EP 4
『初めての敗北』
四月に入り、千駄ヶ谷の緑は日差しを浴びて一段と濃さを増していた。
日本将棋会館の前の桜は青葉へと姿を変え、初夏を思わせる乾いた風が、行き交う人々の衣服の裾を心地よく揺らしている。
加藤清麿は、四階の特別対局室へと続く廊下を歩きながら、胸の内でトクトクと刻まれる鼓動を確かめていた。
公式戦開幕三連勝。
新進気鋭の吉沢四段、現代最強の理論派・桐生五段、そしてかつて己の才能を否定した重鎮・武田六段。
将棋界の第一線で戦う現役プロ棋士たちを相手に、一度の土もつかず三連勝を飾ったという事実は、清麿の心に強烈な光をもたらしていた。
ネットの将棋板やSNSでは、連日『加藤清麿アマ、快進撃どこまで続く』『プロ編入試験へ最短ルートか』と熱狂的な言葉が乱舞している。
四年間、社会のゴミのように扱われ、誰からも必要とされず、死ぬことすら許されなかった三十歳の無職。その自分が、いまやプロの公式棋戦で本戦ベストエイトまで勝ち上がり、あと一勝でベストフォー――日本将棋連盟の規定により、高額な賞金が授与され、全国中継の特設舞台へと進出できる位置に立っているのだ。
(……勝てる。今の俺なら、どんな相手が来ても乗り越えられるはずだ)
歩みを進める清麿の背筋は、かつてないほど真っ直ぐに伸びていた。
だが、その確信の裏に、無意識のうちに忍び寄っていた「甘い慢心」の冷たさに、この時の清麿はまだ気づいていなかった。
今朝のアパートの出発前、六畳間でのやり取りが脳裏をよぎる。
『ちょっと、鏡の前でネクタイ直しながらニヤついてんじゃないわよ、雑魚先祖』
和令がちゃぶ台の脇で腕を組み、冷ややかなジト目を向けてきたのだ。
『ニヤついてない。襟元を正してただけだ』
『嘘おっしゃい。口角が五ミリ上がってて、毛穴から「俺、連勝しててマジ強い」オーラが駄々漏れよ。見苦しいったらありゃしないわ』
『駄々漏れてない! 少しは自信を持ったっていいだろ。武田先生の捨て身の特攻だって、俺自身の読みで見切って勝ったんだぞ』
『一回自分の頭で勝ったくらいで天狗になるんじゃないわよ! 今日の相手、誰だか分かってんの!?』
『分かってるよ。佐久間信孝七段だろ。順位戦でも長年B級上位に君臨してる五十代のベテランだ』
『分かってないわ! あの男はね、三百年後のアーカイブでも「盤上のペテン師」って注釈がついてるくらいの、生粋の力戦派よ! 現代のAI定跡なんて最初から鼻で笑って、自分からグチャグチャの泥沼に飛び込んでくるタイプの変態なんだから!』
『変態って言うな! 伝統ある力戦派の大家だよ。でも、どんなに形を崩してきたって、三百年後の定跡の思想に従って、無理攻めを受け潰せば隙はできるはずだろ』
『それが油断だって言ってんのよ! 三百年後の完全定跡アーカイブだって、万能の神の書じゃないの! 原始人が思いつきで指したような、非合理的で意味不明な珍形まで全部網羅してるわけじゃないんだから!』
『大丈夫だって。相手が外してきたら、俺がその場で読み切るよ。武田戦みたいにな』
『……あっそ。鼻っ柱をへし折られて泣きっ面で帰ってきても、慰めてあげないからね!』
和令はそう言ってプイと横を向いた。
いつもの小言だ、と清麿は軽く受け流していた。三百年後の知識と、蘇った自らの勝負勘。その二つが噛み合っている今、恐れるものなど何もないと信じ込んでいたのだ。
「――時間となりました。対局を開始してください」
記録係の声が凛と響き、対局室の空気が張りつめた。
清麿の対面に座っていたのは、佐久間信孝七段だった。
五十二歳。白髪の混じった蓬髪に、使い古された藍色の羽織。細身の体に刻まれた無数の皺と、どこか飄々とした細い目が、百戦錬磨の老獪さを醸し出している。
振り駒の結果、佐久間の先手番となった。
佐久間は、細く長い指で駒をつまみ上げると、パチリと乾いた音を立てて初手を放った。
▲7六歩。
清麿もすぐに応じる。
△3四歩。
序盤の二手を終えた瞬間、佐久間の細い口元が、楽しげにクニャリと歪んだ。
――バシィッ。
三手目、佐久間が指したのは、現代のプロ公式戦では十年に一度見るか見ないかという、奇怪極まりない一手だった。
自陣の飛車を、いきなり右から三筋目へと振る『袖飛車』。
しかも、ただの袖飛車ではない。玉の囲いも金銀の展開も一切行わず、いきなり清麿の角頭を直接睨みつけるような、昭和初期の路地裏将棋を思わせる前時代的な奇襲の構えだった。
(……袖飛車? この大一番で、こんな筋違いの奇襲を……?)
