第三章『未来の答えを持っていても、負ける』
『プロ六段、武田宗一』
三月の終わりを告げる春雨が、千駄ヶ谷の銀杏の枝先を濡らしていた。
木造アパートの六畳間に差し込む光は淡く、開け放たれた窓の隙間から、湿り気を帯びた花の匂いと土の香りが微かに流れ込んでいる。
加藤清麿は、ちゃぶ台の上に置かれた一枚の和紙――日本将棋連盟から正式に郵送されてきた、公式戦の対局通知書を凝視していた。
『第四十八期光星杯・本戦トーナメント三回戦 対局通知』
墨黒の印字の横に並ぶ、自らの名前。
『加藤清麿アマ(元奨励会三段)』
そして、その対面に刻まれていた対戦相手の氏名を見た瞬間から、清麿の胃の奥は、鉛の塊を飲み込んだように重く軋み続けていた。
『武田宗一六段』
(……武田、先生……)
指先がわずかに冷たくなるのを自覚し、清麿は膝の上で両手を強く握りしめた。
桐生彰吾五段を破った一昨日の熱狂は、今もネットの海を騒がせ続けている。電波遮断の密室でプロ棋士を百十二手でねじ伏せ、公式戦通算二勝〇敗。プロ棋士編入試験の受験資格である「十勝」へ向けて、誰もが夢物語と笑ったはずの奇跡が、現実の数字として一歩ずつ刻まれ始めていた。
だが、次なる対局相手として現れたその名は、清麿にとって、単なる「次の関門」では済まされない重すぎる過去そのものだった。
「……ちょっと。朝から紙切れ一枚を睨みつけて、何のお通夜をしてんのよ、雑魚先祖」
背後から、容赦のない甲高い声が飛んできた。
銀と藍色のライダースーツの袖をまくり、和令が台所から片手鍋を提げて入ってくる。
「起きたならさっさと布団を押し入れに片付けなさい! 雨の湿気とあんたの陰気なオーラで、部屋の気圧が深海並みに下がってんだけど!」
「だから気圧は下がらねえって言ってるだろ……。それより和令、これを見ろよ」
「見なくても知ってるわよ。光星杯三回戦、武田宗一六段でしょ。私の端末のトーナメント表には、あんたが桐生を倒した瞬間に更新されてたわよ」
「知ってたなら、なんで先に言ってくれなかったんだよ!」
「言ったらあんたがビビって、昨夜のうどんの味が分からなくなると思ったから配慮してあげたんじゃないの!」
「余計なお世話だ! ……いや、配慮はありがたいけど、相手が武田六段だぞ!? 奨励会時代からずっと俺を見てきた、あの武田先生なんだぞ!」
「だから何なのよ! 相手が六段だろうが九段だろうが、こちとら三百年後の完全定跡を積んだ最強のチート船に乗ってんのよ! 新四段の吉沢、理論派の桐生と薙ぎ倒してきたくせに、今さら何を怯えてんのよ!」
「怯えてるんじゃない! ……やりにくいんだよ。昔の俺を、一番みっともなかった頃の俺を、隅々まで知ってる人なんだから……」
「はいはい、出ました過去のトラウマ! 三十歳のいい大人が、十年以上前の記憶に縛られてメソメソしてんじゃないわよ!」
「メソメソなんかしてない! お前には分からないんだよ、奨励会という場所の息苦しさが!」
「分からないわけないでしょ! 三百年後の加藤家が背負わされた借金の息苦しさに比べたら、あんたの過去の感傷なんて耳クソレベルの軽さよ!」
「耳クソって言うな! お前、本当に言葉のチョイスが世紀末だな!」
「世紀末じゃなくて三百年後よ! ほら、口を動かしてないで朝ごはんを食べる! 今日は特別に、もやしだけじゃなくて納豆を一パック奮発してあげたんだから!」
「納豆一パックで『奮発』って胸を張るな! ……まあ、食べるけどさ」
清麿はため息をつきながら、ちゃぶ台の上に置かれた白米と納豆、もやしの味噌汁に箸を伸ばした。
口喧嘩で気を紛らわせようとしても、胸の奥底で疼く古傷の鈍痛は、少しも消えてはくれなかった。
武田宗一六段、四十二歳。
現代の将棋界において「粘りの重鎮」と恐れられる、歴戦の研究派棋士である。派手なタイトル歴こそないものの、順位戦では常に上位に居座り続け、泥臭い力戦と徹底した相手研究で若手を苦しめてきた実力者。
そして――清麿が十代の神童と呼ばれ、奨励会三段リーグで天狗になっていた頃、手痛い指導対局の果てに、氷のように冷たい言葉を突きつけてきた男だった。
『加藤。お前の将棋は綺麗だが、中身が軽すぎる。……才能だけで勝てるほど、プロの世界は甘くないぞ』
あの言葉を、清麿は長年、呪いのように恨み続けていた。
才能を否定された屈辱。自分の信じていた鋭利な踏み込みを「ただの軽薄」と切り捨てられた悔しさ。
だが、本当に清麿の胸を抉り、今も血を流し続けさせているのは、武田の言葉そのものではなかった。
その言葉の正しさを、二十六歳の春――年齢制限による強制退会という最悪の形で証明してしまった、自分自身の無力さだった。
(……あの頃の俺は、本当に最悪だった)
納豆をかき混ぜる清麿の指先が、微かに震える。
退会が決まり、精神が粉々に砕け散ったあの日々。
自暴自棄になり、酒に溺れ、周囲の人間すべてに八つ当たりを繰り返していた。
