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『未来の将棋は暗記ゲーでした~30歳でプロを諦めた元奨励会三段、300年後の子孫に「必勝定跡」を叩き込まれて無双する~』   作者: 月神世一


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EP 5

『答えを知っているだけの男』

 築四十年の木造アパートの六畳間に、重く澱んだ沈黙が満ちていた。

 薄いカーテンの隙間から差し込む四月の陽光は、埃の舞う畳の擦り切れを白く浮かび上がらせている。

 加藤清麿は、万年床の端に背中を丸めて座り込み、両膝を抱えたまま、畳の一点を見つめていた。

 指先は冷え切り、衣服は昨日のスーツのまま。ネクタイを緩める気力すら湧かなかった。

 枕元に転がっているスマートフォンの画面は、伏せられたまま一度も光っていない。見るのが怖かった。見なくても、ネットの海にどんな言葉が溢れ返っているか、痛いほど想像できたからだ。

 光星杯四回戦、佐久間信孝七段に対する八十六手での完敗。

 ベストフォー目前でのトーナメント脱落。

 吉沢四段、桐生五段、武田六段を破り、「覚醒した神童」「プロ編入への最短ルート」と祭り上げられていた熱狂は、たった一局の敗北によって、あっけなく弾け飛んだはずだった。

『やっぱりまぐれだったな』

『最新AIの定跡から外されたら、ただの元奨励会三段に戻っただけ』

『研究手順を外された途端にパニック起こして暴発とか、プロの世界を舐めすぎ』

『所詮、カンニング野郎のメッキなんてこんなもんよ』

 見ず知らずの無数の人間から吐き出される嘲笑と冷笑が、耳の奥で幻聴のように鳴り響く。

 胃の腑を直接雑巾のように絞り上げられるような鈍痛。

 四年前、年齢制限で三段リーグを追われ、社会の片隅で膝を抱えていたあの頃の、息の詰まるような絶望が、再び全身を黒い泥のように覆い尽くしていた。

(……負けたんだ。俺は、負けた)

 公式戦通算三勝一敗。

 数字だけを見れば、アマチュアとしては異例の好成績だ。だが、トーナメント戦である以上、負けた時点で今年の光星杯は完全に終了なのだ。

 ベストフォー進出者に与えられるはずだった賞金八十万円も、華やかな大舞台も、すべてが一瞬にして手のひらからこぼれ落ちて消え去った。

 残ったのは、大家から突きつけられている家賃の督促と、再び突きつけられた「お前にはプロになる才能などない」という残酷な現実だけだった。

「……いつまで死体ごっこを続けてる気よ、雑魚先祖」

 台所の方から、冷ややかな、だがどこか苛立ちを含んだ声が降ってきた。

 銀と藍色のライダースーツの裾をまくり、和令が湯気を立てる片手鍋をちゃぶ台の上にドンと置いた。

 鍋の中には、いつもの見切り品のうどんと、わずかなもやし。

「朝ごはんよ。起きて食べなさい。胃袋に固形物を入れないと、脳の神経伝達物質が枯渇して余計にネガティブになるわよ」

「……いらない」

 清麿は膝に顔を埋めたまま、掠れた声で答えた。

「はあ? 何言ってんのよ。昨日の夜から水しか飲んでないでしょ。食べなさいって言ってんの」

「食欲なんかないんだよ。……放っておいてくれ」

「放っておけるわけないでしょ! 一回負けただけでこの世の終わりみたいに塞ぎ込んで、何なのその情けない姿は! プロ公式戦で三勝一敗よ!? 普通のアマチュアなら万々歳の大戦果じゃないの!」

「普通のアマチュアなら、だろ!!」

 清麿は弾かれたように顔を上げ、怒鳴りつけた。

 血走った目が、和令を睨みつける。

「俺は普通のアマチュアで終わりたくないから、恥を忍んで盤に向かってたんじゃないのか!? プロになるために、千代を救うために勝たなきゃならなかったんだろ! それが……負けたら全部終わりなんだよ! 光星杯は敗退だ! 賞金もパーだ! 世間には『やっぱり偽物だった』って笑われてるんだよ!」

「世間の雑音なんてどうでもいいでしょ! 負けたなら、何が悪かったのか反省して、次の棋戦に向けて対策を練ればいいじゃない!」

「対策だと……? 笑わせるな!」

 清麿は万年床から立ち上がり、ちゃぶ台に手をついて身を乗り出した。

 胸の奥底で燻っていた黒い感情が、制御の利かない激流となって口から溢れ出していく。

「対策も何もないだろ! お前、言ったよな!? 三百年後の完全定跡があれば、現代のプロなんて赤子同然に捻り潰せるって! 負け筋を捨てて勝ち筋を暗記すれば絶対に勝てるって豪語したよな!?」

「それは……!」

「嘘だったじゃないか! 佐久間七段の袖飛車なんて、お前の端末のどこにも載ってなかったぞ! 相手が定跡を外して泥沼に引きずり込んできた瞬間、お前の未来のアーカイブはただの役立たずの置物になったじゃないか!」

