EP 10
『将棋界が、加藤清麿を知った』
三月のやわらかな春風が、築四十年のアパートの窓ガラスをことりと鳴らしていた。
六畳間のちゃぶ台の上には、昨夜コンビニで買ってきた特売の食パンと、使い古しのマーガリンの容器が置かれている。
だが、部屋の主である加藤清麿は、朝食に一切手をつけないまま、小刻みに震える手でスマートフォンを握りしめていた。
画面から放たれる光が、寝癖のついた清麿の顔を青白く照らしている。
スクロールする親指が止まらない。
大手検索サイトのトップニュース、動画共有サイトのトレンドランキング、そして将棋連盟の公式ポータル。そのすべての最上位に、まるで信じられない文字列が並んでいた。
『【光星杯】元奨励会三段・加藤清麿アマ、理論派の旗手・桐生五段を百十二手で撃破!』
『完全オフライン、電波遮断の密室で起きた奇跡! AI不正疑惑を一局で完全払拭』
『桐生五段「完敗です。加藤さんの強さは紛れもない本物」と脱帽のコメント』
『四年の空白を超えた奇跡の復活! プロ棋士編入試験へ、開幕怒濤の二連勝!』
「……嘘、だろ……」
清麿の口から、掠れた声が漏れ出た。
夢ではない。
昨夜、千駄ヶ谷の特別対局室で、完全な情報遮断の静寂の中、桐生五段が深々と頭を下げて「参りました」と告げたあの瞬間。
あの瞬間の手の震え、駒の重み、畳の冷たさは、紛れもなく現実だった。
SNSのタイムラインは、前日までの激しいバッシングがまるで嘘だったかのように、手のひらを返した称賛の濁流で埋め尽くされていた。
『桐生先生がここまでハッキリ「本物」って認めるの、初めて見たぞ』
『電波遮断されてる部屋で一手一分の極限状態で勝ち切ったんだから、不正なんてあるわけない』
『四年前、年齢制限で三段リーグを去った加藤清麿が、まさか三十歳になってプロを連破するなんて熱すぎる』
『次の相手は誰だ!? このままプロ編入試験まで突っ走るんじゃないか!?』
かつて二十六歳で奨励会を追われ、社会の底辺で「何者でもないゴミ」として扱われ、スーパーの面接室で履歴書をペラペラとめくられながら嘲笑されていた男。
その男の名前が、いま、日本中の将棋ファンの胸を熱く焦がす熱狂の象徴として叫ばれていた。
胸の奥底がカッと熱くなり、指先が痺れるような高揚感に包まれる。
勝ったのだ。
俺は本当に、プロの壁をもう一度、自分の手でこじ開けたのだ。
「……ちょっと。朝っぱらからスマホの画面に向かってニチャニチャと締まりのない笑みを浮かべてんじゃないわよ、雑魚先祖」
背後から、容赦のない冷え切った声が飛んできた。
銀と藍色のライダースーツの裾をまくり上げ、和令が台所からマグカップを二つ提げて歩いてきた。
「起きたならさっさと布団を押し入れに放り込みなさいよ! 万年床の湿気で六畳間の気圧が下がってる気がするんだけど!」
「気圧は下がらねえよ! ……それに、ニチャニチャなんて笑ってないだろ! 少しは余韻に浸らせてくれよ、プロ公式戦二連勝だぞ!」
「たったの二連勝でしょ! 三百年後の加藤家再興ロードマップから見れば、まだスタートラインの白線に靴底の爪先をかすらせた程度の進捗よ!」
「爪先かすらせただけでも、俺にとっては人生最大の偉業なんだよ! ほら見ろよ、ネット中が俺の話題で持ちきりだぞ!」
「見なくても分かるわよ! 原始人どもが新しいオモチャを見つけて騒ぎ立ててるだけでしょ! ほら、温かい白湯を飲みなさい!」
「白湯かよ! プロに勝った翌朝くらい、せめてインスタントコーヒーくらい淹れてくれてもいいだろ!」
