EP 8
『未来の答えから外れた一手』
日本将棋会館・四階特別対局室の空気は、張り詰めた弓の弦のように張りつめ、わずかな振動すら許さない異様な密度を帯びていた。
天井の隅に設置された電波妨害装置が、目に見えない無機質なシールドを張り巡らせている。携帯電話の電波はもちろん、いかなる通信機器の信号も通さない完全な情報遮断空間。
青畳の中央に置かれた本榧の盤を挟み、加藤清麿と桐生彰吾五段は、彫像のように微動だにせず対峙していた。
清麿が放った、二十五手目の「玉上がり」。
自ら玉を中央の戦場、相手の銀の睨みが直撃する危険地帯へと歩み寄らせたその一手から、すでに四十分近い時間が経過していた。
カチ、カチ、カチと、記録係のストップウォッチが刻む無機質な秒針の音だけが、息の詰まる静寂を支配している。
桐生の銀縁眼鏡の奥の瞳は、盤面の一点から動かない。
額にはじっとりと脂汗が浮き、羽織の胸元が、浅く速い呼吸に合わせてわずかに上下していた。
(読めない……。なぜだ、なぜこの玉上がりが成立する……!?)
桐生の脳内には、自宅の高性能クラスタサーバーで何億局面も演算させた、現代最高峰の角換わりAI定跡が寸分の狂いもなくインプットされている。
そのデータベースの全記録が、目の前の一手を「大悪手」と叫んでいた。
先手の玉が中央に無防備に晒されているのだ。普通に考えれば、銀を繰り出し、角の利きを直通させ、飛車先から猛攻を仕掛ければ、先手陣は十手と持たずに粉砕できるはずだった。
――しかし。
桐生がどれほど脳内で攻めのルートを掘り進めても、最後の一歩で、清麿の金銀がまるで生き物のように連結し、桐生の攻め駒をすべて虚空に空振りさせる結末へと誘導されてしまうのだ。
攻めれば攻めるほど、後手の陣形が自ら崩壊していく。
まるで、最初から桐生が繰り出すはずの「現代の最善手」をすべて知っており、それを迎撃するためだけに彫り上げられた、悪魔の彫刻のような陣形。
その頃、二階の控室。
有線モニターで対局を見守るプロ棋士たちと、記者の神崎澪の間にも、重苦しい沈黙が落ちていた。
「……桐生五段の考慮時間が、もう五十分を超えました」
記録係からの連絡を受けた若手棋士が、呆然と呟いた。
「持ち時間は各三時間。序盤の二十五手目で一時間近く消費するなんて、あの理論派の桐生先生が完全に狂わされている……」
「手元の最新AIにこの局面を読ませてみたんだがな」
別の棋士が、青ざめた顔でノートパソコンの画面を指差した。
「玉が上がった瞬間は、AIの評価値は後手――桐生有利の+八百点だった。だが、後手が普通に攻め込む変化を読み込ませていくと、三十手先で評価値が突然大暴落して、先手必勝に跳ね上がる。……加藤清麿の手順は、現代のAIの初期判定の罠を完全に飛び越えているんだ」
神崎澪は手帳を握りしめ、眼鏡の奥の瞳を鋭く光らせた。
(完全オフラインの対局室。外部との通信は絶対に不可能。……それなのに、加藤さんは一切の考慮時間を使わず、一手一秒で現代のトッププロの研究を機能不全に追い込んでいる。これが……本当に四年の空白を抱えた男の力なの……?)
