EP 9
『五段が投了した日』
特別対局室の畳に落ちる影が、西日を受けて長く伸びていた。
電波妨害装置が静かに唸りを上げ、外の世界のあらゆる通信を断ち切った密室。
盤を挟んで座る二人の男の羽織とスーツには、びっしょりと乾いた汗が染み込み、呼吸の音だけが湿り気を帯びて室内に響いていた。
午後六時過ぎ。対局開始から八時間を超える死闘。
持ち時間各三時間の砂はとっくに尽き、両者ともに一手一分未満で指さなければ即座に時間切れ負けとなる、極限の「一分将棋」へと突入していた。
「――三十秒」
記録係の張り詰めた秒読みの声が、心臓の鼓動と重なる。
加藤清麿の視界は、針の穴を通すように研ぎ澄まされていた。
頭がカッカと熱い。眼球の奥が焼けつくように痛み、首筋は鉄板が入ったように強張っている。
だが、恐れはなかった。
桐生彰吾五段が現代AIの研究手順を自ら破棄し、泥沼の力戦へと引きずり込んできた中盤のあの一手。未来の完全定跡アーカイブの枝分かれが途切れた瞬間、清麿の心臓は確かに恐怖で凍りつきかけた。
だが、和令の声が魂を叩き起こしたのだ。
『未来に答えがないなら、今ここで作ればいいでしょ!!』
清麿は未来定跡の哲学である『絶対不敗の受け潰し』を胸に刻み、自らの手で底の香車を進めて桐生の仕掛けを封殺した。
そこからは、カンニングペーパーのなぞり書きではない。
生身の将棋指し・加藤清麿が、己の十年以上の研鑽と、三百年後の知性のエッセンスを融合させ、盤上の四十枚と一対一で命を削り合う本物の勝負だった。
「――四十秒」
秒読みが迫る中、対面の桐生彰吾が右手を振り下ろした。
――バチィンッ!!
盤が軋むような凄まじい駒音。
桐生が放ったのは、自らの飛車を清麿の玉陣の急所へと叩き込む、乾坤一擲の勝負手だった。
羽織の襟元は乱れ、銀縁眼鏡は汗でわずかにずり落ちている。
プロの誇り、研究の鬼と呼ばれた男の、文字通り命を削り出した最後の一撃。
(受かるものなら受けてみろ、加藤清麿……!)
桐生の血走った双眸が、無言でそう叫んでいた。
飛車を取れば、桐生の眠っていた角が清麿の玉の退路を撃ち抜く。
逃げれば、飛車が成り込んで一瞬で清麿の玉陣が圧殺される。
二階の控室でモニターを見つめる棋士たちなら、「後手、桐生の逆転勝ち筋か」と息を呑むような凶暴な踏み込み。
だが――。
「十秒……二十秒……」
清麿の右手が、淀みなく動いた。
飛車を取るのではない。
玉を逃げるのでもない。
清麿は、自陣に控えていた角を鷲掴みにすると、桐生の玉陣の頭上――相手の守備駒の利きが交差する危険地帯へと、迷いなく放り投げたのだ。
――ズドンッ!!
『パターンB・大駒放棄のカウンター』。
相手の攻めを真向から受けるのではなく、自らの大駒を差し出すことで手番の速度を強奪し、相手が一手早く自陣を攻め落とす直前に、その喉元へ刃をねじ込む三百年後の美学。
「…………っ!?」
桐生が、息を呑んで体を硬直させた。
角のタダ捨て。
取れば清麿の玉への攻め足が止まり、取らなければ桐生の玉が即座に退路を断たれる。
「三十秒……四十秒……五十秒……」
桐生の額から、ボタボタと大粒の汗が盤上に滴り落ちる。
「一、二、三……!」
桐生は震える指先で、清麿の角をもぎ取った。
その瞬間、清麿の目が冷徹な光を宿した。
(届いた……!)
清麿の指先が、流れるように動いた。
――バシィッ!
桂馬を跳ねて王手。
桐生の玉が逃げる。
――バシィッ!