「インスタントコーヒーの粉なんて、昨日で底をついたでしょ! あんたが家賃八万四千円の支払いに追われてるせいで、我が家の嗜好品予算はゼロなのよ!」
「うっ……! そ、それを言われると……」
「だいたいね! 昨日の夜、大家さんに平謝りして『来週の原稿料と日当が入るまで待ってください』って土下座してきたのはどこの誰よ!」
「土下座はしてない! 四十五度の最も誠意ある角度で頭を下げただけだ!」
「それを世間では土下座の一歩手前って言うのよ! ほら、トーストを齧りなさい! 耳までしっかり咀嚼して顎の筋肉を鍛えるの!」
「トーストの耳で顎を鍛えさせるな! お前、本当に俺の子孫なのかよ……!」
「残念ながらあんたの情けない遺伝子を受け継いだ被害者よ! 文句があるなら三百年後に慰謝料請求しなさい!」
ギャーギャーと朝の静寂をぶち破るような口喧嘩を繰り広げながらも、清麿は差し出されたマグカップの白湯を一口啜った。
温かい湯が喉を通り、空っぽの胃袋に染み渡っていく。
口を開けば毒舌ばかりの生意気な小娘。
だが、昨日、完全オフラインの対局室に一人で向かう直前、鳩森八幡宮の境内で「あんたの手でしょ。胸を張りなさいよ」と背中を押してくれた少女の体温が、今も掌の奥に残っていた。
この少女が未来から降ってこなければ、自分はとっくにこの世から消えていたのだ。
トーストにマーガリンを薄く塗り広げながら、清麿はふと気になっていた将棋専門のWebメディアのアプリをタップした。
「……ん? なんだこれ」
「何よ、今度は別の悪口でも見つけたわけ?」
和令がトーストをサクサクと器用に小動物のように齧りながら、横からのぞき込んでくる。
「違う……。プロ棋士の解説記事だ」
画面には、昨日の桐生戦の棋譜を、将棋連盟のベテラン棋士や気鋭の若手研究派が徹底的に分析した特集記事が掲載されていた。
見出しには、清麿の指し手に対する大々的な特集が組まれていた。
『現代AIの盲点を突く革命的構想! 加藤清麿アマが放った「二十五手目の玉上がり」と「自陣香の呼吸」』
『各研究会で激論勃発! プロ棋界を揺るがす新戦法に、早くも定跡名が誕生か!?』
記事本文をスクロールしていくと、解説を担当したプロ棋士たちの興奮冷めやらぬコメントがびっしりと並んでいた。
『玉を自ら戦場へ進めることで、相手の銀の攻め足を完全に空振りさせる……こんな手、現代の定跡書には一切存在しない』
『棋士室でも朝からこの局面の検討が続いているが、AIに何億局面読ませても初期判定は悪手なのに、進めると先手勝勢になる。まさに神の領域だ』
『この驚異的な新戦法に対し、棋士たちの間では早くも【加藤流・超立体玉構想】、あるいは【清麿スペシャル】という名称がつけられ、定跡化の動きが始まっている』
「か、加藤流……超立体玉構想……?」
清麿は目を丸くし、自分の名前が冠された仰々しい戦法名を二度見した。
「き、清麿スペシャル……!? す、すげえ……! おい和令、見ろよ! プロの先生たちが、俺の名前を定跡につけてくれたぞ! 歴史に名前が残るかもしれないんだぞ!」
かつて小学生名人として持て囃され、奨励会三段で散っていった自分。
その自分の名前が、プロ棋界の公式な戦法名として語られようとしている。
将棋指しとして、これほど誇らしく、背筋が震えるような名誉があるだろうか。
清麿が思わず相好を崩し、ドヤ顔を浮かべかけた――まさにその瞬間だった。
「――ぶっっっっっっっ!!!」
凄まじい破裂音が、目の前で炸裂した。
和令が白湯を吹き出しそうになり、慌てて手で口元を押さえながら、肩を激しく痙攣させ始めたのだ。
「ごほっ……! げほっ、ぶはっ……! あ、あーっはっはっはっはっは!!」
