EP 3
『俺は、あの頃の俺じゃない』
特別対局室の静寂を切り裂いた轟音の余波が、まだ青畳の隙間に燻っていた。
本榧の盤上、武田宗一六段が叩きつけた一手。それは、自陣の要であった金銀の連結を自ら力任せに引きちぎり、清麿の玉の頭上へ向けて無理やり活路を開きにいく、狂気じみた「自爆特攻の勝負手」だった。
天井のエアコンが微かに唸る音。
武田の肩が激しく上下し、獣のような荒い呼吸が、湿り気を帯びて盤面へ吹きつけられていた。
(……アーカイブに、ない)
清麿は膝の上の拳を白くなるほど握りしめ、冷や汗が背筋を伝い落ちるのを感じていた。
三百年後の完全定跡アーカイブ。その膨大な樹形図の中で、武田の放ったこの一手は、最初の数手で完全に枝刈りされ、破棄されていた。なぜなら、未来の超高度な論理計算からすれば、自陣の守備駒をかなぐり捨てて突撃するこの手は、「自玉の寿命を一気に縮めるだけの完全な大悪手」としか判定されないからだ。
だが――盤の向こうに座る武田の眼光は、悪手を指した人間のそれではない。
形勢の損得など知るものか。最善のレールなど犬にでも食わせてしまえ。泥水を啜り、自分の肉を完全に削らせてでも、相手の骨を砕いて共倒れの闇へ引きずり込んでやる――歴戦のプロ棋士が四十年の人生を賭して絞り出した、勝負師の狂気そのものだった。
「……どうした、加藤」
武田の喉から、低く濁った掠れ声が漏れた。
「自慢の綺麗な手順は、ここで終わりか? ……プロの盤上はな、綺麗な図面通りには進まんのだよ!」
ズキリと、胃の奥が痛烈に軋んだ。
十年前の三段リーグの記憶が、黒い霧のように脳裏を侵食し始める。
優勢を築いたはずなのに、相手のなりふり構わぬ勝負手に怯え、怖くなって安全策を選び、自ら形勢を手放して自爆していった、あの無数の敗北。
(またなのか……? 俺はまた、ここで怖気づいて逃げ出すのか……?)
その頃、二階の控室。
有線モニターで対局を見守るプロ棋士たちと、記者の神崎澪の間にも、息の詰まるような緊張が走っていた。
「……武田先生の真骨頂が出たな」
ベテランの棋士が腕を組み、唸るように呟いた。
「形勢は明らかに加藤アマ勝勢だった。だが、武田先生が自陣を壊して放ったあの勝負手……あれはAIの評価値では測れない、人間相手の猛毒だ。受ける側からすれば、一歩間違えれば即死する地獄の迷路に見える」
「加藤さんの手が、完全に止まりました」
神崎澪が手帳のペンを握りしめ、険しい眼差しで画面を見つめる。
「持ち時間は武田六段が残り十五分、加藤さんはまだ四十分残っています。ですが……この長考は、かつて三段リーグで加藤さんが見せていた『恐怖による硬直』と同じに見えます」
ネットのテキスト速報のコメント欄も、不穏なざわめきに包まれていた。
『武田先生の鬼の泥沼流きたあああ!』
『加藤アマ、急に手が止まったぞ!?』
『AIの評価値は加藤+2000点だけど、人間には指せない変化ばっかりだ』
『やっぱりプロの修羅場をくぐってきたベテランの執念は違う。元奨励会員じゃ、このプレッシャーには耐えられないか……!?』
「――加藤アマ、考慮時間二十分経過」
記録係の無機質な声が、対局室の静寂に落ちる。
清麿の視界が、白く霞みかけていた。
盤面を見れば見るほど、武田の捨て身の攻め駒たちが、凶暴な槍となって自分の玉へ突き刺さってくるように見える。
自陣の銀を引いて手堅く受ければ、一時的に危険は去る。だが、その瞬間に手番を武田に渡すことになり、盤面は泥沼の長期戦へと縺れ込む。
かつての清麿なら、迷わずその銀引きを選んでいただろう。そして、相手の泥臭い気迫に呑まれ、少しずつリードを削り取られ、最後には自滅して盤にしがみつきながら泣いていたはずだ。
(退けば、助かるのか……? 本当に、それで勝てるのか……?)