ネットのテキスト速報のコメント欄も、戦慄の色を深めていた。
『桐生の手が止まって動かない』
『不正疑惑どころか、桐生の研究が序盤で完全に詰まらされてるぞ』
『加藤清麿、マジでどんな頭脳をしてるんだ……!?』
対局室の沈黙を破ったのは、衣擦れの微かな音だった。
桐生彰吾が、ゆっくりと上体を起こした。
その瞳から、迷いと混乱の光が完全に消え去っていた。
代わりに宿っていたのは、氷のように冷たく、それでいて全身の血液が沸騰しているかのような、凄まじい勝負師の狂気だった。
(……なるほど、加藤さん。よく分かりましたよ)
桐生は唇の端をわずかに吊り上げ、膝の上の扇子をぎゅっと握り締めた。
(あなたが何者なのか、どこからその知識を仕入れてきたのかは知らない。だが、あなたが狙っているのは――私の『現代最高峰の研究手順』を、そのまま逆手に取ってハメ殺すことだ)
桐生は盤面を見据えた。
相手の張り巡らせた蜘蛛の巣は完璧だ。現代のAIが弾き出した「正解のルート」を進む限り、自分は確実にその罠に囚われ、吉沢四段と同じように無残に解体される。
ならば――答えは一つしかなかった。
(AIの正解が罠なら、正解を捨てるまでだ!)
桐生が、右手を伸ばした。
考慮時間、五十八分。
指先が駒を挟み、盤上へと叩きつけられる。
――バチィンッ!!
対局室の空気を震わせる、重く鋭い駒音。
桐生が放った一手は、現代の角換わりのいかなる定跡書にも、AIの候補手リストにも存在しない、奇怪極まりない手だった。
自陣の桂馬を、味方の守りから切り離し、ふらりと端寄りの宙空へ跳ね上げたのだ。
「…………っ!?」
清麿の心臓が、ドキンと跳ね上がった。
息が止まる。
目を見開き、盤面を凝視した。
(桂跳ね……!? このタイミングで、端へ桂馬を跳ねるのか……!?)
清麿の脳裏の暗闇に展開されていた、三百年後の『完全定跡アーカイブ』の青白い樹形図。
その眩い光の枝分かれが――突然、激しいノイズとともに、プツリと途切れた。
(な……い……!?)
血の気が引いていくのが分かった。
和令から授けられた未来のデータの中に、この局面での桂跳ねという手順は、一行たりとも存在しなかったのだ。
なぜなら、未来の超高度な論理計算において、この手は「自陣の守りを自ら薄くし、攻めの速度を一歩遅らせるだけの明らかな悪手」として、最初の数手で枝刈りされ、破棄されていたからだ。
だが、桐生はそれを知った上で、自ら悪手を指してきたのだ。
(研究手順から……意図的に外れた……!?)
清麿の背筋を、冷たい汗が滝のように流れ落ちた。
桐生は、未来定跡が敷いた「必勝のレール」に乗ることを拒否したのだ。
AIが導き出した最善手を自らゴミ箱に放り投げ、形勢の損を承知で、混沌とした未知の力戦へと盤面を力づくで引きずり込んだ。
「……さあ、加藤さん」
桐生が、静かに眼鏡を押し上げた。
その双眸が、射抜くように清麿を捉えている。
「ここからは、私の頭の中にも正解はありません。何億局面のAI研究も、事前の準備も、すべて消え去った。……あなたのその驚異的な知識の中に、この局面の答えはありますか?」
声には出さず、その瞳がそう告げていた。
清麿の手が、微かに震えた。
脳内が真っ白になりかける。
(答えが……ない……)
四年前の恐怖が、黒い濁流となって胸の奥底から噴き上がってきた。
あと一勝でプロになれた、三段リーグ最終戦。
相手のなりふり構わぬ勝負手に怯え、想定外の局面にパニックを起こし、自滅していったあの地獄。
和令がいない。
透明端末の補助もない。
完全オフラインの、逃げ場のない密室。
未来のカンニングペーパーを奪われた自分は、ただの三十歳の負け犬に戻ってしまうのではないか――?
