EP 7
『完全オフライン対局』
千駄ヶ谷の朝は、痛いほどの青空が広がっていた。
日本将棋会館の正面入り口前には、普段の公式戦ではあり得ない数の報道陣とカメラの列ができていた。
元奨励会三段・加藤清麿に対する、ネット上でのAI不正利用疑惑。そしてそれに対し、対局相手である桐生彰吾五段が自らの配信で放った「盤上で白黒をつける」という異例の宣言。二人の激突は、将棋ファンのみならず一般ニュースのワイドショーまでもが取り上げる一大事件へと膨れ上がっていた。
会館のエントランスには、日本将棋連盟の腕章を巻いた役員たちが厳しい表情で立ち並び、出入りする関係者を厳しくチェックしている。
今回の光星杯二回戦は、連盟としても一切の疑念を払拭するため、前代未聞の厳戒態勢が敷かれていた。
対局室および四階フロア全体への電波妨害装置の設置。
対局者に対する、空港の保安検査場並みの金属探知ゲートとハンディ探知機による全身スキャン。
スマートフォンの預託はもちろん、スマートウォッチ、電子辞書、筆記用具に至るまで私物の持ち込みは全面禁止。
さらには、対局エリアへの立ち入りを厳格に制限し、棋士の付き添いや外部関係者は、二階の一般ロビーから上階へ上がることすら許されない。
――完全なる、外部からの情報遮断。
電子の波も、未来の通信も、いかなる小細工も届かない「完全オフライン」の戦場だった。
「……すごい厳重さだな」
会館向かいの鳩森八幡宮の鳥居の脇で、加藤清麿は仕立ての古いリクルートスーツの胸元をぎゅっと押さえた。
喉がカラカラに渇き、春の風が首筋を冷たく撫でていく。
今日の対局室には、誰も入れない。
ネットの悪意も、応援のメッセージも、そして何より――。
清麿は、隣に立つ加藤和令を見つめた。
和令は銀と藍色のライダースーツの襟を正し、腕を組んで、会館の入り口を睨みつけていた。
「和令。お前、本当にここまでなんだな」
「何よ、今さら当たり前のことを確認してんじゃないわよ、雑魚先祖」
和令はツンと顎を上に向けて、鼻から小さく息を噴き出した。
「控室にも入れないって言われたんでしょ。あの金属探知機を通ったら、私の超高機能ナノ端末なんて一発で警報音が鳴り響いて連盟から警察を呼ばれちゃうわよ」
「そりゃそうだけどさ……。お前が控室にすら居ない公式戦なんて、初めてだからな」
「何情けない顔してんのよ! まさか『和令ちゃんがそばにいてくれないと心細くて指せないよぅ』なんて泣き言を垂れ流す気じゃないでしょうね!?」
「誰が和令ちゃんとか言うか! 気味が悪いこと言うな!」
「気味が悪いとは何よ! 三百年後の加藤家が誇る美少女に対して不敬極まりないわね!」
「美少女は自分で美少女って言わないんだよ! ……そうじゃなくてさ」
清麿は頭を掻き、視線を足元の敷石へと落とした。
「お前がいないと……本当に、俺一人なんだなって思ってさ」
「一人に決まってるでしょ」
和令の声から、ふっと刺々しさが抜けた。
彼女は組んでいた腕を解き、清麿の正面へと回ると、その胸元に人差し指をピタリと突き立てた。
「いい? よく聞きなさい、清麿。最初から、盤の前で指してたのはあんた一人なのよ。私が端末から教えたのは三百年分のデータだけど、それを覚えて、プレッシャーに耐えて、震える指で駒を進めてきたのは、誰の手だったの?」
「…………」
「あんたでしょ。三段リーグで二十六まで戦って、一度は人生を諦めかけて、それでも泥水を啜って戻ってきた、元神童の加藤清麿の手でしょ」
和令の大きな瞳が、真っ直ぐに清麿を射抜いていた。
その瞳の奥には、いつも清麿を罵倒する毒舌の裏に隠されていた、絶対の信頼が灯っていた。