自問自答の渦の中、心臓が早鐘のように肋骨を叩く。
その時だった。
『――何情けない顔してんのよ、雑魚先祖!!』
鼓膜の奥で、カッと雷鳴のような罵声が弾け飛んだ。
今朝、アパートを出る前に和令が放った言葉。そして、あの日ベランダでドロップキックを食らった瞬間から今日まで、何度も何度も浴びせられてきた、生意気で不器用なあの少女の声。
『過去から逃げ回る負け犬のままじゃ、千代おばあちゃんも、傷つけた人たちも、三百年後の私も、誰も救われないわ! 証明しなさいよ、あんたがもう、あの頃の雑魚じゃないってことをね!!』
ハッと、清麿の息が止まった。
視界を覆っていた黒い霧が、音を立てて吹き飛んでいく。
(……そうだ)
清麿は目を閉じ、深く、深く息を吸い込んだ。
逃げて、何を守るというのだ。
傷つくのが怖くて、負けるのが怖くて、大切な人たちの手を自ら振りほどいて逃げ出した、あの四年前の自分。
その弱さが妹の千代に過酷な地獄を背負わせ、三百年先の子孫まで破滅の底に沈めようとしていたのではないか。
武田六段の言う通りだ。
自分の将棋は綺麗すぎた。才能に溺れ、泥臭く戦う覚悟を持たず、盤上の恐怖から目を逸らし続けてきた。
だが――。
(俺はもう、あの頃の俺じゃない)
清麿は目を見開いた。
濁りのない、透き通った瞳が、盤上の四十枚の駒を捉える。
武田の放った狂気の勝負手。自陣を崩壊させ、清麿の玉に刃を突きつけてきたその一手。
確かに、恐ろしい。一歩間違えれば即死する。
だが――冷静に、冷徹に盤面全体を俯瞰すれば、自陣を破壊した武田の玉陣には、もはや一枚の守備駒も残っていないのだ。
(相手が命を捨てて突っ込んできたなら……受けるんじゃない。その命を、真正面から刈り取るんだ!)
未来の定跡アーカイブが教える『絶対不敗の受け潰し』。
それは、ただ縮こまって守ることではない。相手の攻めを最小限の犠牲で空振りさせ、相手が最も無防備になったその刹那に、急所を刺し貫く刃のことだ。
清麿の頭の中で、十年間の研鑽と、未来の知性と、今日まで積み重ねてきた覚悟が、ひとつの美しい光の線となって結実した。
「――三十五分経過」
記録係が声を上げる直前、清麿の右手が疾風のように動いた。
退くのではない。自陣の銀を引いて受けるのではない。
清麿は自陣に控えていた角を力強く掴み取ると、武田の玉の退路を断つ絶妙な間隙へと、容赦なく叩きつけたのだ。
――バシィィィッ!!
対局室の空気を震わせる、澄み切った駒音。
「…………っ!?」
武田宗一の体が、ビクリと凍りついた。
眼鏡の奥の瞳が、見開かれたまま動かなくなる。
攻め合い。
自らの玉への危険を百も承知で、相手の玉の喉元へ一歩早く刃を届かせる、冷徹無比な踏み込み。
「お前……受けないのか……!? この局面で、踏み込んでくるというのか……!?」
武田の喉から、掠れた叫びが漏れる。
武田は歯を食いしばり、自慢の攻め駒を清麿の玉頭へと叩き込んできた。王手。これで清麿の玉陣は崩壊するはずだった。
しかし――。
清麿の応手は、氷のように滑らかだった。
――パシッ。
玉を自ら斜め前、中段の戦場へと一歩進める。
武田の攻め駒の射線を、あらかじめ配置されていた清麿の金銀がミリ単位の精度で遮断し、王手がピタリと止まる。
「なっ……!?」
「武田先生」
清麿は静かに顔を上げ、武田の目を真っ直ぐに見据えた。
「あなたの仰る通り、俺は才能に溺れ、脆くて逃げ出すだけの雑魚でした。……でも、俺をもう一度盤の前に引き戻し、信じてくれた人たちがいます。だから――俺は二度と、盤の上から逃げません」
清麿の右手が、最後の引導を渡すために伸びた。
大駒を捨て、手番を奪い、敵玉の退路をすべて消滅させる。
手数にして、わずか五手。
寸分の狂いもない、完璧な即詰み手順が盤上に描かれた。
そして――七十八手目。
清麿は手元に残っていた銀を、武田の玉の頭上へと、そっと静かに打ち下ろした。
――パチリ。
「…………」
特別対局室から、すべての音が消え去った。
武田宗一は、盤上に両手をついたまま、微動だにしなくなった。
肩で息をしていた男の呼吸が、ゆっくりと、静かに整っていく。
自らの玉の頭上に打ち込まれた一枚の銀。逃げ道は、どこにもなかった。