清麿は眉をひそめた。
即座に脳内の『完全定跡アーカイブ』を検索する。
――しかし。
清麿の脳裏の暗闇に広がる青白い樹形図は、目まぐるしくノイズを走らせた末に、プツリと点滅を停止した。
『該当データ僅少:勝率評価不能』
息が詰まった。
(……嘘だろ? データが……ない?)
和令の言っていた言葉が、冷たい水のように脳裏を駆け抜けた。
三百年後の未来において、将棋は極限まで解析されている。だが、コンピューターが優先的に解明したのは「双方の最善手を尽くした高度な攻防」だ。現代のトッププロが誰も指さないような、効率が悪く、最初から疑問手とされている前時代の珍形など、未来の研究者は深く掘り下げていなかったのだ。
「ふふ……どうしたね、加藤さん」
佐久間が、手元の扇子をパタパタとあおぎながら、細い目で清麿を覗き込んできた。
「あんたの指す将棋は、実に美しいと評判だ。最新のAIを何台も並べて研究したような、息を呑むほど合理的で綺麗な手順だそうだねぇ。……だがね、私はそういう小綺麗な機械の答えってやつが、昔から大嫌いでね」
佐久間はペロリと唇を舐め、さらに陣形を崩すような歩の突き捨てを放ってきた。
「ここは千駄ヶ谷の畳の上だ。泥臭い人間の体温ってやつを、味合わせてあげようじゃないか」
(惑わされるな……!)
清麿は奥歯を噛み締め、呼吸を整えた。
データがないなら、自分の頭で考えればいい。相手の指し手は、どう見ても無理攻めだ。陣形のバランスはバラバラで、玉の守りも薄い。普通に受けて、普通に反撃すれば、必ず相手の自滅を誘えるはずだ。
清麿は自陣の銀を前進させ、相手の攻め足を止めにかかった。
しかし――。
佐久間の指し手は、清麿の常識をあざ笑うように、さらに奇怪な軌道を描いた。
攻めてくると見せかけて、ふらりと自陣の端歩を突く。
反撃の構えを見せると、突如として飛車を逆サイドへ引き戻し、何の意味もないような金の一手を挟んでくる。
パチ、パチと、不揃いなリズムで放たれる佐久間の手。
定跡がない。狙いが見えない。
まるで、真っ暗な霧深い森の中に引きずり込まれ、足元にまとわりつく泥に足を取られているような、得体の知れない息苦しさ。
(なんなんだ、この手は……!? どこを狙っている!? なぜこんな手が成立するんだ!?)
清麿の額に、じわりと冷たい脂汗が滲み始めた。
考慮時間のタイマーが、カチカチと音を立てて削られていく。
十分、二十分、三十分――。
吉沢戦や桐生戦では、一手一秒のノータイムで相手を圧倒していた清麿の手が、完全に凍りついていた。
その頃、二階の控室。
有線モニターを見つめていた棋士たちの間で、ざわめきが広がっていた。
「……佐久間七段の『怪奇流』が完全にハマってるな」
ベテランの棋士が、腕を組んで唸るように言った。
「加藤アマは、相手が現代の最先端の研究で来れば来るほど、未来的なカウンターで粉砕してきた。だが、佐久間さんのような『定跡そのものを破壊する力戦派』相手だと、自慢の知識がまったく機能しない」
「加藤さん、完全に焦っていますね」
神崎澪が手帳を握りしめ、痛ましそうに画面を見つめていた。
「持ち時間は佐久間七段が一時間以上残しているのに対し、加藤さんはもう残り十五分を切っています。……顔色が悪すぎる」
ネットのテキスト速報のコメント欄も、不穏な空気で埋め尽くされていた。
『加藤アマ、どうしたんだ? 全然手が伸びないぞ』
『佐久間七段の盤外戦術と珍形に完全にやられてる』
『AIの評価値、互角のまま動かないけど、加藤の手番ばかり消費してる』
『やっぱり元奨励会員の化けの皮が剥がれたか……?』
「――加藤アマ、残り時間五分です」
記録係の冷酷な宣告が、対局室に響いた。
清麿の視界が、チカチカと白く明滅し始めていた。
焦り。
勝たなければならないという重圧。
ここで勝てばベストフォー、編入試験への四勝目、そして賞金八十万円。家賃の恐怖からも解放され、世間に自分の力を完全に証明できるはずだった。
その栄光への執着が、清麿の冷静な読みの回路を焼き切っていた。
(早く……早く形勢をハッキリさせなきゃいけない……! こんな泥沼に付き合っていられるか!)
相手の玉は薄い。
強引にこじ開ければ、強引に角を叩き込めば、力づくで寄り切れるはずだ。
清麿は、胸の奥で警報を鳴らし続ける微かな直感を無視し、震える手で自陣の角を掴み取った。
そして――敵陣の急所へと、力任せに叩きつけた。
――バシィッ!!
