っている時は、現代のトッププロすら凌駕する手を指す。……しかし、そのレールから外され、計算の及ばない混沌に叩き落とされた途端、焦りから自分を見失い、脆く自滅した」

 成瀬は冷徹な眼差しを崩さない。

「私は佐久間先生のように、前時代的な珍形であなたを幻惑するつもりはありません。……あなたが誇るその『未知の序盤研究』を、現代最高峰のAI定跡の深層によって真っ向から解剖し、その上で叩き潰します」

 挑発ではない。

 自らの研鑽に対する絶対の自負と、相手の弱点を完璧に見抜いたという確信に満ちた宣告だった。

 だが、清麿の心は揺らがなかった。

(……分かっているよ、成瀬先生)

 清麿は静かに顎を引いた。

(俺の脆さは、俺自身が一番よく知っている。……だからこそ、俺は今日、あの日の俺を超えに来たんだ)

「定刻となりました。対局を開始してください」

 記録係の声が凛と響き、両者が深々と一礼を交わした。

 振り駒の結果、成瀬の先手、清麿の後手番と決まった。

 成瀬の手つきは、寸分の狂いもなく滑らかだった。

 初手、▲2六歩。

 清麿もすぐに応じる。

 △8四歩。

 互いに飛車先を突き合い、角道を開ける。

 局面は、現代将棋の最先端――『相掛かり』へと進展した。

 成瀬が選んだのは、かつて吉沢四段が採用した速攻型とも、桐生五段が試みた力戦とも異なる、極めて重厚な「超持久戦型・相掛かり」だった。

 自陣の金銀をバランスよく配置し、玉の囲いを手厚く固めながら、相手の攻め筋をミリ単位で警戒する。

 清麿の頭の中にある『完全定跡アーカイブ』の樹形図が、青白い光を放って脳裏に展開される。

(成瀬五段は、俺が吉沢戦で見せたような急戦のカウンターを完全に封じにきている……)

 成瀬の指し手には、一切の隙がなかった。

 二手、三手進むごとに、先手陣の防壁が分厚く組み上がっていく。

 現代の最新将棋AIが「先手微小有利」と結論づけている、非の打ち所のない絶対の布陣。

 しかし――清麿の指先もまた、淀みなく動いていた。

 未来の定跡アーカイブに記録された、『パターンD・絶対不敗の受け潰し』の哲学。

 相手が分厚く囲いを作るなら、こちらも無理に動かず、玉の安全度を高め、相手が仕掛けてくる瞬間の歪みをじっと待つ。

 三十手、四十手。

 対局室には、規則正しい駒音だけが落ちていた。

 長時間の膠着状態。

 佐久間戦であれば、清麿が焦り始め、自ら無理な攻めを仕掛けて自爆へと向かっていたはずの局面だった。

 だが、今の清麿の呼吸は、深く、静かに保たれていた。

(焦るな。盤面全体を見るんだ。成瀬五段の狙いは、中央からの制圧……)

 その頃、二階の控室。

 有線モニターを見つめていた若手棋士たちと、記者の神崎澪の間で、緊張混じりの議論が交わされていた。

「成瀬五段、完璧な指し回しですね」

「ええ。加藤アマの奇襲を完全に警戒して、一切の無理をしていません。このまま千日手模様か、あるいはジリジリとした押し合いになれば、経験に勝る成瀬五段が確実にリードを奪う展開です」

「でも……加藤さんの様子が、前回の佐久間戦とまるで違います」

 神崎澪が手帳のペンを走らせながら、モニターの清麿の表情を凝視していた。

「佐久間戦では、手番が進むごとに顔色が悪くなり、呼吸が浅くなっていました。ですが今日の加藤さんは、局面が膠着しても微動だにしません。……まるで、暗闇の中で獲物を待ち構える狩人のような眼差しです」

 対局室の空気が、急激に軋みを上げたのは、四十五手目を迎えた瞬間だった。

 成瀬五段が、深く溜息を吐き出すと、手元の銀を力強く中央へと繰り出したのだ。

 ――バシィッ!!

