EP 6
『もう一度、盤の前へ』
四月半ばの澄み切った青空から、やわらかな光が築四十年の木造アパートに注ぎ込んでいた。
六畳間の古びたガラス戸を開け放つと、濡れた土と新緑の匂いを孕んだ爽やかな風が吹き抜け、前日まで部屋の隅に沈殿していた息苦しい湿気を綺麗に連れ去っていく。
畳の上には、万年床が綺麗に畳まれて押し入れに収まり、掃除機がかけられた部屋の空気は、驚くほど澄んでいた。
光星杯四回戦、佐久間信孝七段の老獪な力戦に呑み込まれ、焦りから暴発して喫した初めての公式戦敗北。
そしてその夜、情けない八つ当たりをぶつけ合い、涙を流しながら互いの剥き出しの弱さを分かち合った和令との激闘。
胃の奥を焼き焦がすような屈辱と悔しさは、今も消えてはいない。
だが、昨日のように心を暗闇で塗り潰すような絶望は、不思議とそこにはなかった。
ちゃぶ台の中央に置かれたスマートフォンが、短く震えて着信音を鳴らした。
画面には『千代』の二文字。
『お兄ちゃん、夜勤明けで近くまで来たから寄ってもいい? スーパーで買い出ししすぎちゃって、一人じゃ食べきれないの』
清麿が返信を打つ間もなく、トントンと軽やかな足音に続いて、控えめなノックの音が玄関の薄いドアを叩いた。
「……お兄ちゃん、入るよ?」
カチャリと鍵が開き、現れたのは妹の加藤千代だった。
少し疲れたような目の下に薄い隈を浮かべながらも、穏やかな笑顔を浮かべている。両手には、近所のスーパーのビニール袋が二つ、はちきれんばかりに膨らんでいた。
「千代……お前、夜勤明けなのに寝てなくて大丈夫なのか?」
「平気平気。仮眠はちゃんと取ったから。それより、ほら! お肉屋さんの特製コロッケと、肉じゃが作ってきたんだよ」
千代は靴を脱いで上がり込み、ちゃぶ台の上に手際よくタッパーや惣菜のパックを並べていった。
甘辛い醤油と出汁の香りが、六畳間にふわりと広がる。
部屋の隅に正座していた和令は、光学迷彩を解いてただの居候の少女の姿になり、珍しく行儀よくペコリと頭を下げた。
「こんにちは、千代さん」
「あ、和令ちゃん! こんにちは。今日も綺麗にしてるね。お兄ちゃん、変なこと言って困らせてない?」
「困らされっぱなしですよ。昨日なんて、負けたショックで死体みたいに転がってたくらいですから」
「ちょっ、和令! 余計なことを言うな!」
慌てる清麿を見て、千代はふふっと小さく吹き出した。
「知ってるよ。ネットで結果、見たから」
千代は取り皿にホクホクの肉じゃがを取り分け、清麿の前にコトリと置いた。
「……悔しかったでしょ」
その声は、どこまでも優しく、温かかった。
「……ああ。悔しかったよ。自分の弱さで自滅して……情けなくて、穴があったら入りたかった」
「そっか」
千代は箸を清麿に手渡すと、自らもコロッケを一口齧った。
「でもね、お兄ちゃん。私、すごく嬉しかったんだよ」
「……え?」
「だって、昔のお兄ちゃんなら、負けた後は自分の部屋に鍵をかけて、誰からの電話も無視して、何週間も引きこもってたじゃない。……今の部屋、ちゃんと窓が開いて風が通ってる。お兄ちゃんも、ちゃんと悔しそうな顔をして、前を向いてる」
千代は真っ直ぐに清麿を見つめた。
「勝たなくたって、生きてていいんだよ。私はお兄ちゃんの人生を代わりに生きられない。でも、こうやって一緒にご飯を食べることくらいはできるからね」
胸の奥が、じんわりと熱くなった。
勝たなければ価値がないと思い詰め、自分を追い込み、周囲を傷つけてきたかつての愚かな自分。
そんな兄を、妹はずっと見守り、待っていてくれたのだ。
「……ありがとう、千代。本当に、ありがとう」
清麿は肉じゃがを口に運んだ。しっかりと煮込まれたじゃがいもの甘みが、五臓六腑に染み渡っていく。
隣で和令も、千代の作った肉じゃがをもぐもぐと咀嚼し、目を丸くして小さく呟いた。
「……美味しい。三百年後のどの合成栄養ブロックよりも、温かい味がするわ」
「ふふ、お口に合ってよかった! たくさん食べてね、和令ちゃん」