踏み込んではならない、禁断の一手だった。
その瞬間。
盤の向こうで俯いていた佐久間信孝の細い目が、ギラリと、肉食獣のように妖しく光った。
「……待っていたよ、加藤さん」
佐久間の口から、掠れた囁きが漏れた。
「若いねぇ。……焦って自分から飛び込んできてくれた」
――ズドンッ!!
佐久間がノータイムで放ったのは、自陣の底深くに眠っていた一枚の桂馬を、清麿の角の射線を遮るように跳ね上げる、絶妙極まりない「手待ちの受け」だった。
「…………っ!?」
清麿の全身の血が、一瞬で凍りついた。
見落としていた。
自分が「必殺の攻め」だと信じて打ち込んだ角が、相手の桂跳ね一枚によって、完全に退路を塞がれ、捕獲されていたのだ。
大駒が死んだ。
手番を失い、自陣の薄さだけが盤上に無残に晒される。
――バシィッ。
佐久間の反撃が始まった。
派手さはない。最新の研究のような鋭利さもない。
だが、長年の修羅場で培われた老獪な指し手が、清麿の玉陣の急所を、逃げ場のない正確さでじわじわと締め上げていく。
「あ……っ、あ……」
清麿の喉から、声にならない悲鳴が漏れた。
受からない。
逃げ道がない。
和令の端末のデータは、何も教えてくれない。
目の前にあるのは、自分の焦りと慢心が生み出した、完全なる「詰み」の風景だった。
秒読みが非情にカウントされる。
「――三十秒……四十秒……五十秒……」
指先が激しく震え、駒箱から取った歩が、指の間からポロリと畳の上にこぼれ落ちた。
何も見えない。
頭の中が真っ白になり、吐き気と絶望が全身を支配する。
四年前、三段リーグの最終局で味わった、あの息の止まるような暗黒が、完全に清麿を飲み込んでいた。
「一、二、三、四、五……」
記録係の声が、遠くで聞こえる。
もう、指す手はどこにも残っていなかった。
清麿は両手を畳の上に落とし、ガタガタと肩を震わせながら、絞り出すように頭を下げた。
「……負け、ました」
八十六手。
光星杯四回戦。
加藤清麿の快進撃は、老獪なベテランの手によって、あまりにも呆気なく、無残に叩き折られた。
「ありがとうございました」
佐久間七段が静かに一礼し、扇子をパチンと閉じた。
その顔には、勝利を誇る色も、相手を見下す色もなかった。ただ、深い哀愁と敬意の混ざった瞳で、項垂れる清麿を見つめていた。
「……加藤さん」
「……っ」
「あんたの将棋は、確かに恐ろしく強い。だがね……将棋という盤上の宇宙は、教科書に載っている道だけじゃないんだよ」
佐久間は立ち上がり、静かに言葉を落とした。
「答えのない暗闇を、自分の足で手探りで歩く覚悟がない者は……いつか必ず、この畳の上で足をすくわれる。……いい薬にしなさい」
衣擦れの音を残し、佐久間が対局室を去っていく。
部屋に残されたのは、記録係が淡々と記入するペンの音と、清麿の荒い呼吸だけだった。
公式記録用紙の文字が、滲んで見えた。
『光星杯四回戦 勝者:佐久間信孝七段』
『敗者:加藤清麿アマ(光星杯敗退)』
『プロ棋士編入試験対象成績:通算3勝1敗』
終わった。
光星杯のトーナメントから、完全に脱落したのだ。
賞金も、ベストフォーの栄光も、すべてが指の隙間から砂のようにこぼれ落ちて消え去った。
全身の力が抜け、清麿はしばらくの間、青畳の上に額を擦りつけたまま、起き上がることができなかった。
千駄ヶ谷の夕暮れは、血のように赤かった。
将棋会館の正面玄関を出ると、冷え始めた夜風が、汗にまみれた清麿のシャツを容赦なく凍えさせていく。
鳩森八幡宮の鳥居の脇。
古びた木製ベンチの前に、銀と藍色のライダースーツを着た少女が立っていた。
加藤和令。
彼女は腕を組み、長い黒髪を風になびかせながら、虚空を睨みつけていた。
清麿の足音が近づいても、和令はいつものように「遅いわよ、雑魚先祖」と毒づくことはなかった。
ただ、沈痛な色を宿した瞳を、ゆっくりと清麿へと向けた。
「……負けたわね」
低く、乾いた声だった。
「…………ああ」
清麿は視線を地面に落としたまま、掠れた声で答えるのが精一杯だった。
惨めだった。恥ずかしかった。
あれほど大口を叩き、「俺が読み切る」と豪語していた結果が、この無様な完敗だ。
二人の間に、重苦しい沈黙が落ちる。
春の冷たい夜風が、敗者の肩を無慈悲に吹き抜けていった。
読んでいただきありがとうございます。
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