 満を持しての仕掛け。

 相手の玉陣を中央から押し潰しにかかる、成瀬が何十時間もAIと検証し尽くした「必勝の踏み込み」だった。

 成瀬の瞳に、獲物を捉えた光が宿る。

(ここだ。現代AIの結論によれば、この銀の前進に対し、後手は自陣の金を引いて受ける一手しかない。……だが、それを受ければ、先手の手番が続き、十手後には後手陣の急所が確実に崩壊する)

 成瀬の読みは完璧だった。

 そして――清麿の脳内にある三百年後の完全定跡アーカイブもまた、成瀬の読みと同じ結論を示していた。

『推奨応手:自陣の金引きによる防守。形勢:互角(千日手含み)』

 未来のデータが導き出した最善手。

 金を引き、手堅く守りを固めて、相手の無理攻めを咎めるルート。

 普通なら、迷わずそのデータに従うべき局面だった。

 ――しかし。

 清麿の右手が、ピタリと空中で止まった。

(……待て)

 清麿の背筋を、冷たい直感が駆け抜けた。

 金を引き、相手の攻めを受ける。

 確かに、安全だ。未来のアーカイブが保証する通り、自玉が即座に潰されることはない。

 だが――相手は、現代最高峰の研究派・成瀬貴史だ。

 ここで金を引き、千日手や泥沼の長期戦に付き合えば、成瀬が事前に準備してきた膨大なAIの深層研究の渦に、再び引きずり込まれることになるのではないか?

 受けに回って主導権を手放した瞬間、佐久間戦の悪夢が、形を変えて蘇るのではないか?

(未来のデータは「金引きが最善」と言っている……。だが、本当にそうなのか?)

 清麿は目を閉じ、脳内のアーカイブから意識を切り離した。

 青白い樹形図を消し去り、本榧の盤上に並ぶ生身の四十枚の駒だけを、自分の頭脳の中心へと据える。

 この二週間、和令と夜を徹して解き続けた、あの極限の詰将棋の感覚が蘇る。

『未来に答えがないなら、今ここで作ればいいでしょ!!』

『答えを知ってるだけじゃ勝てないのよ! 最後に勝負を決めるのは、生身の人間の読みと胆力なの!!』

 和令の叫びが、鼓膜を激しく揺さぶった。

(読むんだ。俺自身の頭で……!)

 清麿の脳内将棋盤が、凄まじい摩擦熱を上げて回転を始めた。

 金を引くのではない。

 成瀬が仕掛けてきた、その中央の銀。

 一見すると鉄壁の前進に見えるが、その銀を繰り出した瞬間、先手の玉を守る右側の金と、飛車の横利きとの間に――わずか一マス、針の穴のような「隙間」が生まれている。

 未来の定跡アーカイブでは「リスクが高すぎる」として枝刈りされ、破棄されていた危険なルート。

 だが、生身の勝負師の直感が、その暗闇の奥に、眩い一条の光を見出していた。

(金は引かない。……ここへ、踏み込む!)

「――加藤アマ、考慮時間十五分経過」

 記録係の声が落ちた瞬間。

 清麿は目を見開き、迷いのない手つきで自らの角を掴み取った。

 そして――。

 成瀬の中央の銀の睨みを完全に無視し、敵陣の深い間隙――金と飛車の連携を真っ二つに引き裂く危険地帯へと、角を叩き落としたのだ!

 ――ズドォォォンッ!!

 特別対局室の空気を震わせる、重く鋭い駒音。

「…………っ!?」

 成瀬貴史の体が、跳ね上がるように硬直した。

 縁なし眼鏡がわずかにずり落ち、切れ長の瞳が信じられないものを見るように見開かれる。

 角の殴り込み。

 自陣の受けを完全に放棄し、相手の攻めの根元へ刃をねじ込む、凶暴極まりない踏み込みだった。

「な……に……!?」

 成瀬の喉から、掠れた息が漏れた。

 あり得ない。

 成瀬が自宅の高性能PCで何百万局面も回したAI研究の画面に、この角打ちは存在しなかった。

 なぜなら、初期判定において、自陣の守りを捨てて攻め合うこの手は「自玉を危険に晒す大悪手」として、候補手のリストから即座に消去されていたからだ。

 だが――成瀬の指先が、駒の上でピタリと凍りついた。

(待て……。角を取れば、どうなる……?)

 成瀬の優れた頭脳が、猛烈な速度で先の手順を追っていく。

 角を取る。すると、清麿の桂馬が跳ねてくる。

 その桂馬を払おうとすると、清麿の歩が絶妙なタイミングで先手玉の退路へ突き刺さり、先ほどまで鉄壁だったはずの自陣の金銀が、玉の逃げ道を塞ぐ「壁」へと変貌してしまうのだ。

(……嘘だろ? 自玉が……詰んでいる……!?)

 成瀬の背筋を、冷たい氷水が滝のように流れ落ちた。

 未来の定跡アーカイブすらも「リスク過大」として選ばなかった一手。

 それを、清麿は己の読みの力だけで掘り起こし、成瀬のAI研究が最も油断していた「盲点の急所」へと寸分の狂いもなく突き立てたのだ!