『――何情けない顔してんのよ、雑魚先祖!!』
突如、脳天を直接殴りつけるような声が、鼓膜の奥で炸裂した。
清麿はハッと息を呑んだ。
幻聴ではない。
今朝、鳩森八幡宮の境内で背中を叩かれた時の、あの痛烈な手のひらの感触が、鮮烈に蘇ったのだ。
『最初から、盤の前で指してたのはあんた一人なのよ。知識を覚えて、プレッシャーに耐えて、自分の指で勝ちをもぎ取ってきたのは誰なのよ! 答えがないなら、今ここで作ればいいでしょ!!』
(……そうだ)
清麿は目を閉じ、深く、深く息を吐き出した。
肺の奥の濁った空気をすべて排出し、新しい空気を吸い込む。
和令の言う通りだ。
自分は、ただの操り人形ではない。
十代の青春のすべてを将棋に捧げ、挫折の底で泥水を啜り、妹の愛に救われて、もう一度この盤の前に戻ってきた男だ。
桐生彰吾という稀代のプロ棋士が、己のプライドと研究をかなぐり捨ててまで、自分という人間を倒すために命懸けの勝負手を放ってきたのだ。
それに怯えて縮こまるなど、勝負師に対する最大の侮辱ではないか。
(見るんだ。桐生五段の狙いは何だ?)
清麿は目を見開いた。
濁りのない、透き通った瞳が、盤上の四十枚の駒を捉える。
桐生が跳ねた端寄りの桂馬。
自陣の守りは確かに薄くなった。だが、その代償として、桐生は清麿の中段に上がった玉の急所を、別の角度から狙い撃ちにするラインを確保している。
相手が狙っているのは、泥沼の攻め合いだ。
ならば――。
(答えは、未来のアーカイブの『引き出し』の中にある……!)
清麿の思考回路が、凄まじい摩擦熱を上げながら猛烈に回転し始めた。
桐生が指した手そのものは未知の悪手だ。
だが、三百年後の完全定跡の中には、似たような「相手が無理に形勢を崩して仕掛けてきた力戦」に対する、膨大な迎撃パターンの原則が存在する。
『パターンD・絶対不敗の受け潰し』。
相手の攻め駒をすべて空振りさせ、焦燥と時間切れへ追い込む、冷徹無比な防壁の哲学。
(桐生の桂馬を直接咎めに行けば、相手の思う壺だ。相手が力づくで乱戦を挑んできた時、未来の定跡が教える鉄則は――戦場を広げることじゃない。自陣の退路を、先に一本だけ確保することだ!)
清麿の脳内で、途切れていた光の線が、力強く結び直された。
未来の知識という骨格に、清麿自身の十年以上の勝負勘という血肉が融合していく。
相手の構想を完全に理解し、相手が最も嫌がる「別の未来のレール」へと盤面を強引に引きずり戻す一手。
(……見えた!)
清麿の右手が、疾風のように動いた。
指先が、自陣の底深くに眠っていた香車を挟み、凛とした手つきで前へと滑らせる。
――バシィッ!!
静寂を切り裂く、乾いた澄んだ駒音。
「…………っ!?」
桐生彰吾の体が、ビクリと硬直した。
眼鏡の奥の目が、信じられないものを見るように見開かれる。
香車を一段、静かに前進させる地味極まりない一手。
だが、その香車が動いた瞬間、桐生が命懸けで跳ね上げたはずの桂馬の攻撃ルートが、完全に死に筋へと変わっていた。
攻めようとすれば香車の直撃を受け、引こうとすれば手番を失う。
桐生が研究を外して作ったはずの混沌が、清麿のたった一手の「受けの呼吸」によって、再び完全なる秩序の中へと封じ込められていたのだ。
「馬鹿な……。研究から外したはずなのに……なぜ、もう一手先の手順が用意されているんだ……!?」
桐生の喉から、掠れた呻きが漏れた。
額から大粒の汗がボタボタと畳の上に落ちる。
だが、清麿の瞳には、一切の躊躇も驕りもなかった。
ただ静かに、冷徹に、盤上の真理を見据え続けている。
(逃がさない)
清麿は心の中で静かに呟いた。
(あなたが命を削って研究を捨てたように、俺も命を削ってあなたの魂を受け止める。……ここからが、本当の勝負だ、桐生五段!)
対局室の熱気が、臨界点を突破しようとしていた。
研究を外したプロの意地と、未来の知性を血肉に変えた元神童の覚悟。
盤上の戦いは、互いの持ち時間を激しく削り合いながら、誰も見たことのない深淵の終盤戦へと雪崩れ込んでいった。
読んでいただきありがとうございます。
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