「桐生五段はね、あんたを潰すために何億局面も現代AIを回して対策してきたわ。でも、あんたの頭の中には、その何億局面のさらに先にある『三百年後の真実』が入ってるのよ。……ビビる要素がどこにあるわけ?」
「……ないな」
「当然よ! もし負けたら、今夜からアパートの敷居は跨がせないからね! 千代おばあちゃんから貰った二万円の利子、全額私が取り立てて、あんたを鳩森八幡宮の境内に捨てていくわよ!」
「脅迫のスケールが急に身近で怖いわ! ……勝ってくるよ」
「ふん。言われなくても、勝ちなさい!」
和令は踵を返し、境内のベンチへと歩き出した。
「私はここで、ぬるい缶コーヒーでも飲んで待ってるわ。……せいぜい、カッコいいところ見せなさいよね、雑魚先祖!」
背中を向けたまま、ヒラヒラと手を振る少女。
清麿は深く息を吸い込み、強く拳を握りしめた。
もう、迷いはなかった。
午前九時四十分。
日本将棋会館・四階、特別対局室。
入り口の金属探知ゲートをくぐり、役員による入念なボディチェックを受けた清麿は、青畳を踏みしめて入室した。
室内には、耳が痛くなるほどの静寂が淀んでいた。
上座には、すでにその男が座っていた。
桐生彰吾五段。
濃紺の羽織袴を身に纏い、背筋を微塵の揺らぎもなく伸ばしている。
銀縁の眼鏡の奥にある瞳は、まるで深く静まり返った湖のように澄み渡り、一切の雑音を寄せ付けない冷徹な闘気を放っていた。
清麿は下座の座布団へと進み、静かに正座した。
「……加藤さん」
桐生が口を開いた。低く、よく通る声。
「ご足労、感謝します」
「いえ。本日は、よろしくお願いします」
「世間がどれほど騒がしくとも、この部屋には届きません。電波も、カメラも、雑音も存在しない。……盤の上にあるのは、あなたと私の、四十枚の駒だけです」
桐生は眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。
「私はプロ棋士として、私の信じる将棋のすべてをここにぶつけます。あなたの『真実』がどこにあるのか、盤上で見極めさせてもらう」
「……望むところです」
言葉は短かったが、交錯した視線の間に、目に見えない火花が散った。
午前十時整。
「光星杯二回戦、対局を開始してください」
記録係の声が凛と響く。
二人は深々と一礼を交わした。
振り駒の結果、清麿の先手番となった。
清麿は人差し指と中指で駒を挟み、初手を放った。
――バシィッ!
▲7六歩。
桐生も間髪を入れずに応じる。
――パシッ。
△3四歩。
互いに角道を開け、飛車先を突き合う。
序盤の十数手、桐生の手つきは驚くほど滑らかだった。
迷いがない。考慮時間を使わない。
局面は、現代将棋の最先端――『角換わり腰掛け銀』へと進展していった。
プロ公式戦で最も深く研究され、現代のトップ棋士たちが何万時間ものAI検討を積み重ねてきた、知性の最高峰の戦型。
桐生は、吉沢戦で見せた清麿の相掛かりでの奇手――あの「端角」と「自陣歩」を完全に封じるため、自ら角換わりの土俵へと誘導してきたのだ。
(吉沢戦の相掛かりのような小細工は通用させない)
桐生の指し手が、無言でそう雄弁に語っていた。
(角換わりの最新形。現代のAIが弾き出した、先手と後手のミリ単位のバランスの極致。……この現代最高峰の精密機械のような布陣に対して、あなたは何を指すのか)
二十手を過ぎ、二十四手目。
桐生が、後手陣の銀を中央へと力強く繰り出した。
引き締まった陣形。隙が一切ない、鋼鉄の防壁。
現代の定跡書であれば、ここで先手は自陣の玉を深く囲うか、飛車先を突いて持久戦の体制を整えるのが「絶対の一手」とされている局面だった。
同じ頃、二階の控室。
電波が遮断された対局室から有線モニターで送られてくる盤面中継を、神崎澪をはじめとする記者たちや、対局のないプロ棋士たちが息を詰めて見つめていた。
