【第三章 プロ棋士編 〜泥沼の人間と未来の相棒〜】(
盤上のサイコパス
東京・将棋会館、特別対局室。
加藤清麿のプロ四段としてのデビュー戦(竜将戦・一次予選)には、平日にもかかわらず多くの報道陣が詰めかけていた。
対局相手は、武田六段。45歳。
「鉄板の武田」の異名を持ち、泥臭く粘り強い受け将棋で長年プロの世界を生き抜いてきたベテランである。
「……フン。編入試験で話題になったからといって、調子に乗るなよ、新人」
上座で腕を組む武田は、露骨な敵意を向けていた。
彼のような苦労人からすれば、一度奨励会を逃げ出した男が、世間の熱狂と特例でプロの座を手にしたこと自体が我慢ならないのだ。
だが、下座に座る清麿は、ピクリとも反応しなかった。
目は虚ろに濁り、呼吸の音すら聞こえない。
武田の嫌味など、そもそも音声として認識していないかのような、完全な『虚無』。
(……気味の悪い野郎だ。だが、俺の鉄壁の守りを前に、その無表情がいつまで続くかな)
「お願いします」
両者の挨拶と共に、対局が開始された。
序盤。
武田は自陣をガチガチに固める『穴熊』と呼ばれる強固な陣形を構築していく。王将を盤の隅に隠し、金銀で分厚い壁を作る、現代将棋において最も堅い城だ。
並の棋士なら、この城を崩すだけで膨大な時間と労力を削られる。
一方の清麿は、過去の対局と同じように、定跡から外れた奇妙な陣形を敷いていた。
しかし、それをモニター越しに見ていた控室のプロ棋士たちは、首を捻っていた。
「……おい。加藤の陣形、いくらなんでも酷すぎないか?」
「ああ。あれじゃあ、王将の周りがスッカスカだ。素人でもあんな陣形は組まないぞ」
そう。清麿の陣形は、以前のような「泥沼で罠を張る」というレベルを通り越し、ただただ**「自らの玉の命綱を、自らの手で切り刻んでいる」**ようにしか見えなかった。
そして、42手目。
「……は?」
武田六段の口から、素っ頓狂な声が漏れた。
清麿が指した一手。
それは、自らの王将の頭上を守っていた最後の砦である『銀』を、何の意味もなく盤の端へ捨て去るという、常軌を逸した手だったのだ。
【評価値:武田勝率 95%】
控室のAIも、清麿の手を「即死レベルの最悪手」と判定し、武田の圧倒的優勢を告げた。
(なんだ……こいつ、狂ったのか!?)
武田は混乱した。
この銀がいなくなれば、清麿の玉は完全に丸裸だ。武田の飛車が突っ込めば、一瞬で首が飛ぶ。
罠か? いや、どんな罠があろうと、自らの王将をここまで無防備に晒すなど、将棋というゲームの根幹を否定する自殺行為だ。
武田は恐る恐る、清麿の顔を覗き込んだ。
焦っているのか。それとも、とんでもない罠を仕掛けてほくそ笑んでいるのか。
違った。
清麿は、1ミリも表情を変えていなかった。
瞬き一つせず、ガラス玉のような瞳で盤面を見つめている。
自らの王将が今まさに殺されようとしているのに、心拍数すら上がっていない。
その異様な姿を見た瞬間、武田の背筋に、ブワッと鳥肌が立った。
(……こいつ、人間じゃない)
武田はようやく理解した。
加藤清麿がなぜ、世間から『感情を失った怪物』と呼ばれているのか。
彼は、未来の答えを知っているから強いのではない。
人間が本能的に持っている「恐怖」や「自衛本能」。
「王様を殺されたくない」「安全な道を選びたい」という、棋士なら、いや人間なら誰しもが抱く『常識』。
清麿は、その人間としての生存本能を完全に脳から『切除』しているのだ。
だからこそ。
未来のAIが提示する「一時的に自陣が完全に崩壊するが、50手後に必ず勝てる」という、人間には恐怖で絶対に踏み込めない狂気のルート(基本図)を。
この男は、1ミリの躊躇もなく、ノータイムで盤上に構築することができるのだ。
「ひっ……!」
武田の指が震え始めた。
清麿の玉は裸だ。首を刎ねることはできる。
だが、その首を刎ねようと踏み込んだ瞬間、自分はこの狂人が用意した『人間には理解できない未来のデスゲーム』に引きずり込まれる。
怖い。殺される。
ベテランの意地も、強固な穴熊の自信も、目の前の『盤上のサイコパス』が放つ異常な冷気によって、完全にすり潰されていた。
「……あ、ああ……」
武田は、清麿の裸の玉に飛びつくことができなかった。
恐怖から、安全に逃げようとする無難な手を指してしまった。
その瞬間。
「……セットアップ(誘導)、完了」
清麿の、機械合成音のような平坦な声が響いた。
パチリ。
今まで無防備だった清麿の陣形が、武田の「逃げ」の手をトリガーにして、巨大な捕虫網のように反転し、武田の鉄壁の穴熊に襲いかかった。
「……え?」
【評価値:加藤勝率 99.9%(詰み)】
モニターの評価値が、一瞬にしてひっくり返る。
そこから先は、ただの作業(処刑)だった。
一切の感情を持たない清麿の0.0秒の指し手が、武田の誇りを、人生を、文字通り物理的に解体していく。
「あぁっ……やめろ、やめてくれぇっ……!!」
52手後。
対局室に、武田六段の泣き叫ぶような投了の声が響き渡った。
控室のプロ棋士たちは、誰も言葉を発することができなかった。
圧倒的な強さへの称賛ではない。
あんな狂った将棋を指すバケモノが、自分たちと同じプロの世界(鬼の棲家)に入り込んできたことに対する、純粋な戦慄。
「……加藤清麿は、盤上のサイコパスだ」
誰かが呟いたその言葉は、またたく間に将棋界全体へと伝播していくことになる。
だが、当の清麿は。
記者たちの無数のフラッシュを浴びながらも、一切の歓喜を見せることなく、ただ無機質に、次の対局に向けて自らのシステムをスリープモードへと移行させていた。




