EP 2
『才能がないと言った男』
千駄ヶ谷の陽光が、特別対局室の障子を淡く透かして青畳の上に白く広がっていた。
張り詰めた静寂の底で、エアコンの微かな送風音と、記録係が捲る棋譜用紙の乾いた摩擦音だけが規則正しく落ちている。
加藤清麿は、深く沈み込むような姿勢で下座に正座し、本榧の盤面を凝視していた。
初手▲7六歩、二手目△3四歩。
そこから、互いに角道を開け、飛車先を突くでもなく、自陣の歩を静かに押し上げる。
盤を挟む対面の武田宗一六段は、黒の羽織袴の裾を微塵も乱さず、両腕を膝の上にどっしりと据えていた。その姿は、千駄ヶ谷の盤上に何十年も根を張り続けてきた古木のように動かない。
駒をひとつ進めるたびに、武田の全身から放たれる重苦しい威圧感が、畳を伝って清麿の膝へとのしかかってくる。
(……重い)
清麿は奥歯を噛み締めた。
新進気鋭の吉沢四段の鋭利な若さとも、理論派の桐生五段が放っていた冷徹な刃とも違う。
泥水を啜り、何千局もの敗北と勝利の痛みを骨の髄まで染み込ませてきた、四十二歳のベテランプロ棋士の重圧。
清麿の脳裏の底に、十年前――奨励会三段リーグの対局室の風景が、冷たい泥のように蘇っていた。
『加藤。お前の将棋は綺麗だが、中身が軽すぎる。……才能だけで勝てるほど、プロの世界は甘くないぞ』
かつて、三段リーグで連勝街道を走り、自分が天才であると信じて疑わなかった十代の清麿に対し、指導対局の席で武田が吐き捨てた言葉だった。
あの日の清麿は、その言葉を激しい屈辱とともに拒絶した。
おじさんの嫉妬だ、泥臭い将棋しか指せない凡人の負け惜しみだと、心の中で嘲笑い、唾を吐きかけた。
だが、現実は残酷だった。
綺麗に勝とうとし、形勢がもつれると焦り、泥沼の戦いに引きずり込まれると自分から心を折って自爆する。
武田の予言通りに、清麿は二十六歳の春、プロの扉に指一本触れられないまま奨励会を強制退会となったのだ。
そして自暴自棄になり、自分を信じて支えてくれていた理央の手を振り払い、暴言を吐いて逃げ出した。
(俺は、才能に溺れて、すべてを壊した)
胸の奥が熱く疼く。
だが、今の清麿の瞳には、あの頃の青臭い怒りも、自分を憐れむ濁った涙もなかった。
膝の上の拳をぎゅっと握りしめ、清麿は息を静かに吐き出した。
(怒るな。過去を恨むな。……今の俺が指すべき手は、ただ一つだ)
武田が選んだ作戦は、現代将棋の古典にして最強の要塞――『矢倉囲い』だった。
桐生戦で清麿が見せた「二十五手目の玉上がり」や「端角」といった急戦調の構想を完全に封じ込めるため、自陣の金銀三枚を金城湯池の形に組み上げ、中央をがっちりと塞ぎ止める持久戦の構え。
相手がどんな奇手を繰り出してこようと、分厚い盾で受け止め、自慢の腕力でねじ伏せる。武田宗一という男の生き様をそのまま盤上に並べたような、重厚極まりない布陣だった。
同じ頃、二階の控室。
大型モニターに映し出される盤面を、将棋専門誌記者の神崎澪や、手合のない若手棋士たちが食い入るように見つめていた。
「武田先生、完全に自分の土俵に引きずり込みましたね」
若手の奨励会員がモニターの評価値グラフを見ながら呟く。
「加藤アマの得意な、序盤で相手の研究を破壊する奇襲手順が一切使えない形です。金銀がこれだけガチガチに引き締まった矢倉を組まれたら、小細工なんて何一つ通用しない」
「ええ……」
神崎澪は手帳を握りしめ、険しい表情でモニターを見上げていた。
「武田六段の狙いは、精神戦よ。加藤さんの過去の弱点――局面が長期戦になり、膠着状態に陥った時の『焦り』を徹底的に突く気だわ」
ネットのテキスト速報のコメント欄でも、固唾を呑む空気が広がっていた。
『武田先生の矢倉、岩石みたいに堅い』
『加藤アマの超立体玉構想、完全に封じられたな』
『この泥沼に引きずり込まれたら、いくら新手を持っててもアマチュアには耐えられないぞ』
しかし――。
対局室の静寂の中、加藤清麿の指先は、迷うことなく滑らかに動いていた。
パチリ。
清麿が指したのは、自陣の銀をふわりと中央へ引きつけ、玉の守りをわずかに補強する、驚くほど地味な一手だった。
「……ん?」
武田の眉が、わずかにピクリと動いた。
武田の読み筋では、加藤清麿という男は、相手が堅陣を組めば組むほど、自らの鋭利な才能を誇示するかのように無理な攻め筋を模索してくるはずだった。
派手な歩の突き捨て、強引な桂馬の跳躍、大駒を飛び出させる牽制。
そうした「軽薄な攻め」をじっと待ち構え、カウンターの一撃で粉砕する――それが武田の描いていた必勝のシナリオだった。
だが、清麿は攻めてこない。
それどころか、相手の堅陣を前にして、まるで水が隙間に染み渡るように、自陣のバランスをミリ単位で整え直している。
(……矢倉、後手組換型)
清麿の脳裏の暗闇に、三百年後の『完全定跡アーカイブ』の青白い樹形図が静かに広がっていた。
『相手が矢倉で引きこもって、あんたの焦りを誘おうとしてきたらね』
アパートの六畳間で、腕を組んでツンと顎をそらしていた和令の声が、鮮明に鼓膜を叩く。
『無理にこじ開けようとしちゃダメなのよ。未来将棋の戦術コンセプト――「パターンC・超長手数の時限爆弾」よ。相手が最も堅いと自負してるその囲い、二十手後に自ら息苦しくなるように、外側から見えない糸で縛り上げてやりなさい』
清麿は呼吸を乱さず、一手一手、着実に駒を進めた。
現代の感覚では、手番を浪費しているように見える自陣の金引き。
反対側の端歩を、相手に取らせるわけでもなく、ただ一歩だけ押し上げる不可思議な間合いの調整。
四十手を過ぎた頃、武田の額に、じわりと嫌な汗が滲み始めた。
(……なんだ、これは?)