一分、二分。
やがて、武田は深く、長く息を吐き出すと、ゆっくりと背筋を正した。
その顔から、先ほどまでの鬼気迫る殺気は完全に消え去っていた。代わりに浮かんでいたのは、すべてを出し尽くした勝負師の、清々しい諦念だった。
武田は両手を畳につけ、深々と頭を下げた。
「……参り、ました」
重厚な、濁りのない投了の声。
七十八手。
千駄ヶ谷の重鎮・武田宗一六段が、己の誇るすべての泥臭い執念をぶつけ、そして完敗を認めた瞬間だった。
「……ありがとうございました」
清麿もまた、畳に額を擦りつけるようにして頭を下げた。
その瞬間、全身から一気に熱が抜け、指先が激しく震え出した。
勝った。
自分を「才能だけでは勝てない」と切り捨て、トラウマの象徴だった男に、逃げることなく、己の読みで真っ向から勝ち切ったのだ。
襖が静かに開き、記録係が公式記録用紙にペンを走らせる。
『光星杯三回戦 勝者:加藤清麿アマ』
『プロ棋士編入試験対象成績:通算3勝0敗』
感想戦が始まった。
武田は盤上の駒を動かしながら、ふっと自嘲するように口元を緩めた。
「……完敗だよ、加藤」
武田は清麿の目をじっと見つめた。
「あの六十手目の踏み込み……昔のお前なら、絶対に銀を引いて逃げていた。そして、俺の泥沼に呑まれて自滅していたはずだ。……だが、今日のお前は一歩も引かなかった。俺の捨て身の勝負手を、正面から見切って、最短で首を刈りにきた」
武田は大きく頷き、穏やかな笑みを浮かべた。
「俺の言った言葉を、ずっと恨んでいたんだろう。……すまなかったな」
「いえ……! 武田先生のあの言葉があったからこそ、俺は自分の甘さに気づくことができました」
「フッ、綺麗事を言うな。だが……お前はもう、あの頃の加藤じゃない。技術だけじゃない、本物の勝負師の魂が宿っている。……強くなったな、加藤」
かつて自分を否定した男からの、最高の賛辞。
清麿の胸の奥底で、十年間にわたって凍りついていた何かが、温かい涙となって溶け落ちていくようだった。
*
対局を終え、将棋会館の外へ出た頃には、雨はすっかり上がり、夕暮れの茜色の空が千駄ヶ谷の街を染め上げていた。
涼やかな風が、火照った清麿の頬を心地よく冷ましていく。
鳩森八幡宮の鳥居の脇。
自販機の横に置かれたベンチで、銀と藍色のライダースーツを着た和令が、退屈そうに透明端末を弄んでいた。
清麿の足音に気づくと、和令は画面をパチンと消し、スッと立ち上がって腕を組んだ。
「……遅かったじゃないの、雑魚先祖」
ツンと顎を上に向けて、いつものように鼻から大きく息を噴き出す。
「七十八手で終わったくせに、感想戦で何を油売ってたわけ? こっちはお腹が空いて、ナノスーツのエネルギー警告が点滅してんだけど」
「武田先生が、丁寧に感想戦をしてくださったんだよ。……おい、和令」
「なによ」
清麿はベンチの前に立ち、夕暮れの空を見上げた。
「勝ったぞ。武田六段に……公式戦、三連勝だ」
和令はふんと鼻を鳴らした。
「当たり前でしょ。あんたが六十手目でチキンになって逃げ出したら、今夜こそアパートの部屋から荷物を全部ベランダへ放り投げてやろうと思ってたわよ」
減らず口を叩く和令。
だが、夕日を浴びたその大きな瞳の奥には、誰よりも清麿の勝利を誇らしく思う、温かな光が灯っていた。
「これで通算三勝〇敗……編入試験の十勝まで、あと七勝ね」
「ああ。あと七勝だ」
「調子に乗らないことね! 次は光星杯の四回戦……ベストフォーを懸けた大一番よ! 相手はさらに手強いベテランが勝ち上がってくるんだから!」
「分かってるよ。……さあ、帰ろう。今夜は納豆だけじゃなくて、卵も落としてやるよ」
「卵一個でドヤ顔するんじゃないわよ、この貧乏先祖!!」
二人の笑い声が、春の夕暮れの街へ溶けていく。
過去の亡霊を断ち切り、力強く前へと進み始めた加藤清麿。
だが、この時の二人はまだ知らなかった。
未来の定跡という最強の武器が、次なる戦場で、冷酷な「限界」を突きつけてくることになるということを。
読んでいただきありがとうございます。
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