 八つ当たりだった。

 自分自身の読みの浅さと、焦りから暴発した愚かさを棚に上げ、目の前の少女に責任を押し付けているだけの、見苦しい八つ当たり。

 頭の片隅では、それが最低の言動だと分かっていた。だが、一度溢れ出した負の感情の奔流は、自分でも止められなかった。

「お前が偉そうに授けてくれた未来の知識なんて、結局は相手が現代の定跡通りに指してくれた時だけの、都合のいいハリボテだったんだよ!」

 清麿の怒声が、狭い六畳間に木霊する。

「データがない局面になったら、俺は手も足も出なかった! 焦って、パニックになって、相手の罠に自分から飛び込んで……無様に首を差し出した! 俺はプロを倒したんじゃない! 未来の答えをただカンニングして、ドヤ顔で出力してただけのピエロだったんだよ!!」

「……清麿、あんたね……」

 和令の肩が、微かに震えていた。

「ピエロなんかじゃないでしょ! 吉沢戦も、桐生戦も、武田戦も、最後はあんた自身の頭で考えて指したんじゃないの!」

「考えるって何だよ! 未来のレールが敷かれてたから考えられただけだろ! 真っ暗闇の荒野に放り出されたら、俺は十年前と何一つ変わらない、ただの三段止まりの負け犬だったんだよ!」

 清麿は自嘲するように口元を歪め、吐き捨てた。

「お前はいいよな! 三百年後の安全圏から高みの見物で、他人にデータを押し付けて、偉そうに『勝て』『プロになれ』って命令してるだけでさ! 実際に盤の前で冷や汗かいて、恥をかいて、負けて絶望を味わうのは……全部俺なんだよ!!」

「――ふざけるんじゃないわよッッ!!!!」

 六畳間の空気が、ビリビリと震えるほどの絶叫が炸裂した。

 清麿の言葉を遮ったのは、耳を劈くような和令の悲鳴だった。

「……っ!?」

 清麿は息を呑み、言葉を失った。

 和令の両手が、白くなるほど硬く握りしめられていた。

 小柄な体が、怒りと屈辱で激しく震えている。

 そして――その大きな瞳から、大粒の涙が、ボロボロと溢れ出していた。

「な、和令……?」

「安全圏……? 高みの見物……!? あんた、今なんつったのよ……!?」

 和令の声は、絞り出すように掠れていた。

 いつもの傲慢な毒舌も、澄ました態度も、すべてが吹き飛んでいた。

 そこに立っていたのは、未来の超人でも、不敵な相棒でもない。

 ただの、傷つき、打ちのめされ、プライドをズタズタに引き裂かれた、二十歳の生身の少女だった。

「私が……安全圏にいたとでも思ってんの!? 他人に命令して、自分は痛くも痒くもないとでも思ってんの!?」

 和令は胸元を力任せに殴りつけるようにして、叫んだ。

「痛いに決まってんでしょ!! 悔しいに決まってんでしょ!! あんたが盤の前で味わった惨めさなんてね、私が未来で毎日、何百回、何千回と味わってきた地獄よ!!」

「え……」

「三百年後の世界でね、加藤家がどれだけ見下されてきたか、あんた想像もつかないでしょ!? 『あの先祖の借金のせいで極貧の加藤家』『何代もプロ棋士一人出せない落ちこぼれの家系』って、物心ついた時から後ろ指差されて育ったのよ!」

 和令の瞳から、次から次へと涙が零れ落ちる。

「見返してやりたかったわよ! 私がプロになって、借金を全部返して、加藤家の名前を誇らしいものに変えてやりたかった! だからね、私は死ぬ気で勉強したわ! あんたがさっき『役に立たない』って吐き捨てたあの完全定跡アーカイブをね、寝る間も惜しんで、頭が割れそうになるまで全部頭に叩き込んだのよ!!」

 清麿は動けなかった。

 和令の吐き出す言葉の一つ一つが、重い鉛の塊となって胸に突き刺さる。

「でもね……勝てなかったのよ!!」

 和令の喉から、血を吐くような慟哭が漏れた。

「何百局指しても、公式戦で一つも勝てなかった! 研修生の試験も、プロの登竜門も、全部落ちた! なんでか分かる!? 未来の世界じゃね、誰もがその答えを知ってんのよ! アーカイブの手順なんて、プロを目指す人間なら小学生だって全員頭に入ってんの!」

 和令は両手で顔を覆い、しゃくり上げた。

 その細い肩が、痛ましいほど小さく縮こまる。

「答えを知ってるだけじゃ……勝てないのよ。相手が最善手を外してきたり、アーカイブにない泥沼の局面になった時……最後に勝負を決めるのは、生身の人間の『読み』と『胆力』なのよ!」

 ぽたぽたと、涙が畳の上に落ちて染みを作っていく。

「私はね……怖かったのよ。盤の前で、相手の息遣いを感じて、未知の局面に足を踏み入れるのが、死ぬほど怖かった……! 答えの手順から一歩でも外れたら、頭の中が真っ白になって、手が震えて、安全な手ばかり選んで自滅していったのよ!」