和令はトーストを取り落としそうになりながら、ちゃぶ台をバシバシと力任せに叩き、涙を流して大爆笑し始めた。
「な、なんだよ! 人が感動して噛み締めてる時に、何がそんなにおかしいんだ!」
「だ、だって……! お腹痛い……! 死ぬ……! 『加藤流・超立体玉構想』!? 『清麿スペシャル』!? なにその小学生の必殺技みたいな痛々しいネーミング!!」
和令は転がるように畳の上に仰向けになり、お腹を抱えて笑い転げている。
「痛々しいって言うな! プロの先生たちが真面目に議論してつけてくれたんだぞ!」
「真面目につけてるから余計に腹筋が崩壊するのよ!!」
和令は涙を拭いながら、這うようにして上半身を起こし、清麿のスマホの画面を指差した。
「いい!? あんたが昨日指したあの玉上がりと底の香車ね! 三百年後の世界じゃ何て呼ばれてるか教えてあげましょうか!?」
「な、なんて呼ばれてるんだよ……」
「『ヘボ除けの小石』よ!!」
「……は?」
「西暦二一一〇年代、AIの初期評価値のバグを利用してドヤ顔で攻めてくる初心者プログラムをサクッとカモるために開発された、誰でも知ってる超基本の受け技よ! 三百年後の将棋アカデミーじゃ、小学生の研修生が入学初日に『これに引っかかるのはヘボだけだから絶対に突っ込むな』って習う、ただの初歩の初歩なのよ!」
「へ、ヘボ除けの小石……!?」
「そうよ! そんな幼稚園児でも知ってる使い古された基本テクニックを、現代のプロ棋士たちが額を突き合わせて『神の構想だ!』『清麿スペシャルだ!』って大真面目に崇め奉って名前つけてんのよ!? 笑わずにいられるわけないじゃない!! あーっはっはっは!!」
「う、うるせええええええっ!!」
清麿の顔が一瞬で真っ赤に沸騰した。
「いいだろ別に! 現代の人間にとっては初めて見る大発見なんだから! ニュートンがリンゴ落っこちるの見て万有引力見つけたのと同じなんだよ!」
「ニュートンとあんたを同列に語るんじゃないわよ、この厚顔無恥先祖! 清麿スペシャル! ぷぷっ……今日からあんたのあだ名は『スペシャル先祖』ね!」
「呼ぶな! 絶対にそのあだ名で呼ぶな!!」
六畳間に、けたたましい笑い声と抗議の叫びが響き渡る。
散々笑い転げて息を切らせた和令は、やがてふぅと満足そうに息を吐き出すと、座布団の上に正座し直した。
その整った顔立ちから、おどけた笑みがすっと引いていく。
和令は真剣な眼差しで、清麿を見つめた。
「……でもね、清麿」
「な、なんだよ。まだ笑い足りないのか」
「違うわよ。……名前はどうあれ、現代のプロ棋界が、あんたの指し手を『未知の脅威』として本気で警戒し始めたのは事実よ」
和令は腰のホルダーから透明な薄型端末を引き抜き、空中に青白い光の画面を投影した。
「光星杯の次戦――三回戦の相手は、プロ六段の武田宗一。あんたが奨励会時代からよく知ってる、あのベテラン研究派よ」
武田宗一。
その名を聞いた瞬間、清麿の心臓がトクンと硬く跳ねた。
かつて三段リーグで苦しんでいた清麿に対し、『加藤、才能だけじゃプロにはなれないぞ』と冷徹に言い放った実力者。
「武田は、桐生みたいにAIの最善手だけに頼るようなタイプじゃないわ」
和令の声が、低く引き締まる。
「泥臭い実戦の駆け引きと、相手の心理を削る嫌らしい手を指してくるベテランよ。あんたの新手が世間に知れ渡った今、次の戦いはこれまで以上に過酷になるわ。……油断したら、一瞬で首を刈られるわよ」
「……ああ。分かってる」
清麿はマグカップを握りしめ、力強く頷いた。
浮かれ気分は、完全に霧散していた。