「桐生五段、完全に自分の得意な角換わりに引きずり込んだな……」
「この局面、桐生さんが順位戦で連勝してる自慢の研究手順だぞ。後手の隙がまったくない」
「加藤さんはどうする? 完全オフラインの対局室だ。カンニングなんて絶対にできない状況で、プロ最高峰の研究に対抗できるのか……?」
固唾を呑む控室。
ネットの生中継のテキスト速報でも、視聴者たちのコメントが秒単位で流れていた。
『桐生の研究が火を噴いた』
『これで加藤の手が止まったら、やっぱり吉沢戦は偶然だったってことになるぞ』
『逃げ場のない角換わりでどう受ける!?』
しかし――。
対局室の静寂の中、加藤清麿の呼吸は、驚くほど静かに整っていた。
(……角換わり、腰掛け銀。後手銀繰り出し型)
清麿の脳裏の暗闇に、青白い光の奔流が立ち上がった。
和令から授けられた、『完全定跡アーカイブ』の奥深く。
昨夜、アパートの六畳間で、冷めたうどんを啜りながら何度も脳内に叩き込んだ、膨大な分岐樹形図。
『桐生が現代最高峰の角換わりで来るのは織り込み済みよ』
和令の強気な声が、耳の奥で蘇る。
『現代のプロはね、この局面で後手が+二百点――後手がわずかに主導権を握ってると信じ込んでるわ。でもね、三百年後の結論は真逆よ。西暦二一八〇年、この銀繰り出しは「攻め急ぎによる重大な欠陥」として完全論破されたの!』
『パターンA・常識破壊の序盤』。
現代の常識を、三百年分の時間差で上から叩き潰す一手。
清麿は右手を伸ばした。
指先に、黄楊の駒の確かな温もりが吸い付く。
迷いは、微塵もなかった。
――バシィッ!!
対局室の空気を切り裂くような、乾いた澄んだ駒音が響き渡った。
清麿が指したのは、自陣の玉の守りを固める手でも、飛車先を突く手でもなかった。
自らの玉を、自ら斜め上――相手の銀の睨みが直撃する戦場のど真ん中へ、無造作に歩み寄らせる一手だった。
「…………っ!?」
桐生彰吾の銀縁眼鏡の奥の瞳が、カッと見開かれた。
扇子を握りしめていた指が、ピクリと凍りつく。
玉の早すぎる移動。
角換わりにおいて、自ら玉を中央の危険地帯へと晒すなど、現代の将棋理論では自殺行為以外の何物でもない。AIの初期評価値であれば、即座にマイナス千点と判定されるような、狂気の一手。
(……玉上がり……!? この局面で、なぜ玉を……!?)
桐生の脳内で、何台もの高性能サーバーを回して記憶した膨大なAIデータが、凄まじい勢いでエラーを点滅させ始めた。
定跡にない。
最新のプロの研究のどこにも存在しない。
だが――桐生の背筋を、冷たい氷水のような悪寒が駆け抜けた。
(待て……。悪手のはずだ。だが……なぜだ? なぜ、私の銀の攻め筋が、一手で重く詰まっている……!?)
玉が上がったことで、先手の陣形に生じた奇妙な厚み。
桐生が自慢の銀で攻め込もうとすれば、先手の金銀が信じられないルートで連携し、後手の攻め駒をすべて虚空に空振りさせる凶悪な迎撃網が、あらかじめ完成していたのだ。
「……っ」
桐生の額に、じわりと一筋の汗が滲んだ。
パチ、パチと小気味よく進んでいた桐生の手が、ピタリと止まった。
一分、二分、五分――。
考慮時間のタイマーが、音もなく桐生の持ち時間を削り取っていく。
完全オフラインの対局室。
外部からの通信など、天地が覆っても不可能な絶対の密室で。
目の前に座る三十歳の元奨励会員は、何一つ揺らぐことのない冷徹な眼差しで、ただ静かに盤面を見つめ続けていた。
盤上の空気が、急速に熱を帯びていく。
現代最高峰の知性と、三百年後の完全定跡。
退路なき二人の勝負師の、本当の戦いが幕を開けようとしていた。
読んでいただきありがとうございます。
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