武田の指先が、扇子の上で微かに止まる。
先手の矢倉囲いは、確かに堅い。駒の連結も完璧で、どこにも隙はないはずだった。
だが――清麿の陣形に、攻めかかる隙がどこにも見当たらないのだ。
右から攻めようとすれば清麿の角が遠くから睨みを利かせ、中央から押し出そうとすれば先ほど清麿が引いた自陣の金が絶妙な壁となって侵入を許さない。
攻め手がない。
堅い殻に閉じこもったのは武田の方だったはずなのに、気がつけば、自陣の分厚い金銀たちが、前にも進めず、横にも動けず、自らの玉の視界を塞ぐ「重たい障害物」に変わり始めていた。
(手がない……? この私が、手詰まりに陥っているというのか……!?)
武田の喉が、引き攣るように鳴った。
清麿は一度として派手な手を放っていない。大駒の切り捨てや奇襲の一手など、何一つ指していないのだ。
ただ、淡々と、正確無比に、三百年後の結論に従って盤面の要所を制圧し続けている。
五十手を過ぎた局面。
清麿の指先が、静かに盤の端へと伸びた。
――バシィッ。
清麿が放ったのは、自らの歩を、武田の守備駒の繋ぎ目へとぽつりと落とす、静謐なクサビの一手だった。
「…………っ!?」
武田の体が、ビクリと跳ねた。
取れば、自慢の金銀の連携が崩壊する。
取らなければ、次に桂馬を打ち込まれて玉陣が完全に窒息する。
二十手前、清麿が無駄に思えるほど地味に自陣を引き締めていたあの手順のすべてが、この一マスのクサビを成立させるためだけに寸分の狂いもなく結びついていたのだ。
「馬鹿な……! こんな悠長な構想が、現代の矢倉に通じてたまるか……!」
武田の目が血走り、荒い息が羽織を震わせる。
だが、清麿の瞳は、どこまでも澄み切っていた。
かつて武田に「才能だけでは勝てない」と切り捨てられた男が、いま、三百年分の圧倒的な研究と、自らの痛みを越えた沈着な精神力によって、歴戦のプロ六段を盤上でじわじわとすり潰していた。
控室のモニター前で、若手棋士たちが言葉を失っていた。
「……信じられない。あの武田先生の矢倉が、一歩も動けなくなっている……」
「加藤アマ、一手も無理攻めをしていないぞ。相手の頑強な囲いを、外側から完全に受け潰して、窒息させにいっている」
「これが……元奨励会三段の指し手なのか……!?」
ネットのコメント欄も、驚愕の叫びで埋め尽くされていく。
『武田先生が完全に固まってる』
『加藤清麿、派手な奇襲だけじゃなくて、こんな重厚な将棋まで指せるのかよ』
『本物の化物だ……!』
六十手を過ぎた。
清麿の優勢は、もはや誰の目にも明らかだった。
盤面を完全に制圧し、武田の攻め駒を立ち往生させ、あとは最短の手順で敵玉を刈り取るだけの局面。
(勝てる……!)
清麿の心臓が、微かに跳ね上がった。
過去の亡霊を、武田宗一という巨大な壁を、ついに乗り越える時が来たのだと。
――しかし。
プロの世界の深淵は、未来の定跡アーカイブの計算すらも超えたところで、牙を研ぎ澄まして待っていた。
「……ふ、ふふ」
盤の向こうから、低く濁った笑い声が漏れた。
清麿がハッと顔を上げると、武田宗一が汗まみれの顔を歪め、鬼のような形相で清麿を睨みつけていた。
「……見事だよ、加藤。お前の将棋は、確かに変わった。昔のお前のような軽さは微塵もない」
武田は震える手で、自陣の底深くに眠っていた一枚の歩を掴み取った。
「だがな……お前はまだ、知らんのだよ。この千駄ヶ谷の畳の上で、何十年も泥水を啜って生き残ってきた人間の……本当の執念というやつをな!!」
――ズドォォォンッ!!
盤が割れんばかりの轟音とともに、武田が叩きつけた一手。
それは、清麿の頭の中にある三百年後の完全定跡のいかなる分岐図にも存在しない――自陣をわざと自ら崩壊させ、相手を道連れにして地獄の底へと引きずり落とす、狂気じみた「粘りの勝負手」だった。
「…………っ!?」
清麿の息が、喉の奥で凍りついた。
優勢だったはずの盤面が、一瞬で見たこともない暗黒の泥沼へと歪んでいく。
プロ六段・武田宗一の、命を削り出した反撃が、ここから始まろうとしていた。
読んでいただきありがとうございます。
面白いと思っていただけましたら、★評価やブックマークで応援していただけると励みになります。