歩を叩いて退路を塞ぐ。
桐生の金がそれを払う。
一手、また一手と進むごとに、桐生の玉陣を囲む見えない檻が、ミリ単位の精度で狭まっていく。
桐生が必死に繰り出す受けの手番は、もはや延命にすらなっていなかった。
清麿の頭の中には、未来の知識によって培われた「最も効率的な玉の討ち取り方」が、澄み切った水のように美しく広がっていた。
そして――百十二手目。
清麿は、手元に残っていた一枚の銀を、桐生の玉の頭上へと、そっと静かに打ち下ろした。
――パチリ。
静寂を震わせる、あまりにも穏やかな駒音。
王手。
合駒利かず。
逃げ場なしの、完全な即詰み。
「…………」
特別対局室から、すべての音が消え去った。
記録係がストップウォッチを止めるカチリという音だけが、やけに大きく響く。
桐生彰吾は、盤上に両手を置いたまま、ピクリとも動かなくなった。
眼鏡の奥の瞳が、盤上の中央で美しく討ち取られた自らの玉を見つめている。
一分、二分。
長い、痛切な沈黙の果てに――桐生は深く息を吐き出し、ゆっくりと背筋を正した。
そして、両手を畳につけて、深々と頭を下げた。
「……参り、ました」
掠れた、だがどこまでも澄み切った声だった。
百十二手。
現代最高峰の理論派棋士・桐生彰吾五段が、己の誇るすべての研究と勝負手をぶつけ尽くし、完全オフラインの盤上で敗北を認めた瞬間だった。
「……ありがとうございました」
清麿もまた、深く、深く頭を下げた。
その瞬間、全身の筋肉から一気に力が抜け、膝がガクガクと震え出した。
勝ったのだ。
カンニングの疑いをかけられ、電波を遮断された絶対の密室で、現役のプロ五段を相手に、正々堂々と勝ち切ったのだ。
襖がガラリと開き、二階の控室から駆けつけてきた関係者や記者たちが、雪崩のように対局室へと入ってきた。
カメラのフラッシュが一斉に焚かれ、薄暗くなりかけていた室内を白い光が包み込む。
先頭に立っていた記者の神崎澪が、興奮を押し殺した引き締まった表情で、ボイスレコーダーを差し出してきた。
「桐生五段、お疲れ様でした。……敗れはしましたが、中盤の構想、そして終盤の激闘、見事な一番でした。率直なご感想をお願いします」
桐生は乱れた羽織の襟を正し、眼鏡を指先で直すと、カメラのレンズを真っ直ぐに見据えた。
その顔には、敗戦の悔しさはあっても、惨めさや濁りは微塵もなかった。
「……完敗です」
桐生の声が、静まり返った対局室に響き渡る。
「私が事前に準備していたAI研究は、序盤の二十五手目で完全に無力化されました。そこで私は研究を捨て、未知の力戦へ引きずり込んで泥沼の勝負を挑みましたが……加藤さんは、その混沌すらも完璧に読み切っていた。終盤の踏み込み、大駒を惜しげもなく捨てる速度計算……どれをとっても、現代のトッププロと何ら遜色のない、いや、それ以上の深淵を見据えた将棋でした」
桐生は視線を清麿へと向け、穏やかに頭を下げた。
「世間では、加藤さんの実力に対して様々な憶測が飛び交っていましたが……この完全オフラインの盤上で戦った私自身が、断言します。加藤清麿という棋士の強さは、紛れもない本物です。不正など入り込む余地は、最初から一ミリもありませんでした」
対戦相手である桐生本人の、何よりも重い証言。
神崎澪の手帳を走るペンの音が、激しく紙を擦った。
記録係が震える手で記入した公式記録用紙の文字が、清麿の目に飛び込んでくる。
『光星杯二回戦 勝者:加藤清麿アマ』
『プロ棋士編入試験対象成績:通算2勝0敗』
二勝目。
夢のまた夢だったはずのプロへの扉が、いま現実の数字となって、力強く軋みながら開き始めていた。
*
対局後の感想戦と取材を終え、将棋会館の外へ出た頃には、千駄ヶ谷の街はすっかり夜の闇に包まれていた。
三月の夜風はまだ冷たかったが、火照りきった清麿の頬には、それがたまらなく心地よかった。
会館の正面玄関には、速報記事をスマートフォンで確認した将棋ファンや報道陣がまだ残っていたが、清麿は裏口から抜け出し、通りを渡って鳩森八幡宮の境内へと足を踏み入れた。