 和令は顔を上げ、涙でぐしゃぐしゃになった顔で清麿を睨みつけた。

「あんたと一緒よ!! 答えを覚えてたって……! 怖くなったら、指せないのよ……ッ!!」

 時が止まったかのような静寂が、部屋を支配した。

 聞こえるのは、すきま風が障子を揺らす微かな音と、和令の荒い嗚咽の音だけだった。

 清麿は、息をすることすら忘れていた。

(……そうだったのか)

 胸の奥底が、焼けるように痛かった。

 和令がなぜ、あれほど口汚く清麿を罵倒していたのか。

 なぜ、清麿が終盤で日和りそうになるたびに、誰よりも激しく怒り狂い、背中を叩き続けていたのか。

 すべてが、腑に落ちた。

 和令は、清麿の中に「自分自身の弱さ」を見ていたのだ。

 三百年後の世界で、完璧な知識を持ちながら、プレッシャーに負けて夢を諦めざるを得なかった自分自身の無念と恐怖。

 それを、目の前の先祖に重ね合わせて、必死に抗っていたのだ。

 救われようとしていたのは、清麿だけではなかった。

 この少女もまた、すべてを失い、人生を諦めかけ、最後の最後に一縷の望みを懸けて、三百年という途方もない時間の壁を越えてここへやってきたのだ。

「……私のせいよ」

 和令は膝に手をつき、ポツリと呟いた。

 怒りの炎は消え去り、そこにあったのは、壊れてしまいそうなほどの脆い絶望だった。

「未来で勝てなかった出来損ないが、偉そうに過去にやってきて……あんたに定跡を押し付けて、勝てる気にさせて……。結局、私が未熟だったから、あんたを勝たせてあげられなかったのよ……」

 和令は首を横に振った。

「ごめんなさい、清麿。……あんたの言う通りよ。私は、安全圏からあんたを操ろうとしていただけの……ただの負け犬よ」

「……違う」

 清麿の口から、声が漏れた。

「……え?」

 和令が、涙に濡れた瞳をわずかに持ち上げる。

 清麿は一歩、和令の前へと進み出た。

 そして――畳の上に、ゆっくりと正座した。

「違うよ、和令。お前のせいなんかじゃない」

 清麿は両手を膝の上に置き、深く、深く頭を下げた。

「悪かった。……本当に、すまなかった。俺が情けない八つ当たりをした。お前がどんな思いでここに来て、どれだけの重圧を背負って俺を支えてくれていたのか……俺は、何一つ分かっていなかった」

「清麿……」

「負けたのは、俺の弱さのせいだ。佐久間七段の気迫に呑まれて、勝手に焦って、自滅した。お前の知識のせいでも、お前のサポートのせいでもない。盤の上で指していた、加藤清麿という男が弱かったからだ」

 清麿は顔を上げた。

 その瞳から、先ほどまでの濁った苛立ちや、自分を憐れむ弱さは完全に消え去っていた。

 目の前にいる少女の涙が、清麿の奥底に眠っていた「将棋指しの魂」を、そして「先祖としての覚悟」を、完全に覚醒させていた。

「俺は、お前に救われたんだ。あの日、ベランダから消えようとしていた俺を、お前が引き戻してくれた。三百年分の知識をくれて、勝つことの喜びを思い出させてくれた。……お前がいなきゃ、俺はとっくに死んでいたんだよ」

 清麿は和令の目を、真っ直ぐに見つめ返した。

「答えを知っているだけの男で、終わってたまるかよ。……お前が未来で流した涙も、俺が昨日流した屈辱も、全部背負って、俺はもう一度盤に向かう」

 清麿の声は低く、だが鋼のように揺るぎなかった。

「光星杯は負けた。でも、プロへの道が完全に閉ざされたわけじゃないんだろ? まだ、次のチャンスがあるんだろ?」

 和令は大きく目を見開き、震える唇を開いた。

「……あ、あるわよ。公式戦の参加枠は……光星杯だけじゃないわ」

「だったら、立ち止まってる暇なんてない」

 清麿はちゃぶ台の上の冷めきった鍋に手を伸ばし、割り箸をパチンと割った。

「食うぞ、和令。腹が減ってちゃ、反省も研究もできない。……冷めちまったけど、うどんを食って、次の一手を考えるんだ」

 清麿は伸びきったうどんをもぎゅもぎゅと口に放り込み、力強く咀嚼した。

 和令はその姿を呆然と見つめていたが、やがて、手の甲で乱暴に目元の涙を拭った。

 そして――小さく、鼻をすすり上げた。

「……冷めたうどんなんて、不味いに決まってんでしょ、バカ先祖」

「不味くても食うんだよ。生きるための燃料だ」

「ふん……言われなくても、食べるわよ」

 和令も箸を手に取り、鍋の中のうどんを一口啜った。

 二人の間に、言葉はもう必要なかった。

 勝つことしか考えていなかった傲慢な未来人と、未来の答えにすがっていただけの挫折者。

 互いの剥き出しの弱さをぶつけ合い、痛みを分かち合ったその六畳間で、二人の絆は、これまでの「チートの貸し借り」を遥かに超えた、本物の戦友としての絆へと生まれ変わろうとしていた。

読んでいただきありがとうございます。

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