二勝をもぎ取った。だが、編入試験の受験資格である「十勝」までは、まだ八つの勝利が必要なのだ。
一歩でも気を抜けば、即座に奈落へと叩き落とされる過酷なサドンデス。
立ち止まっている暇など、一秒たりともない。
*
同刻。
都内の最高級ホテル、最上階の特別和室。
外界の喧騒を一切遮断した静謐な空間の中、床の間には『無心』と書かれた豪奢な掛け軸が掲げられていた。
青畳の中央に置かれた最高級の日向榧の将棋盤の前に、一人の男が静かに座していた。
藤堂晃司、三十八歳。
現代将棋界の最高峰タイトル『竜将』をはじめ、数々の主要タイトルを独占し、十数年にわたり棋界の頂点に君臨し続ける「絶対王者」。
仕立ての良い漆黒の和服を身に纏い、彫りの深い精悍な顔立ちには、いかなる嵐にも揺るがない絶対の静寂が宿っていた。
藤堂の膝元には、薄型のタブレット端末が置かれていた。
画面に映し出されていたのは、昨夜の光星杯二回戦――加藤清麿アマ対桐生彰吾五段の全棋譜だった。
部屋の隅に控えていた若手の弟子が、おずおずと口を開く。
「……竜将。ネットや棋士室では、あの加藤アマの手順が大騒ぎになっています。桐生先生の研究を完膚なきまでに破壊したと。やはり……AIの盲点を突いた、新手の奇襲なのでしょうか」
弟子の問いかけに対し、藤堂はすぐに答えなかった。
藤堂はすっと長い指を伸ばし、本榧の盤上に置かれた黄楊の駒を、ひとつ、静かに滑らせた。
パチリ。
澄み渡るような硬質な駒音が、静まり返った和室に静かに木霊する。
藤堂が盤上に再現したのは、清麿が放ったあの二十五手目の「玉上がり」だった。
「……奇手、か」
藤堂の口から、低く、深みのあるバリトンが漏れ出た。
男の瞳の奥に、吸い込まれそうなほど深い光が宿っている。
「いや……違うな。これは奇襲などという浅いものではない」
「え……?」
弟子が目を丸くする。
藤堂は盤面を見つめたまま、静かに言葉を紡いだ。
「奇手とは、相手の油断や錯覚を突くための小細工だ。だが、この一手には小細工の匂いが一切ない。……恐ろしいほどに合理的で、冷徹で、そして無駄がない」
藤堂の指先が、盤上の駒の列を優しくなぞる。
「まるで……我々が生きているこの時代よりも、遥かに遠い高みから、盤面のすべてを見下ろしているかのような手だ。現代のAIの評価値などというちっぽけな物差しでは、この手の本当の深さは測れんよ」
藤堂はふっと口元を緩めた。
十数年もの間、将棋界の頂点に君臨し続け、あらゆる挑戦者を退け、盤上の孤独に沈んでいた絶対王者。
その王者の唇に、かつてないほど獰猛で、少年のように無垢な知的好奇心の笑みが浮かんでいた。
「加藤清麿、三十歳……元奨励会三段、か」
藤堂はタブレットの画面に映る、スーツ姿の清麿の顔写真をじっと見つめた。
「面白い。……実に面白い男が現れたものだ」
藤堂は立ち上がり、窓の外――千駄ヶ谷の街が広がる東京の空を見渡した。
「勝ち上がってくるといい、加藤君。君のその将棋が、本物の光なのか、それとも一過性の幻影なのか……いつかこの盤の上で、私に見せてほしいものだ」
絶対王者の静かな呟きが、春の光の中に溶けていく。
将棋界を揺るがす元神童の逆襲は、いまや頂点に座す怪物の視線をも、確実に引き寄せ始めていた。
だが、その先に待つ道は、決して平坦な無双の道ではない。
未来の答えを知る男を待ち受ける、次なる巨大な試練――己の過去と、定跡の限界に直面する激闘の幕が、静かに上がろうとしていた。
読んでいただきありがとうございます。
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