街灯に照らされた境内の石畳。
古びた木製ベンチの上に、体操座りをして夜空を見上げている小柄な人影があった。
銀と藍色のライダースーツを着た少女――加藤和令だった。
足元には、自動販売機で買ったのであろう、すっかり冷え切った缶コーヒーの空き缶が二本転がっている。
ザッ、と清麿の革靴が砂利を踏むと、和令の肩がピクリと跳ねた。
彼女はゆっくりと顔を上げ、清麿の姿を捉えると、スッと立ち上がって腕を組んだ。
「……遅かったじゃないの、雑魚先祖」
ツンと顎を上に向けて、いつものように鼻から大きく息を噴き出す。
「何時間待たせる気よ。こっちは春の夜風でナノスーツの保温機能が悲鳴を上げてるわよ。手こずりすぎなんじゃないの?」
「悪かったよ。……桐生五段が本気で研究を外してきてさ。一時はどうなるかと思った」
「知ってるわよ。有線速報のテキスト、スマホでずっと見てたんだから」
和令はぷいと横を向いた。
だが、その瞳の端には、隠しきれない安堵の色が滲んでいた。
清麿はベンチの前に歩み寄り、ポケットから温かい缶のお茶を一本取り出して、和令の頬にピトッと当てた。
「ひゃっ!? 冷た……くない、温かいじゃないの!」
「飲めよ。ずっと待っててくれたんだろ」
「べ、別に待っててあげたわけじゃないわよ! あんたが負けて泣きながら帰ってきたら、即座に鳩森八幡宮の御神木に縛り首にしてやろうと思って見張ってただけよ!」
「物騒すぎるだろ……。おい、和令」
「なによ」
清麿は深く息を吸い込み、夜空を見上げた。
東京の空には、星は数えるほどしか見えなかったが、その光はどこまでも透き通っていた。
「……勝ったぞ。桐生五段に、勝った」
言葉にした瞬間、喉の奥がツンと熱くなった。
「プロに勝ったんだ。まぐれじゃない。完全オフラインの対局室で、俺自身の頭で読み切って……勝てたんだ」
膝の震えが、今になってぶり返してくる。
二十六歳で奨励会を追われ、社会の底辺で膝を抱え、自分には生きている価値などないと思い詰めていた男が。
現代最高峰のプロ棋士を相手に、堂々と白星を掴み取ったのだ。
手のひらを見つめると、小刻みな震えが止まらない。
「……何よ、今さら手がプルプル震えちゃって」
和令が呆れたように溜息をついた。
だが、その声は驚くほど優しかった。
和令は温かい缶のお茶を両手で包み込むと、清麿の隣に立ち、夜空を見上げた。
「言ったでしょ。あんたは三段の雑魚だけど、ただの負け犬じゃないのよ。……三百年後の完全定跡を頭に叩き込んで、それを自分の力で使いこなせる、世界でたった一人の将棋指しなんだから」
「和令……」
「勘違いしないでよね! これで公式戦二勝目、編入試験まではあと八勝もしなきゃいけないんだから! 三百年後の加藤家の借金をチャラにするまでは、泣いてる暇なんて一秒もないんだからね!」
「泣いてないよ。……目から汗が出ただけだ」
「原始人の強がり乙! 鼻水すすってる音が丸聞こえよ!」
「うるさいな! 少しは余韻に浸らせろ!」
「浸ってる暇があったら帰るわよ! お腹ペコペコなの! 今夜の晩ごはんは何なのよ!?」
「……昨日買った見切り品のうどんの残りと、もやしだな」
「またうどんともやし!? プロに勝ったのに、食生活が一切ランクアップしてないじゃないの!!」
「仕方ないだろ! 賞金の振込は来月末だし、家賃八万四千円の支払いは明日なんだよ!!」
「明日ぁぁぁ!? あんた、まだ家賃払えてないわけ!? この経済的破綻者ぁぁぁ!!」
春の夜の千駄ヶ谷に、二人のけたたましい罵声と笑い声が響き渡った。
疑惑を晴らし、プロの頂へと続く階段を力強く踏みしめた加藤清麿。
だが、その先に待つ将棋界の怪物たちとの戦いは、より過酷に、より壮大なうねりとなって彼らを呑み込もうとしていた。
読んでいただきありがとうございます。
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