温かな笑い声が満ちる部屋で、清麿の凍りついていた心は、ゆっくりと、だが確実に解きほぐされていった。
千代が「病院の寮に戻って寝るね」と笑顔で立ち去った後、六畳間に再び静寂が戻った。
片付けを終えたちゃぶ台を挟み、清麿と和令が向かい合って座る。
清麿は背筋を正し、両手を膝の上に置いた。
「……和令」
「なによ、改まって」
和令は腕を組み、ツンと顎をそらしたが、その頬はどこか居心地悪そうに微かに赤らんでいた。
「昨日は……本当に悪かった。俺が甘えてたんだ。未来の定跡をただのカンニングペーパーみたいに思って、勝てなくなったらお前に当たり散らして……最低だった」
「ふん。自覚があるなら結構なことね」
和令は小さく鼻を鳴らした。
「でもまあ……私も、あんたを追い詰めすぎたわ。自分が未来で負け犬だったからって、その焦りを全部あんたの背中に押し付けてたのは事実よ」
「お前も負け犬って言うなよ。……俺たちは、二人揃ってこれから這い上がるんだろ」
「当たり前でしょ! 誰が一生負け犬のままで終わるもんですか!」
「その意気だ。……で、さっそくだが、いつまでも反省会をしてる場合じゃないぞ」
「あんたがしんみり切り出したんでしょうが! どの口が言ってんのよ、この雑魚先祖!」
「雑魚先祖って言うな! ほら、これを見ろ!」
清麿が郵便受けから取ってきたばかりの封筒をちゃぶ台に置くと、和令は身を乗り出して覗き込んだ。
日本将棋連盟からの親展通知。
そこに記されていたのは、次なる公式戦への招集状だった。
『第五十三期青嵐杯・アマチュア特別出場枠決定通知』
「……青嵐杯!」
清麿の声が跳ねた。
全日本アマチュア選抜の上位入賞者に与えられる、もう一つのプロ公式戦の出場枠。
若手実力派からタイトルホルダー一歩手前の強豪までがひしめく、伝統の大型トーナメント棋戦である。
「光星杯は負けた。でも……まだ公式戦への扉は閉じちゃいない」
清麿は拳を強く握りしめた。
「現在の俺の編入試験対象成績は、三勝一敗。十勝以上、かつ勝率六割五分以上まで――あと七勝だ」
「そうよ。光星杯の敗北で一敗がついたけど、青嵐杯で連勝を重ねれば、十分に条件はクリアできるわ」
和令は腰のホルダーから透明な薄型端末を引き抜き、青嵐杯のトーナメント表を空中に投影した。
「一回戦の対戦相手は、プロ五段の成瀬貴史。現代の将棋理論を極限まで突き詰めた、若手の実力派研究家よ」
「成瀬五段……徹底した事前研究で、序盤から相手を窒息させるタイプの難敵だな」
「そう。桐生五段に負けず劣らずの理論派よ。……でもね、清麿。佐久間戦で思い知ったでしょ。相手が研究を外してきたり、泥沼の未知の局面に引きずり込まれた時、あんたの頭の中のカンニングペーパーは一瞬で真っ白になるのよ」
「ああ。痛いほど分かったよ」
清麿は自嘲することなく、静かに頷いた。
未来の答えを知っているだけでは、プロの世界の怪物を相手に勝ち続けることはできない。
答えのない暗闇に放り出された時、最後に勝負を決めるのは、生身の棋士自身の「読みの深さ」と「未知へ踏み込む胆力」なのだ。
「だから、和令。頼みがある」
清麿は座布団から降り、畳の上に両手をついた。
「……な、何よ急に。土下座なんて気味の悪いことしないでよ」
「土下座じゃない。弟子入りだ」
清麿は顔を上げ、和令の目を真っ直ぐに見据えた。
「俺を鍛えてくれ。序盤の定跡の手順暗記じゃない。……どんな未知の泥沼になっても、自分の頭で正解を手繰り寄せられるような、本当の『終盤力』を叩き込んでほしいんだ」
和令は一瞬、呆気に取られたように目を見張った。
かつて小学生名人と持て囃され、奨励会三段まで登り詰めたプライドの塊のような男が。
三百年後の見知らぬ小娘に向かって、一切の虚飾を捨てて頭を下げている。
やがて、和令の唇が、かつてないほど不敵に、そして獰猛な笑みの形に歪んだ。
「……ふん。いい度胸じゃない、雑魚先祖」
和令は立ち上がり、押し入れから本榧の将棋盤を引きずり出して、ちゃぶ台の横にドンと据えた。