そして何より――当時、何の実績もない清麿を信じ、生活を支え、献身的に尽くしてくれていた恋人・佐倉理央の存在。
『お前なんかに、俺の惨めさが分かってたまるか! 同情なんかされたくない、顔も見たくない、消えろ!』
泣き崩れる彼女の顔を見ることすら恐れ、最悪の怒声を浴びせ、逃げるようにアパートを引き払い、携帯の番号を変えて一方的に姿を消した。
弱さゆえに、一番大切な人を自らの手で踏みにじり、傷つけて逃げ出したという激しい悔恨。
その記憶の引き金が、奨励会時代の象徴である「武田宗一」という名によって、容赦なく引かれていた。
「……おい、箸が止まってるわよ、雑魚先祖」
向かい側に座る和令が、ジト目で清麿の顔を覗き込んできた。
いつもの嘲笑うような色はない。漆黒の瞳の奥に、どこか探るような、複雑な光が揺れていた。
「……悪い。昔のことを、少し思い出してただけだ」
「昔のことねぇ。……あんたが奨励会をクビになった時、泣き喚いて暴れて、周りの人を全員突き放して逃げ出したってやつ?」
「っ……! お前、それまで記録に残ってるのかよ……」
「未来のデータベースを舐めないでちょうだい。あんたの転落人生の年表なんて、反面教師のサンプルとして太字で載ってんのよ」
和令はそう言って鼻を鳴らしたが、視線を落とし、マグカップの白湯を両手で包み込んだ。
「……でもね、清麿。過去は消えないわよ。あんたがどれだけ悔やんでも、傷つけた相手の涙も、逃げ出した弱さも、なかったことにはできない」
「……ああ。分かってる」
「だったら、今できることは一つだけでしょ」
和令は顔を上げ、清麿の目を真っ直ぐに見据えた。
「盤の前から逃げないことよ。あんたが過去から逃げ回る負け犬のままじゃ、千代おばあちゃんも、傷つけた人たちも、三百年後の私も、誰も救われないわ。……武田六段を倒して、証明しなさいよ。あんたがもう、あの頃の雑魚じゃないってことをね」
清麿は息を詰めた。
毒舌の裏に隠された、不器用な激励。
清麿は深く息を吸い込み、冷めかけた味噌汁を一気に飲み干した。
「……言われなくても、そのつもりだ」
対局当日。
四月の初夏を思わせる陽光が、千駄ヶ谷の将棋会館を白く照らし出していた。
会館のエントランスには、前回の桐生戦ほどの物々しい金属探知ゲートこそなかったが、光星杯本戦の注目カードを一目見ようと、多数の報道陣とファンが詰めかけていた。
四階、特別対局室。
青畳の上に座る加藤清麿の対面には、すでにその男が腰を下ろしていた。
武田宗一六段。
年季の入った黒の羽織袴を身に纏い、短く刈り込まれた白髪交じりの頭を微動だにさせず、盤面を見つめている。
彫りの深い顔立ち、分厚い手、そして何十万時間もの孤独な研究に耐え抜いてきた者だけが放つ、重戦車のような重圧。
「……加藤」
武田が口を開いた。低く、濁流のように地を這う声。
「お久しぶりです、武田先生」
清麿が深々と頭を下げると、武田は眼鏡の奥の鋭い眼光を、清麿の額へと突き刺してきた。
「四年ぶりか。……風の噂には聞いていたが、まさか本当にお前が、公式戦のこの場所に座るとはな」
「……」
「吉沢を破り、桐生をねじ伏せた。世間はお前を『覚醒した神童』と持て囃しているようだが……加藤、俺はお前が十代の頃から、その脆さを知っている」
武田は扇子を膝の上で強く握りしめた。
「お前の将棋は、綺麗すぎる。自分の思い描いたレールの上を走っている時は強いが、ひとたびレールを外され、泥沼の暗闇に叩き落とされた時、お前はいつも自分から心を折って逃げ出していた」
古傷を抉るような言葉が、容赦なく清麿の胸を刺す。
「あの頃のお前から、何が変わった? 未知の新手を手に入れただけで、人間の中身まで変わったとでも思っているのか? ……プロの泥臭さを、お前に教えてやるよ」
圧倒的な威圧感。
一瞬、清麿の背筋に冷たい汗が伝い落ちた。
四年前のトラウマが、頭をもたげそうになる。
だが――清麿は、畳に置いた拳を白くなるまで握りしめ、ゆっくりと顔を上げた。
逃げない。
ここで怯んで目を逸らせば、自分は永遠に、あの日のボロアパートで絶望していた三十歳の無職のままだ。
「……武田先生」
清麿の声は、震えていなかった。
「仰る通りです。俺は弱くて、脆くて、大切な人たちを傷つけて逃げ出した最低の男です。……でも、俺はもう、逃げません。先生の泥臭い将棋、すべて真っ向から受け止めてみせます」
二人の視線が、盤上の中央で激しく交錯した。
「定刻となりました。対局を開始してください」
記録係の凛とした声が響く。
振り駒の結果、武田の先手、清麿の後手番と決まった。
武田が、骨太の指先で初手を放つ。
――バシィッ!!
▲7六歩。
盤を割らんばかりの重厚な駒音。
清麿もすぐに応じる。
――パシッ。
△3四歩。
光星杯三回戦。
過去の亡霊を断ち切り、プロへの道を切り拓くための、加藤清麿の戦いが幕を開けた。
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