「馬鹿な……! こんな手が……成立するはずがない……!!」

 成瀬の額から、大粒の汗がボタボタと盤上に滴り落ちる。

 手元の扇子は、すでに畳の上に転がっていた。

 角を取れば即死。

 角を取らずに受けに回れば、清麿の角が成瀬の玉陣を蹂躙し、手番を奪われて圧殺される。

 成瀬の自慢だった現代最高峰のAI研究が、たった一手の生身の勝負手によって、木っ端微塵に粉砕されていた。

 十分、二十分、三十分――。

 成瀬の持ち時間が、恐ろしい勢いで溶けていく。

 対する清麿は、微動だにせず、静かに澄み切った瞳で盤面を見据え続けていた。

 怖さはなかった。

 暗闇の中を手探りで歩き、自分の頭で考え抜いた一手だからこそ、いかなる反撃が来ようとも受けて立つ覚悟が、清麿の全身を満たしていた。

 成瀬は震える手で、苦肉の策として金を横へと逃がした。

 だが、主導権を完全に手放したプロの手に、もはや清麿の進撃を止める力は残っていなかった。

 清麿の反撃が始まった。

 ――バシィッ!

 角を成り込み、敵玉を睨みつける。

 成瀬が必死に桂馬で受ける。

 ――パシッ。

 清麿は歩を突き捨てる。

 この二週間、和令と泥水を啜るように繰り返した終盤特訓の成果が、盤上に完璧な秩序となって結実していく。

 迷いがない。読みの淀みがない。

 相手がどんな粘りを見せようと、清麿の指先は最短の寄せ筋を逃さなかった。

 そして――七十六手目。

 清麿は手元に残っていた一枚の銀を、成瀬の玉の頭上へと、そっと静かに打ち下ろした。

 ――パチリ。

 静寂を震わせる、あまりにも穏やかな駒音。

 王手。

 そして、逃げ場のない完全な即詰み。

「…………」

 対局室に、長い、長い沈黙が流れた。

 成瀬貴史は両手を膝に置いたまま、動かなくなった。

 眼鏡の奥の瞳が、盤上の中央で美しく討ち取られた自玉を見つめている。

 やがて、成瀬は深く息を吐き出すと、深々と頭を下げた。

「……参り、ました」

 掠れた、だが敗北を完全に認める声。

 七十六手。

 現代将棋界の理論派・成瀬貴史五段が、己の誇るすべての研究を凌駕され、完敗を喫した瞬間だった。

「……ありがとうございました」

 清麿もまた、深く一礼を返した。

 背中には汗がびっしょりと張り付いていたが、胸の中には、これまでのどの勝利とも違う、熱く震えるような充実感が満ちていた。

 未来の定跡をなぞっただけの勝ちではない。

 未来の答えを超えて、自分自身の読みと意志で掴み取った、本物の勝利だった。

 記録係が公式記録用紙にペンを走らせる。

『青嵐杯一回戦 勝者:加藤清麿アマ』

『プロ棋士編入試験対象成績:通算4勝1敗』

 四勝一敗。

 一度は挫折の底に叩き落とされた三十歳の男が、己の足で立ち上がり、再びプロへの階段を力強く駆け上がり始めたのだ。

*

 対局後の感想戦を終え、将棋会館の外へ出た頃には、千駄ヶ谷の街は夕暮れの淡い朱色に染まっていた。

 涼やかな風が、火照った清麿の頬を心地よく冷ましていく。

 鳩森八幡宮の鳥居の脇。

 街灯に照らされた木製ベンチの前で、銀と藍色のライダースーツを着た和令が、腕を組んで仁王立ちしていた。

 清麿の姿を捉えると、和令はツンと顎を上に向けて、いつものように鼻から大きく息を噴き出した。

「……遅かったじゃないの、雑魚先祖」

「悪かったよ。成瀬先生との感想戦が、思ったより白熱してさ」

「ふん。七十六手目の銀打ちまで、スマホの速報で全部見てたわよ」

 和令はぷいと横を向いた。

 だが、その口元には、隠しきれない歓喜と誇らしさが滲んでいた。

「あの四十五手目の角打ち……アーカイブの推奨手じゃなかったわね」

「ああ」

 清麿は和令の前に立ち、小さく笑った。

「アーカイブは『金引き』を示してた。でもな……お前との特訓を思い出したら、あそこへ角を叩き込まなきゃ嘘だと思ったんだ」

「……バカ先祖」

 和令は呟き、それから満面の笑みを咲かせた。

「及第点よ。未来の答えに甘えずに、自分の頭で勝ちをもぎ取ってきたんだからね。……これで公式戦通算四勝一敗。編入試験の十勝まで、あと六勝よ!」

「ああ。あと六勝だ」

 清麿は夕暮れの空を見上げた。

 恐れは、もうない。

 未来の知性と、生身の魂。その二つを両翼に携えた加藤清麿の逆襲劇は、いま確実に、次なる高みへと羽ばたこうとしていた。

読んでいただきありがとうございます。

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