「未来の将棋アカデミーで落第寸前だった私の特訓よ? 現代の生ぬるい指導対局と一緒に思ったら大間違いよ。泣いて許しを請うても絶対に途中でやめてあげないんだから!」
「望むところだ! 脳みそから煙が出るまで付き合ってやるよ!」
その日の午後から、ボロアパートの六畳間は、地獄の修練場へと変貌した。
和令は透明端末のアーカイブから、三百年後の詰将棋や、実戦で生じた「極限の終盤戦」の局面だけを次々と抜き出し、盤上に駒を並べていった。
それは、現代の定跡書に載っているような、美しい手順で決まる華麗な詰み筋ではなかった。
双方の玉が中段に剥き出しになり、金銀がバラバラに散らばり、一手間違えれば自玉が即死する、泥沼の極限状態。
「はい、制限時間は三十秒! 最短の手順で相手玉を寄せ切りなさい!」
「三十秒!? 駒の利きが複雑すぎて見えないって!」
「見えないなら目を凝らしなさい! 実戦の一分将棋じゃ、相手の殺気の中で三十秒で決断しなきゃいけないのよ! 十秒、二十秒……!」
「ぐっ……ここだ、銀打ち!」
「ブッブー、大悪手! 相手に歩で中合いされて自玉が即死! 死刑!」
ピシャリと、和令の指先が清麿の額にデコピンを炸裂させる。
「痛っっ!? デコピンの威力がおかしいだろ!」
「未来のナノ筋肉を舐めないで! ほら、駒を並べ直す! もう一回最初から読み直し!」
カチリ、パチリと、黄楊の駒が盤上を跳ねる音が絶え間なく室内に響く。
何局解いても、和令は容赦なく次の難問を叩きつけてきた。
頭が焼けるように熱い。眼球の奥が痛み、こめかみの血管がドクドクと拍動する。
だが――清麿の心は、不思議なほど澄み渡っていた。
未来の答えをただなぞるのではない。
自分自身の脳を極限まで回転させ、盤上の四十枚の駒と一対一で対話し、闇の中に隠されたたった一本の光の糸を探し出す作業。
苦しい。逃げ出したいほど脳が軋む。
だが、これこそが――かつて自分が幼い頃に魅了され、魂を奪われた「本物の将棋」の感触だったのではないか。
「……見えた」
特訓が始まって五時間が過ぎた頃、百問目を超える難局面の前で、清麿の瞳が鋭く光った。
迷いのない右手が伸びる。
――バシィッ!
自らの飛車をタダで捨て、相手の玉の退路へ歩を叩き込む絶妙手。
和令の眉がピクリと跳ね上がり、盤面を食い入るように見つめた。
「……正解よ。二十五手詰み、ノーミスね」
和令は小さく息を吐き、膝の上の端末をパタンと閉じた。
その口元には、いつもの皮肉めいた嘲笑ではなく、相棒の確かな進化を認める、誇らしげな笑みが浮かんでいた。
「まあ……原始人の頭脳にしては、少しは回転がマシになってきたんじゃないの」
「ぜぇ……ぜぇ……マシどころか、脳のシワが三倍くらい増えた気がするぞ……」
清麿は畳の上に大の字に倒れ込み、天井を見上げた。
全身の汗がシャツに張り付き、指先は疲労で小刻みに震えている。
だが、胸の奥底には、かつてないほどの充実感と確信が満ちていた。
自分はもう、ただ未来の答えを記憶して出力するだけの操り人形ではない。
未知の荒野に放り出されても、自分の頭で考え、自分の手で活路を切り拓く準備が、いま確実に整いつつあった。
窓の外を見ると、千駄ヶ谷の空は美しい紫紺の夜の帳に包まれていた。
遠くの街灯が、静かに東京の街を照らしている。
立ち上がった和令が、腕を組んで清麿を見下ろした。
「さあ、立ち上がりなさい、雑魚先祖。次はいよいよ青嵐杯よ。一回戦の成瀬五段を踏み台にして……あんたの本当の逆襲を、ここから見せつけてやりなさい!」
「ああ。言われなくても、そのつもりだ」
清麿は力強く起き上がり、再び将棋盤の前に腰を据えた。
一度は膝を屈した男の、真の覚醒を賭けた新たなる戦いが、いま静かに幕を開けようとしていた。
読んでいただきありがとうございます。
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